頭を下げずにはいられない。謝りたいと感じている。
だから感謝というのだろう。本当にありがとうございます。
「寝ているな」
「うん」
ビルの屋上で双眼鏡を覗きながら、男と女が言った。
黒いタンクトップにベージュのハーフパンツの女と、
同じく黒の、薄い上着に白いインナーとベージュのパンツを着た男であった。
変った男女であった。
年とか
組み合わせとか、
体形とか、
そういうところではない。
単純に見た目が変わっていたのだ。
二人共眼が黒い。
瞳が黒いのではない。むしろその逆だった。
瞳の部分が白くそれ以外の部分が黒いのだ。
常人の眼の構造とは明らかに異なっている。
それは突然変異によるものではなく、品種改良の末に作られた人間の業の産物。
1300年もの時をかけて作り上げてきた、伝説の一族である証だった。
「風水、しっかり見張っておけよ。よそ見している間に逃げられましたってのが最もキレられるからな」
「わかってるよ変造ニィ。そんなへまはしないし…何より、向こうにその気がない。」
呉風水と呉変造。それが男と女の名前であった。
彼らがこの夜の森に居る理由、それはある男を見張るためである。
そのきっかけとなった男の発言を変造は思い出していた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『今回の仕事はターゲットの生け捕りじゃ。失敗は許されん。』
先週の夜、呉一族200名ほどを集めた会合の中で長である恵利央が言った。
内容自体はたまにある任務であった。
金さえもらえばなんでもやる呉一族にとって、誘拐や暗殺と言った闇の仕事は特に珍しい事でもない。
だから今回の任務に関しても、やること自体は特に珍しい事でもなんでもないのだが、変造には違和感があった。
その違和感の源は恵利央である。
――――なんか、いつもより気合い入ってね?
変造だけではない。
ここにいる一族全員がなんとなく察していた。
呉恵利央、91歳。呉一族の最長老にして仕事を取り仕切る事実上の一族長。
長としての風格を備えた冷静な老人であるが、今回の声には妙な力が入っている。
知らぬものならわからないが、恵利央をよく知るものであれば何とはなしに様子がおかしいことに気付く。
それくらいの変化であった。
そして、長自身そのことに気付いていた。
気づいていたので、その原因を口にした。
『今回の依頼主は、三階。自由主民党幹事長の三階じゃ』
―――マジ?国から?
長の発した一言に変造が息をのむ。
周囲も驚いたのであろう。
取り立てて騒ぎ立てたりはしないが、ところどころでつぶやいたり小声でささやきあったりしている声が聞こえる。
それもそのはずであった。
呉一族と国とのつながりは5年前に途切れているのだ。
五年前、朱沢グループ総帥の娘、朱沢江珠がある『男』に殺害された。
激怒した総帥が秘書の静止を押し切り、グループ関係者である議員に『男』の殺害を打診したのだ。
グループと懇意であった議員は総帥の言を聞き入れ、呉一族にその『男』の殺害を打診する。
当時、勢力を拡大中であった恵利央は一も二もなく乗った。
ここで成功すれば、国家に取り入ることができる。そうなれば、呉一族の存在と仕事についてお墨付きを得たも同然であるからだ。
乗り掛かった舟に勇んで飛び乗った恵利央を嘲るように、その『男』は恐るべき破壊を実行する。
―――――調査に出た偵察班を破壊し、
―――――実行に出た精鋭100名を真っ向から破壊し、
―――――恵利央の眼の前で側近をバラバラに破壊したのだった。
呉一族、1300年の人体改良をあざ笑うかのように、その男は圧倒的な身体能力だけで一族を半壊状態にまで追い込んだのだ。
まともに付けた傷は恐らく一つもない。
それ以来、国からの連絡は途絶えた。
日本だけではない。
各国の行政機関、特にその『男』を知るところからは見向きもされなくなってしまった。
一族に声をかけることによって『男』と敵対していると思われたくないからだ。
屈辱であった。
しかし、同時に理解もした。
この世には触れてはならぬものがあるのだと。
それ以降、呉一族の中で一つのルールができることになった。
『範馬勇次郎、触れるべからず』
これが恵利央が出した結論であり、国との関係が途切れることになる原因であった。
そして今回、その国から打診が来たのだ。
『皆も知っての通り、5年前の事件以降国と我が一族の関係は絶たれている。
またとない機会じゃ。故に、此度の任務には相応の気持ちで臨んでもらいたい』
そこで、恵利央の言葉がいったん止まった。
目に力が入る。
