注意 残酷な表現が多々有ります。
森を騎士が進んでいく。
朝霧に包まれた暗闇を進む彼らの数は二〇騎にも満たないが、その面々の表情は緊張をはりつけたように強張っていた。一人として口を開かない。只々前を行く自らの仲間の後を追う為だけ、自らの馬の手綱をとる。
武具の金音と馬の蹄の音だけが鳴っていた。
ある一人の騎士がふと、空を見上げる。まだ、夜と朝の狭間にある時刻。見上げた空は暗さと、ほのかな光を持ったものだった。
(ああ、無事に帰れるのだろうか……)
その騎士は思う。彼だけでなく、他の騎士も同じことを思っているだろう。
彼らはいわゆる偵察だった。敵陣がありそうな場所へ、身軽な格好で探索し情報を持ち帰ることがその任務である。戦争における最重要な役割な反面、報われることは少なく、そのくせ命の危険が大きい。だからこの騎士は嘆いたのだった。
騎士は華々しく戦うことが本命である。これはほとんどの騎士たちの共通の価値観であると言ってよい。だからこのような行動は雑務とさけられている。ゆえにこの偵察に出ている騎乗の騎士達はそう高い位階のものはいない。それも彼らの士気が上がらない理由だった。
「あれ……」
くだんの騎士は空が陰ったように感じた。いや、なにかの線のようなものが自分めがけて飛んでくる。彼はそれを見ることはできたが、理解することはできなかった。
矢が騎士の眉間を貫く。悲鳴すらなく、彼は落馬した。命については言うまでもない。
「て、敵襲!」
別の騎士が叫んだ。それを合図にしたのか数弾の矢が彼らを襲った。ぱらぱらと間のあいた矢の小雨が降る。それは襲撃者が少数であることを物語っていた。
騎士達は位階が低いとはいえ重装騎兵である。すぐさま馬に括り付けた盾を構えた。身は白銀の鎧が覆っている。多少の矢ならば、耐えきれないことはない。
矢が彼らの鎧に、盾に当たって音をたてて落ちていく。馬にも鎧を着せているから、彼らの愛馬にも簡単には矢が立つことはない。
数騎の落馬があったが、騎士の集団は持ち応えた。いや、生き残ってしまったといってよい。彼らが多少の戦争の経験を積んでいることも、彼らの不運に拍車をかけた。
そもそも偵察に重武装で臨み、目立つ白銀の装いをしていることが彼らの運命を決定づけている。
騎士の一人が興奮した様子で抜刀した。きらりと光る剣刃を馬上でかざし、音声をはっした。この修羅場においても声には気合がこもっている。
「闇討ちするなど卑怯だぞっ! 出てこい」
その騎士はもう一歩、馬を前に進ませる。それでカツリと蹄がなり、草がわずかに揺れる。騎士は見た。
前方の草陰から飛び出してくる、男の顔を。
白い肌に、赤い目。額には鉢金を巻いた男。彼の右手には、黒い剣が握られていた。その背には黒いマントが風になびいている。
「う、おお」
騎士は何事か喚いた。「赤目」はその騎士に一足飛びに近づくと、右手を天に向かって振った。黒の剣が唸りを上げて騎士を馬ごと叩き斬る。血が飛び、雨のように降る。顔を真っ二つに割られた馬と体ごと二つになった騎士がどうと倒れた。
騎士達は呆然とする。今しがた起こったことが全く理解できない。斬られた男はこの隊の中でも手練れである。それなのに、何がなんだかわからないうちに死体に変えられたのだ。
赤目が自らの剣を肩に担ぐ。剣先についた血が、ぱっと飛んだ。肩に担いだ剣は「剣」といえるのかどうかと言えるほど巨大なものだと、やっと騎士達にはわかった。
まるで芝居を見るようだ。騎士たちは赤目の行動を食い入るように見ている。だが彼らは観客ではない。
赤目が頭上で剣を回す。それが殺戮の合図だった。
茂みから数十の黒い影が騎士たちに向かって襲い掛かった。どれも徒歩の歩兵である。しかし、その手に持った剣、槍、斧。その白刃がギラギラと光る。
「お、応戦げう」
とっさに騎士たちに指示をしようとした男を、赤目が切り殺す。やりかたは先ほどと一緒だった。下から切り上げて、真っ二つにする。常軌を逸した巨剣でのみできる技。それで決定的に騎士たちは浮足立った。
「にげろお」
「たたかええ」
騎士達が喚く。反対の言葉が飛びかっている。互いに馬をぶつけ合い、もみ合う。その隙間に黒い兵士たちが入り込み、殺す。剣を持って戦おうとする者から死体に変えられた。「皆殺しにするな。一人だけ生き残らせろ」
黒の影の一人が、冷静に命令を出す。彼は頭に白いものの混じった老兵だった。その声に兵士たちは「おお!」と叫ぶ。それは反応と騎士達への威嚇を伴っていた。
一人、また一人と騎士達が馬上から引きずり降ろされていく。鎧の隙間に剣を受けて、血の海を作っていく。それはまだ、幸せなもののことだった。
赤目が奔る。手に持った剣が唸るたびには黒の線を残す。それは血の跡だ。彼の後ろには、「顔」を無くした者、「下半身」を無くした者の死体が転がっていた。それらは立ち向かおうとしたものは剣を手にし、逃げようとしたものはうつぶせに倒れてはいるが皆平等に苦悶の顔で倒れている。
「う、あああ」
乱戦の中で叫んだのは騎士ではない。黒の兵士の一人が剣を片手に喚いていた。その前には、顔から血を流した「生き残り」が立っている。すでに騎馬はないがその手には血刀が握られていた。この状況で奮戦したのだろう。
