四十三番街にあるカフェ《セフィロート》にフィンヴァラが戻ったのは、18.00タイムを僅かに過ぎた頃だった。
出入り口に掛かっている『準備中』の札を裏返して『営業中』に変え、鍵を開けて中に入る。そして奧に行き、身に纏っている白いロングコートを脱いで素早く着替え、何事もなかったかのようにカウンターに立つ。
湯を沸かし、自分用に紅茶を煎れているとき、入り口が開いた。
「イラッシャイマセ」
無表情にそう言い、入って来た客を見る。白いコートを羽織り、眼鏡を掛けた長い黒髪の女性だった。
「あー、良かった。やっぱり此処はやっていたのね」
その女性はそう言うとカウンターに座り、持っていた紙袋から食器を出した。その食器の底には天使の絵が描かれており、更に《Sephiroth》と書かれてある。それは《セフィロート》の食器であり、そのデザインの優美さと描かれている絵の端麗さで、一部のマニアに絶大な人気があったりする。然も、その食器をデザインをしているのがフィンヴァラであり、更に描かれている絵を描いているのも彼なのだ。料理の腕といい、食器のデザインといい、そして画才といい、実は多才なフィンヴァラだった。
「御馳走様、マスター」
その食器をカウンターに置き、その女性は頬杖を付いて微笑みながら彼を見詰めた。そしてフィンヴァラが自分のために煎れた紅茶を見る。
「ドウ致シマシテ。ソレヨリ持ッテ来テ頂キ、有リ難ウ御座イマス。デモワザワザ洗ワナクテモ良イノデスヨ」
その視線に気付き、その女性にも紅茶を煎れる。そして更にクッキーを小皿に乗せてその前に置いた。それを早速摘み、その女性――リエ・クラウディアは唇を尖らせた。
「洗うのは当たり前の礼儀でしょ。それに、実は全部ミィに食べられたの」
洗わなくても良いと言われたことで口を尖らせたのではなく、折角の料理を全部食べられたのが気に入らなかったらしい。
幾ら忙しくて手が離せなかったとしても、幾らフィンヴァラの料理だったとしても、全部独りで食べるのはあんまりじゃないか。そう思うリエだった。然も、それはファウル・ウェザーがリエのために頼んだものであり、更に言うなら彼女の大好物の盛り合わせだったのだ。
「ソレハ……オ気ノ毒ニ」
「ふっふっふ、でも良いのだ。今からたっぷりとミィに奢って貰うから」
そう言い、不敵に笑うリエだった。
そして少しすると再び入り口が開き、赤いコートを羽織り、薄茶色の眼鏡を掛けた女性が入って来た。
「イラッシャイマセ」
「ちょっとリエ、あたしにタクシーの料金払わせるなんて酷いじゃない。貧乏人の部下に支払いをさせるなんて、それでも貴女社長なの?」
その女性は、入って来るなりカウンターに座って落ち着いているリエに、フィンヴァラの言葉を遮るようにして捲し立てる。だがリエは鼻で笑い、
「ふふん、私にそんなことを言って良いのかなぁ? あーあ、ファルが折角
頬に手を当て、切なそうに溜息を吐く。それを見て、彼女――副社長兼秘書のミリアムは言葉に詰まってしまった。
「ううん、良いの、怒っていないわよ。ただ、ファルが
不自然に、やけににこやかに笑いながら、然も「私だけのため」を強調してリエが言う。明らかに嫌がらせなのだが、自分が悪いだけに怒ることが出来ない。
あのときミリアムは、届いた出前をなにも考えずに食べてしまい、殆ど食べ終わった時点でメモに気付き、顔面蒼白になった。そのメモには流暢な文字で、
『ファウル・ウェザーより依頼されたものです。後日で構いませんので彼に連絡をして下さい』
と、書かれていた。
ファウル・ウェザーとリエの関係は、実は誰よりも詳しいミリアムだけに、その事態の深刻さに暫し頭を抱えて悩んでしまった。別にファウル・ウェザーからリエへのものでなければ全然悩まないのだが、お互いに忙しくて逢う機会がほぼない二人だけに、たったそれだけのことがとても大切であると判っているし、それが二人を繋ぐ絆だと理解出来るから、余計に自分がしてしまったことが悔やまれてならない。
だが後悔役立たず、悩んでいても仕方ない。ミリアムは思い切ってリエに打ち明けようと思っていたら……、
「ねぇ、これって、ファルからのだよねぇ?」
時、既に遅し。いつの間にか現れたリエが、落ちているメモを見付けてそう言った。その瞬間、ミリアムの頭の中が真っ白になり、リエが俯いてその場に座り込んでしまった。
その後一悶着あり、結局ミリアムがご飯を奢るということで手を打ったのである。
暫くリエに頭が上がらなくなりそうだ。そう思いつつ出されたコーヒーを一口飲み、少し首を傾げて砂糖を五本まとめて入れた。
「……いつも思うけど、どうしてそれだけ甘い物を飲み食いしていて太らないのよ?」
それを見ていたリエが、心底不思議そうに訊く。するとミリアムは、またかという顔になって溜息を吐いた。そんなに太らない体質が羨ましいのだろうか? そんなことを思い、レモンティにレモンをまとめて三切れ入れてかき回しているリエを見る。
「貴女こそそんなに酸っぱいものをよく……ああ、そうなんだぁ。おめでとう」
「何がよ?」
まだ熱いそれをすすりながら、横目でミリアムを見る。何故が意味ありげに笑っていた。
「時間がないとか言いながら、ちゃっかり逢ってすることしてるんじゃない。で、予定日はいつ?」
「……ねぇ、ミィ……私、妊娠していないよ」
「なんだ、詰まんない」
そう言うと、激甘になっているコーヒーを飲み干す。そしてリエの前にあるクッキーを取り、口にした。
