死神JKデイズちゃん (リメイク!)   作:氷の泥

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01 vsヤマモト・デザイア・サトシ

 モテたい。何にせよまずモテたい。いつも、ふと気が付いた時にはそんなことを考えている。そんなことを考えるようになったのは、いつからだろう? いや、いつからだって構わない。だってそれは、何もおかしなことではないからだ。健全な男子であるなら誰もが皆、遅かれ早かれ、いつの間にか、そうなるに違いないはずだ。

 母から「キッチンペーパーと、卵と、その日安く売りだされている菓子類の購入」という指令を受けて、クソ暑い真夏の炎天下を歩く俺はまた今も、気が付くと「モテたい……」と考えてしまっていた。通りすがりの若い女性が視界に入ったことと因果関係があるのかもしれない。

 今回は近所のスーパーへ向かうことに自転車を使っていない。元々健全かつ引きこもりがちな身なので、少しでも運動になればと考えての徒歩だ。その選択に実際意味があるのかどうかなんて、かなりどうでもいいことである。心の問題だ。しかしただ歩くだけというのは、想像していたよりもっと退屈なことだった。

 そこで改めて、俺、山本聡のスペックを整理してみよう。どの面下げてモテたいだなんて言ってやがるんだ……と全国の女子に叩かれる可能性が俺にどの程度あるのか、暇潰しに今一度考えてみようじゃないか。

 ……山本聡(やまもと・さとし)、17歳、高校二年生。趣味はアニメ鑑賞とゲームとネット徘徊(主に動画サイトとまとめサイト、それとSNS)。学力における偏差値も、顔面における偏差値も、自他ともに認める中の下(なお「他」を構成するのは家族と親戚一同、同性かつ同い年の友人数名のみ)だ。ちなみに自慢できることは特になし。

 典型的なインドアタイプだが、ゲームが特別上手いわけでもなく、アニメの知識が豊富だったり深い考察をしているわけでもなく、読書経験に富んでいるわけでもない。ずばり言うなら、何においても中途半端な男。それが自身で評するところの、山本聡という人間である。

 改めて考えるとやはり、モテたいと口にすることで「身の程を知れ」という言葉がどこからともなく返ってくる可能性は、なかなか高いように思えてくる。しかしそうだったとして、俺がモテたいと思うことはそんなに悪いことなのか? 男に生まれた時点で、この手の欲望を抱えるのはもはや致し方ないことなのでは?

 一回くらい女の子とイチャイチャしてみたいよ。みんなそうだろ? 一度は考えるだろう? なのに、俺が何百回何千回そう考えたって、一度たりとも一瞬たりとも、願いは天に届かないのに、イケメンはただイケメンというだけで、降り注ぐ流星群が如く願いの対象が、こっちに好意を持った女子が押し寄せてくるなんて、それはずるいじゃないか。あんまりだ。

 顔が良くてなおかつ運動神経も良かったり頭が良かったり性格が良かったり、誰もが長所だと認めるような要素を一つ、二つ、三つと持っていることが、それがそんなに偉いのかよ……! ……と八つ当たりのようなことを思いはするけれど、実際のところ自分でもちゃんとわかっている。イケメンは偉い。だいぶ偉い。だってもし俺が女に生まれていて、イケメンと山本聡のどちらと付き合うか選ぶなら、秒でイケメンを選ぶもんな……。

 生まれ持った物である程度モテ度が決まってしまっていること、それはもう仕方がないことなんだ。けれど「仕方ない」の一言で潔く諦められるほど達観することもできない。ミスター中途半端である俺はイケメンを恨み切ることも、自分を諦め切ることもどちらもできない。それはなんとも、むなしい気持ちになることだった。

 ああいっそ、モテたいという欲望が、いつの間にか気が付いた時には消えてなくなっていればいいのに。あるいは空から俺にめちゃくちゃ好意を持ってる美少女とか、何かそういう奇跡が降ってこないかなぁ……。

