信には、今は亡き友と二人、身の程を弁えぬ大望がある。
下僕の身分なれど日々友と剣を打ち合わせ、いつか必ずと胸に描いたのは、かつて瞳に刻んだ勇壮な鎧姿。
狭苦しい城戸村でこき使われすり潰されるだけの人生から抜け出し、兵士に、将軍に、そして大将軍に成り上がり、この名を中華全土に轟かせること。
高貴な美女を妻に迎え、沢山の子と使用人を豪壮な屋敷に抱えること。
美味いものを腹一杯に食らい、血飛沫舞い散る戦場を、友と並んで鮮やかに駆け抜けること。
――友と並んで、の部分は、つい数日前に看取った命と共に永劫失われはしたが――夢を託された己が高く高く羽ばたけば、そこには必ず友の魂が添うているものと、少年は心から信じている。
だから、友と同じ顔を持つ、目の前の秦国大王に従うことは、信にとっては二度とないチャンスだった。
友の遺言を受け、黒卑村で出会った僅か十四歳の大王は、出会った当初こそ友を身代わりに使われたことへ憎悪を滾らせたが、彼の覚悟を知った今となっては、命を賭けるのに不足はない。
「――ところでよぉ、弟にがっつり嫌われてるのは分かったけどさ、他に頼れそうな家族っていねぇのか?」
臣下の中でほぼ唯一の味方である昌文君との合流点、数百年前の王である穆公の避暑地。
味方が追いつくのを待つ傍ら、休息にも飽き、ふと思いついて雑談を振った信に、傍らで薬草を擂っていた河了貂も興味がありそうに顔を上げた。
開いた窓から外を眺めていた政は、そんな二人をちらりと見て、しばらく間を置いて口を開く。
「……城に同母の妹が一人、残っている」
「えっ」
即座に反応したのは河了貂だった。顔を引き攣らせる彼女の横で、信が身を乗り出す。
「へー、いるんじゃねぇか! そいつは応援よこしてくれたりしねーのか?」
「できるかバカ! 妹ってんなら、政よりももっと幼いお姫様だぞ! 絶対どっかに閉じ込められてるか、悪けりゃとっくに殺されてるし、外と連絡なんて取れるわけないだろ!」
無駄な期待をする信の頭を、ばしーん!と河了貂がぶっ叩く。
大王は異母弟に大層な憎まれようだというし、ならばその実妹だって同じように憎まれていてもおかしくないだろう。か弱いお姫様が酷い目に遭わされていないか、同じ女としてひたすら心配でしかない。
しかし、当の政は淡々とした表情のまま首を横に振ってみせる。血を分けた唯一の妹が敵地真っ只中に取り残されているにしては、その落ち着き払った目には一片の焦燥も浮かんでいない。
「いや、成蟜は恐らく、あの子――蓮伽を殺さない」
「何でだよ、お前の妹なんだろ? 分かんねーじゃん。あ、殺すのがもったいないほどの美人だとか?」
「確かに美人ではあるが、そういう意味じゃない」
細腰雪肤、玉指素臂。母である太后の美貌を色濃く受け継ぎ、射干玉の髪に黒真珠の瞳と讃えられる妹は、まだ幼く世間擦れしない風情の分、母よりずっと儚げで可憐な花を想わせる。
しかし、では成蟜が彼女に恋慕しているか、はたまた美貌を見込んで政略の駒と考えているかと言えば、別にそうではなく。
「成蟜は俺のことは嫌いだが、蓮伽のことはまあ……そこそこ可愛がっているからな。自分が玉璽を得て名実共に王になった後は、名ばかりの側室として城の隅に住まわせるか、たとえ他所に嫁がせるにしても、人質紛いに売り飛ばすより、権力はなくとも無難な男を充てがうくらいのことはするだろう」
「えー」
「マジでか。お前と全然扱い違うじゃん」
というか、そうでもないなら政だって、妹一人置いてきたりしない。
予想外の穏便な処置に、信も河了貂も目をぱちくりさせた。
政は、今頃味方のいない城の中で、城の一室にでも閉じ込められているであろう妹の顔を思い出す。
分かりやすくぺったりしたりはしないが、過酷な幼少期を共に過ごした分、仲が良い兄妹だという自覚はある。
今頃、行方知れずの兄を心配して、身も細る思いで窓の外を見つめていたり――
(――するわけがないな。蓮伽だし)
どうせ成蟜が寄越したおやつでも食べながら、「心配で身が細るなー! まあ私、元々細いんだけど!」とか呑気にほざいているに違いない。
食える時に食うのは自分たち兄妹の共通認識である。政だって、たとえ妹が明日も知れぬ病の床で意識不明になっていようが、心配しつつも己はしっかり飯を食うだろうという自信がある。
「その、蓮伽サマって、王弟とどんな関係だったんだ? 最初から気に入られてたわけじゃないんだろ?」
河了貂の質問に、政は昔の記憶を探る。
「蓮伽は幼い頃から、成蟜に――」
舞妓の子供であった政と蓮伽、公主を母に持つ成蟜。
幼少期から成蟜が政に向ける敵意はひどいもので、政は極力それを受け流そうとしていたが、蓮伽の方は確か――
「全力で媚を売っていた」
「意外と悪女っぽいな!?」
「か弱いお姫様」のイメージをパーンと壊され、河了貂が驚愕のツッコミを入れた。
心外である、と言いたげに、政が少しばかり眉根を寄せる。
無垢な見た目に合わず強かで計算高い妹ではあるが、中身はそこそこ善良な部類だ。悪女の呼び名は不満なので、妹のために別の表現を探す。ええと、蓮伽は幼い頃から成蟜を、
「……じりじりと籠絡していた」
「悪化した!?」
再度ツッコミを入れる河了貂。お城ってほんとドロドロしてる!
