中忍選抜試験本戦。
今までの厳しい試験を乗り越えて、選ばれた強者が集い
少年は柄にもなく緊張していた。勝つために一か月間努力をしてきた。選抜試験を受ける前とは比べ物にならない程実力を上げた。
それでも実戦を前にすると、微かに震えが走る。相手は砂の我愛羅。今までの試験で驚異的な実力を見せて相手を圧倒してきた。サスケは今まで死というものに触れてなさすぎたのだ。殺しは初めてではないが、それはこちらに圧倒的な実力差があった。小隊メンバーに命の危機が訪れたのは大蛇丸に襲われた時が初で、その後もアカデミーで教師をしていた藍染が死に、カカシが処刑されるかもしれない状況だ。
サスケ本人が考えていたより自身は図太い性格ではなかったようだ。
軽いアップのはずの手裏剣投擲も汗が服を重たくするほどやりこんでしまっている。常に動いていないと不安だった。
(こんなんじゃアイツを倒すなんて夢でしかない)
手裏剣術のキレは記憶の中の男に及ばず、苛ついた態度は余計な力を肩に込めさせる。的を二連続で外したサスケは豪火球の術で的を燃やし尽くした。
「随分イラついてんじゃねぇかサスケ」
「……うすらトンカチ」
同じ小隊のメンバーだが本戦で戦うかもしれないナルトの登場に煩わしさとは別に変な安堵の気持ちも込み上げる。それを隠そうと口から出てきたのはいつもの憎まれ口だった。チャクラの雰囲気から相当鍛えたのだろう。試験の際も爆発的な成長を見せて来たナルトに一か月もの修業期間を設けたのだからそれも納得できた。
「そんなんじゃ本戦で俺と当たったら一撃だってばよ。すっげー術覚えたからなっ!」
「はっ、お前じゃ一回戦にも勝てねぇよ」
「なにをっ! 日向の野郎はもうぶっ倒すって決めてんだ。……お前こそ大丈夫なのかよ?」
無鉄砲であまりマイナス思考に陥らない少年は、珍しく真剣にサスケのことを心配しているようで思わず真面目な表情になる。
「…………あいつは……強いってばよ」
砂の我愛羅。ナルトと同じく自分の中に何かが封印されて幼少の頃より孤独に生きて来た。それを良しとしなかったナルトと違い、我愛羅は孤独を生きている実感の為に多くの忍を殺すことでその意味を見出したのだ。
人が生きるためにはなにかしらの意味を見出さなければならない。普通の幸せを享受してきた人間には理解できないだろうが、周囲から生を祝福されてきていなかった二人にとってそれは不可欠である。
孤独を塗りつぶす思いが強ければ強いほど、力は増大するのだ。況や他人を傷つけることで思いを解消してきた我愛羅に宿る力は計り知れない。似たような境遇のナルトにはそれがどれほど恐ろしくて悲しいことか理解できた。
「――強くなければ意味がないんだ。そうじゃなければ俺の強さは証明されない」
「――!?」
サスケの瞳に宿る光は冷たく、ある意味我愛羅よりも底が知れなかった。大事なものなど最初から持ちえない二人よりも、大事なものを根こそぎ奪い取られたサスケでは明確な敵意が違う。脳内の復讐相手から、怯んだナルトへと視線が戻ってくると瞳の色も和らいで普段通りのサスケがそこにいた。
「……そうだ。ここで立ち止まっている暇はない。どんな手を使ってもな」
「……サスケ?」
「さっさと行くぞ、うすらトンカチ。試合に遅れて不戦敗なんてみっともないからな」
「おいっ――待てってばよサスケ!」
本戦会場からおよそ2kmほど。墓標の立ち並ぶその中に強い意思を胸に秘めた女性が立っていた。
藍染を殺したカカシは脱走してしまった。それを裏で画策した大蛇丸の行方も分からない。
呪印の力を借りて仇をとろうとしたものの、木の葉でもトップクラスの実力を持つカカシには敵わなかったのだ。アンコ自身の疲弊も敗因の一部ではあるが、そもそもの実力差が大きく開いていた。
自身の無力を思い知る。そうした経験は今までの忍生何度もあるものの、これほど強くそれを意識したのはこれまでのアンコの人生にない。
(藍染さん。あなたの敵討ちは私がやりとげます。……だから私に力を貸してください)
不意な痛みがアンコを襲う。力を求める意思に呼応して首の呪印が暴走しようとしているのだ。想像を絶する激痛にまともに二足で立つことも出来ない。地に伏したアンコの歪む視界に藍染の名が刻まれた墓標が目に入った。
