慣れない環境、僕はどうにもしっかりと眠りにつく事はできなかった。ただ、外に明暗はなく薄暗いだけなので日にちがどのようになっているのかそれについては何も分からない。
一つ言えることがあるとすればケプリさんは部屋に置かれている布団で横になっているというところくらいだろうか。まだ夜明けではないと思っている。
僕は階段を降りて出入り口から外に出る。特に目的なんてものはないが温泉宿の敷地からは出なければ問題はないと思う。
無人の空っぽになった空間を抜けて僕は中庭へと足を進める事にした。
誰も居ない、ましてや朝か昼か夜かどうかさえも見えてこないこの鳥籠の中では僕は上を見てこの中の空気を感じて見飽きた景色を見ている事くらいしかできなさそうだった。そのうち、これが当たり前だと思えて横を向き始めるともうこの閉鎖された空間にも慣れというものが生じてしまう事になる。
あまり立ち寄らないほうがいいとされている地底にある温泉を紹介されている時点で思ったのだが、何か違うものがあるとも考えない訳ではなかった。少しだけ、異なると思えるそれらは僕の容量のない頭の中で駆け回り続ける。
そう静かに、静かに僕を蝕んでいくのだーー。
○
「お前が居ない間に聞いた話だ」
そう切り出したのは同室に居たケプリさんだった。何処へ行ったのか、それについては一言も尋ねられなかったが僕が来るまでは一口も食事を摂っていなかった。その理由を聞いてからそれを返され、そしてこの言葉が返された。
「食事中に話す話題なら構いませんよ」
「地底について少し聞いていたのだが、その時に中居から地霊殿という場所があることを聞いた。興味はあるか?」
「興味はあります。その前にその場所はどのような場所か、それは気になります」
「簡単に話せば地底を全ている主人が住まう場所であるらしい。だが、詳細を聞いてみると出入り自体は別に構わないらしい。それ以上は自分の目で確かめて欲しい、と解釈しておく事にした」
「最後が何やら嫌な予感がしますね」
「それは仕方ないだろう。危ないというのは読み取れた」
ケプリさんは箸の使い方に離れていないのか二本の棒を両手に持っていた。
「それでケプリさんは辞めるのですか?」
「そんな訳はないだろう」
「でしたら、来たついでに挨拶くらいはしましょうか」
「どの立場でモノを言っている。此処ではただの一般人だ」
「それは知ってますよ。言葉の綾と言うものです。ちょっと億劫なんですよ」
「……それなら良いのだが」
ケプリさんは両手に棒を持っているその状態からは何も進展はなかった。僕は一口も口にはしていない。
「地霊殿の主はどのような人なのでしょうか?」
ケプリさんは少しだけ考えていた。その仕草は昔から変わらずに左手で顎を触る。どうでも良いこと、と言えば何も関係ないとは思うが彼はそのようには言わない。下らない話であろうとある程度は付き合う。度が過ぎると怒られる。
「恐らく、鬼よりも腕力が強いのだろう。格好のいい服装に身を包んでいると思う」
「僕は意外と優しい人だと思います。それでも見せる牙は鋭利なものであると思います」
「言い得て妙だが、悪くはない。どちらが正しいか楽しみにしている事にしよう」
「食べ終えたら、行きましょうか?」
「あぁ、その前にこの棒の使い方を教えて欲しい」
「見て覚えてください。僕も我流なんです」
親指と人差し指で一本を挟んで中指を間に挟んで下から薬指と小指で押さえる。これが正しいのか、それは知らないがお父さんの持ち方はそんな感じだった。
「教えてくれても良いだろう」
「教えるの下手なんで」
「……そうだったな」
ケプリさんは冗談を言いながら、笑っていた。その後、ちゃんと使えたかどうかは想像に任せる。
○
中居さんに話しかけてから詳しい場所を教えてもらった。それからまた利用するかもしれないと、ケプリさんは伝えて此処から出かける事にした。
いつも通りの岩肌に薄暗い空間、しつこいが時間は全く読み取れない。昼か、夜か。入ってから何日経っているのか。
「中居さんの話では、どうやら此処から南側へと進むと良いらしい」
「そうらしいですね」
「どちらにしろ、少し睨まれたような気がするのは如何してだろうか?」
「自分の目で確かめたほうが良いのでは?」
「もう少し、話を広げる気はないのか」
「あぁ、暇つぶしですか」
「言い方……まぁ良い。どれくらい距離があるのかは教えてもらっていないから時間を潰すのには打ってつけだろう」
「やっぱり鬼が恐れている、というのは当たっているのかもしれませんね」
「俺の言い分は合っていそうだ」
「まだ、分かりませんよ」
「ほぼ決まりだろう」
「見せる牙で恐れを抱かせているだけかもしれません」
「しかし、地底は本来危険な場所のはずだ。恐怖以外の何で統べるつもりだ?」
「敢えての優しさですよ」
「予想の反対を突くと言うことか。面白い」
ケプリさんは楽しそうに鼻で笑う。
「それとも逆に攻めにくい人とか。幻想郷の当事者の子とか」
「それも捨てがたい。一度怒らせばその代償が怖いという風か」
ーーそんな風に会話が続いていく中、脚を進めていく。景色はそう変わりはしないが目の前にはやがで大きな館が現れた。
薄暗い地底なので色合いは分かりにくいが青色みたいな寒色系統の屋根と黒い壁のようだ。影に消えるように控えめに存在を示すその感じはとても統治者の住む場所ではないように思える。