「ちょっとそこの男子ー!」

 いかにも美少女っぽい声が、頭上から聞こえてきて我に返る。腹から声を出し本気で叫んでいるような、それでいて心惹かれるかわいらしい声が、ものすごいスピードで頭の上に近づいてきていた。

 でもなぜ頭上から!? 当然俺は空を見上げる。雲一つない青空、過剰なほどに眩く輝く太陽。その太陽光が、俺の視界をほとんど占拠してしまった。まぶしい、何も見えない、あるのは光だけだ。

「避けてよけて危ないー!」

 避ける? 何を? そう考えてしまったのがいけなかった。伏せろと言われて「なぜ?」と考えているようでは、戦場で生き残れない。いやここは戦場ではないのだけれども、とにかく避けろと言われたのだから、棒立ちになっているくらいなら、まだ何も考えずにその場から飛びのいた方が賢明だったのだろう。

「うおっ!?」

 結果として俺は、突然空から落ちてきた何かに潰された。ぺしゃんこになって死んでしまったわけではないけれど、アスファルトの地面と自分の体が衝突した時、間違いなく結構悲惨な擦り傷を負っただろうなと確信した。頭は打たなかったのが不幸中の幸いか。

 重たくなった俺の体に、黒い布のような物が覆いかぶさる。体が重たいのは負傷のせいではない、落ちてきた何かが俺の上に乗っているからだ。しかし「黒い布に関連する」「空から急に落ちてくるもの」なんて、俺はそんなものの存在を何一つ知らない。当然何が起こったのかなんてさっぱりだ。

「あーもう……」

 呆れかえったような、それでいて耳が癒されるような声と共に、俺の上に乗った何かはそこをどいた。黒い布もそれについていって俺のもとから離れる。三秒ぶりくらいに再会した太陽の光が異様に眩しく感じた。

「なんで空から声がするのにぬぼーっと突っ立ってるかなぁ」

 被害者であるはずの俺を軽くディスりながら、空から落ちてきた人(?)は、うつ伏せに倒れたままの俺に手を差し伸べてくる。俺はその手を見て衝撃を受けた。

 なんて綺麗な手! なんて綺麗な手……! なんて、綺麗な、手……!!

 それは白くてすべすべした、華奢な感じのする、一目見てわかる女性の手だった。そしてさっきから聞こえる声だ。俺は奇跡を感じていた。しかし本当にそんなことがあるのか……? ここは現実なのに……? 信じられない。でも信じたい。

 俺は期待を込めて、手を差し伸べてくれた人のことを見上げた。そこにいたのは、魔女が羽織るローブのような黒い衣装を身にまとう、ピンク色の髪をした美少女だった。ああ、神様! これがそうなのですね! 奇跡というのはつまり、彼女のこと……ッ!

「いや、早く起き上がって」

 ピンク髪の魔女(美少女)にせかされて、心臓がバクバク鳴っているのをひた隠すような気持ちでおそるおそる、しかし迅速に、俺は彼女の手を取り立ち上がった。

 もしかすると俺はこれが、初めて女性の手を握った瞬間かもしれない。倒れこんだ時地面に手をついて多少の怪我をしたかもしれないけれど、手のひらの感覚としては怪我なんてそんなことまるで気にならなかった。

「生きててよかった、マジの死神なんて御免だよ。……で、キミ、だいじょうぶ?」

 一ミリも本気では心配していなさそうな風で彼女はそう言った。彼女は俺に話しかけているのだ……! ピンクの髪がどうしても目立つけれど、けれど見れば見るほど彼女の顔は俺の好みだった。しかもそう歳が離れているようには感じない。

「おーい? 聞いてる?」

「あ、はい。大丈夫です」

「ケガしてない?」

 ちらりと自分の膝を見下ろす。赤い物が見えた気がした。見なかったことにした。手のひらからも段々、緊張とは明らかに別な熱さを感じてきた。気のせいだと思うことにした。

「大丈夫です」

「……ほんとに?」

 彼女が下の方、俺の膝あたりの高さの場所を見ながら言った。

「いや、まぁ、はい。大丈夫です」

「ふーん」

 理由はわからないけれど、なぜか空から降ってきた美少女。形だけな気が若干しないでもないけど、俺が怪我したことに対して何か負い目(おいめ)的な責任感を抱いていそうな感じがする……ようなそうでもないような、しないでもないようなって感じだけれども……とにかくそんな彼女とここから何か、素敵な物語が始まったりしないだろうか……!

