《R・ラボ》病棟の一室で、巨大なモニターに映し出されている、一般人には到底解読不能な記号を読みながら、ファウル・ウェザーは溜息を付いた。そしてその横には泣きじゃくるベンディス・ア・ママイ――ベスとリケットがいた。
「お前のことだ、どうせ判っていると思うが……」
白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、ファウル・ウェザーはリケットを真っ直ぐに見詰めながら言った。因みにサングラスはしていない。リケット相手に、〝魔眼〟が通用しないのは百も承知。二人は、《Vの子供達》だから。
「この記号はジェシカの塩基配列だ。正常・異常くらいは判るだろうから詳しい説明はしない。此処からが本題だが、この配列にランダムだが不可解なものが混じっている。これは《ドラゴン・アシッド》によるものではないぞ。それだったらもっと支離滅裂だ。ベスの話しによると、どうやらジェシカは〝ナイトメア〟の精神ウイルスに侵されているようだ。おまけに――これはあくまでも仮定だが――偶然にも僅かに残っている《ドラゴン・アシッド》と結合したらしい」
泣き続けているベスの頭に手を置き、そしてもう一方でキーボードを弾きながらモニターに映し出されている塩基配列の異常部分にマーキングする。その数、既に数千を超えていた。
〝ナイトメア〟とは、自身の精神体を他人に侵入させ、独自のウイルスを流し込む《能力》である。そしてそのウイルスは、その《能力》を使う者によって違う為にワクチンを作り出す事は困難を極める。
「これを全て排除するのは骨だな。だが不可能ではない、この私だったらだが」
自分を誇っているわけでもなく、慢心しているわけでもない。只単にそう思ったから言っただけだ。彼は自分の持っている技術と、医師としての能力や〝PSI〟としての《能力》に絶対の自信と誇りを持っている。そしてその確固たる自信により、身体的は基より精神的に救われた患者のなんと多いことか。
「……それでも生体として再生可能な確率は0.2%か……お前が助かったときの確率よりは遥かに高い、安心しろ」
「再生、可能なんですか?」
何も答えないリケットの代わりに、ベスが顔を上げて言った。それを正面から見詰め、ファウル・ウェザーは微笑みながら頷く。因みに、ベスは極端な近眼であるため〝魔眼〟は効かないのである。不思議と、そういうものだ。
「私を誰だと思っている? 0.2%も可能性があるのだ、間違いなく再生する」
キーボードを叩きながら言うファウル・ウェザーを見て安心したのか、ベスは涙を拭ってその隣に坐った。
それを他所に、リケットはポケットから革のグラブを取り出して手を通し、そのまま両手をポケットに突っ込んだ。既に戦闘服や漆黒のコートに身を包んでいる。
「これからどうするつもりだ?」
出て行こうとするリケットに一瞥すら与えず、ひたすらキーボードを叩きながらファウル・ウェザーが訊く。そしてリケットも振り返らずに、
「別に何もしない、俺は〝ハンター〟だ。仕事をする」
そう言うと思った。鼻で笑い、ファウル・ウェザーはモニターに映る文字と記号を追い続けた。ジェシカの仇をとれとは言わない。そんなことは無意味だと判っている。それにそのような下らない感情は持っていないのだ。リケットも、ファウル・ウェザーも。だがたった一つだけ、二人の相違点がある。それは、
「では仕事の話をしよう。『依頼』だ」
ファウル・ウェザーが首だけ振り向いて言った。だが自動扉の前に立つリケットは、足を止めただけで振り返らない。それが了解の証だと、ファウル・ウェザーは知っている。
『依頼』とは、相手が賞金首や犯罪者だった場合、《ハンター》は一般人の『依頼』を受ける場合がある。そしてそれは、その相手を抹殺すること。これが一般人と〝ハンター〟を繋ぐ唯一の接点なのだ。
「私の患者に手を出した莫迦者を始末してくれ。本来は私が行ってそうするのだが、今は忙しくて手が離せない。料金はいつもの口座に振り込む」