「……って、それだけなの? もっとさぁ、色々訊かないの? 何処まで行っているの? とか、結婚しないの? とか……」
「別にぃ。だって、もしそうなったらアンタ黙っていないでしょ?」
まったくもってその通りだけに、何も言えないリエだった。それを尻目に、熱いコーヒーをお代わりしているミリアムだった。負けずにお代わりしたいのだが、まだ飲み切っていない。猫舌のリエにとって、それは絶対に出来ない芸当であった。
「御注文ハ?」
談話している二人に、フィンヴァラが訊く。すると二人は途端に黙り、真剣にメニューとの睨み合いを開始した。
待つこと暫し、リエがメニューを閉じて、グラスを磨いているフィンヴァラに一言、
「マスター、お好み焼きって、ある?」
「ちょっと待てえぃ!」
思わず突っ込むミリアムだった。
「どうして此処にお好み焼きがあるっていうのよ? あるワケないでしょうな! そもそもメニューの何ぉ処ぉにそんなンが書いてあるのよ!?」
「アリマスヨ」
激昂するミリアムを余所に、涼しい顔でフィンヴァラが言う。もっとも、その表情は変わることがないのだが。
「…………………………ねぇ、マスター、鯖の味噌煮って、ある?」
絶対にないだろうと思いつつ、思わずミリアムが訊くが、
「アリマスヨ」
それが当然であるかのようにフィンヴァラは答える。
「……………………………………知らなかった」
頭を抱えてカウンターに突っ伏すミリアムだった。だがリエは至って平気で、
「マスター、紅ショウガは入れないでね。私、人工着色料べっとりのあれは許せないの。だって色が付いちゃうし、味が壊れるでしょ? それから、エビは大盛りにして玉子も入れてね。玉子は半熟にして、固くならないようにして頂戴。そうそう、それからチクワも入れて。実はあれを入れると美味しいのよ」
細かい注文をしていたりする。それを何事もなかったかのように承諾し、フィンヴァラは奥へと消えた。そしてその光景をじっと見ていたミリアムは、只呆然としている。
そして程なく、フィンヴァラが皿を二つ持って現れた。一つはリエが注文したお好み焼き、そしてもう一つは……鯖の味噌煮が盛り付けられている。それを見たミリアムは、まさか本当に鯖の味噌煮が出てくる筈がないと心の何処かで思っていたのか、口をパクパクさせているだけだった。
「わーい、マスター上手。美味しそう♪」
出されたお好み焼きを箸で突いて冷ましながら、呆然としているミリアムを見る。そして……横からこっそり鯖の味噌煮を手元に引き寄せた。
「……マスター、どうして鯖の味噌煮があるの、よ!」
呆然としながらミリアムが言う。そして引き寄せているリエの手元数センチ手前に、持っている箸を突き立てた。
「あたしの鯖の味噌煮を盗るんじゃない!」
「えーん、良いじゃない美味しそうなんだからー」
箸を握り締めたまま、両手を頬に当ててにっこり微笑む。だがミリアムはそれを冷ややかに見詰め、
「だからって、私が注文したものを盗って良いという理由にはならないわよ」
「いや、でもほら、ミィってば茫然自失していたでしょ? 折角の料理が冷めたらなんかヤだなーって思ったのよ。昔から言うでしょ、『飯は熱いうちに喰え』って」
「全っ然判んない。そもそも何なのよ、その『飯は熱いうちに喰え』っていうのは?」
「ご飯が冷めちゃうと美味しくないでしょ? だから昔の偉人はそう言ったのよ」
「猫舌のアンタには死ぬほど似合わない台詞だわさ。そもそもそんな諺はないでしょうな」
「既存の概念に囚われていたら、より良いものは作り出せないのよ。……ふ、そんなことも判らないようじゃあまだまだね。当分は副社長と秘書の兼任は続けて貰うわ」
秘書なんか雇う気がないくせに。そう思ったが口にせず、得意げに長い髪を払いつつ不敵に笑うリエを半眼で一瞥し、鯖の味噌煮を箸で突く。そしてそれを咥えて隣のお好み焼きを見た。妙に美味しそうに見える。人が食べているものは、往々にしてそう見えるものだ。
そしてミリアムは、フィンヴァラに『飯は熱いうちに喰え』という言葉について力説しているリエの手元にある、冷ますために切り分けてあるお好み焼きを見事な早業で摘んで頬張った。
「あああぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁぁーーーーーーーー、私のお好み焼きぃ!」
「あら、気が付いたの?」
大声を上げるリエに一瞥すら与えず、涼しい声でミリアムは言った。その態度が気に入らなかったのか、リエは箸を振り回して喚いていた。その姿は、既に駄々を捏ねる子供である。
「気が付かないワケないでしょう、折角冷ましていたのにぃ」
「『飯は熱いうちに喰え』って言っていたから、冷ますのもナンだなぁって思ったのよ」
頬張っているお好み焼きを飲み込み、そして続けて鯖の味噌煮を口に運ぶ。
「信じられない。それでも貴女、副社長なの?」
「その言葉、そっくりそのままアンタに返すわ。そもそも社長の自覚がないのよねぇ。すぐに逃げ出すし」
言い返せずに言葉に詰まっているリエを尻目に、ミリアムはいつの間にか鯖の味噌煮を綺麗にたいらげていた。そしてリエは、まだ熱いお好み焼きに悪戦苦闘していたりする。
「マスター、ご飯とヤキソバ頂戴。あ、みそ汁もね。味噌は白味噌、具はナメコが良いな。あるでしょ?」
冷ましながら、そんな無茶なことを言うリエだった。そしてそれを聞いていたミリアムはというと、