赤目がその紅い眼光を向ける。彼はぐるりと首を回して、がっと地面を蹴るや生き残りの騎士の前に立った。いや、それも一瞬のことだ。すぐさまに剣を頭上に掲げると、振り下ろす。生き残りの騎士の見たものは、黒の空が落ちてくる光景だった。
二つになる勇者。頭から股までを切り裂かれて、血をふきだす。
赤目は返り血を満身に浴びて、怯えていた兵士に振り返った。だが、その顔は以外にも優しげだった。
「大丈夫か?」
赤目の男――ブラッド・ボアルはそう言った。
「勝手なことをするのはやめてもらおうか? ブラッド殿」
苦虫をかみつぶしたよう顔で騎士団長であるイードは言った。彼は戦陣の為に作られた簡易な机に肘をかけている。背にはアルセナ国の証しである旗が掲げられていた。
ブラッドがイードを見る。彼は今朝の出撃を詰問されるためにこの本陣にある騎士団長の天幕まで呼び出されていた。彼はその真ん中に屹立し、その周りをイードの側近の騎士達に囲まれている。
「一人連れて帰りました。それで敵の位置が分かった筈です」
「そんなことを言っているんじゃない。私に無断で勝手に動いたことが問題なのだ!」
「…………」
イードは机を叩いて激高した。
「そもそもあんな小物を連れてきたくらいで、手柄をねだろうとするなっ! わ、私は王直々にこの軍を任せられているのだぞっ」
「へえ」
ブラッドは赤い目を上げた。彼は今丸腰で、さらに大勢の屈強な男達に囲まれているのだ。それでもイードはごくりと息をのんだ。内心では怯えているのだ。
「あんた、さっきから何をびくびくしてんだ?」
「き、貴様なにを」
「……ともかく。俺は仕事をした。もしも、俺の部下に与える褒美がないのなら、あんたの鎧をもらう」
「な……に?」
イードは少し考えて、ぞっとした。鎧とは騎士の象徴であると言ってもよい。それをもらうと言うのはつまるところ「剥ぎ取る」しかない。その時にイードの体が動いている保証は全くない。それを暗にブラッドは言ったのだ。
普通にとれば大逆である。だがイードは内心の恐れと、命の危機を感じたことで「う、む」と呻いた。ブラッドの目を見ることができない。
「……これからの、戦い次第だ」
イードにはそういうしかなかった。ここで「やる」と言ってしまえば、ブラッドに屈したことになる。かといって彼は「赤目」に敵対しようというほど豪胆ではなかった。それに今朝の戦いぶりからわかるように、彼を失えばこの軍の戦闘力は減少する。
「もういい。出て行け。追って沙汰をする」
イードの声に側近達は色めき立ったが、ブラッドはぺこりと頭を下げてから天幕を出て行った。後ろ振り向くことも、俯くこともない前だけを見ながら。
「血に飢えた……獣め」
イードは吐き捨てた。
アクラル大陸。この世界でもっとも巨大かつ、唯一の大陸の名前である。
今この大地は二つの大国による熾烈な戦いが繰り広げられていた。その国の名を一つはアルセラ国。そしてもう片方をシーリンド国と言った。
戦いは全大陸を巻きこみ、いたるところで闘争が起こる。まさに乱世の様相が極まる地獄絵図を現世に作っていた。
そんな状況では民衆も明日生き残ることができるかわからない。彼らは敵国に怯えて、野を行く魔物に怯えて暮らしていた。
そんな時代の中にあるアルセラ国で一つの地方街が合った。正確な名よりもその地名を取った「ロスティデル」の方が通りの良いほどの街である。だがその小さな町がこのたびシーリンド国に寝返った。アルセラ国を見限ったともいえる。
続々とシーリンド国はその地方街に援軍を送った。近くの町々も彼らに降伏したので、アルセラ国は喉元に剣を突きつけられた形になってしまった。それに慌てたアルセラ王はすぐさまに万を数える大軍を鎮圧部隊として遠征させた。
それがこのたびの戦役の端緒である。ブラッドたちに撃滅されたあの「騎士達」は元アルセラの民衆兵ではなく、れっきとしたシーリンド国所属の騎士である。
「あっブラッド隊長」
「ん、どうしたんだ?」
自分の陣に帰ってきたブラッドはなにか騒がしさを感じ取った。それをブラッドは挨拶を彼にした見張りの兵士に尋ねた。口調は柔和そのもの、口元には笑みすら浮かんでいる。
「いえ。なんだか、ギルが喧嘩をしようとしているんですよ。見物に行きますか? 後でいろいろ教えてくださいよ」
「ギルが? ……見張りを頼むぞ」
ブラッドは喧嘩を見に行きかねない兵に苦笑しつつ、肩を叩いてやった。それだけでその兵士は「はっ」と屹立した。だが、ちらちらと彼の目は喧騒の方へ向かっていた。
当たり前だがブラッドの陣は兵士の寝床であり、戦陣での住処である、そこにはテントが整然と並び、しっかりと区画の整理がされていた。その中央には広場があり、そこはブラッドや隊員の為の会議や酒盛りの場所になっていた。
それでいながらも周りにはしっかりと柵が張り巡らされて、騎馬の侵入できる低地には逆茂木が置いてある。それに要所要所には見張りの兵隊を置いている。まさに戦いの陣であった。ただしブラッドの隊はブラッド自身の武功と隊全体の凶暴性が声高に言われているので、そこまで几帳面に作ってあることはあまり知られていない。
隊自体が小さいこともある。全員で百人を切る程度だ。
そんな中で喧騒が起こっている。ブラッドが広場に来ると、何かを囲むように兵士たちが車座になって。囃し立てるように声を上げている。
「どうしたんだ、グラハム」
「ああ、隊長……」
