《市街》の東寄りにある歓楽街。その名を冠する場所ならば、夜になると煌びやかなネオンが輝き、仕事帰りの会社員や友人、恋人と待ち合わせをする人々が何処からともなく集まって来る、一見するとそれは華やかで、それでいて当たり前のように映るだろう。
だが此処《結界都市》は、そうならない。
その行き交う人々は疎らで、歓楽街はどこか閑散とした雰囲気になっている。何故なら夜の歓楽街から一歩でも路地を外れると、其処は闇より更に暗い世界となるからだ。
歓楽街の路地裏は、この都市を巨大なドームで覆った時にその中に入りきれずに放置された箇所があるのと同様に、本来放置されるべきだった場所が立地条件の関係上ドームの中に収まってしまった場所なのだ。
放置され、誰も立ち寄らなくなった場所にのみ決まって集まる者達がいる。それが犯罪者だけだったら、それほど脅威ではない。実は犯罪者には犯罪者なりの奇妙なルールが存在し、一般人や旅行者には手を出されない限り、絶対に手を出さない。何故なら手を出してしまったなら、その裏にある巨大な犯罪組織によってその者は直ちに抹消されることとなるからだ。それがこの《市街》で生きて行く術であり、曲げられない法でもある。それがいつからの法なのか知る者はいなく、誰も疑問に思わない
では一体なにが脅威なのか。それは俗称《路地裏の人々》と呼ばれる者達である。
実際にどのような人々がいるのか――脳に埋め込まれた機械が狂い、理性が全く働かなくなった〝サイバー〟や、余りに大量の人体強化薬を医師の処方もなく違法に手に入れて、それを常用したため既に人間の姿を留められなくなった〝ハイパー〟、長時間
彼らはその路地裏を自らの住処とし、其処から決して出ない。其処しか、彼らを受け入れてくれる処がないから。自分達を受け入れてくれる場所だったら、どのような処でも構わない。だが、ふと思う。あの明りの向こうが懐かしく、羨ましく、そして妬ましい。《路地裏の人々》はいつも路地から表通りを覗いている。
驚くべき事に、観光で《市街》を訪れる人々のパンフレットにはその《路地裏の人々》の事が記載されているのだが、それに対しての注意事項などは一切ない。また同様に、《トレイン・メン》に対しても、だ。
パンフレットにはこの様に書かれている。
『《結界都市》ドラゴンズ・ヘッドの奇妙な人々。
一・トレイン・メン――《郊外》行きの列車に常に乗車している。
二・路地裏の人々――歓楽街の路地裏に生息。常に表通りを見ている。
三・魔導士ギルドの魔導士――都市の南側、通称《世界の館》に生息。見学自由。
………………………………………………』
魔導士がその中に入っているのはご愛嬌だが、《トレイン・メン》と《路地裏の人々》に対してはこれだけで、その他には一切記載がなかった。そのために、観光客がその被害に遭うのは珍しくない。
《トレイン・メン》には、話し掛けてはいけない。自らがそうなりたくないのなら。
《路地裏の人々》には、視線を合わせてはいけない、其方を見てはいけない。魅了され、引き込まれたくないのなら。
その二つの人々を排除しようと画策したことも、実はある。だがその試みは無駄に終ったのである。
まず《トレイン・メン》。彼らを排除しようと公安が動き、そして編成された部隊が《郊外》行きの列車を強襲したことがあった。だがその結果、悪戯に《トレイン・メン》を増やしただけだったのである。彼らは、何もしない。全てを受け入れている。物だろうと、者だろうと。だが彼らからは、全てのものを奪うことは出来ない。物だろうと、者だろうと。
そして《路地裏の人々》。彼らを排除する為には、まず路地裏そのものをなくさなくてはならない。そうすると歓楽街の一角を消してしまうこととなるのだ。其処には、其処でささやかに暮らす人々がいる。その生活を保護し、再び元のような暮らしを提供することは、実は出来ない。一度壊したものは、もう二度とその形では戻らないから。それにそれを保護するだけの資産は、既に《結界都市》には無い。更に言うならば、《トレイン・メン》もそうだが《路地裏の人々》は、それに触れなければ実害が無いのも事実。だから、彼らはそのまま放置されている。表立った法はないが、事実上彼らは《結界都市》で生きて行くことを認められたのだ。
