アーサーのブティックは不思議な店だ。ただ貴重なものや古いものが並んでいる
だけじゃない。いま自分が最も欲しい、必要だと思っているものが見つかる。
形のないものだっていっぱいある。『心』や『証』、『残り香』や『涙の跡』も。
村はあっという間に落ち着きを取り戻した。これで大魔王の用意していた刺客は
もういない。だからあとは皆に任せてアーサーの店に行くと言ったら、シャークアイと
アニエスさんが突然抱きしめてきた。そして、私たちのことは気にしなくていいから
素晴らしい旅にしなさい、そう笑顔で送り出された。むこうもわかっているみたいだ。
ぼくと会うことはもうないという寂しい事実を。それでもぼくを行かせてくれる。
「・・・行ってきます。父さん、母さん」
男はいつか両親のもとから旅立たなくちゃならない。これまで何度も命を落とすかも
しれない危険な旅に出たけれど、今回はほんとうの帰らない旅になりそうだ。
どこから行こうか、そう思ったとき最初に思いついたのは『アーサーの店』だった。
「おっ・・・いらっしゃい。あれ、今日は一人なんだね」
「ええ、まあ・・・あなたの言いたいことはわかってます。マリベルでしょう?
実は彼女を探すための冒険の旅なんです。この店が開いていたらいいなあと
ぼんやりと思っていたらちょうど見つかったものですから」
アーサーの店の不思議なところの一つ目は、いつ営業しているかわからないということ。
場所は村の外れの人があまり寄りつかないあたり、昔ぼくとキーファが遊び場にしていた
あたりで決まっているのに、三日続けて店があったと思ったら一年以上来ない時もある。
移動式の店にしてはテントではないしっかりとした造りになっている。
「なるほど、だいたいの事情は察したよ。とりあえず飲み物でも飲んでいくといい」
「ありがとうございます。見慣れない商品が増えたからじっくりと見ていきますよ」
二つ目に、アーサーというのは店の主人の名前じゃない。ぼくに応対するこの人は
女性だ。かつての親友の名を店名に使っているとのことだ。主人と彼の時代はなんと
千年以上前で、ぼくが生まれるはずだったコスタールの世代より昔なのだから驚きだ。
そう、三つ目の不思議な理由として、この人はただの人間じゃない。普通の魔族や
モンスター人間よりも特別な、かつては魔王と呼ばれていたこともあった人だ。
「前回からだいぶ間が空いていましたからね・・・ハーゴンさん・・・いや、
あなたのほんとうの名前であるウオッカさんと呼ぶべきでした」
「どちらでも構わないよ。ハーゴンはわたしの父、ウオッカは母がそれぞれつけた
名前だ。どちらもわたしを表している名に違いはないのだから」
秘境ロンダルキアに住み、全世界に影響を持つモンスター人間の総帥であり、いまは
生き残った魔物たちを導くハーゴン。オルゴ・デミーラをはじめとした自分の後に
魔王として立ち上がった者たちとは距離を置き、力があるにもかかわらず人間と魔族の
戦いに干渉してこなかった。でもこの時代、ぼくたちに対しては違った。
「ハーゴンさんならマリベルの行き先がわかるかと思っていたのですが。マリベルが
一人で村に残ることになったときいろいろと世話をしてくれただけじゃない。その後
魔法の指導や世界の歴史を語ってくれた時間のおかげで退屈せずに済んだと本人が
言っています。三人の勇者たちに野望を阻まれ自分の時代が終わってからは人間と
積極的に近づこうとしなかったあなたが・・・なぜ?」
「ふふふ、約束してしまったからね、彼らと。君たちの子孫を必要な時に必ず助け、
君たちとしたように酒を飲んで語らい合うと。すでにマリベルとはやったから
あとは君だ。いま入れたのは酒だ、軽いものだから君でも安心して飲めるよ」
昔よりはお酒に強くなったのに、みんなまだぼくに酒を飲ませるのはどうかと