少し集まりから離れたところにいた彼。頭に白いものを混じらせた老兵、グラハムがブラッドを振り向いた。目元の皺が少し深くなっていることにブラッドは気が付いて言う。
「心配そうだな」
「いや、そんなことはない……」
ぶっきらぼうに答えるグラハムにブラッドは苦笑する。大体この男は心配するときには目元がよっている。そのくせ口には出さないのだ。しかし、どんな時でも冷静で今日のような奇襲などの指揮は彼に一任されることが多い。逆にブラッドは隊長と言うよりも、切込み隊長になってしまっている。
「あっ隊長」
「隊長!」
グラハムとブラッドの話をしているのを聞いたのか、広場に集まった連中がブラッドを見た。隊長の姿をみて無条件で笑顔になるもの、本陣から無事に帰ってきた彼をみてほっとするものなど、「赤目」と恐れられているブラッドをみて怖がるものはいなかった。
「どうしたんだ? みんな」
三回目だな。と思いつつブラッドは聞く。群衆の誰かが答えようとした時。ブラッドの前に顔を真っ赤にはらした少年が走り寄ってきた。殴られたのか頬が赤く膨らんでいる。
「なんでも、ありません隊長」
泣きそうな声で言う彼の名はギル。ブラッドが見張りから聞いた「喧嘩の中心人物」である。彼は鮮やかな金髪を泥に塗れさせたまま言う。
「転びました」
「……嘘が下手だな」
しんと広場が静まり返る。兵士たちは喧嘩が好きなのだが、ブラッドはその手のことを好まないことを彼らは良く知っている。だから、誰もしゃべろうとしない。
ブラッドがギルの肩に手を置いて言う。
「とにかく、顔を洗ってこい。……誰か。傷薬を持ってきてやれ」
よし来たとばかりにグラハムが前に進み出る。だが顔はやれやれと言った風情で「仕方なさそう」にしていた。
うやむやにする気はブラッドにはなかった。彼はすぐに何人かの隊員に事情を聴く為、呼び出した。そこで分かったのはギルがある兵士に殴りかかったということだった。事情はさすがに分からないらしいが、なにか馬鹿にされたとギルが喚いていたらしい。
殴りかかられた兵士の方は見張り巡回に出ているらしい。おそらく、ブラッドに呼び出されるのを見越して、先に逃げ出したのかもしれない。ブラッドはふうと息を吐いた。
「そうか」
それからブラッドは話を聞いた相手にねぎらいの言葉をかけて下がらせた。隊規を乱したと怒るべきなのかもしれないが、彼は昔から怒ったりすることが苦手なのだ。
「ギル自身に聞いてみるしかないか……」
ブラッドはギルの寝ているテントへ足を向けた。
少し血の匂いのするテント。ブラッドは身を屈めてから中へ入った。
ギルが藁で作った枕を頭にして横になっていた。横にはぶすっとした顔でグラハムがギルへ付き添っている。傍らの桶には水が張っているが、さっとグラハムは隠す。
「ギル、具合はどうだ」
「だ、大丈夫です。た、たいちょう」
「起きるな、寝ていろ」
起き上ろうとするギルを手で制してからブラッドは優しげに声をかけた。彼はギルのそばに片膝をついた。
「喧嘩を……始めたそうだな」
喧嘩をした。ではなく、ギルが始めたとブラッドは言う。しかし、責めている口調ではない。
「す、すみません。か、かっとなって」
「珍しいなっ」
はははとブラッドは笑う。こういう時は少年のように、屈託のない笑顔を見せる男だった。それにつられてギルも口元をほころばせてしまうが慌てて、きゅっと口を結ぶ。
「良ければ話してくれないか? ギル」
「…………」
ギルは切れた唇を微かに動かした。顔がはれているのでうまく声が出せないようだ。
「ゆっくりでいい」
ブラッドはその場に座り込み、じっと耳を傾ける。あの赤い目はギルを見ている。グラハムはなにも言わない。
ギルは小さく肩を震わせながら、ゆっくりと話しはじめた。
「お、おれ。今朝の闘いで、隊長に助けられました……」
「? ああ。そんなこともあったっけな」
ブラッドははてと首を傾げつつ、思い出す。そういえば乱戦の中で誰かの手助けをしたかもしれないが、いつものことだからあまり覚えていない。だがギルは覚えていた。
彼はあの戦いの中で悲鳴を上げた兵士である。敵の騎士に迫られて、ブラッドに助けられたのは紛れもなく、彼だった。
ギルは今回の闘いが初陣だった。まだ一五を少し超えただけの少年である。戦いの中で怯えるのも致し方ないことだろう。
だが古来より勇敢さは若者の価値を上げる最大の物だと言う。それが事実かどうかはさておいたとしても、多くの若者はそう思っていた。むろんギルもその一人である。
悲鳴を上げたこと、助けられたこと。全てがギルという若者の心に重くのしかかっていた。そんな折にである。今回のことが起こったのは。
ギルはたどたどしく話す。
「そ、そのことで。おれ。食事の時に馬鹿にされたんです。……臆病者って、それで、耐えきれなくて。その……すみません」
ギルはまた泣き出しそうな声でブラッドに語った。ブラッドは一度グラハムに目をやった。この老兵はわれ関せじとばかりにそっぽを向いている。だが耳だけはブラッドの方を向いていた。
ブラッドは考えた。ギルの話すのは一から十まで若者らしい悩みである。幾多の修羅場を超えてきた彼には、中々にかわいらしいものに聞こえた。だが彼はそんな気持ちをおくびにも表情に出さず、言う。
「臆病者と言われるのはつらいな」