そして彼らは、今でも歓楽街の路地裏で、じっと表通りを見詰めている。
その歓楽街のすぐ西側には高級マンションが立ち並んでおり、路地裏とは全く違う様相を呈している。何故このような、いわば光と影のように対照的な街になったのか、それはこの都市を創造した人々ですら判らないだろうし、予測すら出来なかっただろう。
マンションはどれも巨大で、低いものですら五〇階を越えるほどだった。そしてそれらは中心に行くほど高くなっており、遠目にはそれが一つの建造物にすら見える。その姿は神々を降臨させるべく創られたもののように神秘的で、荘厳な印象を人々に与えている。そしてこのマンション群を、人々はこう呼んでいた。
「《バビロン・タワー》……か」
歓楽街とマンション群を一望出来るマンションの一室から、外に輝くネオンと小さく細かい明りを点々と発しているマンション群を見詰めながら、ジェシカ・Vは溜息をついた。彼女のマンションは歓楽街の丁度南側にあり、マンション群――《バビロン・タワー》とも近い。
「羨ましいとは思わないなぁ……」
《バビロン・タワー》に憧れていた時期もあったが、考えてみればあんな得体の知れない場所より普通のマンションの方がずっと良い。それに……。
「あそこって、一体どのくらいするんだろう?」
値段が気になって仕方がない。そもそもあんな所、一体誰が住むんだろう?
「きっと納税率が遥かに多い人が住むんだわ」
「比べたって、仕方ないのにね……」
独白する。そして更に、伝承と同じく崩壊すればいいのにと考え、頭を振ってその思考を追い出した。
因みに彼女のマンションはワンフロアのリビングの他に寝室とダイニングキッチンがある、俗に言う1LDKだ。トイレと浴室は同然別個にある。ユニットバスは御免だ。
「息抜きのつもりだったんだけどね……」
窓のブラインドを降ろし、コンピューターのモニターを一瞥する。それには機械と生体との不具合に付いてまとめたものが表示されている。
「全然そうならなかったなぁ。レポートの提出、明日なのに……」
考えていても仕方ない。そう思い、今度こそ気分を変えるべくシャワーを浴びることにした。だが気分を変えるというのは言い訳でしかないことに、実は気付いていた。本当は想い出したかったのだ、あの時のこと、あの人のことを。
「想い出しても、仕方ないのにね……」
シャワーを浴びる度、自分が裸になる度にあの人のことが思い出される。自分の左胸には、懐中時計と重なる月の
「あの人は――だよね。私が、間違える筈ないもの……」
五年前に起きたあの事故から私を救い出して、だけどそれが原因で生体として再生不能となったあの人。そして自分の父である生体機械工学者ラッセル・Vがその全ての知識と技術を注いで生き長らえたあの人。狂科学者と呼ばれ、数々の〝サイバー・ドール〟や〝サイ・デッカー〟を創り出した父。だが人の親としては他の誰と比べても恥ずかしくない、優しい父だった。
「この思い出より……《
頭からシャワーを浴び、金色の髪が顔を覆う。それは、今自分がその青い瞳を濡らしているのを否定するための行為かも知れない。辛過ぎる想い出、自分には優しかった父は、もういない。そしてあの人は……。
「一体、何処にいるのよ……」
以前、一度だけ見たことがある。漆黒のコートを羽織り、鉄錆色の長い髪を靡かせて戦う非情な〝ハンター〟。顔の半分を隠すかのように大きなサングラスをしていた為に顔は良く判らなかったが、彼は間違いなくあの人だ。
「ずっとずっと、捜していたんだから……逢いたいよ、――」
あの人の名を呼び、顔を拭う。どんなことをしていてもいい、どんな姿をしていても構わない、生きていてくれさえすれば。生きて逢えれば、また自分の時間は動き出す。そう、自分は五年前から時間が止まっている。身体は大人になっても、どれだけ知識を得ようとも、心はまだ少女のままだ。