杖の取手がみしりという音を立てる。
知らずのうちに血管が浮き上がり心拍数が上がっている。
口をVの字に吊り上げながら、恵利央はもう一度口を開いた。
『それでは今回の標的を言い渡す。
ピクル”。今回の任務は、ピクルの捕獲じゃ』
会場がざわついた。
無理からぬことであった。
この日本―――否、この世界に住む者たちにとって、彼の存在はここ最近のトップニュースであったからだ。
原人ピクル。
曰く、1憶9千年前からよみがえった原人――――
曰く、塩漬けの層から出てきた男――――――――
曰く、恐竜を捕食する雄――――――――――――
曰く、衆人環境での人気キャスター強姦―――――
逸話に事欠かない男。
全人類にとっての文化遺産。
生きた世界遺産。
ピクルとは、世間ではそういう存在であった。
そして、その認識は呉一族も変わらない。
変らないからこそ、驚いたのであった。
――――――アメリカさんにいい顔したい、政治家のご都合かね。
変造は心の中でそうつぶやいた。
事実、その通りであった。
その通りであったがゆえに、恵利央はそれ以上の背景を口にしなかった。
余計な混乱を生まぬためである。
『さしあたって…今奴がある郊外の森に居るとの情報が入った。
発見し、準備ができ次第麻酔銃で持って生け捕りにすべし』
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――――よしわかった。」
「――――」
「風水。ライフルの準備だ。」
「いいけどさ…これマジなの?こんだけ撃つつもり?
しかも、あいつ寝てるよ。」
「マジだ。シロナガスクジラだってそんだけ打ちこみゃ眠るだろう。
それに、直前で起きたり仕留めそこなっても困る。」
「それはないけどさあ…」
風水があきれながらに弾の入ったバッグ…というよりトランクを指さした。
その量、優に数十キロ。
やれやれとでも言いたげな目でライフルを組み立て始めた。
「持って帰るのがだるいんだよね。」
「わかるけどな。念には念を入れたいんだろう」
「はいはいっと…」
軽口を叩きながら、スコープをのぞき込む風水。
ライフルの上部に取り付けられた8倍スコープからは大の字になって悠々と寝ているピクルの姿がしっかりと確認できた。
――――しっかし、リラックスしちゃってまあ。子供みたいだね。
そう思いながらも手は抜かない。
抜かないがゆえに、風水の眼に血管が浮かんだ。
尋常ではない量である。
そもそも、少なくとも眼球にエッジがぼこりと浮かぶことなど常人ではありえない。
「よし…外したな」
「うん」
これこそが呉一族が呉一族たる所以の秘伝、『外し』である。
通常、人間は脳のリミッターにより3割程度力しか使えないように枷がかかっている。
この枷がなければ、人体はその力に耐えきれずに崩壊するからだ。
しかし呉一族は長年の品種改良により、そのリミッターを外してなお肉体が崩壊せずにいられるのである。
この『外し』、潜在能力の開放率に個人差はあれど常人ではありえないほどの力を得る、という点で共通している。
奇しくもそれはガイアや刃牙が行う脳内麻薬の開放による身体能力の強化に酷似していた。
そして、今ライフルを構える風水の開放率は24%。
高くはないが、こうしてライフル越しに目を『外す』ことにより対象のどんな動作も見過ごさずに打ち抜くことができる。
事実、今までそうやって風水は仕事をこなしてきたのだ。
「ならもう一度確認だ。
カウントダウン後、風水が麻酔銃を打ち込む。
その後、近くにまで近づいている精鋭部隊が麻酔針か縄で持って対象を捕獲する。
オーケー?」
「オーケー」
「カウントダウンだ。」
「――――――」
「5」
「――――」
『外し』たその瞳でのぞき込む。
いまだ原人は眠っている。
「4」
「――――」
トリガーに手をかける。
狙いは外さない。
外しようもない。
寝ている男に麻酔弾を打ち込む、ただのそれだけだ。
「3」
「――――」
「2」
「―――――」
力を込めた。
その瞬間だった。
雄が目を覚ましたのだ。
覚ましただけではない。
立ち上がっている。
いつ立ち上がったのか。
わからなかった。
自分は片時も目を離していない。
ましてや『外し』てまで動体視力を上げているのだ。
その自分が、見過ごすのか。
自分でなくてもいい。
変造でもいい。
ホリスでもいい。
一般人でもいい。
1秒前まで寝ていた大男の立ち上がる瞬間が『見えない』などということがありえるのだろうか。
だが、現にこの男は立ち上がって、こちらを見ているのだ。
鮮やかに、こちらを見ていた。
(うそでしょ!?この距離で!??)