その声は少しだけ大きい。勿論グラハムにも聞かせている為だ。ギルはブラッドに向かって弱々しく頷いた。戦いでは後れを取り、自分が始めた喧嘩では負けてしまった。情けないことこの上ないだろう。
「グラハムに鍛え直してもらうか?」
ブラッドは思ったことをそのまま口に出した。ギルは血の気が多すぎるが、グラハムに鍛え直してもらえれば、多少は意気地もつくのかもしれない。それに彼につけておけば、無駄に死ぬことはないだろう。
とうのグラハムはやれやれと言った顔で、首を振る。拒絶しているわけではないことはブラッドにはわかっていた。だから彼はくすりと笑う。
「ギル」
「は、はい」
ブラッドはギルの腕を掴んだ。少しだけ力を入れるとギルは、小さく痛がった。
「ということだから、グラハムに鍛え直してもらえ。これくらいで痛がっていられては困る」
「す、すみません。お、おれ」
ブラッドはなにか言おうとするギルを目で制する。それだけでうっとギルは言葉に詰まる。ブラッドは苦笑しつつも、彼を励ますように言う。
「いつか俺が危ない時に助けてくれ」
ブラッドはそれだけ言うと立ち上がって、くるりと踵を返した。
「は、はい!」
それだけで若者の心を動かすのは十分だったのだ。
翌日の昼前に行軍が始まった。広い原野をアルセナの精兵が行く。歩兵は整然と隊列を組んで、手に持った槍を天に掲げて堂々と進んでいく。騎馬はまとまって、煌びやかな軍装を示しながら進んだ。
ブラッド達が捕獲した捕虜のおかげで敵の軍勢がどのあたりにいるのかは知ることができた。それを騎士団長のイードは多少歯がゆく思ったが、よく偵騎を放ったうえで行動に移したのだ。彼も乱世の将である、潔癖性が鼻に突くこともあるが彼には彼なりの考えがある。
ブラッド達も隊列を組んで進んだ。
奇妙なのは他の兵士たちとは違ってブラッドは騎士であるはずなのに、彼は兵士たちとともに歩きながら馬の手綱を引いていくことだろう。ブラッドはあまり馬に乗ることがなく、歩兵たちともに歩くことが多かった。
ブラッドの部下達もそんな奇妙な隊長の後ろから胸を張って進んでいく。方々から恐れられている「赤目」の部隊にしては、純粋な感動が彼らにもあるのだろう。
しかし、そんなブラッド隊。その隊長である、ブラッド自身がなぜか焦っていた。
(遅いな)
行軍の速度が遅い。整然と進むのはいいのだが、ここまでの大軍勢で威圧するように進むのは敵に自らの位置を教えて、対策を練らせているようなものだ。少なくともブラッドはそう思った。彼は、敵には残酷な戦いをする反面、部下が死ぬことを極端に嫌う。だからこの行軍には不満があった。
これも騎士団長とブラッドの性格による考え方の違いだろう。イードの考え方は良く言って堅実であり、慎重。機を見ても石橋を叩いていかねば気が済まない性格である。ブラッドは自らが敵の中枢を食い破り、一気呵成に畳み掛けることを戦いの中心に考えている。それがもっとも被害が少ないことが多いのだ。
とは言っても性格の違いによるもので、どちらが優劣にあるのかはわからない。だが今回はブラッドの懸念通り、敵に察知されていた。これによって捕虜を得たアルセナ軍の有利さが消えたと言ってもいい。
聖ベリアス樹海。アルセラ正規軍が攻め寄せてきていることを察知したロスティデル民衆軍とシーリンド正規軍の混成連合軍はそこを本陣にしていた。樹海を形成する大量の木々が、天然の要塞となってアルセナ軍の前に立ちふさがっている。もちろん簡易な堀や塀も作られていて、中には兵が満ちている。
樹海にこもられて、防御陣地を作られるとアルセラ軍は騎馬が使えない。樹海内の木々が邪魔になるのもあるが、そんな場所に突入してまで騎馬に乗っていること自体が的である。ゆえに、アルセラ軍は戦う前から攻め手の一つを封じられた格好になった。
それでもイードは樹海の前にある平原へ陣取った。小さな丘を中心として、兵営を隙間なく並べた堅陣である。これではロスティデル民衆軍とシーリンド正規軍の混成連合軍は容易に攻めることができない。
だがアルセラの堅陣は逆に攻撃性に薄い。それは樹海側も同じことであり、攻められにくいということは出撃しにくいということでもあった。
日が過ぎていく。小競り合いが数度起こった以外は、特にこれと言った戦いもなく。両軍とも攻めあぐねていた。
ここ数日の収穫は多少アルセラ軍の方が兵数で上回っているのでは、という観測一つだった。確証ですらない。
「なに、死なないだけいいさ」
ブラッドはたまにそう言って、戦いに倦んでいる隊員を励ました。彼にとっては本心も入っている。だが、彼の剣が振るわれる時が来た。
王都からイードへ詰問の使者が来たのである。それは何故早く敵を撃退しないかというものだった。古来から、前線の将兵のもっとも苦戦する相手は、前方の敵よりも後ろの何も知らない味方である。
そしてイードはなによりも体面を重んじるような男だった。彼はすぐに攻撃の編成を行った。表面上は作戦を立てたが、現状での樹海陣地の突破方法は一つしかなかった。
それは上回っている「だろう」という兵の数を持っての、力攻めである。正面からの攻撃を彼は敢行したのだ。
アルセラ軍は敵の陣地に向かってゆっくりと前進し始めた。