「早く、私を見つけてよ――じゃないと、私、消えちゃいそうだよ……」
彼に関する情報は集めた。大した情報ではないが。そしてハンターギルドにも行った。更に《水晶の森美術公園》にいるという情報屋にも会った。残念だが彼の情報は高過ぎて買えなかったが、それでも自分が彼を捜しているという『情報』は流れるだろう。リスクは高いが、効果的な筈。後は、信じて待つだけ。彼が、自分を捜しているという女の『情報』を掴み、会いに来るのを待つだけ……。
「古池や、蛙飛び込む水の音……ふむふむ」
《水晶の森美術公園》では、自称〝詩人〟のリィクが、ベンチに坐って一人でブツブツ言っている。それはいつものことで、《結界都市》近辺に住む人々だったら珍しくもないが、観光客にとっては気色悪いことこの上ない。
だが実は、《結界都市》の観光パンフレットの最新版『《結界都市》ドラゴンズ・ヘッドの歩き方・最☆新☆版』に、何とリィクのことが載っているのである。
では実際に、どの様に記載されているかというと……。
『《結界都市》ドラゴンズ・ヘッドの奇妙な人々。
一・トレイン・メン――《郊外》行きの列車に常に乗車している。
二・路地裏の人々――歓楽街の路地裏に生息。常に表通りを見ている。
三・魔導士ギルドの魔導士――都市の南側、通称《世界の館》に生息。見学自由。
四・自称〝詩人〟の老人――《郊外》にある《水晶の森美術公園》に生息。いつも俳句や詩を読んでいる。話が長いので注意!
………………………………………………』
彼に対して失礼だが、その中では一番
「朝顔に、つるべ取られて……む、何じゃたかの?」
最近物忘れが酷いと思いつつ頭を抱えるリィクの傍に、ダークグレーの短く切り揃えた髪の男が近付き、そして、
「貰い水、ですよ。リィク老師」
低くもなく高くもないその声の主を見るまでもなく、リィクは、
「ほっほ、そうじゃったそうじゃった。では次に……」
「今日は情報を買いに来ました」
続けようとするリィクを遮り、男が言う。それを聞いた一瞬だけリィクの双眸が鋭くなるが、すぐにいつもの変人――もとい、好々爺の表情になる。
「この儂から情報を買いたいとはのぉ。買わずともぬしの情報網だったら大抵のことは判る筈じゃぞ」
「何を仰いますか。貴方の情報は我々魔導士ギルドの情報網など足元にも及ばない。それに……時間がないのです」
少し考え、男を上目遣いで見上げる。そして坐るように言い、一度だけ背伸びをした。
「時間がないとは、ぬしにしては以外じゃのぉ。のうハー坊」
「ハー坊は止めて下さい。そんなことより、早急に売って欲しい情報は三つ。D・リケットを捜しているという女性の住所、そして誰が訊きに来たのか、それは何人か、です」
「ふむ……」
呟き、懐からチョコレートを出して齧り、横目で見ながら呟いた。
「あやつを捜しているのはジェシカ・Vという女性じゃ。訊きに来たのは二人。ぬしと、ソリッド・バグナスという男じゃ」
「え……ではリケットは訊いていない、と?」
「いや、あやつは知っとる。儂が呼んで、教えたからのぉ」
もごもごと口元を動かして笑うリィクに苦笑する。確かに訊きに来たのは二人だけだ、嘘は言っていない。
「リケットが知っているということを、そのソリッド・バグナスに言いましたか?」
「……それは情報として訊いているのかの?」
訊かれて、彼は考えた。そんなことを聞いても、情報として役に立つのだろうか。いや、役に立つ筈。今リケットを狙っている者は星の数ほどいる。それらに彼が負けるとは思えないが、念を入れる必要があるのもまた事実。
「情報としてです」
「そうか……ぬしは、それほど急いでおるのか……ま、仕方ないっちゃそうだがの。言ったぞい。儂は情報屋だからのぉ、贔屓は一切無しじゃ」
「……そうですか……判りました。ではこれで失礼しますが、くれぐれも私が訊きに来たことは情報にしないで下さい」
