中華の片隅からこんにちは(完結)   作:笹倉

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影武者と妹が出会った日

 下僕の出身である漂には、幼い頃より友と二人、身を弁えぬ大望がある。

 

 物心ついた頃より人に使われ、這いつくばって生きてきた。泥にまみれるような生でも、前を睨みつけて矜持を保ち、剣と呼んだ棒切れを友と打ち合って修行を重ねた。

 

「俺は必ずや這い上がり、この中華に名を残します。天下の大将軍として。――貴方のもとで、人生を賭して」

 

 瓜二つの己を、王の身代わりに、と。

 たった三人きりしかいない薄暗い部屋で、残酷な提案をした大王と昌文君を真っ直ぐ見上げ、漂は笑った。

 

 下僕として生き、いつか下僕の女を妻にして、我が子も下僕となるなんて、決まり切った道行きが受け入れられなかった。小さな村の一角で、汚い小屋で無為に老いて死んでいく未来が許せなかった。

 昌文君の言った通り、これは千載一遇の好機である。もとより戸籍すらない身だ、賭けるものなどこの頑健な体と命以外何もない。

 そのためなら、漂は命を尽くしてこの薄弱の王を助け、修羅の道を行くだろう。

 

 いずれ追いついてくる信と共に、天下に辿り着く。そのために。

 

 ――次の瞬間。

 

「話は聞かせて頂いた!」

 

 ばぁーん!と盛大に扉が開く音が聞こえて、そこにいた三人全員がぎょっと肩を跳ねさせた。

 

 仮にも国のトップが密談をしている部屋へ乱入するなど、とんでもない暴挙である。

 突然の闖入者に目を剥いたのは昌文君で、これまでの冷静な官吏の表情をがらりと塗り替えて片膝を立てる。

 

「蓮伽様、何故ここに……!」

 

 昌文君が呼んだ名に、漂は一拍置いて少女の立場を悟った。

 村からの道中、一度だけ、昌文君の口から聞いた名だ――漂が仕えることになる大王の、たった一人の実妹の名前。

 

「全く蓮伽、お前はまた……」

 

 兄妹仲は良いとだけ聞いていたが、この姫君は随分お転婆のようだった。大王は一瞬の驚きが去った後は、妹を叱り飛ばすでもなく呆れたような眼差しを向けるばかりだし、昌文君は胃が痛そうに顔を引きつらせている。

 

 影武者のことは妹にも知らせていなかったのだろう。追い出すべきかと昌文君が咄嗟に腰を浮かせかけ、しかし判断に迷って大王を見た。

 

 内々の話であるはずの計画に悪びれない顔で首を突っ込んできた妹に、仕方のないものを見るような目をして、大王が軽く溜息をついた。

 そのまま、大王に彼女を止める様子はない。主が容認したのを察して、昌文君が渋々顔をしかめ、ゆっくりと腰を落ち着け直す。

 

 お付きもつけずに堂々と入ってきた王妹は、「お邪魔いたします」と宣言しながら部屋の真ん中へと歩いてくる。

 その全身がようやく灯りの範囲内に入って、彼女の顔をはっきりと認識した漂は、思わず息を呑んでいた。

 

 ――これほどに美しい少女を見たのは初めてだった。

 

 ふわりふわりと、足取りさえ可憐な少女から、見開いた目を離せない。

 

 羞花閉月とはまさにこのことか。風にも折れそうな柳腰に、手入れの行き届いた豊かな黒髪が美しい。

 黒真珠のように深く輝く双眸は、迷いも恐れもなく澄み切って。白百合と見紛う雪膚に、蛾眉が美しい弧を描く。

 あのぽってりと赤い花唇に耳元で恋を囁かれたら、どんな男でも心を奪われてしまうだろう、と思ったところで、下僕上がりの自分がそんなことを考えることさえ恐れ多いような気がして、膝に乗せた手が微かに震えた。

 

 小さな村の下僕の身ではあったが、美人と称される女を見たことは幾度かあった。城に来てからは、美しい女官を遠目に幾人も見かけていた。いつか出世して高貴な美女を妻に迎えるのだと笑う友と、思う限りの「美しい妻」を想像に描いてみたこともある。

 しかし今、漂の目にこの少女は、これまで見てきたいずれの女も――或いは、漂の想像の及ぶいかなる美女も及ばないほどの美少女に映っていた。

 