夢も希望もない真実に膝をついて項垂れる河了貂だが、信は至極どうでも良さそうだ。へー、と間抜けた相槌を打ち、「妹は王弟を説得してくんねーの?」と聞いてくる。
「無理だな。蓮伽曰く、成蟜のあれは気に入りの飼い猫を愛でるに等しいそうだ。餌をやり、美しい首輪や籠を与えても、爪で引っ掻かれれば手をあげるし、たまに抱き上げて毛並みを愛でる以上のことはしない」
――成蟜兄様は、私を対等な人間とは見ていないの、と、かつて蓮伽は肩を竦めて言っていた。
小さくて、女で、下等な腹から生まれた、半分だけ貴種の血を持つ、美しい妹。
そんな存在だからこそ、成蟜にとって蓮伽は己の地位を脅かす敵とはなり得なかった。蓮伽はその心理を読んでいて、自分の身を守るために全力で利用した。
成蟜にとって、蓮伽は愛でるに足る存在ではあっても、妻や恋人のように愛情を向ける対象でも、ましてや「家族」でもなかった。そして蓮伽は、その中途半端な立ち位置こそを望んでいた。
親しくなれば期待される。近付き過ぎれば利用される。
成蟜に近付く時、蓮伽は決して成蟜に、政の存在を意識させることはしなかった。成蟜の中に、「蓮伽に自分と政を天秤にかけさせる」という選択肢が生じることだけは、絶対に避けなければならなかった。
政の命を狙ってくる誰かがいるなら、最も分かりやすく、警戒すべきは成蟜である。いざそうなった時、最低限、蓮伽の命の保証があるなら、政は自分の命一つ守り切りさえすれば良い。
かつて、先王である父が一人で秦国に逃げ帰る前、趙で生まれた蓮伽は、幼少期にろくなものを食えなかったことが尾を引いて、実年齢よりもずっと小さく見える。
蓮伽が男なら、また話は別だっただろう。しかし幸いにして成蟜は、きらきらした目で懐いてくる小さな少女を「気に入らない」と殴り飛ばせるほど、性根が腐ってはいなかった。
本来は年下であるはずの成蟜を「兄様」と呼び、ニコニコと懐いてみせる蓮伽を、当初こそ扱いに困っていた成蟜は、やがて「身を弁えた『妹』」と認識したようだった。
一人では何もできない、美しいが無力な小娘。
己がそういう人間だと思わせるため、蓮伽は成蟜にも、父母にも、臣下たちにも、徹底して猫を被った。
それこそ物心ついた時から、母と政と三人、趙で汚泥にまみれるような暮らしをしていた頃から。
そうでない蓮伽の姿を――生き汚くて理屈っぽくて、時々妙に呑気で、硝子玉のような目で世界を眺めている妹の姿を知っているのは、蓮伽自身の隠している手駒を除けば、政と、政の教育係である昌文君と、それからもう一人――
(――いや。『あの男』については、まだ不明瞭だが……)
ともあれ、成蟜の望む「可愛い子猫」を装う限り、蓮伽は排除されることはなく、同時に政の抹殺に利用されることもない。
妹の予防策は実を結び、政はこうして妹を憂うことなく、ここで臣下を待っている。
「――まあ、蓮伽なら何とかするだろう」
たとえ俺が死んだとしてもな、という小さな呟きは、二人の耳には届かないまま、ひっそりと消えた。