「……このっ程度の痛みっ!」
今更この程度の痛みなんだというのだろう。呪印を通して伝わってくる大蛇丸のこちらを侵食しようとする邪悪な意志に抗い、決して屈しない心を持ち続ける。かつて慕い恐れた師がどれほどの高みにいようが、今の彼女には関係ない。
アンコの首から背中を覆っていた呪印が嘘のように引いていく。相当の体力を消耗した彼女は荒い息を吐きながらもどこか満足気で、一つ壁を乗り越えた実感に包まれていた。
「驚きましたね。暴走するようなら止めるつもりだったのですが……」
「……あんたは……暗部? 火影様にでも私を見張るよう命じられていたの?」
穴熊の面に全身を覆う灰色のローブを身に着けた暗部が音もなくアンコの背後に立っていた。声からして女性であること、そしてかなりの実力者であることが窺えた。
「ええ。火影様の権限ではたけカカシの処刑は延期となりました。あなたはそれに従わない可能性から監視を仰せつかっています」
「チッ、それはまぁご苦労なことね」
不満を隠そうという気も更々ない。この状況では例えカカシを見つけたとしてもまず暗部を相手にする必要がある。無傷で勝てる相手ではないだろう。勝てたとしても連戦では到底勝ち目がない以上、絶好の機会が無ければカカシの殺害は諦めるべきだ。
カカシを捕える際はアンコの独断専行が営倉送りという軽度な罰で済んだのだが、火影様の命令で処刑が延期されたにも関わらずカカシを暗殺した場合、もはや命令違反が見逃されることはないだろう。
「……実はあなたにとってそう悪くない話があります」
穴熊の面の奥で怪しく瞳が輝いている。それにアンコはどう答えるか迷っていると続けて暗部が説明した。
「私は暗部ですが、火影直属というわけではありません。『根』のものです」
「……あんたの話を信じるのは難しいわね。火影様の命令を遂行するのに何故わざわざ『根』の暗部が任務に就くの?」
「大蛇丸の襲撃と周辺国との国境沿いの警戒に人員が割かれているのはご存知ですか?
信頼のおける暗部は風影の周囲に配置されて全体的に人員不足なのですよ。それこそ『根』が動くほどにね」
「――それで『根』のあんたが私に何をやって欲しいの?」
アンコはとりあえず『根』であることを信じることにした。ダンゾウの直轄である『根』は存在こそ知られているものの、実際に『根』の暗部を見たことがないアンコは特有の符号を知らない為に真実であるか分からないからだ。問題はこの暗部がアンコに何をさせたいか、それにつきた。
「……はたけカカシの暗殺ですよ。ダンゾウ様は火影様の独断での延期を許さず、次期火影候補で有力な彼が生き残る可能性をつぶしておきたいようです。そしてダンゾウ様が火影に就任した暁には功労者の罪は問わないと約束しています。あなたは藍染上忍の仇が取れて、私にとっては二人がかりで確実に対象を暗殺できる。両者にとって損のない話だと思いますが?」
「まだ分からない。……あんたを信じてよいかどうかね」
暗部は面を着けて個人の特定と表情の判断を困難にさせる。彼女がその下で薄ら笑っているか真摯な表情をしているかは訓練された忍なら取繕うことはいくらでも可能だ。それでも素顔を明かすことは最低限の礼儀に思えた。
「……これでよろしいですか?」
暗部の素顔は予想通り女だった。銀の混じった白髪に翡翠色の瞳が面の下から現れる。その二つが特徴的だが、全体の顔のパーツが整ってスレンダーな体型と均衡がとれている。木の葉でよく見る顔立ちではない。どこか雷の国や水の国の人間を思わせる美人だ。やや低めのハスキーボイスで問いかけられたアンコは一つ頷いた。
変化の術を使っている様子もない。
「私の容姿は目立つので移動中は面を着けたままにさせてください」
「そのほうがよさそうね」
再び穴熊の面を装着した彼女は迷いなく進みだした。最後に一度藍染の墓標に誓ってアンコは暗部の後についてゆく。呪印の力ではなく、おのれ自身の力で感知・制御しつつある新たな力を今確かに掴もうとしていた。
中忍選抜試験本戦は順調に進んでいた。
第一回戦
うずまきナルト VS 日向ネジ