 いいやするはずだ、必ずする。神は願うことを続けた俺に奇跡を与えたのだから! ぶっちゃけ神なんか信じてないし今もそれは変わらないけど、じゃあ別に俺の運が尋常じゃないほど良いとかなんでもいい、とにかくもう、俗に言う「確変」には突入しているのだ。何もないはずがない。そんなことあっていいはずがない。

「あ、それでなんだけど、気が動転しているところに悪いとは思うんだけどさ、君にちょっと頼みがあるんだけど……いいかな?」

 ほら来た。

「あ、はい。なんでしょう……?」

 会話のさなかピンク色の髪が珍しいこともあって……いや理由の九割は彼女の容姿が好みであることが占めているのだけれど、とにかく彼女の顔の方ばかり見ていると目が合ってしまい、俺は慌てて少しうつむき誤魔化した。

 うつむくと視界の大部分を占める、彼女の着ている黒いローブのような服。単純に暑くないのだろうかとか、美人なら変わった服装でも様になっているなとか、いろいろ考えてしまう。

 しかしそんなことも全て次の一言で吹き飛んだ。

「私のこと助けると思って、デートしてくれない……?」

「え……!?」

「だめ……?」

 いくらなんでも出来すぎていると思った。話の流れというか脈絡というか、筋が通っちゃいなくないだろうか。しかし俺は、筋を通してこの貴重な機会を逃すくらいなら、どんなめちゃくちゃな流れだろうと乗ってやろうと思った。

「いや全然喜んで光栄です」

「そう、よかった」

 舞い降りた奇跡であるわりに、言葉と裏腹に苦笑いする彼女は、どうもあまり嬉しくない方向に生々しい。きっと俺が誰か、例えば同じクラスの女子とかに告白でもしようものなら、こんな顔をされるのだろうと漠然と思った。

 もちろん、奇跡にあれこれ注文をつけるつもりなんてないけれど!

 

 

 

「いやー悪いね、急にお邪魔しちゃって」

 俺は気が付くと彼女を自分の部屋に上げていた。連れ込んだ……という言い回しが適切なのかどうなのか、俺にはまったく判断がつかない。

「いや全然!」

 あのあと彼女から「何か用事があって出かけていたのか」を聞かれて、おつかいの途中だったと答えるとまずはそれを完遂することを勧められた。卵をレジに通しながら、奇跡が物理的に降ってきたのが帰り道じゃなくてよかったなとか、どうでもいいことを考えながら、ずっと隣に立っている美少女のことが気になって気になって気が気じゃなかった。

 そしてそのまま言いつけられた品を家に持ち帰った俺と一緒に、彼女はこの家に上がり込んで、しかも俺の部屋に、この粗末な密室に、ちょこんと座っているわけである。

 デートとか言っていたのは何だったのだろう。これがデート? 家デート? ちょっと何がなんだかわからない。いや、わからなくていい。納得なんて二の次だ。……とは思うけれども、さすがに気にせずにはいられないことがまだいくつかある。

 妙な服装で派手な髪色をした彼女がスーパーマッケートの中を歩いていても、誰一人として彼女のことを好奇の目で見はしなかった。それどころかウチの母でさえ、俺が突然女子を家に連れてきたことに何も言わなかった。