「着いた、のかな?」
「間違い無いと思うが」
「入りましょうか」
「ああ、間違えていたらまた事情を話せばいい。襲われようとも二人ならいけるだろう」
「油断は禁物ですよ。強い人はとことん強いので」
「信じられないがな」
「そのうち、ーーそのうち分かりますよ」
僕はそうとしか言えなかった。
○
湯気の立っていたはずの赤い光沢と蝋燭の火を反射させる紅茶は随分と前に冷め切っていたようだ。
湯気どころか、空気に触れて酸化しているような色合いをしている。一体自分で飲もうと淹れた紅茶がこんなになるまでやるとは思ってもいなかった。
いつも通り、誰も来る客はなくもう教育というものもない。中居としての作法を纏めた書物を深く読み尽くす必要性は今や皆無。地底の住人は早々の用事がない限りは訪れることはない。カップに入った紅茶を捨てるために廊下を歩きながら日常と変わらない事を考える。それさえも無駄だと思いながら。
温泉の経営も今では放っておいてもそれほど問題なく営業を続けている。私が一々手を加える必要もない。いつも通りの職務に手を伸ばし、管理という名目で押し付けられた一癖ある人達をまとめていくーー。これがどれだけ大変なのかは誰も分かってなどくれない。
「すいませーん。誰か居ますか?」
……珍しい客だ。若い男の声で可愛らしい。年齢はまだ子供と大差はない、それくらい。そして予定にはなかった来客に私は多少の不安はあった、賊なのではないか、と。しかし、それも声を聞くだけではそうとも取れない。
「本当に此処で合っているのか?」
そしてもう一人、どうにも年齢が不釣り合いで低い声を出している。私はその声の落差には嫌な予感がする。
「でも、此処で合っていると中居さんには聞いたんですよね?」
これは完全に客だ。紛れもなく、何の理由はさっぱり理解出来ないが私か親しい誰かに会いに来たと思われる。
「あぁ、そのはずだ。もう少し待ってみるか。人に話を聞かない事にはらちが開かない」
「もう一回呼んでみましょうか?すいませーん」
私は出なくても良さそうとは思っていたが何故か顔を出したくなったので適当な場所に置いて階段を下りる事にした。
「お待たせしました。何の用かしら?」
白髪の男性と黒髪の男性だった。背の感じは白髪の男性が頭一つ抜けている印象がある。
(あ、……。)
「あ、こんにちは」
思考と発言の時間差はほぼなかった。おかげで言葉が重なり、何を言っているのかは聞き取りにくい。ここまで来るとある種才能のような気がする。
(早速外した)
「急に押し掛けてしまい申し訳ない」
なるほど、何を考えているのかさっぱり分からない。指示語がない以上は私の眼でも読み取れない。彼らは何かを予想していたのだろう。私はそう思った。
「いえいえ、別に構いませんよ」
(よ……。)
「良かったです。ところで此処が地霊殿で間違いないですか?」
えげつない速さだ。思考と発言のタイムラグは一文字を話すよりも短い。かつてないほど厄介な相手だった。
「はい。間違い無いです」
(ぼ……。)
「僕はヒカルと言います。彼はケプリです」
(速いな。もう少し警戒をして欲しいものだ。仕方なし)
「私がケプリだ。以後お見知り置きを」
どうやら、ケプリという白髪の男性の方は歯止め役として働いているらしい。だけど、それでも止まらないヒカルという黒髪の男性はあまりにも無防備すぎた。この場合、純粋無垢であるという言い方の方がよりよく進むだろう。
「私は古明地 さとり。地霊殿の主人を勤めています」
(と……。)
「と言う事は地底を貴女が統べているのですね?尊敬します」
この人は純粋だった。思った事を口にする、そしてそれは失礼ではない褒め言葉。人の懐に淡々に入り込む。何とも恐ろしい、いや羨ましい。
(同意見だな、しかし後で言うのもな)
「自分達が見ている限り、並大抵の努力ではないのだろう」
間違えてはいない。誰かのおかげで勝手に温泉の管理を任される事になった時には驚いたものだが、あの人は本当にやってしまった。自由過ぎて思考と発言、行動が乖離しているあの人のおかげで。
「いえいえ、そういうわけでもないです」
(さ……。)
「さとりさんにしか出来ないのですから、どんどん出してもいいと思いますよ」
ーー何を言い出すかと思えば。そんなふうに言う人は中々いなかった。誰もが恐れて恐縮する言葉でも言ってみようか。どのような反応を見せるか見ものだ。
「実は能力を利用していまして。人の心を読むことが出来るのです。そのおかげでとても楽ですよ」
(そ……)
「それで職務を全うして楽しいものですかね?あまりそうとは思わないですが」
観点がズレている。この人やはり可笑しい。
「すまない。此奴は偶にこう言う発言をする。寛大な心で許してやって欲しい」
貴方が代わりに言うものではない。しかし、これでこそ二人の関係は成り立つのだろう。動きの速いヒカルにそれを止められる、または尻拭いの出来るケプリ。この二人は面白い。
「それは構いませんよ。立ち話もなんです。応接間にお連れ致します」
私は伝言板に一応書いておいた。もしもの時、私を呼べるように何処にいるのかくらいは書いておく。
出来れば、簡単につぶれない事を願う。