疑いようのない真実だった。
それはスコープ越しに覗いている8倍スコープ越しに目が合ったことから嫌でもわかった。
『―――――ッッ』
「1」
「待って――――」
変造。そう言い切ることができなかった。
ちゅどッッッ!!!!!!!!
何かが爆発したような、そんな音と共に風水のスコープが白一色に染まった。
「な、なんだッッ!!!」
「ピクルが起きたッッ!!!」
「なんだと、お前―――」
「さっきまでは寝てたッッ!!けど起きてッッ!!」
「そんな――――」
―――――バカなことがあるか
変造はそう言おうとした。
言おうと、動かそうとした口がそのままの形で止まってしまっていた。
風水の後ろに一頭の獣が立っていたからである。
「ハルルル…」
向かい合った風水の、真後ろの空間。
だだっ広い、なんの変哲もないビルの屋上。
そういうふうに見えるはずであるのだが、今や変造の視界のほとんどがこの獣で埋まっていた。
大きい肉体。
大きい腕。
大きい指。
大きい脚。
大きい首。
大きい顔。
大きい目。
剥いている牙さえもが大きい。
褌一つのほぼ裸の格好であるが、それが不思議と様になっていた。
ただ立っている、それだけで獣の放つ気がむんむんと立ち上ってくるようであった。
強烈な存在感とオーラ。
人の形をとっているが、根本のところが現生人類とは明らかに異なる雄。
ピクルであった。
(いつの間に
でっけえ~~~
この距離で
ばれた
雄
ふんどし?
牙
怒ってる)
「…変造」
風水は言った。
背後は振り返っていない。しかし、わかるのだ。
そこに、居る。
「ルララ…」
予知能力じみた獣の第六感。
1キロ以上離れたところから一瞬で辿り着く驚異的脚力。
風水は今、ピクルという稀代の獣に心底恐怖していた。
風水は、食われる前の獣の気持ちを理解したのであった。
恐る恐る、振り返る。
「ハルララッッッ!!!!!!!!!!!」
瞬間、ピクルの身体がぶれた。
少なくとも、変造にはそうとしか見えなかった。
それと同時にめしゃあ、とかどぐしゃあという音が上がり、目の前から風水とライフルの姿が消えうせた。
―――――アッふぁー(パー)…はっはほ、ほほう(だったと思う)。
後日、風水はぐしゃぐしゃになった下あごを抱えながら、病院でそう答えた。
だが、変造ではその拳の軌跡を見ることがかなわなかった。
そして、風水の身を案じることもできなかった。
またしてもピクルが『ぶれた』ところで、変造の意識は途切れているからだ。
ビルからそう遠くない、森の中にテントが張られていた。
大きい、少なくとも十名以上は入ることのできる大型のテントであった。
これこそが呉一族の『ピクル捕獲作戦』の司令部である。
「クソッッ!!偵察班がやられたッッ!!」
「実行班―――――ッッッ!!???!!どうした実行班ッッ!!」
「連絡がつかねえッッッ!!!やられちまったか!!!???この一瞬で!!???」
「下だッッ!!風水がビルの下で倒れているッッ!!」
「銃が通じないッッ!!??そんなことがあるかァッッ!!!」
「バカヤロウッ!!そんなことよりターゲットは――――!!!」
今、その司令部が混乱に陥っていた。
呉一族の誰もが、事の次第についていけていなかった。
寝ていたと思っていたターゲットが、物の数秒の間に立ち上がって消え去り。
あまつさえ1キロほど離れた所に現れて偵察部隊を壊滅させる。
何より、これを呉一族に対して一人の人間が行ったということが何よりも彼らにとって信じがたいことであった。
交錯する怒号と非難。そんな中、一人の男が立ち上がった。
黒いジャケットに白のパンツを身にまとい、
黒髪の、ぼさっとした髪をした男であった。
「落ち着け。」
低く野太い、しかし透き通るいい声であった。
その声が上がった瞬間、ぴたりと喧騒が止んだ。
男の名はホリス。
『鬼哭童子』、呉ホリス。
外しの開放率は80%を超え、呉一族でも屈指の実力を持つ男である。