「……了解」
たった一言だけ呟き、リケットは病棟を後にした。
リケットとファウル・ウェザーの相違点。それはリケットが全てのものに無関心で、仇をとるなどの感情を持っていないのに対し、ファウル・ウェザーは自分の患者に手を出したものは絶対に許さない。それが二人の決定的な違いである。
自動扉の外へと消えたリケットを見詰めながら、ベスはファウル・ウェザーに訊いた。どうしてあのとき、リケットがこの病棟まで来ていたのか、そしてどうやってあの過度なエネルギー不足を解消したのか、と。すると彼は微笑を浮かべ、
「人間の疲れは時間が経てば回復するだろう? あいつはその回復速度が常人よりも早いだけだ、特別なことではない。そして……きっとあいつは『呼ばれた』んだよ」
その言葉に、首を捻るしかないベスだった。〝サイバー〟は、常人ではないから。それに、例え常人だったとしても、あれほどの疲労がすぐに回復するとは思えない。でも、ファウル・ウェザーは『特別なことではない』と言った。だからベスは、気にしないことにした。きっとそれが、真実だと思うから。
《R・ラボ》病棟を後にしたリケットは、何もせずにそのまま正面玄関に来た。だがその後を一人のナースが追い掛けて来る。それが判ったのか、彼は足を止めてナースを待った。彼女は院長からの処方だといい、袋をリケットに渡した。その中身を確認せず、そのままポケットに突っ込んで「お大事に」と言って頭を下げるナースに背を向ける。
既に日が高くなっており、沢山の外来患者が訪れていた。それがファウル・ウェザー病院の日常。外来患者は一日に約一千人、それのどれもが重症……という訳ではないが。
平和な日常、それはリケットにとって最も縁遠いものであり、そして最早得ることの出来ないものである。それを懐かしむ心は、彼には無い。人間の身体を捨てたときから、そう思うことはなくなった。だがそれは諦めから来るものではなく、単にそう思うだけの感情がなくなっただけだ。感情がないから、彼は悩まない。
外来患者がいる、いつもの受付嬢がいないことを抗議する元気な『自称』患者が殺到する受付を素通りして、リケットは外に出た。その容姿と容貌が人の目を引き、ある者はうっとりと溜息をつき、またある者はその戦闘服を見て顔を引き攣らせた。〝ハンター〟は、一般人からは恐怖の対象としか映らない。
外に出たリケットは、その余りの陽射しの良さに眼を細めた。この日は素晴らしい晴天で、然もドームを流れる《精気》も澄み切っている。こういう日は、今では殆ど無い。何故なら大地の《精気》が枯渇し始めているから。それが少なくなれば、それだけ純粋で美しい《精気》が少なくなってくる。だから、人々この様な陽気が大好きだ。だがリケットはそれが苦手なのか、懐からサングラスを取り出して掛けた。そして更に煙草を取り出す。
「この陽気にご苦労なことだな。俺に何か用か?」
火を点けつつ、リケットは柱に話し掛けた。するとその柱の陰から、複雑な紋章が刺繍されたマントを羽織った男が現れた。短く切り揃えたダークグレーの髪、そして藍色の瞳の男、〝魔導士〟ハズラット・ムーン。
「用がなければ逢いに来てはいけないのか?」
苦笑しながらそういうハズラットは、何処か楽しげでもあった。
「そう言った所で、『そうだ』と言われるのがオチだろうが。だが今日は用が有って来た。お前に訊きたい。例の歓楽街の事件、あれはお前がやったな? あれほどの大規模破壊を可能とする
予想ではなく、確信的に訊いた。それに対してリケットは答えない。否定も肯定もしない。彼にとって、それすら『どうでもいいこと』だから。
「とんでもないことをしてくれたものだな。お陰で《魔導士ギルド》は良い迷惑。……相手は誰だ?」
質問を続けるハズラットを見もせず、リケットはまだ長い煙草を灰皿に放り込む。灰皿が閉じ、一瞬にして中を真空にして火を消した。
「〝PSI〟だろう? 何処のどいつだ?」
「それを訊いてどうする?」