敵の弓の届く距離までは、焦ることなく近づいていく。万を超える人の足音が戦場に響き、土煙を上げた。対する樹海側もじっと息を凝らしている。今日が決戦の日だということは両軍ともにわかりすぎるほどわかっていた。
「かかれえ」
本陣でアルセラの騎士団長が指揮剣を振るう。その声はアルセラの軍を波のように伝って行く。鬨の声が天を震わせたと同時に、アルセラの軍勢が樹海陣地に襲い掛かった。
激戦である。十分な防備をしている場所へ、正面から突撃したのだからアルセラの軍勢は次々に弓に、槍に、剣に倒れていく。それはロスティデル民衆軍とシーリンド正規軍も同じだった。
屍を踏んでアルセラ軍は迫ってくる。なんども堀を超え、柵を倒して野獣のように向かってくる。それを勇猛なシーリンド騎士達が死力を尽くして撃退する。それでも攻撃はやまない。昼を血に染め、夕日が戦場に光を投げる。
その戦場にブラッドは飛び込んだ。
「あ、赤目だ!」
ブラッドは堀を超えて剣を振う。甲をつけた首が一つ、飛んでいく。近くのシーリンドの兵が彼に襲いかかるが返す刀でブラッドの剣に打倒された。彼の後ろから、幾人かのアルセラの兵士たちが陣地へ入っていく。
ブラッドは血と泥にまみれていた。敵を何度切り倒したかわからない。かろうじて、自らの隊を敵の弓兵の陣地に突入させることができた。それまでに何人が死んだだろうか。
「う、おおおおおお!」
ブラッドが吠える。彼は剣を構えて敵の一群へ向かって行く。
「ひい」
怯えた者の体を二つに斬り飛ばす。
「貴様、ぎゃああああ」
勇敢に向かってくる騎士の体を二つに裂く。
ブラッドは血刀を振るって縦横無尽に暴れまわった。容赦も慈悲もないその姿は敵を怯えさせ、味方に蛮勇を与える。
不意にロスティデル民衆軍とシーリンド正規軍の軍が崩れた。戦略的には一兵士と大して変わらないブラッドにはその原因は分からない。だが、彼は戦いの機微についてならわかっている。
「グラハム!」
ブラッドが叫ぶと彼と同じように血濡れの槍を抱えたグラハムが走り寄ってきた。彼はブラッドの姿に驚きもせずに言う。
「追撃か?」
「もちろんだ、ここで殺し尽くす」
返り血で歯まで赤いブラッドは言う。ギラギラと光るその灼眼はグラハムでなければ恐怖に震えるしかないだろう。それほどまでに今のブラッドは鬼気迫っている。
「心得た。すぐに隊の連中をまとめる」
「頼む、……。グラハム」
「?」
グラハムはいぶかしげにブラッドを顧みた。その目は「なんだ」と言っている。ブラッドはふと浮かんだ疑問を彼に伝えた。
「ギルは、生きているか?」
グラハムはちょっと考えた様子をしながらもこくりと頷いた。それからたたっと老人とは思えぬ、足取りで戦場へ帰って行く。なぜブラッドがそんなことを言ったのかは老人は分かっている。この戦いでブラッドの部下は大勢が死んだ。それも多くの死体に覆い隠されて、どこで死んだかはもうわからない。そんな中で若いギルのことをブラッドは思ったのだろう。
ブラッドは森の奥へ逃げて行く敵兵を見つけた。遠くのことでブラッドの声も剣も届かない。だがその姿は明らかに敗走している。ブラッドは他の場所でも潮の引くように、敵兵が逃げているのだろうと思った。
味方の兵が充満していく中で、ブラッドは息を整える。血の味がする口の中からべっと吐出して、服で顔を拭う。だがすぐにそれすらも血まみれだと気が付いて、やめた。
「ブラッド隊長」
声にブラッドが振り向くと、グラハムが隊員を整列させていた。数は見るだに減っている。百近くいた彼らは、もはやその三分の一程度しか残っていない。ブラッドは心の奥が鳴ったことを隠して、彼らに笑いかける。
「さあ、もう少しだけ俺に力を貸してくれ。戦いが終わったら、褒美をたっぷりともらって酒盛りをしよう!」
おおと返すブラッド隊。それだけで彼らは戦えた。その兵士達の体には大なり小なりの生々しい傷がある、何人かは腕がない。それでも彼らはブラッドについていくと声で示したのだ。
「ブラッド隊長」
「ああ、ギルか」
あの少年がブラッドへ近づいてくる、また泣きそうな顔だった。
「なんだ。また喧嘩に負けたのか」
ブラッドの冗談に隊が笑う、一人二人ではなくみんなで笑った。この地獄で。
「ち、違います。お、おれは今度こそ隊長の役にたって見せます」
ブラッドは歯を見せて笑う。そしてギルの頭を撫でて、きっと目を上げた。
「行くぞ! ここで戦いを終わらせる」
追撃戦が始まった。アルセラ正規軍はすさまじい戦死者をだしておきながらも狂ったように敵兵を追い続け、見つけた者から撃殺した。すさまじい疲労は両軍ともだが、勝戦にのるアルセラ軍の方が自分を騙せているのだろう。逆にロスティデル民衆軍とシーリンド正規軍の両軍はもはや組織的な反抗を示すことができないほど痛めつけられていた。
「追ええ、おええ」
騎士団長のイードが戦陣にたって喚く。彼は勝ち戦とはいえ兵士を死なせすぎた。後ろからの催促があったとはいえ、全ての責任は彼に帰するのは自明だったのだ。ゆえに明確かつ大量の戦果が彼には必要だった。流した血の分だけ、敵兵に死んでもらわなければわりに合わない。彼の名誉を購えない。
「殺せ、殺せ」
アルセラの軍が追う。ブラッド達もその中心にいた。
聖ベリアス樹海はその名の通り、昔から神聖な場所であるとされていた。乱世の今では見向きもされず、名前だけがさびしく残ってはいるのだが、それでも昔の名残が残っているらしい。