「炭水化物ばかり摂ってどうするのよ。ご飯をおかずにご飯を食べる様なものでしょ? そもそも、此処にそんなモノ……」
無いでしょ。と言いたかったが、鯖の味噌煮があっただけに断言出来ないミリアムだった。そして横目でフィンヴァラを見る。彼はグラスを並べる手を止め、
「アリマスヨ」
「……やっぱり……」
脱力感に襲われるミリアムだった。だがそんなことをしていても腹は膨らまないと判断したのか、すぐに立ち直るとメニューを睨み始めた。そして奧に引っ込んでいたフィンヴァラが戻ったのを確認してからメニューを閉じ、一呼吸置いて言った。
「ベーコンとほうれん草のペペロンチーノって、ある?」
それもメニューにないものだった。だがやはりフィンヴァラは、
「アリマスヨ」
そう言って奧に引っ込む。
「侮り難し、セフィロート」
わけの判らないことを言いつつ、拳を握り締めるミリアムだった。
その後二人は暫く其処で食事を堪能し、そして空腹が満たされ食後の緑茶を飲み干してから席を立つ。
「マスター、会計お願い」
ミリアムがそう言い、カードを出す。リエはと言うと、さっさとコートを着て出入り口に向かっていた。支払いをする気は、一切ない。そしてそれが当初の約束でもある。
あの薄情者。そう思いつつ金額を言うフィンヴァラにカードを渡す。彼はそれを指先で撫でただけで返し、領収書を渡した。
「イッテラッシャイマセ」
そう言うフィンヴァラに手を振り、リエとミリアムはセフィロートを後にした。そしてタクシーを掴まえようとするが、この日に限って一台も走っていない。
「こういう日は、何をしたって掴まらないんだよね」
溜息混じりでミリアムが言う。それにリエも頷いた。
「それもこれも、全部あの中央公園でやっているイベントが悪いんだ。問い合わせの電話しても全然繋がらないし。そもそもスポンサーに何の連絡もなしで番組変更するんじゃないわよ。おかげでファルが頼んでくれた出前、食べ損ねたじゃない」
まだ言っているよ。そんなことを考えたが、こればかりは文句の付けようがない。一方的に自分が悪いし。
「こうなったら中央公園突っ切って、歩いて帰ってやる」
それは意味が判らない。そう思ったが口に出さず、ただ「はいはい」と言っただけでその肩を軽く二回叩いた。そして次々と文句を言うリエを半ば無視して、そしてその背を押しながら歩き始める。
だがその二人を、何処からともなく現れた三人の女性が取り囲んだ。皆戦闘服に身を包み、そしてその手には重火器が握られている。
「あれ、どちら様?」
頭を掻きつつ、リエが訊く。するとその一人が口の端を吊り上げて嗤い、その足下に高圧レーザーを打ち出した。
「……ねぇ、ミィ……これってピンチってヤツ?」
「……そうみたい。でもどうしてあたし達なんかを……」
其処まで言うと、一人が突然銃のグリップでミリアムの側頭を殴りつけた。それだけで皮膚が破れ、彼女の顔が鮮血で染まった。
「ミィ! ちょっとアンタ、何てことをするの……よ……」
そしてその額に、銃口が突き付けられる。リエは、倒れたミリアムを抱きかかえたままその動きを止めた。
「ね、ねぇ、話し合おうよ。私なんかを狙ったって、一銭にもならないよ」
自分が《結界都市》随一の収益を上げている会社の社長だということを、すっかり忘れているらしい。
銃口を向けているその女性は無表情で近付き、その引き金を引いた。銃口が眩い光を放ち、そして打ち出された高圧レーザーは狙い違わずリエの頭を貫く……筈だった。だがその女性は、横から飛び出したオレンジ色の物体の体当たりを頭に喰らい、思わず仰け反ってその狙いを外した。
横から飛び出したオレンジ色の物体は、リエの正面に立ちはだかって一言、
「ぷきゅう」
と言った。いや、鳴いた。
「へ? これって『まぁぶる』?」
突然の出来事に面食らったのか、目の前にある物体を凝視してそんなことを言う。そしてその物体――『まぁぶる』はそれに答えるかのように「きゅう」と鳴いた。
「何だ、その巫山戯た物体は!?」
どうやら面食らったのは、リエだけではないらしい。仰け反ったその女性が逆上してそう言う。無理もない。思わずそう思ってしまうリエだった。仰け反るくらいの衝撃を喰らわせた相手が『まぁぶる』だったとしたら、きっと自分でもそう思うだろう。そんなことを考えつつ頷き、自分で勝手に納得していると、
「寒冷地仕様『まぁぶる』だ。どうだい、面白いだろ? HA! HA!」
言われてみれば、この『まぁぶる』はふかふかの帽子を被り、マフラーをしてコート――いや、マントか?――も羽織っている。これはなかなか斬新だ。次の商品の参考になるかも知れない。
「じゃなくって」
独白し、リエは声の方を見た。其処にはバックルが無数に付いた革のズボンを履いて、コートをだらしなく羽織った白髪の男がいる。その口元には笑みが浮かんでおり、そしてその双眸を隠すように大きなサングラスを掛けていた。
その男はゆっくりとリエの前に立ち、コートのポケットに手を突っ込んだまま振り返りもせずに、自分を睨んでいる女性を見た。そしてその足に、『まぁぶる』が頬摺りをしている。
「貴様……何者だ!?」
その質問に肩を竦め、上を見上げて深く溜息を付く。
「……やれやれ、滅多に外出しないからこんなことになるんだろうね。でもまぁ、ファウルやリケットみたいに有名じゃないとは判っていたんだけどねぇ」