詰まらなさそうに訊くリケットを正面から見据え、たった一言だけ、
「殺す」
短くそう言った。ハズラットにとって、《魔導士ギルド》は掛け替えのない場所だ。自分が育った場所だから。幼い頃に孤児だった自分を拾い、育ててくれた、自分を受け入れてくれた唯一無二の場所。それを、例えどのような手段であれ壊そうとする奴は絶対に許さない。
「お前だって、育ての親を裏切ることは出来ないだろう? 四人の《Vの子供達》、その末弟D・リケット」
リケットの表情が変わるかと思い、したり顔になるハズラットだったが、結果は彼にとって詰まらないものだった。リケットは表情を全く変えず、只両手をポケットに突っ込んだまま立ち尽くしているだけだ。
「詰まらん」
溜息をつき、彼は呟いた。その表情は、まるで無視されて駄々を捏ねる少年のようである。
「これほど反応が無いと詰まらないことこの上ない。何とか反応して見せろ」
「反応する必要はないと判断した。用はそれだけか?」
背を向けて歩き出そうとする。そのリケットの首に、三日月のネックレスが滲み出るように出現した。それは不思議な輝きを放っており、見る者が見たのならば何らかの《力》が宿っていると判るだろう。
「餞別だ、くれてやる。お前なら『使える』だろう」
それに対してリケットは、ハズラットを一瞥しただけでそのまま歩き始めた。それを見送りながら、彼は寂しげに、
「出来の良過ぎる弟を持つと、兄は逆に苦労するんだよ」
この日の《結界都市》は、近年稀に見る晴天となった。その空を見上げ、眼を細めて口元に笑みを浮かべるハズラットの姿は、初めから其処にはなかった。彼の姿を、リケット以外で確認出来る者は少ない。
《結界都市》中心部四三番街は、別名《サイバー・ストリート》と呼ばれている。その理由は、其処彼処に点在する店舗を見れば誰の目にも明らかだ。
其処には〝サイバー〟専用の装備を取り扱っている店や、銃火器・刀剣類・防具は元より中には〝サイバー〟の身体パーツを取り扱っている店まである。此処に来れば、その装備で揃わない物は無いと言われているほどだ。
そしてその中でも、一際目立つ店がある。だがその店は武器・防具などを取り扱っている訳ではない。
売っているものは、食品。この店、カフェ《セフィロート》は〝サイバー〟専用のレストランなのである。
〝サイバー〟専用であるが故に、その食事は兎に角高カロリーで、軽食だけでも二千カロリーはあるのだ。
このカフェ《セフィロート》のマスターはフィンヴァラ。そして彼自身も〝サイバー〟なのだが、二つだけ他のサイバーと違う点がある。
彼には、表情というものが一切無い。喋る時ですら、口を動かさない。喉に付いている人口声帯から発せられるマシンボイスが、唯一彼のコミュニケーション手段だ。
そしてもう一つは、彼には感情がある。皮肉なことに、誰よりも〝サイバー〟らしい容姿を持っている彼は、他のどんなそれよりも人に近い。
一一タイム。フィンヴァラは入り口の扉に木製の『営業中』と書かれた札を下げ、いつも通りにカウンターに立ってグラスを磨き始めた。少しすると出入り口が開き、其処に取り付けてある鈴が美しい音色をたてて響き、まだ誰もいない店内に木霊する。
「イラッシャイマセ」
マスターのフィンヴァラが、表情の全くない顔を向ける。金色の癖のある短髪と瞳のない白い双眸が宿る顔が、入って来た客を真っ直ぐに見詰めた。
「オヤ、珍シイジャナイカ。コンナ処に何ノ用ダ? D・りけっと」
客、D・リケットは何も言わず、カウンターの席に坐って紅茶を注文する。そしてフィンヴァラも何も言わず、カウンターの奥で紅茶を煎れた。リケットが自分に用があるということは判っている。そうでなければこんな所に来ないから。
ほどなく、フィンヴァラはリケット前に巨大なカップに注がれた大量のミルクティを出した。それを一瞥し、三リットルはあろうかというそれを片手で持ち上げ、然も一気に飲み干した。因みに、このミルクティは激甘である。カロリーも軽く六〇〇キロカロリーくらいはある。