 あまつさえ、そんな少女が己の目の前で足を止めたのを理解して、漂はとうとう呼吸さえ停止する。

 見上げたそこに、自分を見据えて目を細める妹姫の微笑があって、急激に顔に血が上った。

 

「政兄上は貴方を信用すると仰る。ならば私も一枚噛みたい」

 

 先程よりずっと落ち着いた声音は、年に見合わぬ理知の気配に研ぎ澄まされていた。

 漂よりいくつも年下だろう、小さく幼げなその少女は、遠い遠い何かを見晴るかすように、うっそりと笑った。

 

「――私と賭けをしよう、漂」

 

 ……こく、と。

 唾を呑んだのは無意識だった。

 

 ちらりと大王を見る。上座に座した自分と同じ顔の大王は、口を噤んで足を崩し、妹の横顔を静観していた。

 

「――賭けとは、如何なるものにございましょうか」

 

 しばらく迷って、漂は低い声で質問を返した。

 

 命令ではなく賭けと言うからには、即断で是と応えねばならない類いのものではないだろう。

 この小さな王妹は、漂に『何か』を見出して、今、目の前に現れた。

 意図の読めない微笑を湛えて漂を見下ろしていた王妹――蓮伽が、漂の方へと両手を伸ばす。

 その白い手が自分に優しく触れたことを、漂は頰から伝わる感触で知った。

 びく、と体が跳ねかけて、無礼があってはならぬと慌てて身を強張らせる。

 

「単純な話だよ。万が一のための話。昌文君が、『万が一』のために貴方を影武者にしたのと同じこと」

 

 意外にも、その口調は砕けていて、漂の緊張を僅かに解く。

 囁く声だけは優しげに、弧を描いた双眸が漂を見つめていた。

 きゅう、と吊り上がった口端が、白い歯を零して言葉を紡いだ。

 

「政兄上は、これから成蟜兄様に命を狙われる。策を練り、昌文君が従い、貴方という影武者を作り、それでも死ぬかも知れない。

 だから、賭けをしよう。もしも力及ばず政兄上が死に、その時貴方が生き延びていたならば――――貴方に、次の『政兄上』になって欲しい」

 

 ――その言葉の意味を、漂は一瞬、噛み砕けなくて。

 

 

 ――――ぞわっ!

 

 

 数秒置いて理解した瞬間、漂の背筋を猛烈な寒気が駆け抜けた。

 

 少女の手を振り払って、蒼白になった顔で勢いよく大王の方を見る。

 驚愕を露わにして、縋るように己を見てきた漂に、上座で胡座に頬杖をついていた大王は何も言わなかった。

 漂と同じように愕然としているのは昌文君だけで、当の大王は、今まさに己の死後の後釜を決定した妹を、庭で餌をつつく雀を見るような淡々とした表情で眺めている。

 

 助けを求めるような漂と目が合って、大王はほんの少し、片目を眇めてみせる。

 漂に助け船を出すことも、ましてや叛意を疑われてもおかしくない妹の宣告を咎めることもない大王の反応に、漂は細い息を洩らし、血の気の引いた顔でゆっくりと王妹へと向き直った。

 びっしりと冷や汗の浮いた背中が、衣服を湿らせて気持ちが悪い。しかし、ここで答えを間違えば、たちまち自分の首が飛ぶのではないかと思えば、少年は震える喉から必死に声を絞り出した。

 

「あ……あの、王妹殿下……それは一体、どういった意味なのでしょうか。恐れ多くも、貴女のお言葉は、まるで……大王亡き後、私が次の『王』として、その代わりを務めよと、言われているように聞こえますが」

「うん? その通りだよ」

「…………!」

 

 にこりと笑ってそう言われ、漂の顔はいよいよ血の気が引いた。

 

「お許しください! そのようなこと、俺は夢にも――!」

「落ち着け、漂」

 

 もはや死人と見紛う顔色で頭を床に叩きつけようとした漂を掣肘したのは、ようやく口を開いた大王の声だった。

 

「ここで蓮伽の提案にお前がどう答えようと、お前も蓮伽も罰することはないと、この俺が約そう。だから、まずはそれの話を最後まで聞け。――蓮伽、丁寧に分かりやすく述べろ。お前の言う『賭け』とは、俺が成蟜に敗死するか否か、だな?」

「うん」

 