そう呟き、自分に向けられている銃口を指差す。その指先から触手がゆっくりと生えてくる。その不可解なものがその銃口に触れた刹那、高圧電流が流れてその女性が炎に包まれた。
「俺様はDB。覚えておきな」
再びポケットに手を突っ込み、口元に笑みを浮かべて鼻で嗤う。だがそれに何のリアクションも見せず、残った二人の女性は一斉にDBへ銃を向けた。この至近距離で一斉に砲火されたら、彼の傍にいるリエとミリアムも只では済まないだろう。
「DB……《Vの子供達》の長兄。その《能力》は〝エレクトロキネシス〟。……だが同時に〝サイ・デッカー〟であるという非常識な人物でもある」
女性の一人が、棒読みで独白する。その瞳が、電子機器の様に点滅していた。
何故非常識かというと、〝サイ・デッカー〟は〝サイバー〟に限りなく近いからだ。いや、近いどころかコンピューター制御を目的とした〝サイバー〟だと思ってしまっても良い。つまり、〝サイ・デッカー〟は〝
「へぇ」
サングラスを中指で僅かに下げ、爬虫類の様な瞳孔を二人の女性に向ける。その鋭い視線が、二人を射抜く。だが二人はそれに、全く気付いていない。
「〝サイ・デッカー〟としての実力は《結界都市》随一。だが戦闘能力は《Vの子供達》の中では最低ランク」
「……まぁ、一般的な評価はそんな所だろうね。そもそも引き籠りだし」
サングラスを戻し、肩を竦める。そしてその口元は皮肉っぽく嗤っていた。
「確かに俺様は戦闘向きじゃないなぁ、面倒臭いし。そしてどちらかというと事務職向きだね。だけど、お前ら如きに後れを取るほど莫迦でも間抜けでも無能でもないよ。それに、戦闘向きじゃないヤツが戦えないって誰が決めた?」
その言葉を聞いても全く反応せず、その女性達はDBとリエ達の回りに六角形のものを放り投げる。それは街明かりを反射し輝きながら、だが重力に従わずにその場に静止した。
「……鏡?」
そう呟くリエの言葉を遮るかのように、向けられた銃口が輝き高圧レーザーが打ち出された。それはDBやリエではなく、空中に静止しているもの――鏡に向けられたものだ。そしてその結果、レーザーが反射して三人を囲んだ。
続けざまに打ち出されるレーザーを見て、リエはミリアムを強く抱き締めた。そしてその傍らに『まぁぶる』がいて、リエをじっと見詰めている。『まぁぶる』はリエと目が合うと、その愛らしい瞳を細くして「にぱっ」と笑った。
「巻き添え喰らいたくなかったら、じっとしてろよぉ」
DBはポケットから両手を出し、リエを見詰めて笑いながら弾んでいる『まぁぶる』の頭を撫で、そしてその両腕を大きく開いた。
その広げられた両手の指先全てから、白色に輝く触手が伸びる。それがDBとリエ達を包み、周囲で跳ね回るレーザーを悉く吸収していく。そして更に、その触手に触れた鏡が蒸発した。
「はい、お終い」
そう言い、触手を消して再びポケットに手を突っ込む。その出来事は余りに静かで、そして幻想的だった。それだけに、なにが起きたのか理解出来たものはいないが。
女性達は、その出来事を目の当たりにして暫く呆然としていたが、すぐに立ち直ると持っている銃を捨てた。そして腰に差してあるナイフを抜くと、二人同時に突進してくる。自分達の身体には絶縁処理が施されており、彼の《能力》である〝エレクトロキネシス〟は通用しない。そしてDBは〝サイ・デッカー〟、戦闘用〝サイバー〟である自分達が負ける筈がない。そう思っていた。だが……。
「命は粗末にするモンじゃないよ」
そう言うと、ポケットから手を出して中指を突き付ける。
「Shock you」
突進して来る女性の一人を、その指先で触れる。それだけで、その女性の身体が発火した。
「何だと!?」
突進を中断して素早く離れた残る一人を一瞥する。サングラスがずれ落ち、その爬虫類の様な瞳孔が向けられた。その鋭い双眸は、先程の惚けた口調と表情から懸け離れている。そして発火した女性の身体は蒼白い炎を上げて燃え尽き、灰すら残っていない。これほどの短時間で燃え尽きるということは、その炎は十万度を超える熱を発していたということになる。
「どうだい、極限すら超えた〝エレクトロキネシス〟の味は? 電撃ビリビリは所詮極限までしか研ぎ澄ませなかった、二流のヤツらがする事なんよ。この《能力》を俺様や兄弟達は勝手に〝パイロキネシス〟って呼んでいるがね」
そう言うDBを見詰め、そして続けてリエ達を見た。目的は果たせなかったが、DBの《能力》の詳細という手土産もある。此処は一旦退いて体勢を立て直すのが常套手段だ。そう判断し、その女性は後退を始めた。だがその動きが、止まった。リエの影が不自然に延び、その女性の足下に達している。
「リエを……狙ったな」
影が蠢き、そう呟く。その声に、リエは聞き覚えがあった。
「闇に還れ」
影がそう呟く。刹那、女性は蠢く影に飲み込まれてその場から消え去った。そして影はリエの傍らに戻り、実体化する。その姿を見て、リエは確信した。
「護っていてくれたんだ。ありがとう、ファル」
優しく微笑むその影――ファウル・ウェザーにそう言う。だがその姿はすぐに消えてしまった。そして、周囲に静寂が戻る。
リエは抱きかかえているミリアムを見た。出血は酷いが、傷自体は大したことはないらしい。それにこの程度の傷だったら、ファウル・ウェザー病院に連れて行けば跡形もなく消えるだろう。そう思い、安堵の溜息を吐く。そして続けてDBを見上げ、
「助けてくれて有り難う。そのついでと言ってはなんだけど、レスキュー呼んでくれない?」