「人の形をしているが、こいつは獣だ。
一頭の知性の高い獣を相手にしていると思え。」
ホリスが言うと同時に、男が立ち上がった。
肉が厚い。
脂肪もあるだろうが、恐らくそれ以上の筋肉で全身が覆われている。
その厚い肉体に、フォーマルなスーツをまとった男であった。
「やれやれ、面倒な任務だな」
『鬼牛』、呉堀男であった。
この男もホリス同様、呉一族では屈指の実力者として名の通る男であり、『あの』ムテバ・ギゼンガと死合、生き残った傑物である。
「ここからは、俺と伯父貴の二人でやる。お前たちはそこでいったん待機だ。」
「これ以上、犠牲を増やすわけにはいかんからな――――」
そう言って、堀男はテントの外に足を踏み出した。
「全く、行動の早い―――ん?これは伯父貴のナイフか?」
ホリスがテーブルの上にあるナイフを手に取った。
ムテバと戦った時にもこれを使ったらしい、愛用のナイフである。
まだテントから出てすぐだ、そう遠くまでは行っていまい。
―――渡しに行くか。ついでに俺も出よう。
そう思い、外に出た。
出たのだが――――
「――――伯父貴?」
見当たらない。
ホリスの背中に嫌な汗が流れた。
いくら伯父貴が外していようと、こんな数秒の時間で目につかないところまで行けるものか。
いや、そもそも自分が気づかないということなどあり得るのか。
―――――慎重に。
たらりと、額に汗が浮かぶ。
渡すはずのナイフを、自然と構えた。
同時に、どしゃっという音がホリスの真横で鳴った。
何らかの、肉が落ちた音であった。
同時に、何らかの飛沫がホリスの貌を濡らす。
瞬時に振り向いた。
振り向いて、叫んだ。
「伯父貴ッッッ!!!」
落ちてきた肉は、堀男であった。
異様な倒れ方であった。
うつ伏せに、地面で顔を隠すように堀男は倒れている。
だが、足りないのだ。
堀男の体に何かが足りない。
その足りない何かに気付いた時、ホリスは戦慄した。
腕だ。
倒れ伏した伯父の頭の横には右手と、肘から先のない腕があるのだ。
驚愕よりも、怒りがホリスの胸の中にこみあげる。
熱した鉄のような激しい怒りであった。
その怒りに呼応したのか、ざっと草を踏み分ける音がした。
背後に獣臭が立ち込める。
「ピクルッッッ!!!!!!!!」
叫び、振り向いた。
振り向くと同時に、ナイフを振った。
だが、それよりもピクルの足の方が速かった。
丸太のように太い脚がホリスの腹に向って伸び切ってきたのだ。
その蹴りが、真正面からホリスにぶつかって来た。
とてつもない衝撃であった。
前蹴り。
いや、原人にそもそも前蹴りとか、パンチとかそういう思考はない。
ピクルとしては思いっきり足を前に出した。
それだけである。
特別な仕掛けは何一つない。
その右脚がホリスに向って走っていった。
だが、それには原始の力と速さが込められていた。
「~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!????」
不可能だった。
捌こうとか、
ガードしようとか、
避けようとか、
そういう思考すらわかなかった。
わく暇すらないままに、脚をぶつけられたのだ。
ホリスは既に『外し』ている。
外していてなお、捉えられぬほどの速度。
地面と水平に飛びながら、30メートルは離れた木にぶちあたってとまった。
その衝撃をホリスが味わう事は無かった。
蹴られた瞬間に、意識が体の外にはじけ飛んでいたからだ。
原人は退屈していた。
こいつらは動きの統率がとれているものの、一人一人は弱い。
1300年の人種改良の歴史を持つ呉一族も、1億9千万年前から来た最強の雄にとってみれば、ひ弱な現代人とそう大差ない存在であった。
少なくとも、自分の脅威になったり遊び相手を務められるような連中でないことは確かだった。
そのことがわかっていたから、放置していた。
見られていることは最初から知っていたが、放っておいていた。