ついでにこの店は、カロリーばかりを求めている為に味は最悪だ。味覚などは関係ない〝サイバー〟だから食べられるのだろう。そして《結界都市》の人々は、この店には絶対に訪れない。稀に、何も知らない観光客が此処を訪れてしまうことがある。だが、その量と味と金額で取り合えず絶句し、訪れている人々を見て更に絶句する。そして止めはマスターだ。一目で〝サイバー〟と見て取れる彼に、無機質な声で優しい言葉を掛けられても、知らない人は凍り付く。
この〝サイバー〟専用カフェ《セフィロート》は、実は『《結界都市》ドラゴンズ・ヘッドの歩き方・最☆新☆版』にその記事が載っている。だがそれはどう見ても、居心地の良い洒落た店にしか見えないし、更に何処にも〝サイバー〟専用とは書かれていない。
『《結界都市》ドラゴンズ・ヘッドの歩き方・最☆新☆版』という雑誌は、売上が上位を占める雑誌社の発行であるため、記事を疑う者は少ないのが現状だ。
「頼みがある」
グラスを磨き始めるフィンヴァラに、紅茶を一滴たりとも残さず飲み干したリケットは口を開いた。そしてそれを聞いたフィンヴァラは、溜息を付きつつ肩を竦めた。だがやはりその表情は動かない。
「オ前ガ僕ニ頼ミ? 一体ドウイウ風ノ吹キ回シダ?」
腕を組み、柱に寄り掛かって訊き返す。その無表情とマシンボイスがなければ、誰よりも人間臭い台詞と仕草だ。
「マァ、理由ハ訊カナイケドネ。訊イテモドウセ答エナイダロウシ。ダケド、僕ガ君ニシテアゲラレルコトハ、モウ何モナイ筈ダケド?」
「The time of achieving the pledge of blood came. But in my present equipment, it is insufficient. Power is required. I want the blade which was able to be done by the moral induction substance」
ゆっくりとそう言うリケットを見下ろし、フィンヴァラはカウンターに両手をついた。
「僕ハ、モウ〝はんたー〟デモナンデモナインダヨ。ソレナノニ、ソウイウことヲ頼ムノハ御門違イモ甚ダシイ。ソレニ、君ハ既ニ僕ヲ超エテイルンダヨ。今更ソンナ物ハ必要ナイ筈ダ。違ウカイ? ソレニ、金デ買エル物ハ何デモ手ニ入ル筈。コレ以上、君ハナニヲ手ニ入レヨウトシテイルンダイ?」
コーヒーカップにコーヒーを煎れ、フィンヴァラは何処へともなく視線を向けているリケットに訊いた。
「俺は、何も手に入れていない」
そう呟くリケット前にコーヒーを出す。それは小さなカップだった。そして中には甘味料の類は入っていない。フィンヴァラは口直しでブラックコーヒーを出すことがある。因みに有料だし、味覚がない《サイバー》にとって余り意味はないが。
「I do not have memory. But such a thing is unnecessary. Since present himself is all. And... Such memory becomes obstructive」
「ソウダロウネ、君ハ人ヲ捨テタトキカラ、ソレヲ全部無クシテシマッタ。モットモ〝さいばー〟ニナルンダッタラ、ソレハ仕方ノナイコト。中ニハ僕ノ様ニ全テ残ッテイル珍シイ奴モイルケド」
グラス磨きを再開し、呟く。もし彼に表情があったのなら、その顔には哀れみが浮かぶだろう。だが彼の顔は、凍り付いた様に動かない。感情が残った代わりに、彼は表情を無くしてしまった。そんな自分を憂い哀しむことは、彼にはない。彼もまた〝サイバー〟だから、その程度のことは覚悟していた。そして、後悔などしていない。
「But, only one may remain」
グラスを磨く手が止まり、ゆっくりとリケットを見る。フィンヴァラの眼に映るその表情は、何故か邪悪に嗤っていた。