序盤は日向の柔拳で近接戦闘に大きな後れを取りナルトは押され気味であった。それでも諦めないド根性で奇策を考え出し、不意の一撃を突くも『回天』という防御技で有効打を得ることは叶わず、逆に天稟の才により考案された奥義で体中の点穴を打たれてしまった。
全身を巡らすチャクラの経絡系上にある針の穴ほどの大きさのツボが点穴だ。それを柔拳でチャクラを流し込まれて破壊、損傷した場合チャクラを練ることさえできなくなってしまう。
絶体絶命かと思ったその時でさえも、ナルトは諦めることをしなかった。彼の中に眠る九尾のチャクラはむしろ普段抑え込まれているナルトのチャクラがないほうが活性化しやすいのだ。
そうしてぶつかりあった両者のチャクラは僅かに日向側が打ち勝ったものの、九尾のチャクラを纏ったナルトの回復力とタフネスで地面を掘りぬいた不意打ちにより勝利は彼の物となった。
無邪気にはしゃぎまわるナルトを観客席から見ていたサスケ。予想通り更に実力を上げていたナルトに嫉妬とそれ以上の戦闘欲求が狂おしいほど湧き上がってくる。
本戦まで勝ち残った面子はどれも曲者揃い。これからの対戦相手である砂の我愛羅。傀儡使いのカンクロウ。風遁使いのテマリ。木の葉の奈良シカマル。蟲を自在に操る油女シノ。
その中でも一番戦いたい相手はナルトだった。アカデミー時代からの知り合いだが、下忍へ昇格して小隊を組んでからの彼の成長ぶりは天性の才能を持つうちは一族のサスケでさえ驚嘆することばかりだ。意外性NO.1忍者とは担当上忍であるカカシの評価によるものだがナルトを適切に表している。チャクラの扱いが以前までのそれとは比べ物にならないほど上達していた。
そして何よりあの恐ろしいチャクラ。サスケにとっての『写輪眼』に及ぶ、あるいはそれ以上の隠し玉がナルトにはあったのだ。
試験官に呼ばれ、会場へと身を投げ出したサスケは改めて観客席を見上げた。小隊メンバーは勿論、会場には警備のためか木の葉の暗部が複数名。大名たちが噂のうちは一族の実力を計ろうと注目している。その中にやはり担当上忍の姿はなかった。
「では第2回戦、うちはサスケ VS 我愛羅。始めっ!」
現在アンコは火影を除く有力者たちの居住区にいた。上層部はその実力も伴っている者も多いが、寄る年波や事務・内政に集中する仕事に従事すると体が衰えてくる。
またその家族を人質に取られることによる防護策として守りやすく安全な土地に一括で管理されるのだ。(火影にいたっては自身や周囲を守り切る実力あってこそのものなので考慮されていない)
普段は厳重な警備を置かれているはずなのだが居住区は人の気配を感知できないほど静かであった。いくら中忍選抜試験本戦で警備が割かれているとはいえあまりにも少なすぎる。居住区に来るまでは暗部の先導のもとアンコは警備の隙を必死に窺って移動したというのに、ここに来て急に隠れる意義を失ってしまい拍子抜けしてしまった。
「……あんたここに来たことあんの?」
「文書を届ける際に数度。……流石にここまで静かではありませんでしたが」
彼女にとってもやはり珍しい事態であるらしい。アンコはこの地域までやってきたことはないが、普段からこの閑散した状況であることは考えにくい。
暗部に嵌められたのだろうかとにわかに戦闘態勢に入る。
「落ち着いてください。あなたを騙す為ならば最初に隙だらけの墓標前で処理出来ました。少し家屋の様子を見て来ましょう」
「……あたしも見てくる」
未だに信用のおけない暗部とは離れた家屋の捜索をすることにした。木の葉でよく見る木造建築が通りの両側に一定の距離をとって並び、噴水のついた公園も近くにある。公園には子供が遊んだ後に放置したのだろう小さな補助輪付きの赤い自転車が転がっていた。
その中でもある程度の大きさの二階建ての建物の開け放した窓へと近寄る。
「――つっ!?」
急いでアンコは鼻を覆った。窓から見える内装は整っていて、高級そうな家具があまり主張しすぎないように適度な配置で置かれていた。天井から吊り下げられた照明が漆器の香入れをやさしく照らしている。
そしてその中央で倒れている人影があった。うつ伏せになって顔は見えないが、背中のマントの中央付近は黒ずんだ血液が染み出た後に固まってしまったのだろう。出血死は免れない量である。
