あまり気持ちのいい話ではない、と思います。
2019/07/21 加筆修正
思えば、出会った当初からその女は狂っていたのだろう。静かに、穏やかに、狂っていたのだろう。彼女の父母は、その事に気づいていたのだろうか。否、きっと気付いてはいなかった。その男が気付けたのも、男が、
少しずつ、しかし確かに狂っていく女の姿を、男は見ていることしかできなかった。
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女の名を、“霧”と言う。そこそこ大きな屋敷の一人娘で、その屋敷には刀を佩いた者がよく出入りしていた。藤の花を家紋に擁く、由緒正しい御家柄だということははっきりしていた。が、霧は良家の娘らしからぬ女だった。
着物の裾をたくし上げ、男どもと一緒になって野山を駆けまわる。お転婆、と言えば可愛げがあるが、霧のそれは少し度が過ぎていたようにも思う。泥だらけになっては、母親に窘められている姿を、よく見かけていた。
男の名を、“
霧とは幼馴染であり、周囲は美男美女の組み合わせだと、よく囃し立てた。霧が満更でもなさそうな顔をしていたのに対し、景雲は顔を顰めてニコリともしない。その様子に、厳格な父とたおやかな母の姿を、多くの者が思い描いていた。
景雲が九つか十の頃、父母が死んだ。正確には、殺されたのだ。草木も眠る丑三つ時にやって来た、“鬼”という存在に。景雲にとって、家族は父母だけだった。祖父母も、兄妹も、親戚もいない。その瞬間、景雲は天涯孤独の身となった。
町の者は皆、こぞって景雲の境遇を憐れんだ。成人するまで支援をしようと言う人や、養子として引き取ってもいいと言う人さえいた。けれど、景雲はその申し出を全て断り、一人で暮らすことを選んだ。そして、霧が景雲の家を頻繁に訪れているのを、誰かしらが目にすることが増えた。
それから数年が経つ。凛々しい男へと成長を遂げた景雲は、亡き父と同じ木細工職人としてそこそこ名が知れるようになっていた。そんな景雲に、結婚適齢期の少女たちがこぞって交際を申し込み、玉砕するという光景が日常と化して幾日。その少女たちの幾人かが亡くなる、ということが相次いだ。それも、景雲にこっぴどくフラれて、それでも諦めきれないと連日景雲のもとに押しかけていた少女ばかりが。
死因はばらばらだ。山菜を取りに行って崖から落ちた、または熊に襲われたとか。家のお使いから帰ってこないので探しに出てみれば、暗い路地裏で強姦に遭ったようで舌を噛み切っていたとか。朝食の時間になっても部屋から出てこないので、心配して部屋に行けば首を吊っていたとか。
少女たちは気味悪がり、一人、また一人と景雲の傍から離れて行った。男たちは景雲の不運を憐れみ、慰めるように傍にいた。が、ことさら景雲と仲良くしていた青年が亡くなると、状況は一変する。
亡くなった青年は、線が細く中性的で、格好を整えれば女性に見えなくもない容姿をしていた。そして、同性とは言え、少なからず景雲を思っていたのも確かだった。その青年の死を切っ掛けとして、男どもも蜘蛛の子を散らす様に景雲から去って行った。結果、景雲の傍に残ったのは、たった一人――――
つまり、そういうことなのだろう。景雲にはこの一連の流れを起こした人物の検討がついていた。むしろ、彼女でなくばこんなことをする者が他にいる筈もない、とすら思っていた。けれど、結局。景雲は件の犯人にそのことを言及することは、一度としてなかった。
周囲は景雲を呪われた男と陰口叩いたが、反対に、霧のことは誉めそやした。あんなに不運な男の傍にいて、献身的に尽くして、なんて出来た女だろうと。嫁にするならああいう子が望ましい、景雲は果報者だねと。霧が景雲に懸想していたのは公然の秘密だったため、これで、景雲も諦めて彼女と結ばれるのだろうと思っていた。