「It should protect her. Although or did not know why, only that remained in my memory」
「……ソウナノカ……。キットソレハ、君ガマダ人ダッタ頃ノモノダロウ。ソシテソレハ、キット君ニトッテ偽ルコトノ出来ナイ心ナノダロウネ。……ソウイウ心ハ、僕ニハ無イヨ。羨マシイコトダ……」
そう言うと、フィンヴァラはグラスを置いてカウンターから出る。そして店の奥へと引っ込んだ。暫くすると、直径一〇センチメートルほどの球体を持って来た。そしてそれを大事そうにカウンターに置く。その球体は水晶の様に透き通っており、だがそれ以外の何処か不思議な輝きを放っている。
「コレガ、君ガ欲シイト言ッタ《精神感応物質》、俗称《さいこ・またー》ダ。以前ハ相当量ガ流通シテイタガ、《龍脈》ガ乱レテ来テイル今デハ、カナリ入手困難ニナッタ。同門ノ誼ダ、格安デ売ッテアゲヨウ」
無言でその球体を掴み、ポケットに突っ込む。そしてコーヒーを一気に飲み干して席を立った。
「イッテラッシャイ。支払イハイツモノ口座カラ引キ落トシテオクヨ」
振り返らずにそのまま出て行くリケットを一瞥し、フィンヴァラはカップを片付け始めた。そして小さいカップを持った時、それが真っ二つに割れた。
「……コウイウコトガ起キルト、人々ハ『不吉ダ』ト言ウノダロウネ。デモ、割ッタ本人ガイタ場合デモ同様ニソウ言ウノカナ?」
呟き、奥のテーブルを見る。其処にはスーツを着てスラックスを穿き、サングラスを掛けた男が坐っていた。
「……御注文ハ?」
近付き、メニューをテーブルに置いて訊く。だがその男は、にやにやと笑っているだけで何も言わない。その口元は何かを噛んでいるのか、くちゃくちゃと動いている。
「御注文ガ決マリマシタラ呼ンデ下サイ」
そう言って背を向けるフィンヴァラに、懐から出した銃を向ける。そして全く迷わずにその引き金を引いた。セットされているエネルギーカプセルが弾け、高圧レーザーが銃口から迸る。それは狙い違わず、フィンヴァラの胸を焼いた。
「……ソンナ物、コノ僕ニハ効カナイ」
三〇ミリの鉄板すら易々と貫く高圧レーザーが直撃した筈なのに、彼は全く動じない。そればかりか、傷一つ付いていなかった。
「しゃつニ穴ガ開イタ。コレハ僕ノオ気ニ入リダッタンダケドネ」
そう言いながら振り返る。小脇には銀のトレイを抱えていた。そして今彼が持っているのは、それだけだ。
「やっぱ、通用しねぇかぁ?」
銃を手の中でくるくる回しながら、男は肩を竦めて立ち上がった。そしてサングラスをずらし、上目遣いでフィンヴァラを見る。その双眸は、獲物を狙う野獣そのものだ。その鋭い眼光を浴びたものは、恐怖で動けなくなるだろう。だが……。
「貴方ハ、ドチラ様デショウカ? 少ナクトモ僕ハ人ニ恨マレルヨウナコトハ一切シテイマセンヨ。今ハ」
所詮それは動物にしか通用しないもの。〝サイバー〟である彼に通用する筈がない。
「お前じゃねぇよ、あの〝サイバー〟に用があるんだ」
猫背になり、ゆっくりと近付いてくる男を眼で追い、フィンヴァラは何も言わずに首にしてある蝶ネクタイを直した。
「お前はあいつに関わった。それだけで充分なんだよ。死ね」
「オ断リ致シマス。ソレニ、引退シタトハイエ貴方ニ殺サレルホド腑抜ケテハイマセン」
「やってみねぇと判らねぇじゃねぇかよ!」
突然、男の身体が倍に膨れ上がった。服が破れ、その下から茶色の毛皮が生えて来る。そしてその顔も、鼻と口がせり出して獣の様なった。両手の爪が鋭く伸び、床に傷を残す。
「〝はいぱー〟デスカ……デモ誰ノ命令カハ知リマセンガ、僕モ軽ク見ラレタモノデスネ……」
小脇に抱えているトレイが変形し、一振りの剣になる。それは、精神の力によって形を変える物質《サイコ・マター》。曇りの全くない純粋な《龍気》によって精製される金属。その硬度は使い手によって変化するが、通常でチタン合金の一.五倍。熟練者が操ると、ダイヤモンドすら両断する。