「OKOK、お安い御用だ妹よ」
その言葉に首を傾げたが、もう一つ気になることがあるために訊き返すのを止めた。その気になることとは、彼女にとっては非常に重要なことだった。死活問題だと言っても良い。
「もう一つ」
先程よりも更に真剣な表情になり、リエは真っ直ぐにDBを見詰めて一言、
「この寒冷地仕様『まぁぶる』、頂戴」
自分に懐いて頬擦りをする『まぁぶる』を抱き締め、そんなことを言う。
リエとミリアムが先程までいたカフェ《セフィロート》の出入り口が乱暴に開き、数人のスーツ姿の男達がフィンヴァラによって外に放り出される様を遠目に見つつ、「流石ファウルが選んだ女性だ」などと妙な感慨に耽ってしまうDBだった。
予定外の出来事が発生し、司会のDJロッディは慌てていた。自分は先程の戦闘――マーヴェリーとの戦闘までしか聞いていない。そしてそれ以上は何も起きないと、他でもないマーヴェリーに言われていたのである。それがどうだろう、その彼は無惨に切り裂かれ、そればかりか予定外の人物まで現れてリケットと対峙しているのだ。今まで予定外の出来事は数知れず遭遇してきたが、これほど予定が狂ったことはない。
「一体……どうすれば……」
そんなことを考え、何とか次ぎに繋げようとしている彼の努力を余所に、空中にいるバグナスを静かに見上げているリケットは、自分の中にあるエネルギー残量を計算していた。だがその行為をすぐに中断し、持っている実刀――スパイドを握り直して集中する。彼の中に埋め込まれている〝タイム・チャージ〟が唸りを上げ、そしてその全身が白色に輝いた。
「おっほう、凄ぇ凄ぇ。エンジンが出すエネルギーが膨大過ぎて、バックロードしたヤツが体外に放出されているのか。面白ぇ」
言い放ち、バグナスは自身の周囲に重力塊を無数に発生させる。何故リケットがそれほどのエネルギーを生成させることが可能なのか、そんなことは気にしない。彼にとってそれはどうでも良いことであり、そして楽しめればそれで良いのである。それがバグナスとマーヴェリーの決定的な違いだ。
「お前ぇが出すエネルギーと俺が出すエネルギー、果たしてどっちが上だろうなぁ!」
その発生した重力塊は無差別に飛び回り、結界壁に当たって爆散する。極限以上に収縮された全ての物質は、その収縮が消失すると元に戻ろうとして自壊し、このとき膨大な破壊力を生む。そしてそれは、この世界にある殆どの物質を破壊し尽くすほどのエネルギーを持っているのだ。それは物質である限り、例外はない。
結界内に展開される破壊の連鎖を躱しながら、リケットは素早く周囲を見回した。これほどの破壊力をもってしても、この《結界》は全く揺るがない。それどころか、傷一つ付いていないかのようである。
そしてそれはバグナスも判っている。この結界が破られることなど有り得ない。多寡が〝サイバー〟如きが破ることが出来るほど安っぽいものではないから。
続けざまに繰り出される破壊のエネルギーにより、徐々にではあるがリケットは隅に追いやられて行く。その間にもリケットは結界壁に眼を向け、気付いた。天井に僅かだが歪みがある。
その瞬間、リケットの下腿が三方に開く。其処から圧縮された空気が排出され、彼は床を蹴って跳躍した。いや、跳躍と言うよりも飛翔したという方が正しいのかも知れない。
リケットはその左手に持っているスパイドを逆手に持ち替え、そしてその歪みに突き立てた。
結界を構成しているエネルギーが悲鳴を上げ、その余波が刃となってリケットを襲う。血飛沫が飛び、だがそれが結界のエネルギーによって焼け爛れ、嫌な臭いを発して蒸発した。それでもリケットは、下腿から圧縮空気を排出し続けた。
そのリケット目掛けて、バグナスは腕に仕込まれているガドリング・ガンを出して斉射する。この程度ではリケットに何の効果もないということくらい、判っている。だがあの状況で重力塊をぶつけると、結界のエネルギーとそのエネルギーが衝突して結界が自壊する可能性もあるのだ。
飛来する弾丸に気付き、振り返り様にリケットの肩が開く。そして其処から発せられる音響が、その弾丸を塵に変えた。
「〝フォノン・メーザー〟。そんなノもあったなぁ」
楽しげに笑い、しかしそのことでバグナスは開き直った。もう結界がどうなろうと、此処にいる莫迦共がどうなろうと知ったことではない。もっとも、最初からそう思っていたが。
「折角だから、もっともっと楽しもうじゃねぇか!」
大声で叫び、自身の周囲に無数の重力塊を発生させる。そしてそれを、スパイドを結界壁に突き付けているリケットへと一斉に放った。
「〝Numerator Decomposition Equipment〟」
リケットは呟き、そして《タイム・チャージ》が高速稼動する。彼の全身を包んでいる光が増大し、左腕から打ち出された鋼の鞭がスパイドに絡み付く。光が鞭へと移動し、更にスパイドに移る。鋼の鞭は膨大なエネルギーに耐えきれずに溶解し、それでも続けて流され続けるそれによって蒸発した。
展開されている《結界》を破るためには、膨大なエネルギーを使わなければならない。そして今リケットが持っている武器の中で最大のエネルギーを放つもの、それが《
そして次の瞬間、スパイドが結界壁を突き破り、結界に無数の亀裂が走る。そしてリケットは、既に結界の外にいた。
リケットが見た結界の歪み。それは魔導士ハズラット・ムーンが付けた傷に他ならない。リケットにはそれが判っていた。傷の付け方やその場所、そして残存する魔導の《流れ》に至るまで、全てが彼がやったものだと語っている。