躊躇っている。ユバールの村での最初の夜の失敗をマリベルが大げさに話して
それが噂になって広がったせいだ。酔ったせいで普段ならありえない言葉を次々と
口にしたとだけ後から言われ、ぼくにもその程度の記憶しかない。ちなみにまだ
幼かったガボは泣きながら吐いていて、マリベルはいくら飲んでも酔わなかった。
でももう終わった過去の話だ。いま大事なのは気になる言葉を聞いたことだ。
「彼の子孫・・・あなたがいつも思い出話をするのはこの店の由来でもある
アーサー王子とその妹のことばかり。確かあなたが書いた本で彼は破壊神との
戦いで死んだと・・・まさかその前に子どもがどこかにいたということですか?」
「まさか。当時・・・しかも彼は王族だ。結婚していないのにそんな真似はしない。
もともと国を継ぐことに関心がなかった彼だがばれたら大陸追放で済むかどうか。
その後、の話だよ。マリベルにはもう話したはずだけど君にはまだだったかな。
死んだことにしてくれって彼に頼まれたから物語はそれで終わりにしただけさ」
白銀の地ロンダルキアに三人の偽者の神がいた。彼らの遺したものを邪悪な悪魔神官
クライム・カイザーが解き放ち全ての魔王や邪神を凌ぐ破壊の神が世に現れた。
それを命がけで再び封印したサマルトリアの王子アーサーは帰らぬ人間になり、彼を
愛していた妹サマンサも失意のせいか失踪し国は衰退して滅びることとなってしまった。
一方生き残った二人の勇者の未来は明るく、共に世界を治めた数十年の期間に争いは
起こらなかった。戦闘の後遺症のせいで子どもが産めないと言われていた王妃であり
女王でもあるムーンブルクのセリアはある日を境に無事妊娠し出産できる体となり、
ローレシアの王アレンは現在ぼくたちの時代まで語り継がれるほどの存在となった。
「それからしばらく・・・勇者として世界を救った人たちにはみんなあの二人の血が
流れていたと書かれています。ただ・・・ついさっきカジノであなたの仲間たちから
聞いたばかりです。ローレシアから続いた王族の家系は絶たれ、『流星の貴公子』、
テンポイントとも呼ばれた西の悲運の王子が高められると。彼の子孫が世界に
永遠に続く平和をもたらしそれはぼくのことだと言われたのですが・・・」
「そこまで知っていれば君ならわかるだろう。アーサー・・・テンポイントは
死んではいなかった!しかも君とマリベル、世界を救った二人の祖先として
その名が光り輝いた!アイラも一応彼の子孫だが血が薄くなりすぎだ、あれは。
まあそれはいいとして・・・今日君が買っていくべき商品はこれだ!」
ハーゴンさんがぼくに渡したのは本だった。これまでの勇者たちの冒険の記録の書に
比べたら薄く、すぐに読み終えられそうなページの量だ。
「これをマリベルと二人で読むといい。テンポイントの真の歴史が明らかになる」
「・・・本・・・ですか。う~ん・・・これまではいつも『これが欲しかった!』と
驚くほどのものを紹介してくれましたが今日はちょっと違いますね。そもそも
いっしょに読めと言われたマリベルがいないから探したいと思っているので」
「まだ終わっていないよ。その本のおまけを見てから結論を下すといい」
「・・・・・・こ、これは・・・!久々に見た・・・!」
見間違うはずがない。あの不思議な石版、それもこれから台座に置こうとするものは
いつ以来だろう。四人の精霊を暗示する四色のいずれにも当てはまらない石版で、
何色とも言い難いから『不思議な石版?』とぼくたちは呼んでいた。
「どの時代のどこへ行くのか、そもそもどこに台座があるのかはわたしにもわからない。
だが君なら見つけられる。あと数時間もしないうちにその先の世界へと旅立ってすら
いるだろう。そして売値だが・・・いま君が持っている有り金全額だ!」
「ぜ・・・全額!?いつもは信じられないほど良心的な値段だったのにそのツケを
