一日にして厨房の下っ端から姫君の話相手にまで昇格した「新米女官」が淹れたお茶を、蓮伽はゆっくりと口にして、そしてにこりと微笑んだ。
「――で、どう? 表の様子は」
「随分騒がしいようでした。なんでも、三千ほどと思われる奇妙な仮面と鎧の軍勢が咸陽に向かってくるのが確認されたとのことで、高官たちが対応に当たっているようです」
顔を隠す頭巾の下から答えたのは、明らかに男物の、しかし掠れてもしゃがれてもいない落ち着いた声。すっかり手傷を癒やした後、少年らしい頑強な身体を火傷の偽装と布で覆い、新米女官のフリをして蓮伽のもとへと潜り込んだ漂の姿であった。
きりりと目元を引き締めて佇む少年を前に、美しい黒髪をさらりと流して蓮伽が小首を傾げる。
「ふうん……奇妙な格好ってことは、状況から見て山民族かな」
「ご存じなのですか?」
「うん、昔私たちの国が山の民の信頼を裏切ったことを、政兄上は随分気にしていたから。兄上の派閥はどうしても武力が足りないし、いつか自分が山の民との同盟を復活させたいって言ってたことがあるの」
漂もお菓子食べなよ、と勧められて、漂は恐る恐る椅子に座った。余人の目がない時にお茶に誘われるのは毎回のことだが、上等な椅子と上等な菓子を前にすると、貴人の礼儀が分からないことに気後れする。
蓮伽が上品に齧っている
『――雪が溶けたら何になる?』
以前、女官長相手に蓮伽が発したあの謎かけは、ある二人の人間に対する合図だった。
数年来の付き合いである女官長が、どんな問題を得意とし、どんな思考回路をしているか、蓮伽はおおよそ把握していた。
高い教養ゆえに詩歌や古事への造詣こそ深いが、現代的に言えばその実生粋の理系人間である女官長が、あの謎かけを自力で解けないことは分かっていた。優れた才ある詩人などは別として、理論理屈で解析できない、既定路線の壁を崩すような閃きを、
故に蓮伽は予め、二人の人間にだけこの謎と解答をセットで教えておいた。
一人は漂。そしてもう一人は、兄すら顔を知らない、彼女自身の手駒である。
まず、漂。
彼は故郷の村で成蟜の兵士たちに「死体」を確認させた後、蓮伽の手駒によって保護されていた。
無事に仮死状態から目覚め、手駒から状況を説明された彼は、傷が癒えると同時に結婚による退職が決まっていた下働きの娘――本人は何も知らないまま、普通に退職を済ませたと思い込んでいる――とすり替わって、後宮の厨房に潜入。重度の火傷を装って顔を隠し、女であれば出すのも苦労するようなひどい低音の嗄れ声を作って、人との関わりを最低限に保った。
そうして、女官長によって広められた蓮伽の「謎かけ」が耳に入るのを待ち、その謎を解いてみせることで、「ちょっと頓智がきく田舎娘」として蓮伽のもとに誘導されることができたというわけだ。
誰にも答えられない謎でなければ、城中に広まらず、目的の人間の耳に入らない。
同時に、特異な知識が必要なく、閃き一つで誰もが辿り着き得る解答でなければ、符丁としては使えない。
しかしそれさえクリアすれば、漂は不自然なく蓮伽のもとに辿り着ける。
唯一の不安要素は政の間諜に目を光らせている成蟜だったが、すり替わる前の人間が、何年も勤めている田舎娘だということが彼の警戒を解いたようだった。
更に彼は、「底辺の人間が運と努力と才能で這い上がってくる」ことを蛇蝎の如く嫌うが、「底辺の人間が身の丈に合った哀れな人生を必死で送っている」ことに対しては、嘲笑を通り越して興味すら持たない。つまり「全身火傷で結婚の話までなくした下働きの田舎娘」など、一つ鼻を鳴らして意識の外に放り出す。
一方で、懐に入れた人間――例えば弱くて可愛い妹や、惜しみない恋慕を向けてくる妻など――にはそこそこ寛大な側面もあるため、日々しつこく嘆願を繰り返していた妹が、新しい玩具を与えることで多少の気晴らしをできるなら、容認するのも吝かではないと考えるだろう。筆談でしか話ができぬというのなら、会話に使った紙を全て回収してしまえば、余計なことを吹き込んでいないか確かめることは容易いからだ。
「兄上がやって来るなら、決着はもうすぐだね」
「城には八万の兵が集まっております。大王の手勢は城に辿り着けるでしょうか?」