 あまりにも際どすぎる想定について、兄妹は平然と話している。

 幼少期に揃って仲良く辛酸を舐めたが故の諦観と達観と信頼が基盤になった態度だが、そんなことを知らない漂は異次元の存在を見る目で、おおらかすぎる大王と開けっぴろげすぎる王妹を見つめた。

 こちらも会話について行けなくて息を潜めている昌文君が、「頭痛が痛い」という顔で虚空を眺めていた。

 

「政兄上が成蟜兄様に殺された場合、政兄上の死は隠匿し、代わりに漂を『嬴政』として王座を奪還してもらう。それが叶った暁には、漂には申し訳ないけど、軍での立身出世も、村に置いてきたお友達との再会も諦めて、秦国大王嬴政として、この国を守り、治めてもらう。

 学問も、治世も、権謀術数も、王としての嗜みも、何もかも、私か昌文君、或いは私たちの信頼する誰かが教える。

 ――過去も、未来も、夢も捨てて、政兄上の『予備』として、『政兄上』に成ってもらう」

 

 ――それは、おぞましい宣告だった。

 

 それはつまり、大王と影武者を入れ替えるということだ。

 蓮伽の示す賭けに負けたら最後、漂は漂としての人生全てを塗り潰される。

 大将軍として、友と共にこの名を中華に轟かせる――そんな夢は未来永劫失われ、代わりに与えられるのは、死した人間の歩むはずだった道を代わりになぞる代替の人生。

 たとえ、いつの日か友が立派な兵士となって己の前に現れたとしても、漂はもう、友と再会を喜び合うこともできない。立派な玉座の上から『秦国大王』として、今の大王と同じ表情で友を見下ろすことしかできないのだ。

 

「賭けの期間は、兄上と成蟜兄様との決着がつくまで。私の払う賭け金は――まあ、貴方を勝たせる努力をすること、かな」

 

 そして自分の勝利条件は、自分と大王が二人とも生き残ること――か。

 

 漂はがたがたと己の手が震えていることに気付いた。右手で左手を強く掴むが、震えを止めることはできなかった。

 大王が深々と溜息をついた。

 

「相変わらず、臆病なほどに用心深い……いや、計算高いというべきか。お前自らがそこまで動かずとも、たとえ俺が成蟜に殺されたところで、お前の安全は約束されているだろうに」

「それとこれとは別問題だよ。成蟜兄様は嫌いじゃないけど、成蟜兄様を王にさせるわけにはいかない」

「理由は?」

「自分より下位の人間を問答無用で見下す人を頂点に置きたくない。万一成蟜兄様が王位についたりしたら、秦国内の人間は一人残らず兄様より『下』になるんだよ? まともに臣下の意見も聞いてくれない、理不尽な処刑に躊躇が皆無な最高権力者とか怖すぎるじゃない。

 なおかつ、その欠点を相殺できるだけの長所も人望も信念も、今の兄様にはない。呂不韋は潜在的どころかあからさまに敵だし、王騎将軍は一線を退いてるし、母様は論外。他国の侵攻や反乱で国が割れるのが落ち」

 

 大王と、ついでに昌文君が、確かにそうだな、という顔をした。

 聞くからに、この戦国乱世を乗り切っていけそうにない王だ。兄様などとは呼んでいても、王弟の実年齢は王妹よりも下だというから、知識も経験も武勲も期待できない。ついでに、あんまり優秀な人材に慕われそうにない。

 

 王妹までもが不穏なこと――例えば漂を操り人形にして政から王座を簒奪するとか――を考えているわけではないと分かって、漂の混乱が少しだけ収まる。

 その頭に、蓮伽がぽんと手を置いた。

 

「まあ、どの道、この賭けは受けるしかないと思うよ。だって貴方、どう考えても政兄上のもと以外では出世できないもの。兄上が死んだら、大将軍どころか下っ端兵士にだってなれるか怪しいよ」

「えっ」

 

 悲惨な予言をされて、漂の声が引きつった。

 

「あの、それは、下僕だからというのではなく……?」

「兄上に仕官した時点で戸籍できてるし、下僕身分は脱してるよ。もっと単純な話」

 

 分からない?と蓮伽が漂の顔を覗き込んでくる。

 黒真珠のような瞳に己の姿が映って、落ち着きかけていた心臓がまた跳ねる。

 ぶわっと血が上った頭を急いで宥めながら、漂は少女を見て、上座にいる大王を見て、それから眉を寄せた。

 