野生動物が人間の姿を目にしてもすぐには逃げないように、たいして危険でもない存在は相手にするまでもないからだ。
ただ、アクションを起こすのが面倒なだけだ。
―――――しかし長いな。
頭でこういう文字を考えたわけではない。
しかし、原人はこういった的なことを考えていた。
それに、数も多い。
遠くから見ているやつもいれば、近くに潜んでいる奴もいる。
――――5分経過。原人は無視。
――――6分経過。原人は無視。
――――7分辺りで逃げる気がない事を悟った。
――――8分くらいのところで、やつらが牙を剥いたので腹が立った。
そして、10分くらいのところでだいたいのやつらは片付いた。
片付いたところで、ピクルは食事にしようかと思った。
思ったが、何かが足りない。
ピクルの内部でまだ醒めていない何かがあるのだ。
まだ、猛っている。
まだ、吼えている。
血が。
肉が。
魂がまだ足りないと叫んでいるのだ。
身をよじっているようであった。
何かが燻っているのだ。
この感情はなんだ―――そう思った時に、ここ最近の男達の事が脳裏に浮かび上がって来た。
最初の
見たこともない攻撃をたくさん仕掛けてきた。
次の
あんな小さい体に、巨大な牙を身に着けるまでの修練。尊敬に値する男だった。
その次の
蘇るなんて聞いていなかった。
最後の
強すぎるくらいだった。
だからなのだろう。
そういう連中と闘い、食してきたから足りないのだ。
だから、足りない。
燃え残った何かが自分の内側でくすぶっている気がした。
それに、
あそこまで、とピクルは思う。
あそこまで、やらなければ―――――。
あそこまでやれるやつが居るのだろうか、ここに。
「クカカカッッ!!マジで全滅してやがる!!」
―――――いた。
立ち上る獣臭。
敵意と殺意をむき出しにした悪意の塊のようなものが迫ってきている。
原人が、後ろを振り向いた。
その瞬間に、何かが顔にぶつかった。
顔面に、一撃をもらった。
「ケッッ。この程度じゃあ挨拶にもなりゃしねえか」
眼の前の雄が、吐き捨てるように言った。
恐らく、拳をぶつけてきたのはこの雄だろう。
その雄は嗤っていた。
嗤ってはいるが、むき出しの殺意がそこにあふれていた。
野生の獣でいうならば、牙を剥きだしにしてこちらを見ているようなものだ。
その感覚に、ピクルはなつかしさを感じていた。
有無を言わせず襲い掛かり。
殺意と敵意を隠そうとせずに爪と牙を剥けてくるそのどう猛さは、ある意味
「クカカ…原人にも感情ってもんがあるんだな」
いい。
こいつはいい。
雄は歓喜していた。
さきほどまでの、餌どころか遊び相手にもならぬ者たち。
そいつらにひとしきり失望した後だったからだろう。
笑みがふきこぼれる。
あんなやつらの後で、こんな玩具が来るなんて。
髪が逆立つ。
たまらない雄であった。
愛しくって、
かわいくって、
抱きしめたくって。
ピクルは、たまらずとびかかった。
この男がここに来たのはたまたまであった。
たまたま、恵利央が話している任務の内容を小耳にはさんだから、暇つぶしにぶらっと歩きにきたのだ。
恵利央はこの男を、今回の任務に召集していない。
生け捕りの任務に同行させるべきでないと判断したからだ。
無理からぬことであった。
それは、この男の生来の凶暴性故である。
もしこの男が履歴書を書くのならば、趣味と特技の欄にはこういうことがかかれるだろう。
―――――趣味・気に入らないやつを殺す事
―――――特技・気に入らないやつを殺す事
あらゆる意味で最低の自己紹介であるが、事実その通りであった。
有り余る凶暴性と悪辣さ。
そこに、一族屈指の才能が加わり手の付けられない暴君と化している。
異端の多い呉の中でも、とりわけ目立つ存在。
禁忌の末裔の『魔人』。
開放率100%を誇る天才児。
男、呉雷庵とはそういう存在であった。
その魔人が今、はじき飛ばされていた。
―――オオッッ!!????
