「はっ!?」
猛烈な悪寒にカカシは覚醒した。あまりの寝心地の悪さに掛け布団を掃って床にえずいたカカシを隣で見守っていたアスマは急いで介助する。読みかけの雑誌は床に投げ出されたまま窓からの風を受けて捲られていた。
火影に隠れるよう指示されたセーフハウスはカカシだけでなくアスマやガイ、紅も余裕で居住できる広さだ。有事の際に要人が使用する為に造られただけあって推定罪人でありながらも建物内は自由に動くことが許可されている。
贔屓という訳ではなく、火影の権力で融通できる施設がここ以外になかったのだ。未だカカシの無罪は証明されていないことに変わりない。それでも上忍仲間はカカシの無罪を信じて疑わなかった。互いの命を懸けて困難な任務を達成してきたのだ。永遠のライバルを自称するガイにしてみれば、面倒くさがってまともに勝負をしないこともあるカカシだが、決して仲間を裏切るような奴ではない。かつて小隊メンバーを失ったからこそ仲間に対しての執着心は強く、自らを
「大丈夫カカシ? 水を持ってきましょうか」
ベッドの上でどこかまだふらついている様子のカカシを心配して紅が台所へ向かう。
左の瞼の奥が焼けるように熱かった。先程からアスマの声や紅の声が妙にゆっくり聞こえる。それに伴い動きもスロー再生のように遅く見えた。
カカシが確認の為に額を触るとそこに木の葉の額あてはなかった。そういえば寝る前に外した覚えがある。
――無意識の内に『写輪眼』が発動している。驚いたのはそこではない。
『写輪眼』が発動していることに気づかないほどチャクラ消費が少なかったことに驚いたのだ。元々眼の持ち主であるうちは一族でないせいか、カカシは代名詞である『写輪眼』を使う最中に多量のチャクラを消費する。それが今は以前の半分程度までチャクラが抑えられているのだ。
そして洞察力。紅が蛇口を捻って流れ出す水の一滴一滴が今のカカシには目に追えた。それに加えて空気に漂う微量なチャクラが霞がかっている。それが上忍たちの動いた後をなぞるように、まるで空気に漂う匂い成分のように感知できた。
「なんだ……これは?」
写輪眼の視覚情報から匂いまで感じ取ることなど今までなかった。俗に共感覚と呼ばれるものだ。極まれに音楽を聴いて色を感じたり、文字を見て、特有の触覚を得る人のことは聞いたことがある。カカシに限っては写輪眼を使用している際にチャクラを嗅覚でとらえることが出来る更に特異事例であった。
夕日のチャクラ、ガイのチャクラ、アスマのチャクラ。それぞれに漂う匂いは個人を識別できるほどその精度は高い。
どういうわけか。カカシの写輪眼が強化、あるいは変化している。その理由がわからない。カカシは確かに中忍選抜試験本戦へ向けてサスケと共に修行を続けた。しかしその後のアンコとの戦闘中特にそのような変化は見られなかった。牢に投獄されていた時は訓練などする気力さえ湧いてこなかったので尚更だ。
あの時はただ己の無力に浸っていた。助けられてしばらくして、今はまだあそこまでの精神の落ち込みからは復帰したものの、小隊メンバーを失った時を思い返すには十分すぎるほど思いつめられた。酷く虚しい時間。思い出すだけで気分が沈む。
「カカシ、水よ」
紅の差し出した水を少しずつ飲みこんだ。嚥下するのに時間がかかってしまう。
「……ありがとう」
ようやく礼が言えたカカシへ向ける紅の表情は安心と心配で等分されている。上忍の中でもトップクラスの彼の弱々しい雰囲気は普段の彼には見られないものだ。だからこそ信頼されている実感も湧く。
「……どうかしたの? 悪夢でも見た?」
「……分からない。どうも妙な気分だ」
今の状況をどこから説明しようと思いあぐねていると、
「――伏せろっ!!!」
窓を突き破って部屋に起爆札を巻かれた閃光玉が投げ込まれた。それに気づけたのはおそらく写輪眼のおかげだ。見知らぬチャクラの匂いが建物の外にいるのに気づき、閃光玉が窓を破る直前にはその破った後の軌道すらカカシの眼は捉えていた。
カカシの声に仲間は疑いや戸惑いの様子すら見せずに伏せた。長年の勘と経験から体が脳で判断する前に動く。動作が終わった頃に爆音と閃光が部屋の中をかき回した。
爆風に体を浮かせながらもカカシは姿勢を制御する。寝起きで体調はあまり良くないが忍ゆえに常在戦場の精神が身についている。このぐらいの修羅場はいつもくぐってきた。