もうほとんど血液の匂いはしない。その代わりにアンコの鼻を刺激したのは腐敗臭だった。状況の確認の為に内部を見渡すと死体の数は一人ではない。調理中の女性はフライパンを持ったまま、子供は玩具を持ったまま。どれもピクリとも動かなかった。
アンコは窓から侵入すると最初に見つけた男性らしき遺体の眠る床の血液痕に指先を浸ける。血液が固まって指先でつまめるほど時間が経っていた。ここ数日の話ではない。しかし、このような惨状が今まで何故話に上がっていないのか? 明らかに何者かによって殺害されている。それだけでも大問題だというのに上役の関係者が亡くなったのならば里は大混乱の真っ只中にいてもおかしくはないというのに……
「みたらし特別上忍。……これは」
穴熊の面が窓の外からアンコを覗いていた。
「――あたしはやってないわよ」
「ええ勿論。私のほうでも一緒でした。何軒か確認しましたが生存者はいないようです」
「……きな臭いわね。これも大蛇丸の仕業かしら」
カカシの名を出さなかったのはアンコの無意識によるものだ。藍染上忍を殺したであろう憎い相手でもカカシがこのような無意味な殺戮をしないだろうという信がアンコにも残っていた。あれほどの証拠を残しながらどこか違っていて欲しいという思いがあったのだ。
彼女にとってはたけカカシという存在は決して小さくない。だからこそその反動も強かった。
イラついたまま一応最初の男性の顔だけでも確認しようと亡骸を仰向けにさせると、
「ちょっと! この人は――」
老人の顔が二人の目に入る。死後皮膚が腐敗してヌルヌルと液体が染み出ているが本人の顔が判断できないほどではなかった。
「水戸門ホムラ様!? 御意見番までっ」
逆立った白髪にレンズは衝撃で割れてしまっているが特徴的な黒縁メガネ。火影の御意見番の一人である水戸門ホムラに間違いなかった。驚きのあまりに冷や汗がタラタラとアンコの額に滴り落ちる。
御意見番の仕事は多岐に渡る。文字通り火影に意見するだけでなく、昨今の情勢を調査し取りまとめて各所に報告したりと火影の補佐として日々暇がない。上層部の家族が殺害されたのなら噂に出ないのもまだ理解できるが、御意見番が亡くなりここまで放置されてきて何故悠々と中忍試験が開始出来ているのだろうか。木の葉の関係者による陰謀ならむしろこのような証拠を残すはずがない。
ならば考えられるのは一つだけ。殺した何者かはこれだけのことをしておいてあの火影様とその暗部さえからもこの事実を隠し通し、違和感なく日々の業務を遂行させているということだ。
もはやそれがどれほど馬鹿らしい考えかアンコには分からない。幻術の線を疑って幻術返しをしてみたものの、目の前の現状は何一つ変わってはくれなかった。幻術であればどれほどよかったかとごちる。
アンコは背中の寒気が止まらないのを一時まで忘れようと暗部に向かった。
「もはやカカシの暗殺云々じゃないわね。早く火影様に伝えなきゃ」
「……その前に一人あなたに会わせたい人がいます」
どこか深刻な様子で穴熊の面を暗部は外した。表情は読めない。
「それは誰? ダンゾウなら断るわ。今は一刻でも早く火影様にこの件を伝えなきゃ――」
「――時間は取らせません。ほら、あなたの直ぐ後ろに」
アンコは正面の暗部を警戒しつつ、ゆっくりと振り向いた。
そこに男がいた。
男は明るい栗毛に眼鏡をかけていた。
男は黒い和装にその上から白い羽織と、足袋に草履と和装だった。
男は腰に二振りの刀を帯びていた。
男は端正な表情にどこか悲し気な表情を浮かべていた。
男はアンコのよく知る人物だった。
「やあ」
男の名は『藍染惣右介』といった。
「藍染さん……!?」
「久しぶりだね。みたらし君」
耳に届く優しい声は以前のまま。
「本当に藍染さんなんですかっ? ……亡くなられたはずでは」
それでも疑わざるを得ない。確かにあの時藍染は死んだはずだった。あの冷たい肌の感触も鼻の奥に残る血の匂いも忘れようと思っても忘れられない。夢にだって見た。
人はどうあがいても最後には死んでしまう。頭では分かっていたが、それを魂の髄にまで染み込んで理解させられてしまった。だから信じられない。
こんな都合の良い事など、白昼夢を見ているかのようだった。
