政にとって、決して長い付き合いではなかった漂という少年は、それでも確かに信用のおける人間だった。
昌文君が彼を連れて来たのは、万が一の時の用心のため。しかしその「万が一」が本当に訪れた時、己も、昌文君も、彼の存在を知る誰もが彼に、己の代わりに死ねと告げるであろうことが分かっていた。
聡い少年はそれを理解していて、友と描いた夢のために命を賭けた。
政の臣下として策に従えば、兵士としての道が拓ける。一介の里典の元で下僕などしていては、決して得られない機会だった。けれどそこにはきっと、漂自身の、政に対する忠義もあった。
未来ある少年を影武者に仕立て上げたことに、後悔はない。政も昌文君も、そうせねばならないと考えて、考えて、考えて、考えて、選んで決めた。
身代わりとなった少年が、王騎将軍の追跡から自分たちを見事逃がし切り、将たる器を見せたのだと。
居並ぶ兵士たちがそれぞれの感慨を露わに沈黙する中、秘めた感動を吐き出すように語った昌文君の言葉を聞きながら、信が床を踏み抜かんばかりに興奮しているのが見える。歴史ある別荘の床が抜けそうだ、と考えて、楽しそうに友との思い出を語ってくれたかつての漂の顔を思い出し、政は少し、目を伏せた。
――もし生きていれば、きっと優れた将になっただろう。
強く、真面目で、誠実で、己の目を真っ直ぐに見る、青臭いながらもまれに見る好漢だった。
周りは敵ばかりの政や昌文君が、漂のことは信頼できると判断した。漂はその信頼に応え、その命一つで、政も昌文君も生かしてみせた。
――優秀な少年だった。生きていれば、いつか友と呼べるようになっていたかも知れない人間だった。成長していれば、間違いなく中華統一の力になってくれたであろう男だった。
――だからこそ。
政は昌文君に、確認しておかなければならないことがある。
「――昌文君」
己の腹心の名を呼べば、忠実な男が身を低くして政を仰ぎ見た。
「もう一つ、確かめたいことがある」
「何なりと」
低く答えた昌文君に、政は問うた。
「
その質問に、昌文君はしばし沈黙した。
瞠目した顔が、見る見るうちに強張っていく。
「――――おりました。姿を、見てはおりませなんだが。しかしあの夜、王騎将軍の差し向けた追っ手を引きつけ、漂が一人闇の中へ駆け去っていく時――漂を追うように、確かに一声、低い鳴き声が聞こえました」
「間違いないか」
「はい。王騎軍の猛烈な追撃に、我々はまるで暴風の中にいるような状況で、その中で聞こえた鳴き声といっても極々かすかなものだったので、今の今まで忘れておりました。しかし、今、改めて言われればはっきりと思い出せます。あれは確かに梟の声でした」
「おい、何の話だよ。漂の奴、梟を飼ってたのか?」
「飼っていたのは漂ではない」
口を挟んだ信に、政は淡々と答えた。
「俺の妹、蓮伽については話したな? あの子は、一体どこから拾ってきたのか、俺も顔を知らない手駒を一人抱えている。そいつとの連絡に使うのは、専ら鳩や梟――ことに危険度の高い案件には梟を使っていた」
梟は鳩よりも頑丈だからな、と付け加える。
鳩は鷹などに捕食されることも多い鳥だが、梟は猛禽類だし夜目もきく。ミミズクと並んで不吉な鳥だと疎まれているので、人間に捕まることもないだろう。
「……つまりどういうことだよ? その梟が漂を追っかけて? 梟は漂に用があったのか?」
「――そういえば、漂の死に際についての詳細を、まだ確認していなかったな」
政の黒い瞳が信を見た。感情の窺えない奇妙な眼差しに、息を潜めて彼らのやりとりを見守っていた河了貂が、ひうっ、と怯えたような声を洩らした。
「はぁ!? それならとっくに話しただろうが! あいつは俺たちの住んでた小屋まで戻ってきて、そこで死んだんだ! 俺に夢を叶えろって言って、黒卑村に行けって言い残して……」
「そうじゃない。死因だ」
語気を強めて、政が信の言葉を遮った。彼が何を言いたいのか分かっているのは昌文君だけのようで、他の者たちはただ茫然と、目的の掴めない二人の会話を追っている。
きつい眼差しに背を押されたように、信が眉をぎゅっと寄せた。ぎり、と奥歯を嚙み鳴らし、友の死に顔を思い描きながら叫んだ。
「――
――すぅ、と、政の目が見開かれた。
昌文君が、ぐ、と強く拳を握る。
政の口から、ああ、と掠れた息が洩れた。
「――毒、か」
「そうだよ!」
「息が止まったのは確認したんだな?」
「あ、ああ……息も心臓も止まって、完全に動かなくなった。だから俺は、漂の死体を置いて黒卑村に行ったんだ」