実際、そのことを景雲に聞いてみると、にこりともせずに頷いたのだという。嬉しくないのかと問えば、どんな顔をすればいいのか分からないと帰ってくる。そんな返答を、街の者たちは真面目さゆえだろうと笑って取り合おうとはしなかった。
霧と景雲が成人を迎えた頃、両親の説得に成功した霧が景雲を婿に迎え入れたいと申し出て来た。遠からぬ未来、そうなるだろうと確信していた景雲は、特に迷いも見せず頷いた。あんなことをしでかしたであろう霧ではあるが、十何年もの間、景雲を恋い慕ってくれていたのは事実だ。なればこそ、その想いには応えなければならないだろうし、応えなければ亡くなった少女達が憐れだとすら思った。
しかし、全く愛が無かった訳でもない。景雲が傍にさえいれば、霧はいたって普通の女だった。良い女房であり、子が出来てからは良い母であった。しかし、景雲の目には彼女の姿は全く別のものに映って見えていたのも確かだ。出会った当初から、ずぅっと。
「父さんは、どうして母さんと結婚したの?」
「――――霧を、
息子の無邪気な問いに、景雲は迷うことなくそう答えた。鬼、と反復した息子を一瞥し、今にも泣き出しそうな空の下で作業を続けた。手には、猫か狐の顔の形をした彫りかけの面と小刀がある。
興味深そうに手元を覗き込んでくる息子に、完成したらお前にやろう、と言うと嬉しそうに破顔した。愛しいなあ、と。男は小刀を置いて息子の頭を撫でながら、そう思っていた。
平穏が崩れ去るのは唐突で、息子は想像だにしていなかっただろう。しかし、景雲にしてみれば予想出来ていた事だったため、動揺も少なかった。妻が――――幼馴染が――――霧が、
はっきり言おう。その鬼の姿は、景雲が幼い頃からずっと見続けていた、霧のもう一つの姿だった。
“先祖返り”と言う言葉がある。直接の両親ではなく、それより遠い先祖の形質が子孫に突然現れることを言う。たとえば、人間での尾とか複数の乳頭とか、全身の多毛の出現など。
これらは単に劣性形質の分離的再現のみでなく、突然変異とか、形質発現過程での攪乱も考えに入れて説明される。
霧は、間違いなく先祖返りだった。同年代の少女達と比べて力が強く、丈夫で、男にすら負けない運動神経を持っていて。――――他の人よりも少しだけ、犬歯が鋭いのが特徴だった。
霧の伯母が、鬼になったという話は聞いた事があったが、それ以前の先祖に鬼がいたという話は聞いたことがない。だが、景雲は季節家家系図の中に不自然に削られた部分があるのを知っていた。その削られた部分の血が、霧は濃かったのだろう。勿論、それを誰かに語ることはしなかった。
その後、何があったかは語るまでもないだろう。景雲は一人息子を遺して逝き、霧は鬼に堕ちていく。二人の息子はあまりの衝撃に寝込み、その結果。
「――――ぇ、…この世界“鬼滅の刃”かよ……しかも母親が鬼にジョブチェンジして、父親と祖父母が喰われて?うっわ、俺の人生初っ端からハードモードすぎワロタ、狭霧山行こ……」
前世とか言う、眉唾物の記憶を思い出したのだ。
季節 霧
オリキャラその2。季節の母。心の中に鬼を飼っていたために、自身も鬼と化した。先祖返りでもあるらしいが、真偽は定かではない。十二鬼月入りを果たしてはいたものの、序列は下位。鬼舞辻への忠誠はあってないようなもの。ただ、息子に斬られる為だけに人を喰らい、生き永らえていた哀しい女。この度、無事、息子に討ち取られた。
季節
オリキャラその3。季節の父で、婿養子。イケメンで、そこそこ有名な木細工職人だった。鬼とは憐れな存在であり、怒りや憎しみなど抱いても空しいだけだ、という考えを持つ人。生来不思議な目を持っていて、人ならざるモノを見ることができた。季節の生き方に大いに影響を与えた人物。故人。ちなみに、季節が身につけている狐の面は、景雲の作りかけを鱗滝が完成させたもの。