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次に目を開けると、見えたのはくずんだ木の天井だった。
「……ここ、は」
見慣れない小さな部屋だった。深い赤色の絨毯に、淡い茶色の樹の壁。横たわっているのは大きなベッドで、その傍の手の届くところに、机がひとつ。他は特に目につくものはない。
誰かの家であろうか。そもそも、俺はここに来る前に何をしていたか。
どうしてか疲れ切っている体を動かすこともできずに、ただひたすらに考える。
最後に残っているのは、にたりと笑う彼女の――
「あら、おはよう」
かけられた声には、聞き覚えがあった。
背中までに届く灰色の髪に、ぎらぎらと光る金色の瞳。立ち振る舞いはふらふらと、まるで病人のような雰囲気を感じさせながらも、その双眸はこちらを捉えて逃がそうとはしない。
どこか蜥蜴とか蝙蝠とか、そんな陰うつさを感じさせる少女であった。
その名は。
「メアリ……ウィズ?」
「メアリで結構。それより紅茶には砂糖? それともミルク?」
彼女が持っているトレイには、小さなカップがふたつ、白い湯気を立てていた。
「……砂糖を、みっつ」
「甘党ね。太るわよ」
そんな小言を言いながら、メアリが手のひらに魔法陣を映し出す。それを白いカップの上へとかざすと、そこから三つ、白い角砂糖が紅茶へと落とされるのが見えた。
机の上へそれぞれのカップを置きながら、メアリは椅子へと腰を下ろす。俺も体を起こして出された紅茶へと手を伸ばすと、彼女と対面に座るよう、木の床へと脚を下ろした。
椛色の液体を喉へと流し込むと、ほんのりとした甘みが伝わってくる。
「どうかしら」
「……美味い」
「そう、良かった。こうして出迎えるのは初めてだから、少し不安だったの。ああ、何か甘いものでも要る? 起きたばかりだろうし、必要でしょう」
「迷惑でないのなら」
真横に開いたままの魔法陣に手を入れて、そこから皿に載せられたクッキーが現れた。
「……作ったの、か?」
「一応ね。初めてだから、上手くできたかは知らないけど」
「…………」
乱雑に積まれたそれの中からひとつを指先でつまんで、口の中へと運ぶ。
存外、香ばしい薫りだった。
「旨い」
「どうも」
くすり、と息を零しながら、彼女が頬を吊り上げる。
その笑い方は、蛇に似ていた。
「落ち着いた?」
「どうにか。けれど、疑問は晴れない」
「そう」
それに答えることもせず、メアリはただ紅茶を啜るだけであった。
やがてしばらくの間をおいて、問いかける。
「……どういうことだ?」
「何が?」
「全てだ。君が、俺を欲しいと言ったこと。君が、俺の記憶と力について知っていること。そして、今こうして君と机を囲んでいること。俺には何もわからない」
カップを受け皿へと置いて、メアリがこちらをじろりと睨む。
「生意気ね、ただの人間風情が、この私のことを知ろうっていうの?」
「少なくとも、目的は。そして、出来る事ならそれに協力したいとも思っている」
「……どういうつもり?」
「知りたいだけだ。君のこと……そして、俺自身のことも」
カップを傾ける彼女の手が、ぴたりと止まった。
「思うに、君は俺よりも俺の事を知っている」
「当然ね。あなたの記憶のことも、力の事も、私にかかれば全部透けてみえるわ」
「ああ、そうなのだろうな。俺の孤独すらも君は知っていた。そしてそれを理解できるとも」
戦いの中、怒りの狭間に聞こえた呟き。
それが、どうしてか俺の心に強く縫い付けられている。
「……そんなこと、覚えてたのね」
「確かに覚えている。初めてだったんだ。そうやって、理解されることが」
純粋に目を向けてくれる者がいなかった。皆を騙して生きていた俺に、そうして理解してくれる人間は少なかった。誰も俺を理解しようとは、してくれなかった。
けれど、彼女は俺の全てを知っている。
「その場しのぎの嘘かもしれないわ。それこそ、あなたみたいな人間を憐れんだのかも」
「少なくとも、俺はそうは思わない」
「…………ほんと、生意気ね。私が誰だか知ってるの?」
「メアリウィズ・サンダーソニア。ちゃんと覚えている」
あの時、炎の中で輝く金の瞳は、そこに確かな光を灯していた。
眉間にしわを寄せて、いかにも不機嫌そうに振る舞っていた彼女は、けれど息を一つ吐くと、疲れたように肩をすくめて見せた。
「情けをかけるつもりは、なかったんだけど」
「なら、どうしてそう言ってくれた?」
「……似てたのよ、私と。勝手な妄想の話だけどね」
かちゃ、とカップが置かれる。中身は既に空になっていた。
「……力には、それを使う方法があると、考えている」
「あなたは、それを知らなかった」
続けようとした言葉が、メアリに遮られる。
やはり彼女は、俺よりもはるかに、俺の事を知り尽くしているようだった。
「まあ、当然と言えば当然ね。その力は前世のあなたが望んだのか、それこそ神の気まぐれによって与えられたのか知らないけれど、それは今のあなたが望んだものではない。そう、本当に――呪いのようなものなのだから」
嘲るように、けれどどこか忌々しく、彼女がそう語る。
「……そうだとしても、俺が故郷の皆を殺したのは、事実だ」
「でも、それはあなたの意志ではない」
「そうだ。俺の意志でなければ、誰かの意志でもない。ただ、無意味に死んでいった。それで……俺は、逃げた…………逃げることだけしか、許されなかった」
死んでいった彼らに頭を下げることもできず、ただ拒絶されて。