払ってもらおうということですか!?それは困ります!これからマリベルを探す、
その旅は長くなるでしょうからお金は必要です、せめて金額を決めてください」
「・・・いや、わたしにはわかる。君にはもう金は不要だ。これが最後の金を使う
機会となるだろう。もちろん信じないのならそれでいいが、本と石版は渡せない。
どちらにせよ君にとって重大な決定だ。考える時間は与えるが・・・」
この人や仲間たちが金に困るということはない。アーサーの店だって商売ではなく
趣味のようなものだ。仕事の合間にやっているだけだと前に本人が言っている。
これは選択だ。何かを得るには何かを捨てる、諦める必要があるとこの人はぼくに
教えたんだ。そしてサマルトリアのアーサーの子孫を助けると誓ってもいた。
ならぼくを取り返しのつかない道には導かないはずだ。正しいのはこっちだ。
「・・・・・・決めました。どうぞ、これがぼくの所持金全部です」
「ム!即答だね。素晴らしい!ならこの金は受け取った。これで今日は皆に
豪勢な土産を買って帰れるな。よかったよかった・・・」
やっぱり騙されたんじゃないのかという声は押し殺して、本と石版を手に入れた。
次はこれを持ってどこへ行けばいいかという話だけど・・・。
「そういえば数か月前だったか。マリベルがわたしのもとに来て、自分が管理する
武器や防具をはじめとした冒険で手に入れた品々の数々を引き取ってほしいと
言ったんだよ。旅の間に知り合った者たちや世界各国の王家に渡すことも
考えたそうだが一番安心して譲れるのはあんたたちのところだ・・・ってね」
「・・・マリベルが?ぼくは知りませんでした。いつか凄い価値が出るかもとか
歴史的に重要な品になるとか言って半分強引に持っていたのに。自分で手放すと?」
君の家は金持ちなのにまだ金が欲しいのか、どうしてそんなに金に汚いのか、何度も
言い争った思い出がある。マリベルが勝手に使った金をごまかしたり魔物を倒して
手に入れたゴールドのいくらかをこっそり自分の袋に入れていたからだった。
『真のお金持ちはお金に関してはしっかりしてるのよ。そうじゃないとせっかく
大富豪になっても一代きりの成金か一代も持たないかもしれないからねぇ。
あんただってお金の使い方がうまいとは言えないわ。賭け事は弱いし騙されるし。
だからあたしがこの旅の費用を計算してやりくりしてる。うまくいってるじゃない』
ぼくの追及の直接的な答えになっていないのにぼくを黙らせる彼女の賢さだ。
ぼくもついどうでもいいものにお金を使ってしまい、普段我慢している分たまには
いいかと後から考えたら後悔しかない愚行を何度もしていたからだ。
『う~ん・・・ぼくがやっていたら野宿はもっと増えていただろうし装備の交換も
今より抑えなくちゃいけないけれど・・・』
『そうそう、だからあんたは余計なことは考えずに戦いに専念しなさい。
お金のことまで考えてたら疲れちゃうわ。そっちはあたしに任せなさい』
『フフフ。ならば将来アルスどのには稼いだお金をきちんと管理してくれる嫁さんが
必要でござるな。たったいまそれに立候補した方がいるでござるからな・・・』
『・・・ば、ばかっ!そんな意味で言ったんじゃないわよ、メルビン!』
小さな装飾品一つにすら執着していたマリベルが、記念館が建てられるほどの品を
全部ただで手放す気になったのはどういうことなんだろう。しかもハーゴンさんに
言う前にぼくに相談してくれなかったのはどうしてなんだ。そんなに頼りないのかな。
「・・・アーサーは正統なロトの子孫、王位継承者だったがその地位を捨てたがっていた。
重圧や責任から逃れたいというよりは自分らしく自由に生きたいという願いからだ。
サマンサはおそらくこれまでの人類史の中で最強の魔力を秘めていた。わたしはおろか