 友達を連れてきたって言っておけばだいじょうぶ、私を信じて。そう言われたので(そして上手い言い訳が思いつかなかったので)半信半疑で従ってみたところ、母は俺の言うことを何も疑わず、まんまと彼女と二人きりになれてしまった。それにこれは買い物をしていた時点で気が付いていたことだけれど、俺の明らかに怪我をしていた膝も、というか膝以外の手のひらとかその他諸々全ての傷が、いつの間にか跡形もなく治っていた。いつ治ったのかまるでわからなかったけれど、さすがにここまで奇妙なことが起これば俺も確信する。

 空から降ってきた時点で確信するべきだったのかもしれないけど、遅ればせながら俺も理解してきたのだ。どうやらやはり、彼女は常識では語れない存在らしい。人間じゃない。

 ……でもそんなことはどうでもいいんだ。重要なのは女子と、それもこんなかわいい女子と、異様(当社比)に濃密なコミュニケーションを取れていること、それが何より重要なんだ。

「……あ、何か持ってきますねお菓子とか」

「んーいやお構いなく」

「いやいやいや」

 何かもっと踏み込まなければ。もう二度とこんなチャンスはないぞ。そんな風に焦る気持ちが最終的に、お菓子と飲み物を持ってくることとして外に出た。そんな誰にでも出来ることで好感度が稼げるなら、誰も苦労なんかしないのに。

 こういう時って何かおしゃれなお菓子とかでなきゃダメなんだろうかとか思いつつ、そんな物が家に置いてある気がしないので、ポテトチップスうすしお味と麦茶を持って部屋に戻った。

「おーありがと」

 俺が袋を開けると、お構いなくと言うわりに結構なスピードで彼女はポテチに手を伸ばす。お茶もなんというか、飲みっぷりがいい。

 人が飲み食いしているところを凝視するのもどうなのだろうと気付いて、気と視線を紛らわすために俺もポテチに手を伸ばした。彼女と手が触れやしないかとドキドキした。少しも触れなかった。

「えーそれで、キミの名前はなんて言うんだったっけ。山田くん?」

「あ、山本ですね」

「似たようなもんだ」

「えぇ……」

 名前に対する認識があまりにも雑すぎる。が、少し不思議に思うこともあった。山田と山本、かなり近い名前に思えるけれども、今のは当てずっぽうなのだろうか? 俺はまだ彼女に自己紹介をしていない。

 まあ仮に当てずっぽうで惜しい名前を口にしたわけでなくても、家には二人して玄関から入ったわけで、表札がチラッと目に入って「山」の字が入っていることだけは確認したとか、いくらでも説明がつくわけだけれども。

「じゃあ山本くん、私の名前知りたくない?」

「知りたいです」

「しょうがないな」

 お願いだからお名前を教えてくださいとこっちから懇願したかのような、偉そうな雰囲気をまとって彼女は立ち上がる。そして全力で曲を歌いだす時みたいに、大きく息を吸い込んだ。

「私の名前はデイズ! 死神JKデイズちゃん!!」

 何かよくわからないポーズを決め顔でキメながら、彼女は大声でそう名乗り叫んだ。

 ……それでここにきて俺は今さら、今まですでに傍まで迫っていた「あれ? 何か思っていた美少女と違うぞ?」という感覚に、本格的に頭の中を支配されていくのだった。

 そんな気持ちが顔に出てしまったのだろうか、死神JKデイズちゃん(仮称)は途端に真顔になった。

「……はい、というわけでですね、私、デイズです」

「あぁ、は、はぁ……」

「いや、普通に真顔で「デイズといいます」って名乗っても逆にやばくない? 今の方がよくない?」

「えーと……?」

「まあそういうわけで、デイズちゃんと呼んでくださいな」

 気合いを入れて立ち上がり名乗り終えた彼女は、何かが燃え尽きたかのように座り込んで、再びポテチをついばみ始めた。奇抜すぎる自己紹介へ対するダメ出しは、神が許しても彼女自身が許さない気がした。

 そもそもデイズって本名なんだろうか。彼女が何か人外の異能らしき物を持っていそうなことは一旦忘れれば、目の前の女子はたぶん日本人で間違いないんだけど、じゃあデイズってハンドルネームの類か……?