そう言うと懐から封筒に入った紙幣を出し、渡す。それを受け取り、早速愛しいげに撫でると、本人が見ているにも拘らず数え始めた。失礼だと思うだろうが、そうする事が基本であり、またそうしないと生きて行けない世界なのだ。
余談だが、リィクは現金主義であり、仮想通貨や電子マネーは一切受け付けない。目に見えない数字だけのものは、信用しないからだ。因みに〝ハンター〟の、特に〝サイバー〟連中にはそういう者共は結構多い。電脳の持ち主であるにもかかわらず。
「……ちょいと待った」
数え終わるのを待っている男へ一瞥すら与えず、リィクは険しい表情で言った。
「足りませんでしたか?」
そう言うと、リィクは首を振り、
「情報四つと口止め料で、このくらいが妥当じゃ。多いぞい」
「それは、チップだと思って下さい」
肩を竦めて言う男へ紙幣を差し出し、眼がなくなるくらい笑いながら言った。
「儂はのぉ、チップは受け取らないことにしておるのじゃ。それにしても、おんしらは対照的じゃのぉ。気前が良い兄とケチの弟……どうしてこれほどまでに差が出るのかのぉ」
「あれは、徹底して合理主義なのですよ。必要ないものは全て省く、昔からそうでした」
肩を竦めて苦笑する彼を見て微笑み、紙幣を受け取るように促す。こうなればどのような手段を使ってでも返すのがリィクという男だ。此処は降参するしかない。
「それでは、失礼します」
紙幣を受け取り、一礼してから男は踵を返した。その後ろ姿を見もせず、リィクは呟いた。
「何かあったらいつでも呼んどくれ。儂はいつでも此処いる。儂にとって、時間は意味を成さないからのぉ」
『《結界都市》の奇妙な人々』に名を連ねるリィク。何故そのようになったか、それは彼がこの場所にずっといるからだ。昼も、夜も、彼は此処にいる。ずっと、ずっと……四半世紀以上前――《結界都市》が創られるより遥か以前より、今と変わらない老人の姿で……。
路上で官能的なダンスを踊りつつ客引きをしている半裸の女を尻目に、D・リケットは歓楽街を歩いていた。両手をコートのポケットに突っ込み、客引きの女には目もくれずに歩く。
それでも女達は彼を店に引き込もうとして文字通り絡み付いて来る。だが今度は一瞥すら与えずに通り過ぎた。女は路面に唾を吐き掛け、不自然に豊かな胸の谷間から煙草を取り出して火を点ける。そして壁に寄り掛かって次の客を物色し始めた。
夜の歓楽街は観光スポットとなっているが、気を付けなければならないことがある。
《路地裏の人々》に捕らえられ、殺されなかった者がいる。その殆どは女性で、そして実に官能的なのだ。彼女達は歓楽街を通る者を誘惑し、言葉巧みに路地裏へと誘う。そして一歩でも路地裏へと引き込まれた者は、その時点で《路地裏の人々》となってしまうのだ。
彼女達のことを、人々は《ダーク・キャッチ》と呼ぶ。
その《ダーク・キャッチ》達は《路地裏の人々》の一員となった時点で肉体を改造させられ、本人ですら自分と判らないほど官能的で蠱惑的な容姿を手に入れる。勿論、それにはそれ相応のリスクが伴っているが。
彼女達は、定期的にその体型を維持する為のドラッグを内服しなければならない。そしてそのドラッグは《路地裏の人々》が作り出したもので、副作用も強烈だ。飲み続けなければ身体が醜く膨れ上がり、そして死に到るのである。
その薬を手に入れる為、彼女達は夜の繁華街を彷徨い続ける。それには、果てなどない。そして救いすらない。彼女達を助ける術は、一切ないから。
繁華街を通り過ぎ、マンションの前でリケットは足を止めた。そしてポケットから手を出し、握られているメモを一瞥する。
『四番街7-16967-404 トレントリース3050号』
メモを持っている手を一度だけ強く握り締め、そして開く。メモは青白い火に包まれて、灰も残さず燃え尽きた。
マンションの自動ドアをくぐり、そしてインターフォンのボタンを押す。暫くすると、女性の声がした。何があったのか、それは涙声だったのだが、リケットは気にしない。いや、気付いていないのだろう。
『……どちら様ですか?』