木々の間を抜けた、ブラッド達の前に大きな湖がその姿を現した。そのほとりには天高い尖頭を持った建物がある。それは昔作られたものだろう、遠目からも古ぼけていた。この樹海の中で奇妙にも存在するこの湖を面白がって、昔の人々が作ったのかもしれない。
「敵だああ。敵がいるぞお」
だがアルセラ軍は今そんなことよりも、その建物の周りに群がった敵兵に興奮した。かなりまとまっているようで、この敗戦の中で尚も剣をアルセラ軍に向けている。逃げる様子はないのは最後を戦って終わろうとしているのだろうか。
ブラッドは直感した。
「敵だ。敵の大将があそこにいる」
根拠はない。説明もできない。それでもブラッドは確信した。彼は隊を振り向いて叫んだ。
「手柄を立てるぞ!」
鬨の声で隊員が返す。最後に戦いが始まると彼らは気合を入れなおした。
建物の周りで死闘が繰り広げられている。疲労しているのは両軍ともとは先に書いたが、この期に及んでもシーリンドの騎士は勇敢だった。いや、死を覚悟した今は普段にまして勇猛なのかもしれない。
それでも多勢に無勢。アルセラ軍に一人一人と切り倒されていく。
すでに夕日は陰り、暗闇が世界に広がっていく。ブラッドはふと、その暗がりの広がる空を見た。空の黒さが全てを覆っていく。
「なんだ、これは」
ブラッドの心臓が鳴る。これは危険だと、全身が警告を発する。
黒が、落ちてくる。この戦場で気が付けるのは何人いるのだろうか。それほどにこの場の兵士たちは血に飢えていた。異常の気が付かずに兵士たちは戦い続ける。
「グラハム!」
急速に冷えていく頭を動かしてブラッドは自らの懐刀の名を呼んだ。ここから一刻も早く逃げなければならないと彼は思う。手柄も褒美も、仲間がいなければ意味がない。今すぐに撤退すべきだと彼は思う。
「グラハム!!」
いつもはすぐに来てくれる老兵が来ない。それでも空の暗さは地へ向かって落ちてくる。それは湖に落ちて黒い波を作った。一瞬ブラッドはそちらに気がとられて、近寄ってきた敵兵に気が付かなかった。
「ひひひひひいっひひひいひ」
「!」
ブラッドは向かってきた敵兵を素早く切り倒した。その兵士は体の半分が千切れ飛んだがそれでも、
「死ねぇええ」
向かってくる。
ブラッドは驚愕しつつも一歩後ろへ下がり、巨剣を振るう。それで兵士の首が飛んで行った。
「なんだ、今の奴は」
汗が冷たい。戦っているのに、体中が凍りつきそうなほど冷えている。
「グラハム!」
三度目。彼は名を呼んだ。それでも老兵は来ない。あたりには剣のぶつかり合う音だけが響いていた。戦場にしては静かすぎるくらいの音。
ブラッドは気が付いた。戦っている者たちはみな同じ格好をしていることを、それもアルセラ国の兵士の着る服を着ていることをだった。
「なんだ、なんなんだ? みんななにをやっているんだ? おい、お前」
ブラッドは近くの「味方」の肩を掴んで引き寄せた。
「き、きしゃあああ」
剣がブラッドに迫る。ブラッドはそれを驚愕しつつも躱す。まさか味方を斬るわけにもいかず、彼は距離を取って声をかける。
「落ち着け。俺は味方だ」
「てき、れてき。敵を殺す」
味方の兵士が突進してくる、いやもはや彼は敵だろう。ブラッドはやむなく、剣を横にしてその腹で殴り倒した。刃を立ててはいないから、骨折くらいはしていても死んではいないだろう。
そこでブラッドは気が付いた。囲まれている。いや彼が樹海に入った時からずっと「彼れら」はそこにいたのだ。アルセラの兵士達がブラッドを囲んでいた。
「……っ」
言葉が出ない。彼を囲んでいる者たちは目の焦点が合っていない。それでいながら武器を掴んだ手はぎりぎりと血が出るほどに力強く握られている。
「殺す、しーりんど。殺す」
「違う俺はアルセラの騎士だ! 目を覚ませ!」
ブラッドの叫びもむなしく、彼らは一斉にブラッドへ向かってきた。一人が槍を突いてくる。ブラッドは何とか躱すが、二人目の放った斬撃に鼻先をかすめた。わずかに血が飛ぶ。
ブラッドも殺さぬように剣で応戦するが、だんだんと追いつめられ始めた。決定的な攻撃ができないブラッドに多数で群がるアルセラの兵たちである。どんなにブラッドが手練れとはいえ、これではどうしようもない。
そこでブラッドは信じられないものを見た。先に倒したあの「兵士」の体に他のアルセラの兵士が槍を突けたのである。そのまま狂ったようにめった刺しにする。血が飛ぶ、たまに鎧に当たった槍の先がキンと音をたてた。
「やめろっ!」
叫ぶ。だが目の前の敵が邪魔で助けに行くことが彼にはできない。ブラッドは剣を振るい、大きく横へ振った。それで、何人かの兵士が後ろへ下がる。そこから急いで助けに入ろうとしたが、無理だった。
「しーりんど、しーりんど殺した、ひいひ」
槍を高々と上げ子供の様に喜ぶ「味方殺し」の兵。ブラッドはあっけにとられてしまった。そこに一人のアルセラ兵が剣を片手に走り寄る。そして素早く、ブラッドに向けて斬撃を放った。
「しまっ」
ブラッドにはわかった。反撃が間に合わない。剣が彼の首元へ迫る。その瞬間、剣撃を放った兵士の横腹に槍が突き立った。どうとそのままその兵士が倒れる。
「グラハム、来てくれたか」
「遅くなった」
槍を片手にグラハムはブラッドの背後についた。そのまま彼は言った。