もう誰も傷つけないよう、俺は彼らに背中を向けた。
そうすることが俺に許された、たった一つの道だった。
「……だから、知りたいの?」
「ああ。それで初めて、俺は彼らの前へ……彼らを殺した男である、エーベルスト・フィルラインとして、立つことができる」
自分のことを、何も知らなかった。このエーベルという存在も、今の俺には分からない。
けれど、彼女はそれを知っているのだろう。
「君は、俺が欲しいと言った」
「そうね」
「なら、俺の全てをくれてやる。この力も記憶も、君に受け渡すと誓う。君の目的を叶えるために、尽力することも約束しよう」
かすかに息を飲む音が、聞こえた。
「その代わり、俺の事について教えてくれ。この力と記憶、そして……君の言う神について。そして俺を……彼らの前に立たせてくれ。死んでいった彼らのために」
「……この私と、契約しようと言うの? あなたみたいな人間風情が?」
ぎろり、と紅い瞳がこちらを睨む。
深くため息を吐いた彼女はその双眸をこちらへと向けたまま、ゆっくりと脚を組んだ。
「あなたを殺すかもしれないのよ? それこそ、道具みたいに使うかもしれない」
「君は殺さないと言った。けれど、もし……俺の命が必要になっても、それを止めはしない。それで俺のことを知ることができて、彼らの前に立てたのなら、俺に悔いはない」
「バカね、本当に。私の目的も聴かないで。私が大量虐殺を望んだらどうするつもりだったの? あなた、悪の片棒を担ぐことになるのよ?」
「俺の苦しみが分かるのなら、そんなことは望まない。そう、信じている」
「…………ふん」
見定めるようなその細い瞳の奥には縦に刻まれた瞳孔が覗いていて、それが獲物を前にした蛇のような雰囲気を感じさせる。背筋が少しだけ、寒くなったような気がした。
やがて少しの時間を置いて、薄い唇が開かれる。
「……私の目的は、居場所を探すこと」
語る彼女は、既に俺ではなく、どこか遠くを見つめているようだった。
「ずっと、一人だったの。誰からも受け入れられずに、ただ否定され続けた。故郷も、住むところもみんな失って、逃げてきた」
「魔女だから……いや、魔女になったからか?」
「そう。気に入らないけれど、元々私は数多と同じ人間なの。あなたのような、ね」
右手をこちらへと突き出しながら、メアリが自嘲気味に笑う。
細い指先の向こうには、憂うような少女の顔があった。
「八百年」
「……それは?」
「私が独りだった時間。その間、この世界は私を否定し続けた」
想像もつかないような、長い時間だった。それこそ、狂ってしまいそうなほどに。
天井を見つめる彼女の顔は、疲れ切っているようにも見えた。
「だから思ったのよ。私はこの世界の住人ではない、って。ここは私のいるべき世界ではない。もっと……もっと、別のところに、私の本当の居場所があるって」
「それが、俺の記憶の世界か?」
「おかしいと思うかしら?」
首を横に振ると、眼だけをこちらに向けて、彼女はくすりと笑みを浮かべた。
「では契を交わしましょうか。エーベルスト・フィルライン」
向けられた手のひらから、淡い紫の光が迸る。
「何を」
「ただの契約の形よ。別にあなたが裏切るとは思っていないけれど、こうした方が分かりやすいでしょう? あなたはもう私のもの、ってこと」
にやり、と頬を吊り上げながら、メアリがそう告げる。それと同時に、彼女の背後から紫色をした魔力の鎖がずるりと伸びてきて、俺の右腕へと絡みついた。
ぐい、と鎖が引かれ、それと同時に腕が彼女の方へと伸ばされる。持っていかれた左腕は彼女の指先にかすかに触れて、その途端に、俺と彼女を隔てるようにして、一枚の大きな魔法陣が浮かび上がった。
「私の望みは、ここではない別の世界へ至ること。そして、あなたの望みは、死んでいった彼らの前に立つこと。そのために私はあなたへ知識を与え、あなたは私へその全てを捧げ、そうして契りは結ばれる」
刻まれたいくつもの模様が、波打つように変わっていく。それは虫が蠢くようにも見えて、その向こうに見える彼女の顔は、どこか少しだけ、辛そうにも見えた。
つぅ、と彼女の頬を、何かが伝う。
「望郷の魔女、メアリウィズ・サンダーソニアの名に於いて契約を。まだ見ぬ原風景を望む者と、追憶の中の原風景を望む者に、その果てを――望郷は、ここに交わされる」
その言葉と同時、左腕を縛っていた鎖がはじけ飛んだ。
きらきらとあたりを紫の光が舞って、それが雪のように舞い落ちる。それを掻き分けようとして左手を掲げると、俺はそこに紫色の結晶が飾られた、一つの腕飾りがあるのを見た。
「……これが、形か?」
「そう。別にお互いのことを見れるわけでもないし、何かしらの制約があるわけでもない。けど、自分のものには自分の名前をつけておくのが普通じゃなくて?」
さらりと髪をかき上げながら、メアリがそう告げる。
「あなたはもう、私のもの。これからよろしくね? エーベルスト・フィルライン」
その右腕には、俺と同じ様な紫結晶の腕飾りが、鈍く輝いていた。
「……ところで、このクッキーは結局なんだったんだ。毒もなにも入ってないように見えたが」
「別に何でもないわよ。ただ私が焼いただけ」
「なぜ?」
「だって、あなたは、ここに来た初めての人だもの」
ひょい、と口の中に、それを一つ投げながら。
「来客はもてなすのが、普通じゃないの?」
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