因みに魔導には《流れ》というものがあり、それを行使する魔導士よって独特の個性があるのだ。それは癖と言ってしまっても良く、熟達している者ならば《流れ》を感じただけでそれが誰の魔導かが判るのである。
崩れ落ちる結界の破片に重力塊が当たり、弾け、そして発生した膨大なエネルギーはバグナスを包み込んだ。だがそれは、続けて発生した巨大な重力力場に吸い込まれる。しかし、流石に完全に無傷という訳にはいかなかった。彼の戦闘服は弾け飛び、そしてその四肢に巻いてある包帯は既に意味を成していない。それどころか、左足は直角に折れ曲がっていた。
「ええい、クソ、使えねぇ!」
吐き捨て、折れ曲がっている左足を引き千切って捨てる。そして上空にいるリケットを睨み、全身から発生させた無数の重力塊を支離滅裂に打ち出す。それは中央公園にも飛来して弾け、其処にいる人々は混乱した。
その場からいち早く離れようとする人々が折り重なり、倒れた者を踏み潰していく。
絶叫、悲鳴、怒声、罵声、その全てが大きなうねりとなって人々をますます混乱させる。落ち着かせようと番組のスタッフが大声を張り上げているが、それは全く意味を成さない。そしておそらく、そのスタッフ達も判っていたのだろう。静止する声は途絶え、やがて其処は逃げようとする人々によって戦場と化していった。不幸なことに、武器は文字通り売るほどある。それらを手に取り、人々は我先にと逃げ出していった。
「終わりだ……」
眼下で展開されている混乱を努めて見ないようにし、司会のDJロッディは呆然と呟いた。こんなことが起きてしまっては、もう二度と自分に仕事は来ないだろう。地道に積み重ねてきた実績という道。それが全て崩れ落ちるのは、何故これほど早いのだろうか。高いギャラに釣られて、こんな番組に出てしまった己の迂闊さを呪えと言われればそれまでだが、それにしてもこれは酷過ぎる仕打ちだ。
「許さないぞ……」
上空を見上げたまま、ロッディは呟いた。その双眸は、破滅した者のみが見せる狂気が浮かんでいる。
「私の全てを賭けてでも、あの男……リケットを殺してやる……」
呟いている彼の上を、そのリケットが高速で飛翔し、その場を放れて行く。それを睨み、彼はリケットへの復讐を誓った。だがその後を、全身に重力塊を纏ったバグナスが追い、その重力塊の一つがロッディに触れた。膨大なエネルギーが発生し、生身のロッディはそれに巻き込まれ、身体が四散し絶命した。彼の復讐が叶うことは、最早ない。
飛翔するリケットの後を追い、バグナスは次々と重力塊を放つ。それを躱して突き進むリケット目掛け、諦めずに何度も何度も攻撃を加えた。その逸れた重力塊は、付近のビルを直撃して破裂する。その被害だけでも甚大なものなのだが、バグナスはそのことを全く気にしていない。彼の頭の中にあること、それはリケットの破壊のみ。
リケットは破壊され崩れていくビルを一瞥し、だが進路はそのままで飛翔を続けた。ビルが破壊されようと何をしようと、彼にとってはどうでも良いことだから。
リケットは南へと向かっている。そしてその方向には、ファウル・ウェザー病院がある。そのことは判っていたが、それでも進路の変更をしなかった。何故ならファウル・ウェザー病院には強力な《結界》が張り巡らされており、それを破ることが出来る人物は二人しかいないからだ。その二人とは、ハズラット・ムーンと《魔導士ギルド》のマスターであるイグドラシル。
リケットは迷わず、ファウル・ウェザー病院の上空を通過する。そして、見た。屋上で長い銀色の髪を風に吹かれるまま佇んでいる女性を。そして彼女の空色の瞳と、リケットの冷たい青になっている瞳の視線が一瞬だけ合った。たったそれだけなのに、リケットも彼女も、お互いに誰であるかを理解した。
口元に微笑みを浮かべ、リケットはファウル・ウェザー病院の上空に舞い上がり、そして静止した。その首に提げてあるネックレスが不思議な輝きを放ち、三日月のペンダントヘッドが脈動する。
『心配かけて、ごめんなさい。私はもう大丈夫だから』
リケットの頭に直接その言葉が響き、リケットの表情が安らいだものになる。その表情を、暫く忘れていた。いや、意図的にしないようにしていた。五年前のあの日、彼女が『ジェシカ・V』に
彼女――シーリー・コートの声にその微笑みのみで答え、
「limiter one off……」
彼は自身に施されている二つの封印の内の一つを解いた。もう一つは、既に解除してある。『ジェシカ・V』が助けを求めたときに。その封印とは、埋め込まれてある〝タイム・チャージ〟を高速稼動させるために必要な《能力》。そして、今解除したもう一つの封印……それは自分の肉親より代々受け継がれているもの。遙けき太古より脈々と受け継がれている秘法。
「面白ぇぞ、テメエ」
空中でバランスを取って静止しているリケットの正面に、重力塊を従えたバグナスが笑いながら立つ。そして冷徹な表情に戻っている彼に鋭い視線を向けた。
「あのときはテメエが余りに甘っちょろくて反吐が出たが、今は違うみてぇだぁ。誰が死のうが関係ねぇってツラぁしてやがる。良いねぇ、それでこそ殺し甲斐があるってモンよ」
発生させた重力塊同士が共鳴し、耳を塞ぎたくなる不快な音が響く。そしてそれが、破壊されたビルから脱出しようと混乱している人々の頭上に木霊するが、それに気付く者は誰一人としていなかった。皆、自分が逃げることで精一杯だから。