「生きているよ。この通りさ」
「……あ、藍染さん。藍染さん」
うわ言のように呟きながらアンコは憧れの存在へと両手を伸ばしてゆっくりと近づいた。急に近づいて壊れてしまわぬように、目の前の儚い幻像が霞へと消え去ってしまった場合に自身の弱い心を必死で守るかのように。
そうして羽織を恐る恐る掴んだ。確かにそこに布を掴む感触がある。
「……私は…………藍染さん……」
目元に熱いものが溢れていた。最初は嘘だと信じていなかった。彼はもう亡くなったなど、確かに心臓は停止したなどタチの悪い冗談で人を傷つける無神経な人たちの戯言など聞きたくないと。
それでも時間をおいてみればそれが当然だとばかりに葬儀が行われて、それから声に出して悲しむ人たちの噂話にさえならなくなるだけの時間が経つと無視できなくなる。
藍染さんが生きて帰って来たらなんと言って困らせてやろうか、どうしてその罰を償ってもらおうかなんてたくさん考えていた。
それが、いざ目の前に現れると何も浮かんでこない。言いたいことはいろいろあるのだろうけど、何一つ言語化出来ないでいた。
「すまない。心配をかけただろう?」
男の手がアンコの頭をそっと撫でる。
(はぁ、藍染さんの手。暖かくて、大きくて)
(いつもと同じ。心を洗い流してくれる藍染さんの匂いだ)
見上げれば心配そうに、そうして微笑まし気に見下ろす藍染の表情。
(本当に、藍染さんだ。もう、ダメかと思った。あの時、もう私はダメかと)
藍染の着物を両手で掴んでアンコは顔を伏せた。感じる確かな鼓動と体温。偽物ではないと確信が持ててボロボロと涙の粒が流れ落ちる。
(でも違う。あれは嘘。嘘だったのよ。そう私には分かっていたもの。藍染さんが死ぬはずないって。私をおいて死ぬはずないって)
泣き止まない彼女が藍染の胸元を濡らす。そうして彼はそっと優しく彼女の肩と背を両手で抱きよせた。
「少し痩せたね」
寝食もまともに取れていなかったアンコは、ストレスも合わさり頬がややこけてしまっていた。健康的な肉体の持ち主であった時の藍染の記憶とはやはり違う。
「本当にすまない」
「君をこんなに傷つけることになってしまって」
アンコは泣き顔を見られたくなかったこともあり、身長の高い藍染にも伝わるよう身を捩じるようにして否定した。
「でも君なら分かってくれるだろう」
「君しかいなかったんだ」
「僕にはやらねばならない事があり、その為に死を装い君に――」
「――いいんです。もう、いいんです。藍染さんが生きていてくださっただけで私はもう何もっ!」
今はただ瞼を閉じて目の前の彼を感じていたかった。今までの辛い思いを消し去ってくれる藍染の優しさに甘えていたかったのだ。死を装う理由すら彼女にとって大した問題ではない。藍染が生きてくれている以上、カカシや大蛇丸への思いは綺麗に消え去ってしまった。上層部の暗殺さえもこの幸せな時間を費やすことのほうがよっぽど恐ろしい。
「ありがとうアンコ君」
「君の兄弟子になれて本当に良かった。ありがとうアンコ君」
幸せだ。憧れの人に抱きしめられて、認めてもらえて。そして何より生きていてくれて、こんなに嬉しいことはない。
「……本当に、ありがとう」
二人の再会を邪魔にならないよう暗部は見守っていた。
「さようなら」
アンコの背から刀の切っ先が現れた。命のエキスである赤い迸りが彼女の背から流れ落ちていってしまう。
理解が追いつかないアンコは胸に奔る痛みと、その理由が繋がらない。
アンコの眼には藍染の片手で持つ刀が正面から、アンコの胸の中心を貫いているようにしか見えなかった。傷口から流れ落ちる血液は見る間に藍染の手と床を汚していってしまう。
「これは……何?」
多量の出血で意識が薄れて、震える指先はその血と思わしきものを触って確かめてみる。
「……なに?」
現状を理解できないままでアンコは藍染を見上げた。
そこにいるのは知らない男だった。
姿、形、匂いに雰囲気さえもアンコの知る藍染惣右介だというのに――男は冷たい目をしていた。柔らかな表情と安心する笑顔で周囲を和ませて率いてきた男はそこにいない。
まるでゴミでも見るかのような視線の男が最後にアンコの瞳に焼き付いた姿だった。
「行くぞ。黄緑」
「はい。仰せのままに」