 いろいろ頭が混乱することばかりなので、一度自分の理解できる範囲に戻って落ち着きたい。俺は俺が理解できた部分だけを選り抜いて、この微妙な空気を断ち切るべく話題を決めた。

「えっ、ていうか、JKって女子高生ってことですか?」

「そだよ。山本くんは?」

「俺も高校生です。二年生」

「お、私も二年生。なんだ同い年じゃん。同い年なのに敬語! おもしろいね」

 心底楽しそうにそう言われてしまったので、俺はたぶんこの先の人生ずっと、歳がどうであろうと女性には敬語で話すのだと思う。彼女のリアクションに呪いをかけられた。言い方を変えれば、俺は味を占めていた。たぶん女子に「おもしろいね」と言われたのも今日が初めてだ。

「ちなみにJKの部分には食いついて、死神の方には興味なし?」

「あー、興味っていうか、ちょっと情報を処理しきれていないというか」

「がんばって処理して。ほらこれ」

 突然彼女の傍らに、それこそ死神が持っているようなイメージの、身の丈ほどある巨大な鎌が出現した。

「うおっ」

 突然そんな凶器が現れたのでさすがに驚いたけど、そんな俺を彼女はちょっとだけ冷めた目で見ていたように思う。もしかするとその鎌を見た人間の反応に飽きているのかもしれない。

「これ持ってこんな服着てるから死神名乗ってるわけ」

「な、なるほど」

「と来れば当然、なんで鎌なんか持ってんのって話になるよね」

「なりますね」

 何かものすごく彼女の作ったレールに乗った会話をしている気になるけれど、次々現れる常識外のことがつまり一体何を意味しているのか、知りたくなっているのは本当のことだ。とても興味を惹かれる。けれどもなぜだろう、ポテチが終了してしまうと俺は、彼女を見つめる権利を失ったような気持ちになった。

 俺も落ち着きを取り戻してきたということなのだろうか。勢いのまま欲望のまま、二度とはない機会を惜しむように彼女を見つめることが、なぜか急にはばかられる思いだ。だからかわりに、中身が全て失われた、パーティ開けしたポテチの袋の銀色の部分をなんとなく見つめてみる。油に汚れた銀色は部屋の明かりを反射して輝いていた。

 俺はこのままここで彼女とお喋りをしているだけで、それでいいのだろうか。降ってきた奇跡はいつまでここにあるのだろう。奇跡を繋ぎ止めるための方法って何……? まずそもそも、そんなものあるのだろうか……。

「実は私は、デザイアという化け物を狩る存在なのです」

 一つの情報を処理するたび、次の奇怪な情報が現れる。俺は美少女と自分の部屋で話している現状に酔ったのだろうか。それとも緊張していたのか、ぼーっとしていたのか、……何もわからない。けれど、返事は咄嗟に出てしまった。

「はい……?」

 何をわけのわからないこと言ってるんです? 俺の声からは自分自身でさえ、想像の百倍そんなニュアンスが感じ取れた。

 まずいと思って、なんとか取り繕おうと、けれども何も思い浮かばずに、恐ろしい怪談を聞いた夜にトイレへ行く時、怖さを紛らわすために何か歌いたいのにそんな時だけ何も思いつかないみたいな、焦りと恐怖だけがどんどん押し寄せてきてその他のものを追いやってしまうような気分だ。

「まあ一発では納得できないよね。でもよく聞いてほしいんだけど、私は「デザイア」っていう、欲望から生まれる化け物を狩らなければいけないのです。そういう存在は魔法少女と呼ばれています」

 そう言うと彼女は再び立ち上がり、何かもっと良い返事があったのではないかと自主的に猛反省する俺の目の前を、水の中で泳ぐ魚みたいにスイスイと、空中浮遊し始めた。

 一つの情報を処理すると次が来るのではない。常識で語れないものは、一つの処理も待ってくれないのだ。それで俺は気が付いた。

 たしかに美少女は降ってきたけれど、俺にめちゃめちゃ好意を抱いているという前提が、満たされていないじゃないか神様!