スピーカーから声がする。此方からは相手の姿は見えないのだが、向こうからは確認できるだろう。リケットは顔の半分を覆うくらい大きなサングラスを外し、
「D・R」
一直線にカメラを見詰めて呟いた。
『……ウソ……』
スピーカーから、涙を押し殺した声がする。それが何を意味しているのか、やはりリケットには判らない。仮に判ったとしても、興味などない。そもそも此処に来たのは、只の気紛れ以外のなにものでもないからだ。
『本当に……貴方なの?』
声は続いた。それを何も言わずに聞き、再びサングラスを掛けた。
『イヤ、掛けないで! もっと、顔を良く見せて』
掛けたサングラスから手を放す前にそう言われ、溜息をつきつつそれを外した。スピーカーの向こうから、激しく嗚咽を上げる声が聞こえて来る。
『逢いたかった、逢いたかったよ……ずっと逢いたかったんだよ。ねぇ、どうして突然いなくなったの?』
「……用件は?」
涙声で聞く声に対して、リケットは冷たくそう言っただけだった。それがなにを意味しているか、声の主には判ったのかも知れない。僅かだが沈黙し、そして自動扉が開いた。
『取り合えず、入って』
そう言い残し、声は途切れた。最後の声にはやや怒気が混じっていたのだが、彼はそれを理解するだけの心を持ち合わせていない。
エレベーターの横には、その中を映し出すモニターがある。それを一瞥して誰もいないことを確認し、乗り込んで三〇階のボタンを押した。緩やかにエレベーターが動き出す。階下のモニターには、リケットの姿が映し出されている筈だった。だが、其処には何も映っていなく、無人のエレベーターのみが映し出されている。
そして三〇階に着き、ドアが開いてエレベーターを降りる。その一瞬だけ、リケットの姿がモニターに映った。階下に人がいたのなら、それを見て不審に思うだろう。だが、マンションのエレベーターが勝手に動き出すことなど、珍しくもなんともない。実害がなければその程度では騒がない。それが《市街》の人々だ。
このマンションは《バビロン・タワー》ほどではないがそれなりに広く、ワンフロアに六〇戸の部屋があるらしい。その為にエレベーターの前には電光掲示板があり、其処で行きたい部屋番号を入力すれば自動的に廊下のナビゲーションライトが点灯する仕組みになっている。大抵の者はそれを利用するのだが、リケットはそれに目もくれずに歩き出す。そして暫く後、彼は目的の部屋の前に来ていた。どうしてこの部屋の所在が判ったのか、それは彼にしか判らないことだ。
ドアの横にあるチャイムを鳴らし、中にいる者を呼ぶ。
『え、もう来たの? ちょっと待ってて……』
其処まで言うと、なにかが派手に転がる音となにか金属製の物――多分鍋だろう――が落ちる音、そして彼女の悲鳴がした。
此処で人間の感性を持っているものならば笑顔の一つでも零すだろうが、リケットは無表情だった。今の彼は、《サイバー・ドール》の名に恥じないほど無表情で冷たい。
少しするとドアが開き、金色の髪の女性、ジェシカ・Vが顔を出した。髪が濡れている。多分シャワーでも浴びていたのだろう。だがガウンなどは着ていなく、白いブラウスとアイボリーのタイトスカートを穿いている。
「……ゴメンね、五月蝿くて」
申し訳なさそうにそう言う彼女を一瞥し、もう一度「用件は?」と冷たく言う。だが彼女はそれを受け流し、入るように言った。
「部屋がね、とっても散らかっているの。来るまでにちょっと整理しようとしたんだけど、こんなに早く此処に着くとは思っていなかったから……然も余計散らかしちゃった」
キッチンに散乱している鍋を片付けつつ、まだ玄関で立ち尽くしているリケットを見る。混乱している訳でも、迷っている訳でもなさそうだ。只単に入る必要がないと思っているのだろうか。そんなことを考えるジェシカだった。
だがジェシカも、何を話せばいいのか判らない。ずっと逢いたいとは思っていたのだが、実際に逢ってみると何から話していいのか判らない。
とりあえず質問すべきだろうか?
何を訊けばいいのだろう?
「今どんな仕事をしているのか?」が無難だろうか?