「……私が、陛下に似ているからですか?」

「正解」

 

 蓮伽がぴょんと身を起こし、可愛らしく小首を傾げてみせた。愛くるしい小動物のような仕草だが、巡らされる思考の糸は全く可愛くない。

 

「貴方が、兄上以外の下につくと仮定してみようか。

 まず、成蟜兄様。これは論外だね。あの人は政兄上を蛇蝎の如く嫌っていて、ついでに下々の者も大嫌い。下僕上がりで、兄上に瓜二つな人間の存在なんて知れば、扱いは――まあ、下僕の生活が極楽に思えるくらいにいびられて、一生飼い殺しにされるだけならマシな方かな?」

 

 或いは、成蟜の飼っているゴリラの変異体みたいな怪人――ランカイあたりに、余興がてら頭を叩き潰されるか、だ。

 そんなにやばいのかと言いたげな漂の顔を見ながら、蓮伽はそう考える。

 多分あの人、「下民出身の人間が真摯な努力と才能で成功を掴んだのがムカついた」とかいう理由でランカイけしかけるタイプだと思うんだよなぁ。偏見だけど、そのうちマジでやりそうな気がする。

 

「それから丞相の呂不韋、これも駄目。王位を狙ってる野心家だし、私たちの母様――太后の昔の恋人で、しかも未だに通じてるネジの外れた男だから、政兄上そっくりの人間なんて、骨の髄まで利用され尽くして終わり」

 

 さらりと突っ込まれたやばい情報に、漂と、ついでに昌文君が目を剥いた。

 大王も流石にぱちくりと瞬きをして口を挟む。

 

「確かか」

「うん。こっそり会ってるの見たし、手紙のやり取りしてるのも知ってるもん」

「それはつまり、母上が呂不韋と姦通しているということか?」

「まだそこまではいかないけど、その気になれば一瞬で『姦通』に至れる程度には関係保ってるよ。母様、異性との愛欲で狂う性質だし」

 

 性欲も強いし、と付け加えられて、昌文君がわざとらしく「ウォッホンゲホン!」と咳き込んだ。お姫様がそんなこと言うもんじゃありません。

 

「母様はかなりの身勝手でも通じるような地位と権力があるし、私や兄上には今でも大きな影響力を持ってる。使えると思えば、呂不韋は太后相手だろうと手を出すし、利用するし、時が来れば何の躊躇もなく切り捨てる人間だよ。

 そんな男が、政兄上に瓜二つの漂を放置することも、ただの兵として重用することもあり得ない。政兄上を暗殺して、漂を『大王』として自分に都合のいい木偶人形に仕立てるか、人質として他国にやるか……まあ、いざとなれば全責任を『全部こいつがやりました』で偽大王に押し付けて知らぬ存ぜぬを突き通せるんだもの、使い道はいくらでもある」

「は、い……分かります」

 

 次々と繰り広げられるどす黒い未来予想図に、漂は青ざめて頷いた。

 

「なら、他国に士官に行くかと言えば、それも駄目。目立った功績もないただの少年じゃ、大した所には採用されないし、下手に『大した所』に関わっちゃえば、それこそ『秦国大王』の顔を知っている人間がいかねない。私と兄上は昔、他国に住んでたことがあるから、顔を覚えてる人がいる可能性もあるしね。となれば、一生顔を隠して生きていくしかない」

「それでは、碌に戦場に出ることもできまいな。常に兜を被っていられる地位になってからならまだしも、一番下からの叩き上げなら厳しかろう」

 

 あっさりと大王が言って、王妹は肩を竦めてみせた。

 

「まあつまり、漂が将として出世したいなら、政兄上のもとでしかあり得ないってこと。分かった?」

「……はい」

 

 漂は悄然と頷いた。

 つまり、この顔を持って生まれてしまった時点で、漂が生きて選べる道は自動的に三択しかないということだ。

 

 目の前の大王に仕え、兵士として身を立てるか。

 夢を諦めて人目につかない田舎に引っ込み、ただの民として細々と生きるか。

 蓮伽との賭けに敗北し、『漂』を捨てて『大王』に成るか。

 