「っくぜオラぁ!」
絶叫し、バグナスは重力塊を放った。それを躱し、間合いを詰めようと両下腿から圧縮空気を打ち出す。だがその背後から、先程放たれた重力塊が襲い掛かる。
コートの切れ端を千切り、追い掛けてくるそれに放り投げる。それが重力塊に触れ、破裂した。そしてその現象を目の当たりにしても、リケットは動揺しない。あの重力塊はバグナスの《能力》で作り出されたものである以上、それを彼がコントロール出来るのは当然のことだ。
そして更にバグナスの双眸が深紅に発光し、全身からその重力塊が際限なく発生してリケットを包んでいく。それで終わりではない。その上下に巨大な重力力場が発生し、リケットの逃げ道を遮断した。
「《重力結界》。まんまなのが気に入らんが、効果的だろう?」
自分の周囲に展開しているその《重力結界》を見回す。上下の力場は丁度その重力を相殺する位置にあり、僅かでも動いたのならリケットを引き込み圧死させるだろう。そして横を取り囲んでいる重力塊は、言うまでもなく触れるもの全てを破壊する。
「何やらマーヴェリー『達』はお前の機能を欲しがっているらしいが、俺はテメエの機能なんざぁ全く興味がねぇ。そもそもあの野郎共は気に入らねぇんだよ。オリジナルに勝てるわきゃあねぇくせに気位だけ高くてよぉ。ま、今回のことで三人も減ったから暫く大人しくなるだろうかな」
そう言い指を鳴らそうとするが、手が機械仕掛けの為に鳴らず、露骨に眉を顰めるバグナスだった。だがそれが合図となり、重力塊の一つがリケットへ一直線に向かう。身動き一つ出来ないリケットは、それを躱すことが出来なかった。だがその代わりに右腕から鞭を打ち出し、それに触れた瞬間切り離す。重力塊は鞭を一瞬のうちに吸い込み、そして爆発した。その爆風がリケットを包むが、彼はその場から微動だにしなかった。いや、出来ないし動けないのだ。
爆風が収まり、その中から両腕で頭を庇って入るリケットが姿を現す。両腕の人工皮膚が破れ、人工筋肉が抉り取られて人工骨が露わになっている。痛みはない。爆風を受けた瞬間に神経を切り離したから。だがそうすると、感覚までも無くなってしまう。そして感覚の消失した腕は、使い物にならない。
リケットは持っているスパイドをベルトに差し込み、その両腕を切り離した。両腕は上下にある力場の影響でその場に静止している。
「へぇ、そうきたか。どうでぇ、両腕をなくした気分は? なかなか出来る体験じゃねぇぞ」
そう言うと、遊びは終わりと言わんばかりに一斉に重力塊を動かす。単一だけでも充分な殺傷力を誇るそれを無数に受けたなら、一瞬で消滅するだけでは済まない。次元が歪み、この一帯全てが消し飛んでしまうかも知れない。
重力塊がリケットを包み、そして膨大な破壊力を発して弾けた。その破壊エネルギーはリケットを包んだだけでは止まらず、真横にも放出される。だがそれを、上下にある重力力場が吸い込み、そして互いに吸収して押し潰す。その中にあるもの全てを圧縮し尽くし、対消滅していった。
リケットはそれに飲み込まれ、そして全ての重力塊と共に消滅してしまった……わけではない。彼は全くの無傷で、その場に佇んでいる。その首からぶら下げているネックレスが蒼白い輝きを発し、三日月のペンダントヘッドが脈動していた。
「……え、えーと……」
今のはバグナス必殺の攻撃だったのだが、それが全く効いていないことで動揺していたのか、それともどうしようかと思案しているのか、彼は頭を掻きむしって素っ頓狂な声を上げた。
それを余所に、リケットは上を見上げてぶつぶつと何かを呟いている。それが呪文であることに、バグナスは気付かない。彼にはそのような知識がないから。
「まぁ、しゃーねぇな」
あの攻撃が効かなかった程度で戦意を喪失するほど、バグナスは脆弱な神経を持ち合わせていない。どちらかというと、その逆だ。再び全身に重力塊を纏い、今度はそのままリケットへと突っ込む。
「とことん面白ぇよ、リケットぉ!」
重力塊を持ち、それをリケットに叩き付けようと振り上げる。それを、輝く『右手』で受け止めた。なんと、リケットの両腕が再生している。そしてベルトに差しているスパイドが消えていた。その腕は、〝サイコ・マター〟で作り出したもの。そしてバグナスの重力塊を以てしても破壊出来ない、究極の物質。それの持ち主はリケットとフィンヴァラのたった二人しかいない。
腕が再生したことでも全く動揺せず、バグナスは続けざまに重力塊を叩き付けようとする。戦っているうちに判ったのだ。理屈どうこうではなく、リケットは『何でもあり』なのだと。そしてそれが、楽しくて仕方ない。
邪悪に笑いながら重力塊を叩き付け続けるバグナスから素早く離れようと、リケットは後退を続ける。その口は途絶えることなく呪文を紡ぎ続けている。だがそれを許さず、バグナスは離れない。本能的にそうしたかったから、バグナスはリケットとの距離を縮めている。焦燥感や危機感などは、彼にはない。只、今が楽しければそれで良いのだ。そしてその楽しみを与えてくれる人物、それがリケットだったのである。
最初は、憎くて仕方なかった。彼が贔屓にしている犯罪組織がリケットによって潰され、その敵討ちのつもりだった。だが最初に戦い、リケットの強さに惚れ込み、自分の手で壊したいと思った。リケットによって両腕と両足を失ったバグナスは、義肢を調整している間中そのことばかりを願ったのである。そして、それが遂に叶う。