「僕相手ダト、コノ程度デモ充分ダト思ッタノデショウカ? 随分、莫迦ニシテイル」
両手で剣を持ち、そして変身が終った男へと高速で突っ込む。
「Good die」
呟き、そして男を両断した。その実力は、引退していても衰えることはない。血だらけで絶命している男の傍らに立つ、返り血を浴びているその姿は、容貌とその声に比例して冷たく、そして残忍だ。
「シマッタ……」
剣を元のトレイに戻し、フィンヴァラが呟いた。
「店ヲ汚シテシマッタ……今日ノ日中ハ臨時休業ニシナイト……然モ、一八たいむカラ予約ガ入ッテイルノニ……」
警邏に連絡を入れながら、フィンヴァラは己の迂闊さを少しだけ呪った。こんなことなら、一瞬で消滅させれば良かった。
――リケットが世に出る以前、『最強・最凶・最狂』と呼ばれた〝サイバー〟がいた。彼は生体機械工学者であるラッセル・Vが作り出した〝サイバー〟だといわれている。そして四人《Vの子供達》の一人に、名を連ねては……いなかった。彼は、『出来損ない』だったのである。
《バビロン・タワー》の中心にある一際高いマンション。其処には奇妙な噂がある。大概このような高級マンションに住む者達は、長者達とでも言われるのだろう。だが実は、このマンションから人が出入りするのを見た者は誰もいない。それに、マンションだということは誰にも判らないのである。その証拠に、此処はマンションだと何処にも明記されておらず、そればかりか入り口すらないのだ。
誰が住んでいるのか、それとも何かの施設なのか、人々は判らない。だが一つだけ判っていることがある。それはこの建造物が、《バビロン・タワー》と呼ばれていることだ。
《バビロン・タワー》の一角にあるマンションの前に、リケットは来ていた。そのマンションは七十階まである高層マンションで、そのデザインは何処か不気味な様相を呈している。大抵の者はこのマンションに近付きたくないと思うのだろうが、リケットは構わずに入った。そして7001と書かれたボタンを押そうとしたその時、
『Hi、リケットぉ。俺様に何の用だい? また手伝えって言うのかなぁ? OKOK、君とは古ぅ~い親友だぁ。何でも言ってくれぇ、出来る範囲内で協力させて貰うよぉ。勿論、有料だけどねぇ。HA! HA!』
スピーカの向こうから声がした。そしてモニターには、満面の笑みを浮かべたミカンに顔が描かれたもの――「まぁぶる」が映し出されている。
『ま、こんな所で立ち話もなんだからぁ、兎に角入ってくれよぉ。茶でも煎れるぜぇ』
その声が途切れると、入り口が自動的に開く。そしてリケットを出迎えたものは、愛らしい表情を浮かべる「まぁぶる」だった。「まぁぶる」のファンは、どうやらファウル・ウェザーだけではないらしい。
リケットを上目遣いで見詰める「まぁぶる」は一度くるくると回って逆さになり、弾んでから元に戻ってリケットに背を向けると、そのまま前に進み始めた。そして少しだけ振り返り、リケットが動かないのが判ると頬を膨らませて弾んでいる。どうやら着いて来いということらしい。リケットは何も言わず、その物体――「まぁぶる」に着いて行った。
丸い身体を弾ませながら、「まぁぶる」はリケットを無数にあるエレベーターの一つに導いた。このマンションは、六〇階より上層になると一部屋に一つエレベーターが付いている。そして六五階以上になるとワンフロア全てが一つの部屋になっているのだ。然も完全防音。上階で例え爆破騒ぎがあったとしても、階下の者には振動すら伝わらない。
「まぁぶる」が導いたのは7001と書かれたエレベーター、つまり最上階の部屋へのものだ。「まぁぶる」とリケットがその前に立つと、自然に扉が開く。
「いらっしゃいませぇ」
「まぁぶる」とリケットが入るなり、声がした。そして水着姿の女性が現れる。いや、女性というには幼過ぎる。少女と呼んだ方が適当だろう。そしてそれに、生命反応はない。それはこのエレベーターの持ち主が創り出した虚像。だが何故わざわざ水着姿の少女なのか。それはきっと、創り手の趣味なのだろう。