技も何もない、ピクルが手を横に振り回しただけの動作。
たったそれだけで雷庵の身体が宙に浮いた。
左肘でガードはしている。
そのガードの上からはたかれ、飛ばされたのだ。
真横に10mほどすっ飛ばされた。
少したたらを踏んだが、着地はなんとか両足からできた。
両足で立ち、改めてピクルを見る。
山だ。
巨大な山脈が雷庵の前にそびえたっている。
巨大な人の肉体。
それが、ただ立っている。
それだけで大きい。
その肉体が、急に大きくなった。
動きの初動が見えないのだ。
同時に、何かがくると思った。
見えたわけではない。
魔人の直感が、本能的に顔面を両腕で庇ったのだ。
じゃどおっ
そういう音が聞こえた。
少なくとも、雷庵の耳にはそういうふうに聞こえた。
「オ゛オ゛ッッッ!!!???」
再度、魔人が宙を舞う。
ありえない衝撃であった。
闘技者として、呉一族として闘いの日々を送る雷庵である。
むろん、蹴りの威力もそれによって人間がどれくらい飛ぶのかもよく知っている。
だが、自分が飛んでいるこの距離はその常識をはるかに凌駕していた。
それにこの力――――ダンプカーにはねられたと言われた方がまだ雷庵としては納得できる話であった。
今度は足から着地できなかった。
どうと、もんどりうって倒れた。
それを見て、ピクルは笑っていた。
朗らかに、笑っていた。
まるで幼い子供が玩具の人形を振り回して遊んでいるかのように、楽しそうに。
―――――嘗められている。
魔人は直感で分かった。
言葉を発せぬがゆえに、その貌がありありと伝えていたのだ。
「―――――――殺す」
雷庵が、切れた。
びきぃという音と共に、雷庵の貌にエッジが浮く。
それだけではない。
色が変わった。
全身の色が赤く、血管が浮かんできているのだ。
これこそが『外し』
呉一族でも最高の開放率を誇る100%の外しであった。
「――――――」
この姿を見た瞬間、ピクルの表情から微笑みは消えうせ。
雷庵は「遊び相手」から「餌」への昇格を果たした。
「行くぜ、原人」
二つ、三つ呼吸をしてから雄が前に出てきた。
さっきより早い。
一気に前に出てきたので拳を振りかぶったのだが、その下をかいくぐられる。
正面から、ピクルにぶつかってきた。
次の瞬間、雄の拳が嵐のように降り注いできた。
ごつん。
がつん。
ごつん。
ガツン。
重い拳だった。
それが立て続けにピクルの身体にぶつかってくる。
頭部と言わず、ボディと言わず、魔人の拳と脚がピクルを叩く。
殴られ、蹴られているが、ピクルの脳に去来しているものは痛みや苦しみではない。
――――ここからなのだな
こういうものであった。
戯れの時は終ったのだ。
こいつは、
温和で弱弱しかったものが、不意に危険な液体を吐くように。
弱小なサイズではあるが、その戦力は十分自分の『餌』として足る。
「オラァッ!!!!」
雄が自分の脚を蹴る。
左足の内側に、思いっきり叩き込んできた。
効きはしない。
しないが、いい。
すごくいい。
襲い来る強敵。
これだよ、これ。
こうでなくては『食い甲斐』がないだろう。
原人が拳を振りかぶった。
「ハルララッッッ!!!!!」
叫びながら、ピクルが右の拳を真上から振り下ろしてきた。
それを、雷庵が両腕でブロックした。
「ぐおッッ!!??」
にも関わらず、雷庵の顔面が地面にたたきつけられた。
重い。
重すぎる拳であった。
経験したことのない事態である。
むかつくやつは殺してきた。
気に入らないやつも殺してきた。
それは自分が強かったからだ。
戦闘集団呉一族、その中でも最高の天才と称される自分が強かったからだ。
どんな相手だって倒してきた。
ちょっと強いやつが居ても、『外し』を使えば簡単に蹂躙できた。
そうだな。
まともな試合をしたのは変身した十鬼蛇。
あいつとだけだ。
だがこいつは。
どれだけ拳を当てても倒れない。