いやそれは余りに白々し過ぎる。自分は彼のことを調べていたのだ、彼だってそれは百も承知だろう。
今まで、なにをしていたのか? これが一番無難なのだろうか? でも突然そう言うと、何だか彼を責めているみたいに取られるかも知れない。私は只、逢いたかっただけなのだ。それを正直に言うべきだろうか? でも……それもちょっと気恥ずかしい。
鍋を片付けながら、ジェシカは玄関を見た。彼はまだ其処にいる。まるでそうするのが当たり前のように。
私のこと、覚えていないの?
それとも知らん顔をしているだけ?
そんな事を思いつつ、鍋をテーブルに置いて玄関に立ち尽くしているリケットに近付いた。
「ねぇ」
思い切って、訊いてみる。それがどんな答えだろうと、構わない。
「私のこと、覚えているの?」
「知っている」
返答は直ちにあった。だがそれは期待していたものではなかった。彼は「知っている」と言った。「覚えている」ではない。それが何を意味しているのか、判らないほどジェシカは子供ではない。
「ある程度、覚悟はしていたんだけどね……」
俯くと、涙が出て来た。泣くまいと思っていた。
そうすると彼を困らせると思っていたから。
だけど、違った。
もしかすると覚えていてくれるかも知れないと思っていたのは、只の自惚れだったのだろうか?
自分で勝手に思い込み、勝手にどんな返事が返って来るのかを想像して、そして早く逢いたいと思っていた。そう思っていた自分が惨めで、情けなくて……滅多に思わないことだが、自分が可哀想だ。
「泣いているのか?」
俯いているジェシカに、リケットは言う。その声はあくまで冷たく、そして硬質だ。
「泣きたくもなるわよ!」
もう、どうなっても構わない。半ば自暴自棄になり、涙で汚れた顔でリケットを睨む。
「貴方は覚えていないでしょうけど、私はずっと覚えていた! ずっと貴方に逢いたいと思っていたのよ! 逢いたいと思ったから、リスクを犯してまで自分の情報を流した! それなのに、捜していた相手は覚えていない。こんなに滑稽で情けなくて虚しいことって他にある!?」
荒い息を整え、突然振り返るとジェシカはリビングに行き、鼻をかんだ。格好悪いとは思わなかった。自分は泣いているのだ、鼻水が出るのは当然のこと。
「莫迦みたい……貴方に逢えるのを楽しみにしていたのに……ずっと待っていたのに……気の利いたことも言ってくれないなんて……私、今まで一体なにをして来たのよ? 今までやっていたことも、全部無駄だったの? 貴方なんか、捜さなければ良かった……こんな刺青、早くなくせば良かった……」
「それが正しい判断だ」
声がした。全く容赦のない、変わらず冷たい言葉だ。その口調が、癪に障る。
「何が……正しい判断よ……貴方に私のなにが判るというのよ。私の行動が正しいか間違っているのかなんて、誰にも指図されたくないわ。私は私のやりたいことをしただけよ、貴方になんか、今の貴方になんか、そんなことを言って欲しくないわよ!」
詰め寄り、その胸倉を掴む。青い瞳が涙で濡れ、だが怒りの感情が浮かんでいた。それを見て羨ましいと思うだけの感情すら、リケットは持ち合わせていない。
「……殴らせて……!」
呟くジェシカを、リケットは黙って見ているだけだった。何も言わない、何も言えない。言う必要がないと思っているから。
沈黙しているリケットをどう思ったのか、ジェシカはその横顔を握りこぶしで殴った。
痛かった。殴ったこぶしが。それより更に痛かった、心が。
「……気が済んだか?」
サングラスが外れ、床に転がった。彼の藍色の瞳が露わになる。そして其処には、ある一つの感情が浮かんでいた。それを見た瞬間、ジェシカの頭に昇った血が一気に引いた。
「……ゴメン、殴ったりして……痛かった?」
俯き、殴った彼の頬に触れた。その手が震えていることに、リケットは気付いていた。
だが何も言えないし、言わない。
彼の脳では、それについて処理していない。
処理出来ない。
出来ないために混乱する機能すら、ない。