「味方同士で殺し合っている」
「ああ。俺もさっき見た、いや今のこの状況がそれだな」
ブラッドはグラハムに背中を預けたまま、向かい合った兵士達に斬撃を繰り出す。それは当てる気はなく、あくまで下がらせることが目的だった。それで道が開いた。
「開いた! 行くぞ」
ブラッドはグラハムとともに駆け出した。そのまま、殺し合ってる味方の中を駆け抜けて、小高い丘に登った。ここならば誰もいないようだ。しかし、戦場が良く見えた。
「なんだこれは」
ブラッドは絶句した。目の前の大きな湖。その周りのいたるところで、「戦い」が起こっていた。武器のあるものすべてが目の前の者を相手に戦っている。遠くにはシーリンドの兵士が戦っているのも見えた。それで、この混乱がアルセラだけのものではないと分かった。
「さすがに、わからない」
呻くような声でグラハムが言う。かといって同じように分からないブラッドは彼を責めることはできない。当たり前だろう。なんの前触れもなく、味方同士で殺し合っているのだからわけがわからない。
ブラッドはグラハムを見た。その老兵の目じりが少しだけ下がっている。それは悲しんでいる時、彼のする癖だった。それだけでブラッドは、自らの隊がどうなっているのかを知った。どこかで殺し合っているのだろう。
「くそ」
ブラッドは地を踏み鳴らした。あと少しで戦が終わりそうだった矢先に起こった異常に彼は無力を感じざるを得ない。ブラッドはそれでも、生き残る為に頭を動かした。とにかくこの場を離脱しなければならない。それには何人かの同胞を「斬る」ことが必要だろう。多少なりとも狂わなければ、死にそうなほど悲しかった。
ブラッドが覚悟を固めようと、目をつぶった。その時である、彼の耳に声が届いた。
「ブラッドたいちょお」
「ギル、ギルの声だっ」
ブラッドはあたりを見回した。グラハムもそれに習う。だが彼の顔は深刻そうだった。
ブラッドの足元の土に手がかかった。丘を登ってくる者が手をかけたのだろう。ブラッドが覗き込んでみると、そこにはあの泣き虫なギルが登ってきていた。彼は丘の縁に足をかけてよじ登ってくる。そうしてから立ち上がった。
「しいいねえええ」
ギルが手にした短剣でブラッドに突きいれた。迫る剣突に驚いたブラッドは
「危ない、隊長」
グラハムがブラッドを突き飛ばす。そして、ギルと体をぶつけた。
「ぐら、はむ? お。おい」
グラハムの体にギルの短剣が突き刺さっていた。そこからギルはさらに短剣をねじ込んでグラハムの体を押し倒す。ばたりとグラハムの体が地に投げ出され、黒い波紋が流れていく。
即死だった。
「あ、あああ。たいちょおお、たいちょおおおれやりましたあ。てきへいをたおしました」
ギルは狂喜する。ブラッドはゆっくりと立ち上がった。言葉はない。言うべき言葉が見つからないのだ。
「ちちょおお、どこですかあ。おれ、おれ役に立ちました」
ギルは目の前のブラッドを見ずに、何かを探しているようにきょろきょろとあたりを見回す。だが彼には「隊長」が見つけることができなかった。
「ギル」
「てき、てき? てき!」
ギルが短剣を構える。ブラッドは剣をゆらりと動かしながら、彼に近づいた。それでもギルは逃げることも悲鳴を上げることもしなかった。彼は言う。
「たいちょおお、おれはてきへいをたおしました。てきへいをたおしました。俺が切ったのはあてきへいですよ、ね? てきへいですよね? てきへいでづよね?」
狂ったように言うギル。いや実質、彼は狂っていた。ブラッドは泣きそうな顔で剣を握る手に強く、力を入れた。そして一閃。彼の目の前にいた「敵」が崩れ落ちた。
「研げよ研げ研げ、雨の日は。錆を寄せるな、曇りを生むな……」
優しげに歌いながらブラッドは自分のマントの端をちぎって、ギルのなくなった顔にかけてあげた。少なくともこれで「傷口」を見られることはない。そして、ギルの手を両手で合わせるようにしてあげる。
「俺は、牧師さまじゃないからな……祈りの言葉はよくしらないから、歌ってやることしかできない……すまないなギル」
ブラッドはギルの動かなくなった手を握った。それから言葉を紡ぐ。
「それでも、俺は忘れない。お前のことも、グラハムのことも、みんなのことも。全部、全部覚えておく。絶対に忘れたりしない」
ブラッドは短剣を握る。それはギルの愛用の武器だった。非力な彼には長剣や弓は使えなかったのだ。それでも彼が磨き上げたのだろう、きらりと光っている美しい刀身を持っている。
ブラッドはそれを左肩に突き刺した。
「ぐう」
呻く。それでも彼はやめない。さらに下へ傷口を広げる、すさまじい痛みがブラッドを襲った。彼は歯を食いしばり、短剣を抜く。
「ギルの分だ」
脂汗を流しながらブラッドは血が流れ落ちる肩を見た。そしてまた短剣を左肩に突き刺す。今度は前に傷口を十文字に開くように斬る。そこに血が流れ混み、溢れ出し真っ赤な文様の様になった。
「グラハム」
ブラッドは何度も左肩に短剣をいれる。それは彼の失ったものを忘れない為の痛み、忘れないための傷だった。ブラッドはしばらくして、短剣をギルの胸元にそっと置いた。血は拭ってある。彼の足元に血だまりができていた。
「借りて、ごめんな」
ブラッドはそう言って、少しだけ笑った。それが彼を慕ってくれていた少年への、最後の言葉だった。