後に彼女と会う機会があった破壊神シドーですら本気で戦ったらやられると言っていた。
こちらの攻撃が届く前に一撃で倒されるから話にならないと笑っていたよ。それほどの
力を持つ彼女も世界の頂点ではなく愛する兄と共にいることを求めたのだ」
「・・・・・・」
「君たちはその二人の子孫だ。いつも通り何も変わらないように生きているふりをして
どこかでとんでもない決定をする。親しい人間にも直前まで、もしくは最後まで
話さずに自分だけでその決断を下す。彼女だって同じだと思わないか?」
キーファはその日の朝になってぼくたちに別れを告げ、家族への説明すらぼくに任せた。
ぼくも彼を責められない。大したことじゃないように見せかけて命を賭けた戦いに向かう
ことも何度もあったし、今に至っては仲間たちや二組の両親と永遠の別れになるだろうと
わかっていて帰らない旅に出ている。マリベルにも何かがあったのだろうか。
「いまだから言うが、実は彼女を誘ったことがあった。ロンダルキアで暮らしてみないかと。
アルスは神と精霊の加護をあれだけ受けているから無理だが君は違う。普通の人間
なのだからわたしの力で寿命の無い命が得られるとね。永遠に生きられると」
「・・・何だって!?そ、それでマリベルは!?」
「ふふふ・・・先祖たちと同じ答えをしたよ。お断りだってね。旅の仲間たちはみんな
特別な力を持っていたけれど自分は違った、でも最後まで戦い抜いた。だったら
普通の人間としてこの先も生きていく・・・凡庸であることに誇りを持つと言った」
ひとまず安心した。いや、マリベルがそう決めたのならぼくにそれを止める権利はない。
遠い存在になってしまうとしてもその背を押すしかできないんだ。ずっと元気に若いまま
生きられるなんてごく限られた種族にしか許されない特権だ。ぼくがどうやって彼女の
幸せを邪魔できるというのか。まあぼくの言葉に耳を貸すような彼女ではないけれど。
高価な宝物や武器と防具の処分、普通の人間として生きたい気持ち、ぼくたちの遠い
先祖たちの歴史・・・このなかのどれかがマリベルがいなくなった理由と大きく
繋がっているはずだ。一つだけじゃない、全てが関わっているかもしれない。
椅子に座りながら眉間に手を当てて考えていると店の奥から誰かが近づいてきた。
「人間であることを捨てて不老不死の体を手に入れる・・・悪い話じゃないと
思うけどね。誰でもできるわけじゃないんだからチャンスはモノにしなくちゃ」
「・・・・・・!きみは確か・・・」
「お久しぶり、勇者アルス。この島のモンスターたちは心も体も健康だね。きっと
水と食べ物がおいしくて人が手をつけていない場所がたくさんあるからだろうね」
彼女の名前はイル。優秀な魔物使いで、魔王ハーゴンに自ら永遠の命を願い求めた少女。
平和になった今も世界中の魔物の管理を日々続け、何が魔物たちにとっての最善かを
追い求める日々に終わりはないとのことだ。管理といっても捕まえて縛りつけるの
ではなく適切な世話や棲み分けと繁殖の手伝いなどをしている。人と魔物のあり方を
長い間考え続けた彼女のおかげで最終決戦後の混乱や衝突はごくわずかに収められた。
「きみは毎日忙しく働いているね。時間はたっぷりあるから休もうとは思わないのかい?」
「くすす、まさか。好きでやっているんだから休みたくなんかないよ。この店に
立ち寄ったのもモンスターたちのおやつの材料集めのため。やっといどまねきが
世界で一番この島を住みやすく思っている理由を科学的に証明できたんだ。
いどまねきたちの言っていることとそう大差はなかったけどそれ以外にも・・・」
魔物を育てる牧場の娘として生まれ、国の危機を救うために魔物たちを連れて冒険に
出たイル。その才能は次第に誰もが認めるようになり、史上最高のモンスターマスター、