「傷はどれくらいあった?」
「そ、んなの確かめてねぇよ! ただ、昔、近所のじいさんが病で死んだ時みたいに息が荒くて、体がどんどん冷えてってたことしか……」
「ならば、血はどれくらい出ていた?」
「えーと……漂と修行してた頃、石で頭かち割っちまった時と同じくらい……?」
つまり致死量の出血ではないということだ。
政は深々と息を吐いた。
信が政に出会った時、信は漂について、「殺された」としか言わなかった。
その後会敵した、漂の仇である暗殺者――朱凶も、「間違えて偽物を殺した」としか言わなかった。
もっと早く確かめておくべきだったかも知れない。
だが、完全に味方だけだと確信できる場所以外で、万が一の真実を口にすることはできなかったのだ。
「おかしいと思わなかったか、信。漂を殺した暗殺者は、刃物使いだった。なぜ漂の死因が毒なんだ?」
「――は……?」
「元から毒を得手とする暗殺者なら、俺たちとの戦闘の際にも使ってくるだろう。だが、奴の刃が俺たちに負わせたのは、毒ではなく純粋な刀傷だけ。
分かるか? 奴は、
「なんだよ、お前さっきから……何が言いたい!? 俺はお前や漂と違って頭が悪いんだ、はっきり言いやがれ!」
意味ありげな台詞の数々を追い切れず、とうとう堪りかねたように信が吼えた。
訳は分からなくても、漂に関して、何か重大なことを教えられようとしていることだけは理解して、激しく混乱しているようだった。
「――漂は生きている」
だから政は、信の望み通り、はっきり端的に告げてやった。
「――――は……?」
たっぷり十秒は間を置いて、信が茫然と呻いた。
「……な……何を、言って……」
「恐らく、という注釈はつくがな」
ふぅ、と息を吐いて付け加える政に、信は今聞いたことをうまく消化できないようだった。
代わりに河了貂が慌てて身を乗り出す。驚愕を隠しもしない様子で、兵士だらけの室内に怯えることも忘れて食ってかかった。
「ちょちょちょ、待ってくれよ政! 漂って奴は死んだんだよな!?」
「仮死状態にする毒くらいあるだろう。死と仮死を見分けることは、並みの医師にも難しい」
「な、でも暗殺者は漂を殺したって言ってたんだろ!?」
「奴自身、それが仮死毒だとは知らなかったんだろう。俺のことも本気で殺す気だったからな」
「なら、誰がそいつにそんな毒を渡したんだよ!」
「妹だ」
さらりと落とされた一言に、室内が完全に静まり返った。
唯一察した顔をしているのは昌文君で、他は全員、子猫が火を吐いたのを見たような顔をしていた。
そんな彼らを他所に、政は淡々と推測を続けていく。
「暗殺者を言いくるめ、致死毒と偽って仮死毒を渡したのは、蓮伽――厳密には、蓮伽の指示を受けた手駒で間違いない。
手駒は梟を使って漂を尾行し、漂を追う暗殺者が漂に追いつく直前に、暗殺者に接触。暗殺者を騙して仮死毒を渡し、最後に兵士たちが漂の『死亡』を見届けたことを確認した後で、混乱に乗じて『死体』を回収し、仮死を解けばいい」
「おい……マジかよ……その話、マジで言ってんのか、政……!」
「これでも付き合いは長いんだ、妹の考えることくらい予想がつく――情報さえ出揃えば、の話だがな」
困惑したような、けれど縋るような表情で信が一歩踏み出す。
「あの子なら、暗殺者の一人や二人、何とでも騙してみせるだろうさ。そう考えれば、うまく毒を使わせるよう言いくるめた内容にも見当がつく……例えば、『切り刻んで襤褸雑巾のようになった骸を差し出すより、毒を使って原型を留めた骸の方が、吊るして見せしめにするにはいいだろう』とかな」
王弟派を装いつつ、そんなことを言って毒物を差し出せば、王弟におもねりたい暗殺者は疑わずに使うだろう。
何せ政は四方八方敵だらけ、唯一の実妹は無力に閉じ込められているだけの存在だと思われている。誰が暗殺者に接触する危険を冒してまで『逃亡中の大王』を助けようとするものか。
蓮伽は漂を「拾う価値あり」とみなし、漂も、信も、暗殺者も、王弟派の追っ手も、全てを手のひらで転がして、望んだ結果を掴み取った。
恐るべきは、彼女が
蓮伽の手駒と接触した朱凶は死に、影武者と分かった漂の死体など追っ手たちは回収していない。
恐らくはそれすら『この先』の布石だというのだから、政は時々真剣に、妹の頭脳が恐ろしい。
『――私と賭けをしよう、漂』
漂に出会ったあの日、目の前で交わされたあの会話を、妹は本気で遂行する気でいるのだ。