「皆無事っ?」
「ああっ」
「問題ない!」
共に戦う上忍も歴戦の兵。この程度は危機の一つにも入らないらしい。頼もしいものだ。
カカシ達のいた建物の二階部分は爆発で大きく破壊されて、天井部分にも大穴が開いてしまっていた。爆煙と延焼した建物からの火災から出る煙の中、人影が幾人か侵入してくる空を切る音がする。気配が薄い。敵は無音暗殺術を身に着けている相手の可能性が高かった。
幸い桃地再不斬という熟練者と戦った経験から他の同期に比べて一日の長がある。それに加えて――
「ガイッ。正面! アスマ2時の方向だ!」
「おうっ!」
「任せろっ!」
直ぐに二人は敵を撃退した。カカシの写輪眼が煙の奥に潜む忍の匂いを嗅ぎあてて適切な指示を飛ばす。司令塔のカカシを狙う忍は紅の幻術によって足止めをくらい、苦無で処理される。忍は額あてを身に着けていなかった。どこの忍でもないように見えた。
「どうやら大蛇丸の手の者みたいね。……この様子では本戦のほうも」
紅が幻術で無理やり聞き出した結果だ。彼女の幻術を逃れて嘘の情報を明け渡すような術者には見えない。
本戦が行われている会場方面では明らかに歓声だけでない混乱と悲鳴がこの距離からでも伝わってくる。同じような刺客が会場でも暴れまわっているのだろう。
「カカシの次の裁判までは大人しく待つつもりだったが、どうやらそうも言ってられなくなったようだ」
ガイの忠告も尤もだった。このままでは裁かれる場すら崩壊しかねない。どんな目にあったとしてもやはりカカシはこの里を愛していた。全ての償いはこの騒乱が終わってからで構わない。もう二度と大切な者を失うのはゴメンだ。カカシだけでなく、カカシと同じような思いをする人を生み出してはいけない。
「本戦会場へはお前たちが行ってくれ。俺は周辺の忍を片付ける」
「いいのか? 本戦会場のほうが暗部や木の葉の関係者が多い。お前が直接関係者を助ければ減刑どころか無罪もあり得るかもしれんぞ」
純粋にそうしたほうが良いと分かってアスマが言っているのに気づいてカカシはゆるく微笑んだ。
「…………じゃ頼んだよ」
そう言い残してその場から瞬身した男に残された同期組は顔を見合わせる。
「……結局貧乏くじを引いちまうか。そういう奴だよお前は」
「不器用なんだから男ってのは……」
「さすが俺の永遠のライバルだ! こちらも負けていられんぞっ!」
「これでっ、24人目」
カカシの前でまた一人忍が地に伏した。市街地を襲う忍は大体片付けただろう。戦闘中は常時写輪眼を使用していたが、負担は以前とは比べ物にならないほど軽い。そればかりか何か新たな力が生まれようと眼球の奥でチャクラの活性化を感じる。今までにない一体感。亡くなったオビトが共に戦ってくれているようで、どこか心が休まった。
「ん……このチャクラ、見覚えが、いや嗅ぎ覚えがある」
一般人を戦闘から避けるために屋根伝いで敵忍を相手していたのだが、そこで記憶の隅に残った香りが漂っていた。
崩れた瓦礫、瓦屋根に残った靴跡。数は二人。
一人は知らないが、もう一人については覚えがあった。みたらしアンコ。カカシを藍染を殺した犯人だと勘違いして襲ってきた特別上忍だ。おそらく今も誤解したままだろう。
どうやら隠密しながら移動していたらしい。歩幅が狭く物音を立てずに移動したことが窺える。
(何故だ? 彼女は営倉から解放されたはず……今隠密する必要はない)
必要があったから隠密した? 木の葉にとって不利益になるからか、あるいはカカシへの復讐の為か。おそらくは後者だろう。となるともう一人は協力者か。
ぞっとカカシの体が
この感覚に覚えがあった。以前教え子たちが中忍選抜試験の参加を決めた時のこと。同期の飲み会の帰りにも同じような
きっと彼女を追えばその正体が掴める。それをどうにかしなければこの先に良い未来は見えてこないだろうと、憶測ではあるもののほとんど確信に近い予感が襲う。普段は客観的に物事を判断するカカシだが、だからこそ稀に起こるこうした直感には疑いを持たないようにしている。直感とは本能と同義だ。人である以上それに抗い続けることは出来ない。
結局カカシは足跡を追うことに決めた。そこに何が待っていようとも。もはや賽は投げられたのだ。
