その日の後宮は、ひそひそと浮ついた囁き声で満ちていた。
可愛らしい仔猫のように幼気な蓮伽姫に、
蓮伽は解答の時間を区切らなかった。誰に知恵を借りても良いと言われた女官長は、同僚に聞いたがやはり分からないまま。
そうして三日も経った頃には、もう城の誰もがその謎かけの内容を知っていた。
女官ばかりか、警備の兵や宦官たちも首を傾げている。
皆が答えを知りたがり、中には仕事ついでにと直接蓮伽に聞きに行った女官もいるようだが、どうにも蓮伽は誰かが正解しない限り、答えを言う気はないようだった。
「『水』ではないの?」
「勿論、夫人が真っ先にそう言ったって」
「でも、姫様は違うと仰ったのね」
ひそひそ言い交わす若い女官たちを、女官長は通り過ぎざまにじろりと睨みつけた。ひぇっと跳ねた女官たちが慌てて澄ました顔を作り、いそいそと仕事に戻り出す。
――全く、腹立たしいこと。
内心愚痴る女官長は、なかなかに矜持を傷つけられていた。
蓮伽に出された謎はあまりに簡潔すぎて、どこを弄っても並べ替えても意味が分からない。漢字を用いた頓智でも言葉遊びでもない。あまりに単純な答えに馬鹿にされているのかと思ったら、それは正解ではないという。
同室していた若い女官が触れ回ったのだろう、噂は火がついたように広まって、誰もが謎かけについて話し合っている。
ついでに、今日も蓮伽は成蟜に謁見願いを出し、女官長は不機嫌な王弟の前で、もう何十回目かになる口上と伝言を述べることになった。
もういっそ誰でもいいから謎を解いてくれたなら、自分から金一封を出してやってもいい、と彼女は思った。
あのいつ「こいつを処刑しろ」と言い出すかも知れない不機嫌な王弟の前に出ないで済むなら、誰だって両手を上げて喜ぶだろう。何より、あの訳の分からない謎に「正解」なんて本当にあるのか、女官長は気になって仕方がなかったのだ。
厨房に行って、蓮伽のための昼餉を受け取る。
油で揚げた茶色い
仮にも虜囚のものとは思えない、上等の食材で丁寧に作られた料理の並んだ盆を確認し、持っていこうとしたところに、料理人の一人が飛んできた。
「――夫人、夫人! ちょっと良いですかな!」
「何ですか、手短にお願いいたします」
見て分からんのかと言いたげに盆をちょっと持ち上げてみせた夫人は、しかし次に続いた言葉に目を見開いた。
「下働きの一人が、あの謎の答えが分かったというんですよ。良かったら、姫君にお伝えしてやってくれませんかな!」
――そうして蓮伽の部屋に連れてこられたのは、薄汚れた格好をし、頭巾や手袋で神経質なほどに素肌を隠した娘だった。
十にもならない頃から厨房で下働きとして働いている、まだ若い娘だと言う。
嫁入りが近く、つい半年前にその準備のために田舎に帰っていたはずだったが、そこで火事に巻き込まれ、全身に火傷を負った。そのせいで嫁入りの話もなかったことになり、家は自分を養えるほど裕福ではないから、このまま厨房で雇ってもらえないか――とのことで、最近になって出戻りしてきたそうだ。
「お目汚しになりますので、顔はご覧にならない方がよろしゅうございます。蓮伽様が、謎が解けた者がいたらきっと連れてきて欲しい、などと仰っていなければ、御前に上がることも許されなかった身分の者でございますので」
田舎育ちで体格が良く、力もあるし、下働きなら醜い容姿も人目につかない。頭巾の下から確かに覗くひどい火傷の痕に、哀れみから受け入れられた娘だそうだ。
謎解きができた知恵者なら、是非お話をさせて欲しい。そう蓮伽が約束させていなければ、女官長とて娘を連れてはこなかっただろう。
娘自身、気が進まないようで恐ろしげに縮こまってはいたが、如何せんその「約束」も謎と一緒にすっかり広まっていたもので、貴人の言いつけを破ることなどできなかったのだ。