「そうよね……あのとき、貴方は既に生体として機能しなくなってしまったもの……感情なんか、あるわけないよね……今の貴方は、機械と一緒。何も感じなく、心を理解できない……そうなったのは……私の所為なのに……ゴメン……それなのに、私、酷いことばかり言って……」
「気にするな」
やはり冷たく言う。だけど、ジェシカには判っていた。彼は、覚えているのだ。眼を見たとき、そう思った。只の機械が、あんな哀しそうな目をする筈がないから。
「俺も気にしない。だが……」
そう言うと、リケットは突然ジェシカを抱き締めて床に押し倒す。
「え、ちょっと、ダメよ、心の準備が……」
こういうことは、覚えているんだ。妙に頭の中が静かで冷静だった。でもこれが切っ掛けで少しでも人間らしくなってくれれば、自分のことも想い出すかな? それ以前に避妊しなきゃ。でもそんなもの、此処にはないなぁ。どうせだったら買っておけば良かった……。
そんなことを考えているジェシカの上に覆い被さり、その姿を完全に覆い隠す。自らも頭をガードし、衝撃に供えた。
そして数瞬後、マンションの硬質ガラスが粉々に砕け、その破片がブラインドを吹き飛ばしながら部屋中を跳ね回る。置いてあるオレンジのシングルソファが引き裂かれ、机にあるコンピューターが内側から弾けた。被害はそれだけでは留まらず、破片はキッチンに置かれたテーブルをも破壊し、乗っている鍋を変形させた。
「無事か?」
破片の嵐が収まり、リケットは悲鳴を上げることすら忘れ、自分の下で固まっているジェシカを見た。
「……無事だけど……押し倒した訳じゃないのね……」
軽口を叩くが、部屋の有様を見て呆然とする。
「……ねぇ、これって現実よね? レポート、まだ保存していないのよ」
部屋が滅茶苦茶になっていることや、窓の外に
「もう一度やり直せば良い」
「そんなの、出来るワケないでしょ。どんなことを書いたのか覚えていないわよ」
立ち上がるリケットを見上げながら、傍に落ちているサングラスを拾う。それは跳ね回るガラス片の渦中にありながら、まったくの無事だった。
「自分で作成したものくらい覚えていろ。……恨まれる覚えは?」
「覚えていられるくらい頭の出来は良くないの、残念だけど。私を恨んでいるのはファストフードの店員くらいよ。注文が細かくて多いくせに連日来るってね。この前ケンカしちゃったし」
サングラスを渡し、そのあとで肩を竦めて首を振る。改めて部屋の惨状を目の当たりにし、溜息しか出なかった。
「では俺の所為だな。ジャンクフードばかり摂取していると栄養のバランスが偏る。別のものも摂取するべきだな」
表情の変わらない顔で、真面目に惚けたことを言うリケットを見て、何故かジェシカは安心した。自覚があるかは知らないが、そういう所は人間らしいから。
「ねえ、どういうことなの?」
寄り添うように立ち上がり、リケットのコートの袖を強く握った。そして彼が目を向けている先、窓の外を凝視する。
「なんだよ、女とヨロシクしていたのかよ?」
彼女にとって、それは信じられない光景だった。噂には聞いたことがあるのだが、空中を歩く事が可能な人間がいるらしい。それは〝魔導士〟や〝PSI〟なのだが、少なくとも一般人には遠い存在だ。
また逆に、簡単に自己を改造できるこの世界において、〝サイバー〟や〝ハイパー〟は近い存在ともいえる。自身を改造していない人間の方が、実は少ない。誰もが少なからず何処かを改造しているのである。因みにジェシカは、そういう改造はしていない。嫌いだから。
「ねえ、一つ訊いてもいい?」
呆然としつつ、ジェシカはリケットの背後に隠れる様にしながら窓の外を見詰めている。
「私の目に、空中に立っている人が映っているんだけど、あれって幻? 然も喋ったわよ……亡霊ってことはないよね?」
「誰が亡霊じゃい! こんなに美男子の亡霊がいて堪るかよ!!」
男はそう言うと、何故か両眼を瞑ってニタリと嗤った。きっとウィンクをして爽やかな笑顔を浮かべたかったのであろうが、
よってジェシカの評価は、
