昨日の晩から食材と言うものはこの家にはなかった。つまりは嫌な時期に食材を切らしていたらしく、今日の朝は白飯と菜の花の漬物が置かれている。白飯はいつもと変わらないのだが、菜の花の漬物はえらく塩辛かった。正に塩でも舐めているかのような味わいで白飯で打ち消してやっと食べられるものだった。椛さんは平然と食べていると思ったが先ほどから顔をしかめている。僕はそれを見ながら笑うことも出来なかった。塩辛過ぎる。それも言うのはどうかと思うので黙って白飯で漬物の塩辛さを打ち消す事にした。しかし、それは椛さんも変わらないようで僕に関係ない事を話してきた。
「そう言えば、何やら川の方で大きな魚影を見たと言う報告がありまして。あまり気にすることではないと思うのですが」
「魚影ですか。川の主、みたいなものですかね」
「そんな感じだと良いんですけど、前に聞いた事があったような、なかったような感じで何とも言えないです」
此処の山で何百年も暮らしているだろう椛さんも確証は得られないほどの話。僕はそれほど気にならないのでそれほど聞いていなかった。
「何やら、大きさは家くらいはあるとか。その人が誇張している可能性はありますが一応確認する必要はありそうなのでね」
「面倒な事らしいですね」
「面倒ですよ。何たって出所ははっきりしていてもその情報の信憑性はまるで皆無なんですから。哨戒天狗にも真っ直ぐな人とさぼりがちな人もいますからね。ですが、確かめないわけにもいかない、それは過去に起こった事がありますから」
本当に面倒くさそうだった。興味はそれほどないのだが、そこまで行くと僕が探していても良そうな気さえしてきた。
「それなら僕が川の方に向かいましょうか。居るかいないかがはっきりするだけでも違いますよね?」
「私は午前中は人里で買い出しをしてきます。何かあれば、空気を乱してください。常に三ノ技を発動させておきます」
三ノ技というのはある意味での索敵用の技でその範囲と感度は自分の技量によるものである。僕だと必死に広げようとしても妖怪の山を覆えるかどうかだが、椛さんなら人里から此処まで届くことも容易そうに思える。ある意味、これの上達度合いでその人の技量は大体は計れてしまうものだ。
「あ、ただ感じ取れるだけなので何が技の使用があれば戻ります」
「あ、はい」
「それでは此処からは別行動としましょうか」
椛さんが立ち上がって、僕が食器を持って洗い場へと持ち運ぶ。後は椛さんに任せる事にした。これからは僕に任されることもあるだろうが今日はそのような事はない。いつも通り、目を閉じて風を感じてから下山をする事にした。
「それじゃあ、行ってきますね」
「お気をつけて」
椛さんの軽い言葉は僕にはその言葉の軽さのように背中を押すだけだった。
○
それから僕は歩いて川の方へと向かう事にした。別に走っても良かったがあまり気分でもなかった。それだけだ。偶には走らずに自然を感じるのも良いだろうと適当に感じただけなのである。
そんな感じで歩いていく、その先には妖怪の山を流れる川の源流ともいえる小さな水溜りのような場所がある。前にお父さんと椛さんが闘ったのは此処であるらしい。そこから僕は川岸を歩いて山を下る事にした。
最初こそ、細くていつ切れるか分からないほどだったが歩いていくうちに少しずつ、少しずつ大きくなっていく川。そして段々と深くなっているように感じる。それを感じ取りながら僕はとある人物を見つけた。
頭には赤いリボンをつけている人で髪は明るい緑色、茶色のブーツを履いていて上半身の方は黒目で暗めの赤いドレスを着用している。その横顔から見える目に映るのはきっと川ではないのだろうと思う。膝を立てて座っているので後ろに回り込みながらその人に声をかけた。とは言え、声のかけづらい雰囲気をしているのはよく分かる。けど、知っているので特に怖いとは思わなかった。
「昨日ぶりですかね」
「……そうね。懐かしく感じるのは私なのね」
悲壮感が漂っている。
「辛そうですね」
それぐらいしか声をかけるような事はできなかった。それでも僕は昨日とは違うと思っていた。自分はそれほど落ち込んでもいない。そう思っている。
「この世に価値はないと思っているので、一日が長く感じます」
「本当にそうですか?」
僕は思わず聞いた。よく事情は知らないが本当に価値がないのならば何かは集まらないと思う。その何かはよく分かっていない。
「そうですよ。私が生きている事なんて何の意味があるのよ」
「人を救える優しさがある、人のために行動出来る力がある。それで十分じゃないですか」
「それがあって何のためになるのよ」
「それは言葉では示せません。誰かにとって何がそれに値するのかは他人が決めれません」
「今示してよ。じゃないと、私、私何をしたら良いのか分からないじゃない」
「……それは僕にも。何もありませんけど」
「結局何も知らないじゃない」
その言葉に僕は何も返せなかった。僕には何もなかった。それこそ、この人がどのような人物なのか、それもよく分からない。ただの自分のわがままでしかないのならばこの人にとってはただのいい迷惑なだけで何も利益になりそうな事はない。僕は自分勝手な行動を起こしているだけなのだろう。でも、此処で引き下がれるような状況ではなかった。本当のところはもう少しいい方向に向いてくれたら良いんだけど。