「そうなの。じゃあまず、あなたの見つけた答えを聞かせてもらっていいかしら?」
昼餉を綺麗に食べ終えて、食後のお茶を飲みながら。
女官長の言葉を聞いていた蓮伽が、にこにこと楽しそうに彼女の背後を見る。
そこに佇む、幾分がっちりした体格の娘が頷いたのを確認して、少女は期待に満ちた声で謎を紡いだ。
「では問うわよ。――
『
娘が返した答えは、煙と火傷で喉も駄目にして碌に声が出ないということで、紙に書かれていた。
つい先程、厨房で初めて挨拶をした時、女官長が聞いた娘の声は、女のものとはとても思えぬ、低くてがさついた声だった。
地声が甲高い女官長だったら、それこそ発するだけでも喉を痛めそうな哀れな声。そんなものを他人の耳に入れるのも失礼だというので、この娘には職場でもこの部屋でも、特別に筆談が許されている。
決して綺麗とは言えない文字を読んで、蓮伽は花が咲くように笑った。
「正解よ。ああ、あなた、とっても素敵ね!」
手を叩いて喜ぶ蓮伽に、女官長はほっと息を吐き出した。
同時に、悔しいがひどく感心する。
城中の人間が頭を悩ませたこの謎かけを考え出した蓮伽も見事だが、あっさり答えた娘も娘だ。簡潔にして自然、考えれば考えるほど、これ以外に答えはないと思えてくる。厨房でこの答えを聞いた(読んだ)誰もが息を呑んで、感嘆の声を洩らしたものだ。
見ていると、案の定、蓮伽は娘が気に入ったようで、娘を手招きして、懐っこい仔猫のように名前を聞いている。
娘がおどおどと筆談で応えるのをしばらく眺めてから、女官長は「蓮伽様、今日はそのあたりに」と助け舟を出した。
「礼儀も碌に弁えぬ田舎娘でございます。あまりそのように聞かれては、萎縮してしまいましょう」
「ええ、でも夫人、私、是非この子ともっと謎解き遊びをしたいわ。この子、近所のおばあちゃんから色んな面白い話を聞いたことがあるんですって。私、田舎に伝わる物語も気になるの」
「なりません。……どうしてもと言うなら、明日以降になされませ。その時はその娘にも、もっとましな格好をさせておきます」
溜息混じりに告げた言葉に、蓮伽は顔を輝かせた。
「本当!? 明日も呼んでいいの?」
「仕方がありません。その代わり、お約束の方は覚えていらっしゃいましょうね? 謎を解くのは誰でもいいとのことでしたよ」
「はぁい……仕方ないわ、成蟜兄様にお願いをするのは、しばらくやめておきます」
もっと時間を稼げると思っていたのになぁ、と唇を尖らせる蓮伽に「それは残念でございましたね」と言って、女官長は娘に退室するよう促した。
――娘を蓮伽に会わせることについては、蓮伽が昼餉を食べている間に成蟜にお伺いを立ててあった。
成蟜が駄目と言ったら勿論謁見は中止になる予定だったが、彼は妹に謁見する人間が、見るも無残な姿になって嫁入り話もなくした下働きの娘だと聞くと、いくらか警戒心をなくしたようだった。
――もしも蓮伽が気に入るようなら、その女を話し相手に付けてやれ。あれも随分閉じこもり切りだ、卑しい女でも無聊を慰める程度の役には立つだろう。
娘がほとんど声を発せず、唖に近いということもあるのだろう。会話に使った紙は全て回収するようにとの御達しをつけて、娘は蓮伽に引き合わせられた。
心なしか早足で退室していく娘の背中を残念そうに見送って、蓮伽が女官長を見上げる。
「じゃあ明日、またあの子を呼んで頂戴ね。それはそうと、ねえ夫人、今日も謎解き遊びをしない? 面白い謎かけがあるのを思い出したの」
「いたしません。折角大人しくしてくださるというお約束を頂いたのですから、それを無かったことにしようと思っても乗りませんよ」
「けち」
ぷうと膨れる少女に澄ました顔で笑って、女官長は自身も退室するために一礼した。