ブラッドは湖に顔を向ける。そこにはいつの間にか、黒い影が立っていた。人の何倍もあるだろうその影は、味方どうしで殺し合う、愚かな人間たちを見下ろして楽しんでいるかのようだった。全ての惨劇は、あの黒い影が空から落ちてきたときに始まったのだ。
「……」
ブラッドは剣を掴む。右手で肩にかけて、一度振る。今からやることは決まっていた、目の前の地獄を越えて、あの「黒い影」の首を取りにいく。彼は振り返らない。もう忘れることのないように刻んだ傷が左肩にある。だから、今はただ戦いに行くのだ。
ブラッドは丘を飛んで降りた。
すぐそこまで来ていたアルセラの兵士たちが彼めがけて突進してくる。口々に「手柄」や「敵」だと涎を垂らしながら殺到した。
ブラッドは剣を振るう。剛剣が唸りを上げて、兵士たちを切り捨てる。そのままブラッドが駆け出した。
狂人たちの中を魔人が行く。
その男が行くところには手が、脚が、首が飛ぶ。どことはかまわず切り捨てる彼はまさに魔人としか言いようがない。彼はかつての同僚たちを、無慈悲に切り捨て、切り上げ、切り殺す。満身に返り血を浴びても歩みを止めない。
「てきいだああ」
ブラッドは向かってきた兵士の口に剣を突っ込む。首の後ろから剣の先をだした、その兵士がだらりと両手を下げて息絶える。だが、その体に引っかかったのだろう、ブラッドの剣はすぐには抜けなかった。
そこに他の兵士が切りかかる。ブラッドは左手を前に出して、その剣先を受けた。ガチっと音がして、剣がブラッドの手に食い込んだ。
小手ではない、骨で受ける。肩さえ無事なら、ブラッドは片手にはもうなんの未練もなかった。いや考えられなかった。彼の形相は、この中の誰よりも悪鬼そのものに近い。
「があああああ」
ブラッドが剣を引き抜くと、刺さっていた兵士の歯が飛ぶ。次の瞬間には剣を付けた兵士の体が胴からなくなっていた。少し遅れて赤い風がふく。
ブラッドは剣を回す。殺戮の合図に使った、あの仕草を無意識にしていた。まるで仇を討つことを示しているかのように、彼は何度も剣を振る。そして前進を繰り返した。
あの影を、あの影を討つ。唯それだけが彼の目的だった。湖の影もブラッドの気が付いたのだろうか、陸にゆっくりと上がり彼を迎え撃つように体を広げる。
その姿は巨大だった。人の何倍もあろうかという体躯と凶悪な赤い目を持った、本物の魔物である。全ての屈強なる兵士、騎士達を狂気に向かわせたその力。人の敵うものではない。
それでもブラッドは止まらない。邪魔するものは斬る。あの黒の影を切る。
影が動いた、黒い影が槍のように姿を変えてブラッドへ向かう。風を裂き、向かってくるその槍をブラッドが横に飛んで避ける。その槍は彼の周りにいた、兵士たちを肉片に変えた。
血の道をブラッドが進む。血濡れのマントをなびかせ、肩に剣を担いだその姿の後ろにいるものは誰もいない。
影が動く。さらに多くの槍を作り出し、高速で打ち出す。ブラッドは地を踏み、剣を振るう。剣と槍がぶつかる。火花が散り、剣の先がかける。それでも槍の穂先は地面に突きたってブラッドへ届かない。
ブラッドが飛ぶ。最後の一歩に、剣を握りしめる。そこに仲間の為の「傷」のある左手を添えた。両手で剣を握る。
影が動く――ブラッドがその懐に飛び込んだ。
「ぉおおおおおおおおお」
ブラッドが剣を振る。空気を裂き、影を両断する。血が飛び、ブラッドが顔に浴びた。
「!!!」
影が暴れる、体中を槍にしてあたりかまわず攻撃する。ブラッドは避けることもなく、その場にへたり込んだ。影の断末魔を耳に聞きながら、彼は天を仰いだ。
ブラッドの腹に槍が立つ。
「がはあ」
勢いに飛ばされたブラッドの手から剣が飛んでいく。彼の体は兵士を肉片にした槍に飛ばされて、あの「建物」の中へ飛ばされた。
倒れた彼の口からは血があふれ出て、槍に抉られた腹が黒い穴を空ける。そこへ影の血が入り込んでいく。影の力は闇の力である、それを受けた「血」は人間には猛毒だった。
影が最後の悲鳴を上げて、消えていく。
湖の近くで動くものは誰もいない。アルセラ軍もシーリンド軍もロスティデル民衆軍も誰も動かない。皆、剣を手に笑いながら死んでいた。これこそ地獄だと、見るものは言うだろう。
「あ。あ」
湖のほとりの建物――過去の劇場で「彼」が動く。その男は満身創痍で左肩に多くの傷を持った男だった。その上腹には致命傷を受けている。それでも彼は死ぬわけにはいかなかった。
「忘れら……れない」
うわごとのように「彼は」呻く。力なく天にあげた手が、何かを掴む。それは柔らかないなにかだった。だが、もはや目すらも彼には見えなかった。それを認識することすらもできない。
「ブラッド・ボアル」
女性の声。それだけが彼にはわかった。
「見事です。アグレスを人の身で打倒すとは、あなたは予言の通りのひとなのでしょう」
彼にはなにを言っているのかわからない。全てが流れていく。
彼は感じる。体を起こされることを、そして目の前のなにか白く美しいものがあることが分かる。
「ブラッド・ボアル」
女の声にブラッドは目の前のものに噛みつく、生き残る為にそこから溢れ出す、血を吸う。
「永遠を生きなさい――」
終わりです。多分、あまり見られる方はいないでしょうけど。昔からヴィーナス&ブレイブスは書いてみたかったものです。
ありがとうございました。