「そりゃ全軍を入城させるのは難しいだろうけど、搦手なら兄上はいくらでも思いつくよ。兄上の軍勢が禁城に入り次第、漂は速やかに私の所で待機してね」
「御意にございます」
ニコニコ告げる少女に頭を下げながら、自分の次の命の賭けどころがあるならその時になるだろう、と漂は察していた。蓮伽の部屋に武器は持ち込めないし、女官などの邪魔な人間が居合わせる可能性もある。けれどそこで勝てないようなら、この大王と王妹にはついていけないのだろう。
蓮伽も政も、人の血筋に拘りがない。そうでなければ、生まれも知れぬ下僕に過ぎない漂を、最終手段とは言え政の代替品にしようなどとは考えない。漂が命と人生を賭ける主君は、漂が献身を示せば必ず報いる人たちだと信じていた。
「――成蟜兄様には間違っても近付かないように。あの人とは政兄上がけじめをつけるから」
「はい」
頷く漂を確認し、蓮伽は麻花をつまみ上げた。生地を捻って揚げた棒状の菓子は、確か成蟜の好物でもあったはずだ。
――あの人も、もう少し柔軟になれば人望と賞賛を得ることもできただろうに。
いつもどこかを睨みつけるような眼差しをしていた年下の兄を思い出し、蓮伽は小さく溜息をついた。
王になるためだけに王を目指した少年だった。王になった先に、彼は何も見ていなかった。
彼の肥大した自尊心は、両親の血筋が導くままに己を大王の地位に置くこと以外を考えられなかったし、ましてや卑しい血を引く政が自分より上の椅子に座ることなど受け入れられなかった。
妄執の如き王座への渇望は、政が後継に指名されたことにより業火となった。
かつて、王位第一継承者とみなされていた成蟜に見苦しいほどへりくだっていた高官たちが、先王の決定を知るや一瞬で手のひらを返し、冷ややかな目で成蟜を見下ろしたあの日。
引き止める声に悪口雑言だけを返され、広い庭に置き去りにされて茫然と佇む幼い少年の姿を蓮伽が見ていたと、生涯誰にも言うつもりはない。
蓮伽は麻花を口に入れ、バキ、と力を込めて噛み砕いた。
(兄弟としては、嫌いじゃあないんだけど)
でも、絆すだけ絆して成蟜のために何かをしてやろうとは思わない自分は、結局成蟜よりも冷たい人間なのだろうと、蓮伽は自覚している。
※※※
僅かな手勢と楊端和率いる山民族と共に無傷で城門を突破した後、中央の広場で剣を振るっていた政の視界に、本殿の方から逃げるように――否、実際に信たちから逃げ出して転がり出てきた成蟜の姿が入った時、ほんの一瞬己の胸に過ぎったのが積もり積もった憤怒だったのか、明確に見えた終焉への安堵だったのか、政自身にも分からなかった。
玉座にこだわる成蟜が玉座から離れたというならば、城内で何が起きたのかは想像に難くない。
真っ先にけしかけただろうランカイも、成蟜についた竭丞相も、既に無力化されたのだろう。彼ら無き成蟜に力は皆無。ならば、後の作業は後詰めだけ。
――政は、中華の唯一王になる。
中華統一。祖父昭王が描いた夢。
数十年前、偉大な王のもとで数多の英傑たちが目指し、そして叶えられなかった夢を、己の手で現実にすることを、政はもうずっと前から決めている。
母と妹と共に、趙国で泥を啜るような暮らしを味わった。政の命を救い、心を守って死んだ女商人の紫夏は、趙兵によって殺された。
政は中華の唯一王になる。政がそうすることで、殺し合いの果てに血の涙を流す者が、いつかいなくなるのだと信じている。
だからそのために、政は今、王座に戻る。今更「場を濁しに来た」王騎に、覚悟を問われるまでもない。
「貴方様はどのような王を目指しておられます?」
数多の兵を率いて現れ、馬上の魏興を一刀のもとに斬り捨てた王騎が、成蟜の軍勢を牽制しながら笑っていた。不遜な答えを許さぬと、これ見よがしに巨大な宝刀を携えた大男を、政は真っ黒い目でじいと見上げる。
「中華の唯一王」
即答した政に周囲がざわめくが、告げる言葉に迷いはない。
中華を一つに。歴史に暴君と名を刻まれ、なおこの争乱に終止符を打つために、政は争乱と血風の中に身を浸す。
「俺は、中華を統一する最初の王となる」