「このエレベーターはぁ、エイケン・ドラム様のお宅に向かいまぁす。途中で止まりませんのでぇ、御用のない方や新聞、宗教の勧誘、お遊び、何となく、テロ行為などが目的の方で、死にたくない方は直ちに降りて下さぁい」
にこやかな表情で言う少女の虚像を無視して、リケットは壁に寄り掛かった。その反応が不満なのか、「まぁぶる」が抗議するかのようにその傍で弾んだ。しかし、それで反応するリケットではない。そのまま何も言わず、只じっとしているだけだ。
「それではぁ、上に参りまぁす。でもチョー速いからぁ、耳がキーンってしちゃうけど、ガマンしてねぇ」
言うなり、突然エレベーターが高速で上昇を始めた。その速度は、並みの人間が耐え得る衝撃を超えている。これもまた、少女の虚像が言った「御用のない方」除けのものなのだろう。だが〝サイバー〟であるリケットにとって、それは問題にすらならない。だが何故か「まぁぶる」は、妙に辛そうな表情で震えていたが。
七〇階に着き、扉が開くと今度はスーツ姿に蝶ネクタイをした、白髪頭で顎鬚をたくわえている初老の男がゆっくりと頭を下げて出迎えた。だが彼にも、生命反応はない。
「じゃあ、後の案内はお任せ。じゃあねぇ~」
エレベーターから降りたリケットと「まぁぶる」にそう言い、少女の虚像はエレベーターの扉が閉じると同時に消えた。代わりに眼の前にいる男が、頭を下げた時と寸分違わぬ速度で顔を上げ、静かにリケットを見詰めた。その双眸には、如何なる感情も浮かんでいない。もっともそれは、リケットとて同じだが。
「御主人様は只今作業中で御座います。御急ぎでしたら御案内致しますが、如何為さいますか?」
そう訊く彼に一言だけ、「急ぎだ」とだけ答え、リケットは勝手に奥へと歩き出した。そして初老の男も、リケットの正面に現れてから歩き出す。
天井が高く広大なこの部屋は、一人で住むには余りに広過ぎほどのスペースを有している。だが壁や内装は殺風景で、見る者が見たのなら悪寒すら感じるほど無機質だ。生活の為の調度品や家具などは、一切見受けられない。
「もし宜しければ、私めに御用の程をお伝え願えませんか?」
振り返らず、男は言った。するとリケットは、
「Aiken=Drumに用はない。Each=Uisge、出ろ。今回の仕事はハッキングとデータの完全破壊、そして登録人名の抹消だ」
「『……随分とまた荒っぽいじゃないか? どうしたんだい、リケットぉ』」
初老の男の口から、突然違う口調と声が発せられる。その声はこのマンションの入り口で聞いたものだ。
「『エイケン・ドラムである《A・ヘッド》じゃなく、アハ・イシカである《E・ヘッド》に用があるとは、これは尋常ではないねぇ。取り合えず理由を訊こうじゃないか? それから、これは正規の仕事かなぁ? そうだとしたら契約書にサインして貰うよ。そして、料金割引は無しだ』」
「詳細はファウルに訊け」
歩きながら、リケットは冷たく言った。そして大きな扉の前に着くと、両手で押し開いた。いつの間にか初老の男は消えている。そしてリケットの眼の前には、革のソファに深く腰掛けたランニングシャツをだらしなく着て、バックルが両足に無数に付いている革のズボンを穿いた白髪の男がいた。その双眸は何処か茫洋としており、そして瞳の色は薄い黄色の為に瞳そのものが無いように見える。だが注目すべきはその瞳孔だ。彼の瞳孔は、爬虫類のように縦長である。
部屋の中にはその革のソファと小さな丸テーブルがあるだけである。そしてその丸テーブルには、ノートパソコンが一台置かれている。ケーブルの類は、一切無い。
「三〇秒だけ待ってくれ。ファー坊に訊くから」
入って来たリケット一瞥し、彼はノートパソコンを片手で弾く。そしてすぐに手を置き、
「なんだい、何事かと思ったらファー坊の依頼だったのかい? OKOK、料金はファー坊宛てに請求しておくよ。で、誰をこの世界から抹消したいんだい?」