バグナスの放つ重力塊が、リケットの頭部へと迫る。〝サイコ・マター〟の腕は間に合わない。その重力塊はリケットの頭を直撃し、そのまま擦り抜けた。
「……あン?」
何が起こったのか判らないバグナスを、リケットの青い瞳が射抜く。そしてその背後に、輝く蒼白い球体が現れている。そしてそれを見た瞬間、バグナスは身の危険を感じてリケットから離れた。
その球体から光の帯が延び、バグナスを襲う。それ目掛けて重力塊を放つが、光に触れると消滅しまった。その《効果》を、彼は判らない。本能のみで戦う彼にとって、そのような知識はかえって邪魔になるから。だが今はそれが災いした。その光の帯は穏やかな曲線を描き、休むことなくバグナスを襲い続ける。
「拙ぃな……」
呟き、光の帯を操っているリケットを見た。彼は眼を閉じ、何やら呟いているだけだ。そしてその背後にある球体も変わらずある。
「どうしたモンかな?」
そう思いつつ、今度は巨大な重力力場を作り出した。それは全てを吸い込み、押し潰すもの。その影響で周囲にある全てが吸い込まれ始める。だが肝心のリケットは微動だにせず、その光の帯も全く影響を受けずに漂い続けていた。
取り敢えず、あの野郎を消すしかないか? そう考え、作り出した重力力場に自ら入り込む。そしてリケットの背後にもう一つのそれが現れ、ゆっくりとバグナスが顔を出した。それに気付き、光の帯をその方向へと放つ。バグナスはそれでも構わず重力塊を叩き付けようとした瞬間、その腕が掴まれ、リケットが放った光の帯が消滅した。
二人の間に、黄金色の長い髪とエメラルドグリーンの瞳の男が割って入っている。その男を見て、バグナスは眼を大きく見開いた。それが意味するものは、驚愕。
「社長……どうして此処に?」
「……どうしたもこうしたもあるか」
その男は深い溜息を付き、バグナスの手を離した。そしてリケットに眼を移して一礼する。
「お初に御目に掛かる。私は《ウルドヴェルタンディ・スクルド》の社長、ギスカー・スルーバックだ。噂はかねがね聞いているぞ、D・リケット君」
その表情と口調は落ち着いており、だが絶対に抵抗を許さない強さがあった。リケットはその彼――ギスカー・スルーバックを無表情で見詰めた。
「部下が迷惑を掛けたな、その非礼は詫びよう。そして今後二度と君には手を出さないと誓う。だから、君もこの件から手を引いて欲しい」
「それは無理だ」
リケットは、呟くように言った。
「これは『依頼』だ。〝ハンター〟である以上、それは曲げることが出来ない」
「……何故、そのようにハイリスクなことをする? もしこれ以上戦えば君はバグナスと相打ちになってしまうだろう。君の言う『依頼』というものはそれほどの価値があるものなのかな?」
「価値云々ではない。〝ハンター〟にとって『依頼』は、どのようなことがあっても遂行せねばならないこと。それを解除出来るのは依頼主だけだ」
「どうあっても戦うつもりか? ……ラッセルの言う通り、言い出したら聞かないな、ディナ・シー」
このとき初めて、リケットの表情に動揺が走った。それは、自分とその兄弟――《Vの子供達》しか知らないもの、ラッセル・Vが彼に与えた名。
「これが最後の忠告だ。戦いを止めるんだ」
静かにそう言うギスカー・スルーバックに、光の帯を放つ。だがそれは彼の差しだした手によって消滅してしまう。それを気にせず、左腕を振り上げた。その手にはスパイドが握られている。だがその左腕が振り下ろされることはなかった。リケットの正面に銀色の長い髪の女性、シーリー・コートが現れてリケットに抱き付いている。
「もう、いいの……もういいの、リケット」
その耳元で囁き、彼女はリケットを強く抱き締める。
「私のために、もう傷付かないで……私はもう大丈夫だから、もう、忘れたりしないから……だから、だから貴方は、これ以上戦わないで」
それが引き金となったのか、リケットの身体から力が抜けた。そしてその両腕を形作っていた〝サイコ・マター〟が元の球体に戻って光を失い、そのまま落ちていく。
「済まないな、シーリー」
バグナスの肩を叩いて「帰るぞ」と声を掛け、ギスカー・スルーバックは彼女にそう言った。そして彼は、その場から消え去った。
「よぉ、姐ぇちゃん」
頭をボリボリ掻きながら、バグナスは背を向けたまま言った。視線が泳ぎ、なにやら気恥ずかしそうでもある。
「そいつに『悪かったな』って伝えといてくれ。まぁ、落ち着いたら一緒に一杯引っ掛けようぜ」
「伝えておきます」
でもそれは絶対に断るだろうな……。そんなことを考えつつ、だが表情は微笑みながら答える彼女を振り返り、もう一度溜息を付く。
こいつはとことん反則だな。バグナスは独白した。こんなに綺麗な――吸い込まれそうに綺麗な女に「大丈夫」と言われたら、なにも出来なくなるじゃないか。しかも抱擁のオマケつきだし。こういうのを見ると大抵は羨望と嫉妬を覚えるが……まぁ、リケットが相手だったら仕方ないか。男女とも美し過ぎると、それに相応しい相手に苦労するもんだ。
「俺様みたいにな」
そしてバグナスは、自身が作り出した重力力場の中に消えていった。
それを見送り、彼女――シーリー・コートは動かなくなったリケットを見詰めて優しく微笑んだ。そして壊れた戦闘服から覗く左胸に眼を移し、今度はその空色の瞳を濡らした。
リケットの左胸には、懐中時計と重なる月の入れ墨が施されていたのである。