倒れないどころか、拳を当てて、次の拳を当てるまでにダメージが回復しているのだ。
もしかしたら、そもそも全く効いていないのかもしれない。
こういう肉体があるのか。
今だって、パンチのたった一発でこうやって地面に転がっている。
急ぎ立ち上がる。
立ち上がったところに、丸太のような脚が降って来た。
バックステップで距離を――――
取らせてもらえなかった。
自分が下がるよりも、ピクルが踏み込む方が圧倒的に早いからだ。
信じたくなかった。
両腕で、顔面を庇う。
そこに拳がぶち当たった。
そもそも、これを拳と呼んでもいいのだろうか。
骨とか、肉ではない何か別の物体が原人の身体を構成していて、その謎の物質でぶん殴られたのではないか。
雷庵はそんなことを考えてしまった。
そんなことを考えてしまうくらい、こいつの拳は別次元だった。
別次元すぎて、体が宙を舞った。
魔人、三度空を飛ぶ。
―――――通じねえ。
雷庵の脳裏に去来した言葉は、これであった。
呉一族。
戦闘に特化するために多種多様な人種と掛け合わせ、人種改良に及んできた1300年の歴史。
その歴史が通用しないのだ。
ジュラ紀、1億9千万年前から来た肉体にはまるで通じちゃいないのだ。
バランスを崩しながらも、着地する。
――――理解ったよ。
ここまで来ると馬鹿でもわかる。
認めたくないが、認めなければならなかった。
肉体での勝負はムリだ。
己の膂力を持って思うがままにならない存在を許すことはできない。
出来ないが、世の中にはそういう男もいるのだ。
あの男だってそうだった。
トーナメントで闘い、自分に土をなめさせたあの男。
十鬼蛇王馬。
あいつは『技』で俺に勝ったが、こいつは『力』で俺に勝っている。
『力』だけでは勝てない戦いもある。
そういうことは、十鬼蛇との戦いで学んだ。
学んだからこそ―――――
「クカカ」
雷庵が嗤った。
実に、楽しそうに嗤った。
口角が急角度に持ち上がった、凄惨な笑みを浮かべている。
その貌に、ピクルが拳を振り下ろした。
振り下ろして、そのまま回転した。
200キロを超えるピクルが、宙で回った。
「技ァ。使わせてもらうぜ。」
――――回転している。
原人はそう考えていた。
――――これは、あれか。こっち(現代)に来てすぐ味わったあれか。
不思議な何かである。これは、楽しかった。
赤い髪をおったてた、あいつ(勇次郎)から食らったあれ。
まっすぐに押し合っていたはずなのに、いきなり自分の身体が横に回転したのだ。
突風でもない、風なんて吹きようがない環境で。
そして、今再び自分の身体が廻っている。
横にではない。
縦にだ。
縦に回っている。
だが、問題ない。
こんなもの、あいつ(トリケラトプス)の突進をくらってぐるぐる吹っ飛ばされた時に比べたらなんてことはない。
このまま、廻ってやろう。
このまま廻って、地面から着地する。
こいつの思惑を外れて、着地する。
正しく。
その時にあいつの貌をぶん殴ってやろう。
脚がそろそろ地面につく。
――――今ッ
そう思ったところで―――――地面が空から降って来た。
「クカカカカカッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!」
秘投必殺。
ここに、呉の投げが見参した。
「わかったか原始人?これが人間様の『知恵』ってやつだ」
普段から蹂躙するあまり、技なんてめっきり使っていなかったが。
こうしてみると、まだまだ自分の技も錆びていないものだということがわかる。
あのトーナメントで敗れて以来、技の方もそこそこ真面目にトレーニングしてきた甲斐があったというものである。
甲斐があったからこそ、こうしてこの原始人は無様に寝っ転がっているのだ。
以前同じ技をしかけた連中のように頭が破裂しなかったのはさすがというべきだが、ダウンしているなら同じことだ。
――――踏んで終るか?それとも極めて終るか?