腹の上に手を置き、口元に笑みを浮かべて彼は言った。ファウル・ウェザーを「ファー坊」と呼ぶ彼こそ、この《結界都市》で最高の〝サイ・デッカー〟DB。そして、四人の《Vの子供達》の長兄。因みに《DB》とは彼のハンドルネームで、その本名は誰も知らない。本人でさえ。
「バグナスという奴だ」
短くそう言い、リケットはDBの傍に来た。そしてノートパソコンを勝手に弄る。すると画面に灰色の髪を逆立てた、血色の瞳の男が表示された。
「……oioi、こいつは武器の売買から紙オムツまで取り扱っている最大手《ウルドヴェルタンディ・スクルド》の幹部じゃねぇかよ」
そう言うと、やはり片手でキーボードを弾く。すぐにそのデータが表示された。
「名前はソリッド・バグナス。《ウルドヴェルタンディ・スクルド》兵器部門を担当している。もっとも売買に関わるだけの技量が無いためか、専ら兵器の実践活用におけるデータ収集を担当しているな、表向きは」
リケットの傍に、例の初老の男が現れる。そして何処から出したのか、彼に椅子を勧めた。だがリケットはそれを無視した。別に悪意があるわけではない。只単に坐りたくないだけだ。〝ハンター〟は誰の眼の前であっても、気を許すことが出来ないから。
「だが裏ではその兵器を実際に使って色々しているらしい……ビンゴ! どうやら〝ヘカトンケイル〟とも契約していたらしいなぁ。俺様とお前で潰した例のチンケな組織だが、覚えているか?」
「忘れた」
一瞥するDBへそう言う。彼にとって、終ったことは全てどうでも良いことなのだろう。
「ま、良いけどね。それにもう手数料は引き落とし済み、返せって言われたって返さないよ。……ほう、〝PSI〟で《能力》は〝グラビドン〟か。こりゃまた厄介な。こんなのと喧嘩して、只で済むと思っているのか? ……もうやりあったのね……大した根性だよ、お前は」
キーボードを弾きながら、DBは続けて言う。そしてリケットに視線を移して、
「俺様はいつでも良いぞ」
「では、今直ぐだ」
「OKOK、0.02タイムだけ待ってくれ」
そう言うと首の左側を露出させ、ノートパソコンから引き出したコードをその露出した首にあるプラグに差し込んだ。それを合図に、床から黒い物体がせり上がって来る。それらは全て彼が使用するコンピューター。その演算能力は、一秒間に最低一京回の浮動小数点演算を実行することが可能。更にDBと直結することにより、それは天文学的数字にまで跳ね上がる。
全てのコンピューターが現れ、そして再び現れた初老の男がDBの顔に流線型のゴーグルをする。その瞬間、彼の双眸が蒼白く輝き、
「お久シ振りだナ、まタ逢えて嬉しイよ。さてサて、今度の用ハどんナのダい? D・リケット」
人格が入れ替ったかのように口調が変化した。
「Each=Uisge……黙って作業しろ。詳細はAiken=Drumから訊いている筈だ」
「相変わラずつれナいね。判っていルさ、ソリッド・バグナスの抹消ダよね? ……ヨし、準備完了!」
DBの周囲を囲むコンピューターが低く唸る。そして更に、天井から百インチはあるモニターが現れた。其処には、白い顔のピエロが映し出されている。
「Come on〝white face〟」
スピーカーからDBの声がする。そして本体であるソファに坐っている彼は、まるで死んだかのように動かない。それは彼の意識が、《サイバー・ワールド》に入り込んだことを意味している。
リケットはその動かないDBをじっと見詰め、続けてモニターに目を移した。映し出されているピエロはDBの意識、そして《サイバー・ワールド》におけるDBという固体でもある。それが消えた時、彼の命はなくなるのだ。
全く動かないDBの足に、今まで何処に行っていたのか頬擦りをする「まぁぶる」がいた。「まぁぶる」は心配そうにDBを見上げ、そして何故かリケットの足に体当たりをする。だが効果がある筈もなく、弾き飛ばされただけだった。
それを無視して、リケットは只じっとモニターを見詰め続けた。