――中華統一したら、各国の食材や料理が沢山流通するだろうね。私も頑張って働くからさ、そしたら兄上、王様権限で一杯美味しいもの食べさせてね。
唯一王など所詮は夢だと嘲笑することなど一度もなく、ニコニコ笑顔で呑気なことを宣う妹の顔が政の脳裏に思い浮かんだ。
たとえ自分の名が歴史に暴君と刻まれようとも、暗君となることはないだろう。自分が真実堕落した時、迷わずこの首を掻き切ってくれる人間がいる。
その人間は、自分の最愛の家族で、最も信頼する妹だ。
戦場ではなく宮廷で、蜘蛛の糸のような策略を張り巡らせ、己と国と兄の未来に沿わぬものを平然と切り捨てる女怪の萌芽だ。
あの妹は漂との賭けが今回限りのようなことを言っていたが、あれほどの才を見せた少年の手綱を彼女が手放すはずもない。大王の「いざという時の予備」は、今回の争いを生き延びた。だから政は突き進める。政に刃を賭けると決めてくれた新たな味方と共に、かつて喪った女商人に誓った願いを目指して、なりふり構わず乱世を走り抜ける。
特徴的な厚い唇を吊り上げて、王騎がンフフ、と笑った。
「――大口を叩くなら、それに見合うだけの力をつけて欲しいものですねェ。弟ごときに手を焼いている場合じゃありませんよォ」
赤い
一応は認められたと思って良いのか。立ち去るかに見えた王騎は一歩踏み出しかけて、ふと、もう一度政を振り向いた。
「忘れていました。『彼女』に伝えて頂きたいことがあったんでしたねェ」
「彼女?」
首を傾げた政に王騎がまた笑い、名前は出さないまま短く言葉を告げる。それから今度こそ立ち去っていく大きな背中に、政がようやく息を吐き出した時、つんざくような悲鳴を上げた成蟜が何かから逃げるように政の前に飛び出してきた。
直後、兵士たちからどよめく声が上がる。広場に肥満した竭丞相の首を掲げたバジオウが駆け込んできた。一緒に走ってきた信が政を見て、生きていたかというようにニヤリと笑う。
(――なら、あとは俺がけじめをつけるだけか)
ふ、と気を引き締め直し、剣を手に歩み寄れば、同じく剣を持っている成蟜は悲鳴のように政の名を叫び、兵士たちに殺せと叫んだ。
――兵士たちは誰も動かなかった。
息を荒げる成蟜に政が近付いても、成蟜自身が剣を振るっても、政の剣が成蟜の手首を刺し貫いても。
誰も成蟜を守ろうとはしなかった。
「――成蟜、お前は少し、人の痛みを知れ」
いっそ哀れに思えるほど、最早成蟜は独りだった。
瞳孔の開いた目で弟を見下ろした政に、成蟜がヒッと息を呑む。ようやく拳の届く距離に捉えた弟目掛けて、政は固く握った右拳を振り抜いた。
ぎっ、と短い悲鳴。成蟜の顔面に拳がめり込んで重い音が上がる。一撃で顔の形が歪んだが、構わずそのまま馬乗りになり、左手も使って何度も殴り抜いた。
苦鳴と悲鳴がいつしか掠れた「ごめんなさい」に変わっても、誰も政を止めなかった。幾本も成蟜の歯が抜け、政の拳が血まみれになった頃、政は最後にもう一度拳を振り上げて、
「…………」
思い直して拳を下ろす。のっそりと成蟜から離れた政を、成り行きを見守る落ち着いた、或いは恐々とした幾百の目が追いかけた。
――見下すことしか知らぬ男だ。
生まれ持った血を全てだと盲信し、世を知らず、人を知らない愚かな弟だ。
けれどその愚かな弟は、政の妹を踏み躙ることはしなかった。
こうして追い詰められてもなお、彼女の存在を質に持ち出すことだけはしなかったから。
「……最後の一発は負けておいてやる」
もう聞こえていないだろう言葉を溜息と共に吐き捨てて、政はぐるりと周りを見回した。
「くだらぬことで血を流しすぎた! これ以上の流血は無用、全員の命を保障してやる故ただちに投降せよ! 必要最低限の犠牲をもって反乱の決着とする!」
政の宣言に、成蟜の兵士たちが一気にざわめいた。信がずかずか進み出て叫ぶ。
「聞こえなかったのか、とっとと武器捨てて投降しやがれ!」
ざわめきが見る見る大きくなる。疲れ切った政の兵士たちの顔に明るい色が差し、政は音を立てて剣を収めた。
「この戦、俺たちの勝利だァ!」
高らかに咆哮する信に応えて、兵士たちの雄叫びが禁城を揺るがす。血と泥に汚れた衣を翻し、政は再び己のものとなった玉座の間へと歩き出した。