その称号を手にしたのはぼくがキーファと古代遺跡を探検し、マリベルを加えた三人で
石版の世界へ飛ばされたあのころよりも若い年齢でというのだから驚きだ。でも、
イルはただ国を救い王者になった英雄じゃなかった。純粋な思いからの狂気があった。
『・・・ぜんぜん足りない。五年、十年・・・いや、八十年あってもだめだ』
ただ魔物使いとして強さを求めるだけで満足せず、魔物たちにとって一番の幸せは
何か、最高の食事や結婚相手、性格や好きな道具など研究すればきりのない数々の
テーマ。人生の全てを費やしたところで理解できないのはわかっていた。
「私がいた国の精霊が言ってたよ、お前は最強のマスターだけどそのせいでいつか
とんでもないことになりそうで怖いって。世界を救う勇者かそれとも世界を巻き込む
大悪党か、人間であることすら超えていきそうでオレの手にも負えないだろうとね。
くすす、そのとき私は気がついたよ、そういう手もあるんだ・・・ってね」
「・・・躊躇いとかは・・・なかった?」
「ちっとも。私にとってもモンスターたちにとってもプラスになるんだからこの方法が
あるとわかった後は三日で仲間たちとタマゴを残らず連れて出発する準備を終えた。
すぐにやってよかったと今でも思っているよ、善は急げだよね、くすす」
ハーゴンさんが言うには、もし彼女が本気なら自分の地位はあっという間に奪われる
だろうとのことだ。ただの魔物だけでなくモンスター人間が相手でもすぐになつかせる
力を持つのだから、その気になれば今すぐ新たな魔王として君臨できるほどだという。
とはいえ彼女の目的や夢がそこではないので平和は守られている。
「わたしとしてはトップの座を渡してもよかったのだがね。やっと楽になって
自由にこの店を開いたり遊びに行ったりできるのだから・・・」
「いやいや、あんな仕事量、本来の楽しみの時間がなくなっちゃうよ」
いま世界で魔王になれる力を持つのはこの二人ぐらいだけどやる気が全くないので
永遠にその機会は来なさそうだ。二人が怒りそうなのは魔物を虐げる人間が現れた
ときくらいで、そうなってもその人間だけを滅ぼせばいいだけの話だからわざわざ
自分と大切な仲間たちを危険に晒すまねはしないだろう。狂気を秘めながらも
大事なものの存在が暴走を許さない。ただ、自分が大切に思うもののために
魔王になった者たちもいるわけで、人それぞれなんだろう。そういえば最後まで
オルゴ・デミーラがどうして大魔王として生きることを選んだのかわからなかったな。
「そういうわけで・・・アルス、君も偉大なる先祖や友人キーファ、またこのイルの
ようにわがままになってもいいんじゃないか。後々もっと早くこうしていれば
よかったのにと後悔するくらいなら。君だってすでにそう決意してこの店に来た
はずだがまだどこか遠慮や後ろめたさが感じられるからな・・・」
「・・・・・・やはりわかりますか」
「もう二度と会えないかもとか仲間や家族を裏切ったとか・・・余計な感情はここに
捨てていくといい。いま自分が何を一番求めているかに素直にならないと」
「そうそう。案外みんな応援してくれるよ。私だってそうだったもん」
最後の晩、イルは家に帰り家族と共に食事をして同じ部屋で眠りについた。しかし
皆の眠りが深まったころにこっそりと抜け出して帰らない旅を始めようとしていた。
家族を、国を、人間の命すらも捨てる冒険に出るのだから別れの言葉など言える
わけもなく、こうして静かに去るしかなかった。だが、イルが窓から出ていこうとしたとき、
眠っているはずの両親と兄が、更には国中の親しい者たちの声が聞こえてきた気がした。
『頑張れよ、元気でな!』 『お前の大好きなあいつらといつまでも仲良くしろよ!』
その時初めてイルの心に皆への罪悪感と謝罪の念が芽生えた。そして少しの間