「然も巫山戯たことを言っているわ……気持ち悪いし……。きっとあれは成仏できない浮遊霊よ……そうじゃなければやっぱり夢なのよ……は! 霊の所為だとすると、これはポルターガイスト!?」
「……落ち着け」
混乱している――というか当然の反応というか――ジェシカを一瞥すらせず、なにごともないかのようにリケットは呟く。そして左手で蛮刀を抜いた。
「此処でじっとしていろ」
そう言い、窓へゆっくりと近付く。ジェシカにそれを止めることは出来る筈もなく、掴んでいたコートの袖を離した。その手が、血で濡れている。
「これって……」
自分の血ではない。自分の身体には掠り傷一つない。そしてコートを掴んでいた手ばかりがそうなっているということは、理由は一つしかない。
「ねえ、怪我しているの?」
コートの袖を良く見ると、血が滴っている。掠り傷では絶対に出ないほどの出血量だ。
「……私を……護ってくれたの?」
「一般人を護るのが〝ハンター〟の義務だ。気にする必要などない」
「……そう……義務なの……」
その返答は、やはり期待していたものとは明らかに違う。そしてそれを聞く度、ジェシカは切なく、哀しくなった。
だが彼女は判っていない。〝ハンター〟に一般人を護るという義務など、一切ないということを。
「おいおいおいおい、いい加減こっちを注目しやがれってんだよ!」
窓の外に立つ、灰色の髪をバカみたいに逆立ててだらしなくスーツを着ている男、バグナスが叫んだ。その双眸が赤く発光している。派手に登場したのに注目されず、傍目にもベタベタしているように見える二人に嫉妬しているらしい。
「ったくよぉ、こんな時に女の所にシケ込むなんてよぉ。狙われてるってぇ自覚あんのか?」
鼻で笑い、皺だらけのスラックスのポケットに両手を突っ込んだまま大笑いした。
「俺に何の用だ?」
あくまで冷静に、だが逆に感情を全く感じさせない声で訊く。それを聞き、バグナスは笑うのを止めた。
「莫迦か手前ぇ、さっき狙ってるっつたろうが! 耳ぃ付いてねぇのかこの野郎!!」
「参考までに訊くが、何故俺を狙う?」
「言う必要はねぇなぁ。強いて言えば、手前ぇが気に入らねぇだけだ」
ポケットに手を突っ込んだ姿そのままで、バグナスは再び大笑いした。だが暫くすると、その高笑いは次第に止まり、
「くぉら! 人が大笑いしてるってぇのにノーリアクションかよ! 巫山戯てんじゃねぇぞ、この××××野郎!!」
無茶苦茶なことを言っている。だがそれでも無表情のリケットの後ろで、ボロボロのソファを起こしているジェシカが一瞥し、鼻で笑った。
「そこ!!」
ポケットから手を出し、突然ジェシカを指差して叫んだ。只でも鋭い双眸が更に鋭さを増し、視線だけでも気の弱い者だったら殺せるくらいの迫力で叫んだ。
「ちょっとくらいカーイイからって舐めてんじゃねぇぞ! 余りいい気になってっと、仕舞いにゃ×××を××て××××に×××を××××じまうぞ、こんアマ!!」
「………………間に合ってるから、要らない」
バグナスの下品な悪口雑言にそう言い返し、ソファを見詰めて溜息をついた。
「あーあ……この『まぁぶる』のシングルソファ、気に入っていたのに……然も限定品で、もう手に入らないのになぁ……」
ミカンのプリントがされているソファを抱き締めて、その肌触りの良さを確認するように頬擦りする。だが残念なことに、それは引き裂かれてしまっていた。縫って修復することも出来なくないだろうが、元通りにするのは困難だろう。
「命があるだけまだ良いだろう」
「そういう問題じゃないわよ。こうなったらなにがなんでも弁償させて! 任せたわよ」
「……」
それに対して何も答えず――答える気がないのだろうが――、リケットはブラインドを乱暴に外した。そのブラインドにもミカンの絵が描かれていたが、彼にとってそんなことはどうでもいい。
「おっほぉ、この俺様と戦るてぇのかよ? 面白ぇ、やってやるぜ!」
ポケットから両手を出して、バグナスは邪悪に笑いながら《能力》を解放した。
そしてリケットは、蛮刀を左手で逆手に持ち、首の動きだけで自分の長い髪を後方へと払い、そして……。
「You die」
窓の外へと飛び出した。