木の葉上層部の住宅街。後を追うカカシの嫌な予感は増していた。近づくにつれ腐敗臭と血液の匂いが濃くなっていく。もはや異変はカカシの中で疑いようもない。不吉な影が建物を包み、真昼にも関わらず太陽が陰っているように思えた。
中央の大きな通りから東へ、警戒をしながら足を進める。写輪眼はアンコのチャクラの匂いを追いつつ、もう片方の眼でも視界に入る情報を見逃さないように留意していた。一つの大きな木造建築へと匂いは続いている。
新鮮な血の匂いがした。それとカカシの見知った人物の匂いがする。
「やあ。カカシ君」
建物の入り口から現れた男にカカシは仰天した。確かに匂いはその男のものだったが、決して
「……藍染……上忍!?」
亡くなったはずの男がケロッとした顔で挨拶をする。その後ろからは暗部のコートを身に纏った女性が付き従っていた。
「どういう……? 本当に藍染上忍ですか?」
答えが返ってくるまでにカカシは写輪眼で確認していた。チャクラ自体を捉えることが今までなかったのでチャクラの質で見極めるのは不可能だったが、体に宿るチャクラからの匂いは本人と同一のものだった。
匂いだけなら何とでも誤魔化す方法はある。しかしチャクラと紐づいた匂いの偽造は不可能に近い。
「勿論。見ての通り本物だよ」
「……それにしても予想より随分と早いご帰還だな。はたけ上忍は」
「申し訳ありません。セーフハウスを襲わせて本戦会場への誘導が上手くいかなかったようで……」
きな臭い会話の展開にカカシは惑う。生きていれば感動の再会といいたいところだが、どうも空気がおかしい。
「……いったい何の話ですか?」
「何の話? ただの戦術の話さ」
「敵戦力の分散は戦術の初歩だろう?」
「敵……だと? あんたら一体……」
話が読めない。いや気づかないフリは止めよう。何故今まで藍染は死を偽って姿を隠していたのかを考えればカカシにも話の大筋が見えて来た。
周囲を見渡す。そもそもカカシがここまで来たのはアンコを追って来たからだ。ここに彼女が来たのならば既に藍染との接触を果たしているはず。それなのに彼女はこの場にいないことが引っ掛かった。
「アンコは何処にいる?」
強い語調で問う。
「さて。どこかな」
カカシの嗅覚が今すでに藍染たちの出てきた入口の奥にその目標を嗅ぎつけた。
藍染と暗部との間をすり抜けて瞬身してみればそこに倒れ伏したアンコを発見した。口からの吐血。目は見開いたまま閉じていない。腹部と後背部からの酷い出血も見て取れた。
「アン……コ」
「残念……見つかってしまったか」
「すまないね。君を驚かせるつもりじゃなかったんだ」
「せめて君に見つからないように粉々に斬り刻んでおくべきだったかな?」
カカシの体が震える。悲しみではなく怒りによって。もはや明確な敵としてカカシの瞳は藍染を捉えていた。
「藍染……。いつから大蛇丸とグルだった? お前が死を装う前からか?」
木の葉の住民の誘拐。藍染の偽りの死とそれに伴うカカシの冤罪。そして中忍選抜試験本戦の襲撃。これらがそれぞれ別の事由で起きているとは到底思えない。これらに黒幕がいるとすれば全ての事件は繋がる。このタイミングで姿を現した藍染が大蛇丸と繋がっていると考えるのが一番自然だった。
「それは違うね。彼は彼なりに今回の計画を企てていた。私はそれを利用したに過ぎない」
「それじゃあ今までずっとアンコも、俺も、あんたの部下も、他の全ての忍も、大蛇丸さえも皆。今まで騙していたのか?」
「騙したつもりはないさ。ただ、君たちが誰一人理解していなかっただけだ」
耳障りの良い声も今までと不自然なくらい変わっていない。カカシが藍染を知ってから周囲の者全てを欺いてきたというのに彼はいたって自然体だった。何年前、何十年前からだろう。これだけのことを画策して、誰にも本性を知らせない男の底知れなさに初めて恐怖した。
眼鏡のレンズが光を反射して視線もその感情も見透かせない。
「僕の本当の姿をね」
「理解していないだと……」
状況を把握する為に一度は置いていた怒りが再びカカシの中で燻り始める。
「アンコも……アンコもあんたに憧れて、あんたの少しでも近くにいたくて中忍になり、あんたの役に立ちたくてそれこそ死に物狂いで努力してやっとの思いで特別上忍になったんだ」
「知っているさ。自分に憧れを抱く人間ほど御しやすいものはない」
「だから僕が彼女を特別上忍にと推したのだ」