どこにでもいる少女のように涙を流し、それを拭ってから禁断の鍵で扉を開けた。
「あなたにも聞こえるんじゃない?大切な人たちがあなたの背中を押す声が」
「・・・どうだろう。そうだと気が楽だけど・・・・・・」
何の説明も片づけもせずにいなくなるぼくを快く許すどころか応援してくれる、
そんな都合のいい話があるものかと思ったけれど、ぼくのほんとうの両親は
そうだった。三人の仲間たちもきっとそうしてくれるだろうという確信がある。
だったらぼくのやるべきことは決まっている。この不思議なブティックで何かの
役に立つであろう品物は買えたのだからすぐにでも店を出て彼女を探しに行こう。
「そろそろ失礼します。今日はありがとうございました」
「おや・・・もう行かれるのですか勇者様。まだ飲み物も残っておりますが」
ぼくを呼び止めたのはこれまでの二人ではない、第三の人物の声だった。これは
聞いたことがない声で、男の人なのか女の人なのかもわからなかった。
「ええ。あまりゆっくりもしていられなくて。ところであなたは・・・・・・」
思わずぼくはひっくり返った。最初は叫ぶことすらできず、ただ口をぱくぱくさせる
だけだった。そしてもう一度目をこすってから見てみる。錯覚じゃあなかった。
「・・・どうかされましたか?」
「あ・・・あ・・・ど、どうしてオルゴ・デミーラが—————っ!?」
声は違うけれど姿はまさにオルゴ・デミーラそのものだ。完全に滅ぼしたはずの
大魔王がこんなところに現れるなんて!驚きのあまり戦闘の構えなんかできない。
そもそもいま武器は持っていない。一瞬で存在を抹消されてもおかしくない状況に
なってしまったと思ったら、少女がくすすと笑いながらデミーラの頭を撫でていた。
脳みそむき出しの不気味すぎる頭をよく何の抵抗もなく撫でられるものだ。
「ごめんね~。びっくりさせちゃったかな?この子は私の数十年前からの友だちで、
オルゴ・デミーラではあるけれどあなたの知るそれとはまた違う。モンスター
同士を結婚させて生まれたタマゴを孵したらこの子が生まれたんだよ」
「ああっ・・・そうか・・・きみは歴代の魔王や邪神たちと同じ種族の魔物を
生み出して育てて友だちになることができたんだった・・・まさかデミーラまで」
「記録もつけてあるよ、初代の子たちからずっと・・・いま手元にないから見せられない
けどね。でも大魔王には勝ったというのにここまで驚くなんてねぇ」
確かに勝ったけどいい思い出なんかちっともない。魔空間の神殿での最初の戦いでは
両眼をあの尻尾で斬られた。最終決戦では三人の仲間を倒されたうえに左腕を奪われた。
戦いが終わった後でみんなは無事に回復したしぼくの失明した目と腕も多少の後遺症が
残ったとはいえ回復呪文の力で普通に生活するぶんには問題ないほどになっている。
これも全て勇者の力のおかげだそうだ。並の人間では呪文も効果がないという。
「デミーラ・・・やっぱりその姿が真の姿なのか?それとも怪人のときの・・・
いや、一番強かった人と怪物が半分ずつだった三番目の姿こそが・・・」
「さあ、私にはわかりません。あなたが戦った大魔王オルゴ・デミーラと私は
別人で、私は他の姿に変身することなどできませんから」
「ははは、別にどうでもいいことだろう、アルス。いま君にとって大魔王など
些細な存在のはずだ。全てを投げ出してでも共にいたい者を探すために君は
新たなる冒険を始めたのではないか。すでにあらゆる場所を探したというが、
もう一度この島の君たちにとって重要なところに向かってみるといい。必ず
彼女がそこにいるという保証はないが・・・行ってみて損はないだろう」
「・・・・・・あの場所に・・・・・・」
アーサーのブティックは不思議な店だ。そのときいちばん欲しいものを売っている。
意味のわからないものや形のないものまで。これで最後の冒険の準備は整った。