「そうです。何も知りません。だから僕に話せる事は話してください。お願いします」
「あの、えっと」
迷う、その人は。それも大きな問題を投げかけるように僕はこの人に棘を渡していた。少しずつ消えていくその灯火に僕は手を覆って消えないようにするしかなかった。
「僕は貴女に協力したい。けど、今のままだと何も出来ない。だから協力してほしい、僕に」
「貴方に何が出来るのよ。私の気も知らないのに」
「何もありません、今は。今はそれを判断するものは何もありません」
その人は座ったままだった。だけど、下を向いているというわけではなく、少しだけこちらの方を向いてくれている。女としての誇りを投げ捨てた彼女にどのような格好をしていようと気にならないのか膝は立てたままだった。
「貴方には多分分からないでしょうけど、私は何もかも失った。此処まで築いた信頼も歴史も何もかも失った。それなのに何をしたら良いのよ」
何も失った、それならばやる事は限られてくると思う。密かに応援してくれている人に応えるか、また自分の価値について学び直すか。それともこの状況を変えるべく何か手を講じるか。失った原因が自分の能力のせいなのならば制御する方法を見出すか。
「酷かもしれませんが、そうやって考え込んでいるより何かの為に動き出している人の方が輝いて見えると思います。昨日、貴女から話しかけられた時、僕にはそのように感じました」
「何をしたら良いのよ」
「さて、僕には。でもまずは探さないと。自分の魅力について、自分の価値について」
僕は手を差し出した。そうやって座り込んでいるよりももう少しだけ、一歩だけ歩き出している方が綺麗に見えるのではないだろうか。
「そんなのすぐに見つからないわ」
「もう一人いましたよね?青い髪をしている人が」
「……そうかもしれないわ」
「聞いてみましょうよ」
「聞いたからと言って何が変わるのよ?」
僕にはその返答に困った。あまりにも僕に用意できるものがなかった。何の根拠もない発言ばかりで相手を困らせていたのかもしれない。僕には何もいう言葉は結局のところなかった。
「答えられないじゃない。私なんて結局は無価値な存在なのね」
その吐き捨てるような言葉に何も含まれていないと言えるわけではなかった。自分が感じる他者への劣等感や自分の起こした行いに対する罪悪感それが含まれていてもおかしくはなかった。だけど、僕の耳が聞く限りはそうでもなかった、何か期待しているような気もしなくもなかった。僕の方を向いたその人の顔がそう告げていると思わなくもなかった。
「確かに答えられません。ですがその言葉は本当に捨てられた時に言ってください」
もう僕もそれぐらいのことしか言えなかった。それ以外には何も浮かばなかった。僕にはこの人を安心させるだけの力は足りない、そしてその術も知らない。
「今がその時でしょうが」
語尾も上がらない、言葉に覇気もない、怒りが怒りとして感じ取れそうにない。そこにその人が何を思っているのかがあった。
「役割を全うしてからその言葉は言ってください。その力はきっと誰かの役に立つはずです。これまでにそのような経験はないですか?」
「……無いわけでもないわ。けど、結局は幻想のように弾けて壊れるのよ」
「それは一人で頑張ってやってきたからでしょう。一人では限界がありますよ」
「じゃあ、どうすれば良かったのよ。私がやってきた事は何もかも間違いだったわけ?」
「僕は何も知らないです。貴女がこれまで何をしていたのか、何故そこまで悲観的になるようなことがあったかどうか」
「じゃあ、どうして私なんかに話しかけるのよ」
僕は考えた。その感じから僕は一つだけ考えがまとまりそうな気もしていた。だけど、最後の方、良い感じに収束を迎えないところを見るに、僕にはまだ力が足りないのだと実感した。
僕は今、目の前にいる人の瞳を見た。目は口よりものを言う、何か探せないか見ていた。綺麗な翡翠色の眼で優しさに満ち溢れている。だけど、それ故に何かをやってしまったのだろうか。もう、僕には何をするのが良いのか見えてこなかった。だからと言ってその状況から目を逸らすのもまた違うものではあった。
口からは何も出てこない、僕の実力では今の気持ちを相手に伝わるような言葉として表現するのは難しかった。
まだ僕には手に負えないことだったのだろうか。それを考えると何か身勝手な理由に巻き込んでいるような気がする。どうしてもそう考えなくもなかった。しかし、此処で僕は不意に川の方を向いた。何かが居るような気はしたが僕がそれを判断した後で同じようなことを繰り返した。ここでこの人を助けるか否か。
僕はその時間からするとかなり考えた。二極の選択に僕はどうしても迷いが生じてしまった。だけど、此処でそのような事をするのも違うものだと思うと自然と脚は動いていた。
緑色の髪の女性の肩を両手で一度掴んでから手の位置を変えた。左手を反対の肩へ、右手をその人の後頭部へと変えておいた。
その代わり、僕は一切の受け身を取れなかった。それは他人を助けようとする時に察してはいたがそれは自分の身が危うい事はよく分かっていた。
背中からの衝撃、そして脚のつかないその感覚、それが全て僕の頭の中に大きく信号として送られた。
何をしても止まらない、打っている場所はないと言わんばかりに全身が痛い。