来る暴虐の未来に舌なめずりをしたところで、眼があった。
雷庵の眼が大きく開かれる。
そのまま、雷庵は大きく上を向いた。
ピクルが、大きく跳ね上がったのだ。
立ち上がったのではない。
その右手で。
その左手で。
その右脚で。
その左足で。
4つの腕と足で、地面を思いっきり叩き上にはねあがり。
4つの腕と脚で、地面に着地した。
呉一族――――その改良に改良を重ねた1300年の歴史はただひたすらに見事というほかない。
しかし、それは突き詰めるとどんな『人間』にも負けない『人間』を作るための行為に他ならない。
あくまでも、対『人間』。
対、二足歩行!!!!
「―――――カカカッッ。マジで獣だな、オイ」
なんという。
なんという構えか。
雷庵はそう思った。
およそ人間同士の戦いでは、見たこともないほどの前傾姿勢であった。
近いものを上げるとするならば、トーナメントで見た相撲取りの『ぶちかまし』。
あれに近いが、あれよりもさらに低い。
最も近いのは、あれだ。
ライオンとか。
トラとか。
ああいう大型の猛獣がとる戦闘態勢。
そういうものであった。
前進。
前に進む以外はすべて排除した突進の体勢である。
「いいぜ。受けてやるよ、原始人」
雷庵が言った。
言って、正面から見据えた。
「言葉はわかんねーだろうが、
両腕を腕の下に。
ティラノサウルスの手ように、構えている。
前傾姿勢で、構える。
呉一族として。
魔人として。
この前進すると誓いを立てた獣を、破壊する。
そういう心づもりであった。
それを、ピクルは理解した。
理解した刹那、獣の五体は発火。
4つの『足』で、地面をえぐれるほどに強く蹴った。
身体を炎の玉とし、雷庵に打ち込んできたのだ。
Tレックスを屠った時のあの――――
トリケラトプスを打ち砕いた時のあの――――
ブラキオプトルを怖気づかせたときのあの―――――
ぞくりと、雷庵の背中の毛が逆立った。
「カッッッ!!!!」
思いっきり右腕を放った。
『外し』、開放率100%の雷庵による、渾身の右ストレート。
「―――――――――――――――」
古代の原種による矛――――
その矛が、現代の改良を重ねた盾に激突し。
盾を砕き散らした。
「――――――――」
魔人、本日4度目の宙。
しかし、雷庵がその宙を見ることはかなわなかった。
矛が刺さったその時には、眼がぐるんと回転し、意識がどこかに行っていたからだ。
故に本日は矛盾なく。
矛の勝ち。
原人の眼から涙がこぼれた。
殴られた痛みからではない。
悲しいからだ。
食らう事は、別離を意味する。
呪われた運命。
凶暴なる食欲を満たすために、今からこの雄と別離れるのだ。
だから―――――
おい、待てよ。
いいところなのに。
さっきからこのばらばらうるさいのはなんだ。
これから食うってのに――――まぶしい?!
「雷庵ッッッ!!!!!」
ピクルの上空十数メートル。
そのヘリから、恵利央が叫んでいた。
―――雷庵が来た。
そういう報告を受けて、呉の屋敷から恵利央が飛び出したのだ。
雷庵が殺してしまうかも。
そうなれば国との関係は水の泡だ。
そうならないように長である自分が駆け付けたのだ。
自分が思ったこととは真逆の事態が起きているが、この光景を見る限り結果的に来てよかったと思った。
自分が来なければ、雷庵は間違いなく死んでいただろう。
食われて。
一族としては醜態である。
一族100名近くをもってしても、原始人を捕獲するどころか有効的な攻撃を何一つ加えることができなかったのだ。
国との関係も、今度こそ絶たれるだろう。
しかし、雷庵を失うわけにはいかない。
そう思ったからこそ、叫んだのだ。
原人と目が合った。
珍しく――――この原人にしては、珍しく不機嫌そうな顔をしていた。
不機嫌そうな顔をしながら、後ろを向き、森の中に奔っていった。
―――――ピクル、森中に姿を消す。
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次回から第二部の対抗戦編が始まります。