「良い機会だ。一つ覚えておくといいカカシ君」
「憧れは理解から最も遠い感情だよ」
思考が真っ白になった。そしてマグマのような憤怒が脳内を占めて、写輪眼が激しく回転し始める。チャクラが体内の経絡系を巡回し肉体を活性化させ、只目の前の仇を獲る為に殺意という司令によって一つにまとまった。
カカシを中心に渦巻くチャクラはかつて大蛇丸に立ち向かった時の比ではない。数倍に膨れ上がったチャクラがそれを上回る殺意によって統制されていた。
『火遁・豪火球の術』
視界を埋め尽くして余りある火球が地面を削り飛ばして二人を襲う。
牽制の為にとばされた術を跳んで躱す二人の姿をカカシの写輪眼は見逃さない。もはや動きがコマ送りのように見える。自身の動きもスローで見えるが、相手にそれを追える眼が無ければ同じスタートラインにさえ立てない程の絶対的な動体視力。これほどまでに写輪眼を上手く使えたことはかつてなかった。
他里の者がうちは一族に会えば逃走を選ぶ真の意味が今のカカシにはハッキリと分かった。
「藍染。俺はあんたを……殺す」
確信をもって藍染へと告げる。もはや普通の上忍程度の実力を持つ藍染では敵わない高みへと確かに昇りつめた。今のカカシなら大蛇丸相手でさえ善戦が出来るだろう。
例え実力を隠していたとしても写輪眼で追えない相手はいない。共感覚で匂いも追えるカカシなら不意打ちさえも怖くない。
そして怒りがカカシを支配している限り怯むことはなかった。
「あまり強い言葉を遣うなよ。弱く見えるぞ」
『雷切』
カカシの右手に雷が集う。膨大なチャクラで雷の性質変化を極めた右手に宿る電撃は大気を震わす。形態変化で放電させ範囲を集中させて威力を更に上げ『千鳥』という術を昇華した『雷切』。
一番の決め技である雷切はもはや自然の落雷を超えた破壊力。
意思を持った雷が人一人の為に向けられた。相対するだけで身がすくむ自然の猛威に、藍染は微笑んだ。
チャクラで活性化させた肉体は瞬身さえも超えたスピードで、右手に宿った雷を何も反応すら出来ないでいる藍染の胸を――貫いた。
写輪眼でさえもコマ送りにならないほどの最高速度。藍染にとっては
「――なっ」
瞬間まるで霞のように藍染は目の前で虚ろに霧散してゆく。確かに胸を貫いた感触があったはずなのに右手は空を突いている。匂いは勿論血の痕すらない。
分身なら感触さえもない筈で、そもそも写輪眼で本体の確認は済んでいる。
影分身ならば分身体がやられた時に特有の粉塵が生じる。それなのに目の前の残像はそれさえなく消え去ってしまった。
幻術ならば藍染の得意分野だが、それこそあり得ない。印を結ばずカカシの今の写輪眼を欺くことが出来るのは本家のうちは一族くらいのものだ。
――背後っ!?
急に気配を感じて振り向こうとしたカカシの目の前に大量の血が浮いていた。それが袈裟斬りに藍染の刀によって太い動脈を斬り裂かれた際の出血だと、そんな推測すら今のカカシには出来ない。ただ藍染はそこに立っていて、カカシは崩れ落ちようとしている。
一太刀のあまりの鋭さに防衛本能である痛みも、傷口も一拍置いてやってきたのだ。幻術を得意としている上忍ではあり得ない剣の腕前。達人レベルであろうと生きている人間相手にこうも簡単に出来ないであろう。その力の片鱗をカカシは身をもって味わった。
二人の間で勝者と敗者の役がどちらに振り当てられているか。それでもカカシは認められなかった。アンコの仇を、裏切られた皆の恨みを果たそうと義憤に燃える精神は敗北を受け止められない。
「嘘……でしょ」
あれほどの力を身につけたにも関わらず……残酷すぎる現実に血液と共に大事なものまで流れ出してしまっているような失望感に包まれてカカシは倒れた。
雷切だけは込められたチャクラの大きさの余りにしばらく維持され、地面を削りながらチッチッチッと鳴いているようにも聞こえた。
人としての本能である雷への本能的な恐れをまるで己の中に見出せずにいることにしばし感傷的な気持ちになりつつ、藍染は刀に付着した血液を一度振り払って新たな客を出迎える。
「惣……右介!? 惣右介だなっ?」
「これはっ!?」
「どうも綱手姫。来られるとすればそろそろだろうと思っていましたよ」
息を切らして駆けてきたのだろう。綱手とその従者であるシズネを藍染は迎えた。
あの時と同じように――