 元より、既にこの大王の臣として仕える覚悟ではあったが、状況は予想外に混迷しているようだった。

 考え込む漂の向こうから、昌文君が恐る恐る口を開いた。

 

「……その、蓮伽様。ちなみに、大王様が亡くなられた後、漂を立てて大王にするにも、まず王座を奪還せねばならないと思うのですが……その点はどうなさるおつもりで?」

「んんん、その辺はまだ詰めてないけど……成蟜兄様が王になれば、呂不韋が好機と見て動き出すだろうし、まずはその二人に潰し合ってもらうかな。その場合は王騎将軍あたりに内々で話を通しておきたいけど、今のとこはまだそこまで分からないや。あと、できたら反乱の情報を趙あたりに流して、状況を混乱させられれば」

「趙を引き込むのか?」

「ううん、引き込まない。ただ、趙がちょっかいを出してきて、二人が()()()()()()()()()()()()状況を作れればいいかなあ、とは思ってるよ。()()()()()時、『犯人は趙かも』って疑惑が出る程度でいいの。あそこ李牧さんとかいるし、多少不可解なことが起きても『やりそう』って思ってもらえそうだから」

 

 えげつない。

 

 嫌いでないと言った異母兄と、母親の愛人を暗殺する計画を粛々と立てていながら、平然と笑うクソ度胸。

 女たちの戦場である後宮は、宮廷に劣らず人の欲望と権謀術数が渦巻く毒沼だ。そして彼女は王の妻でこそないが、後宮で一大勢力を築き上げている太后の娘として、太后の最も近くでその泳ぎ方を学んできた。その分、男にはない視点と容赦のなさを身につけている。

 

「まあ、他国を利用する計画は本当に危険がありすぎるから、兄上が何とかしてくれるのが一番いいんだけどね。私のやり方じゃ、国境が狭まりそう」

「ああ、最終手段にしておけ。お前は周囲が考えているほど馬鹿ではないが、戦略を立てるには向いていない」

「軍略囲碁も兄上に負け負けだもんね」

「待ったを二十回くれてやっても、一向に優勢にならなかったな」

「二十回も待ってくれるような優しい兄上なんて、私の他には中華の誰も持っていないだろうね。後でもう一戦やらない?」

「今日は予定が詰まっているから待ったはなしだ」

「即殺宣言じゃない!」

 

 仲良く軽口を叩き合う兄妹は、もう不穏な会話など忘れたかのようだ。

 

 自分の人生を握っている二人の王族の端正な顔を、漂はぼんやりと見上げた。

 この人たちの目に映っているものを理解できる日が果たして来るのだろうか、と思う。

 

「――ところで話をさっきの賭けに戻すけど、結局どう? 乗る? 反る?」

 

 ぐるんと王妹がこちらを向いて、漂はびくっと震えた。

 

「断って欲しくはないけど、兄上に仕えると決めたばかりだし、重い話だってことは分かってるからね。覚悟を決める時間なら、多少はあげてもいいと思ってるけど」

「……いえ、必要ありません」

 

 小首を傾げて告げる少女に、漂は溜息をついてそう答えた。

 

 丁寧に逃げ道を潰されたこともあるが、彼女もまた大王と同じく、彼女なりに国のことを考えているようだった。

 大王と昌文君が「万が一」に備えるように、彼女も「万が一」を考える。考えて考えて、国のための最善の策を打った結果が漂ならば、己が余程の無能を晒さぬ限り、勝ち筋は掴んでみせるだろう。

 

 もとより大王のために賭けると決めた命だ。もう一つ、この名を賭け金にしたところで、過ぎるということはない。

 二人が二人とも生きて帰れば、それで話はおしまいなのだ。大王を生かしたい漂の信念に、彼女の策は相反しない。

 

「俺は――――」

 

 腹を決めた答えを吐き出せば、大王は静かに目を細め、昌文君は深々と疲れたような溜息をついて。

 

 そうして、幼い王妹は満足げに笑っていた。今までで一番美しい、咲き溢れる花のような笑顔で。

 

 ――その笑顔を目に焼き付けながら、ふと、漂は思う。

 

 もしも、来て欲しくない「万が一」の「万が一」が来たとして。

 主君も、友との未来も、名前すら失った漂の傍に、それでも彼女だけは漂の名前を記憶に刻んで、美しい微笑と共に寄り添ってくれるのだとしたら。

 

 嗚呼、それは何て――――

 

 

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