「魔法少女と言うくらいだから、こんな風に魔法が使えます。山本くんの怪我も魔法で治しました。そしてやっぱり魔法を使って、私はデザイアを狩るのです」

 わけがわからないことばかりだ。聞きなれない単語が出てくるし、雰囲気だけで感じ取っていることが間違ってなければ、彼女の言っていることは何か、日曜の朝とかにやっているアニメみたいな話だ。

 わけがわからないことばかりだ。アニメで聞きなれているはずの単語さえ、現実に持ち込まれると全然理解できない。わけがわからないことばかりだ。こんな奇跡のシチュエーションまで用意されたのに、彼女はまるで俺の妄想していたような理想とは違う。

 わからないことだらけの中、俺は一番簡単そうなことから聞くことにした。

「えっと……つまり魔法少女なんですか? 死神なんですか?」

「変なこと聞くね。どちらかと言われれば魔法少女だよ。君は死神みたいな見た目のガンダムを見て、あれは死神なのかガンダムなのか……って悩むの?」

 まるでわけがわからなかった。女子とガンダムの話をしたのは今日が初めてだった。

 

 

 

 俺の部屋の中で、天井と床の間を浮遊する彼女から手を差し伸べられたので、俺は躊躇せずその手をとった。

 流されよう。そう決めた。それが一番だ。だって美少女に手を差し伸べられるだけで、俺はこんなに楽しい。こんなに幸せだ。彼女に手を引かれると比喩ではなく、本当に自分の足まで重力から解放されたみたいに浮かんでいった。

 彼女の物である鎌は突然出現した時と同じように、いつの間にか姿を消していた。そして部屋の空気を入れ替えるみたいに窓を開けて俺たちは、そこから大空へ向けて飛び立っていったのだった。

 魔法少女を名乗る、死神みたいなファッションのかわいい女の子と、お手てをつないでお空の散歩。……なんてことが実現すればそれこそ夢のようだったのかもしれない。現実は違った。

 俺は彼女の背中に覆いかぶさるようにしがみついていた。そしてその彼女は旋回するトンビのように空を飛んでいる。ビュウビュウと風を切る音を聞きながら、一切やったことないけど、バイクの二人乗りって大体こんな感じなのだろうかとか思ってみたりした。

 けれどもそれどころじゃない。まさか落下すれば即死という高さまで飛ぶとは思っていなかった。俺は高所恐怖症なのだ。なぜ自分が浮いているのか理解もできない状態では、この背中にしがみついている……つまり実質初めて女子に抱き着いている状況でさえ、全然楽しんでいる余裕がない。風の音がそれこそ死神のささやきみたいに、俺に死を予感させる。

 さすがの俺も「高い無理こわい!」とすぐさま彼女にしがみついたわけではなかった。しかし高度が上がるにつれ、速度が増すにつれ、自然と体がそのように動いていたのである。そっちはともかく俺の方はどうやって浮いているのかと聞いても「魔法」としか答えてくれない彼女からは、幸いにも抱き着いたことを何も咎められはしなかった。

 それはそうと、なぜこんな時まで「怖いもの見たさ」という感覚は生きているのだろう。俺は下を見たい衝動に勝てなかった。彼女の肩越しに下を見ると、いつも暮らしている町がパノラマみたいになっていた。だからといって感動の「か」の字もない。同じ状況で「景色がいい」とか言える人は、どこかがおかしいとしか思えない。

「あ、あの、デイズさん……?」

「なにー?」

 お互いの声が風切り音で聞き取りずらい。俺たちの隣を鳥が飛んで行った。

「なんで飛んでるんですか……!?」

「デザイアを探しているんだよ。時間になったけど、どうやらキミの家には現れないみたいだから」

「そのデザイアって何なんですか……!?」

「欲望から生まれる化け物のこと。さっき言ったでしょ? 私はそれを狩らなきゃいけない。それで今回は、山本くんの欲望から化け物が生まれるってこと」

「な、なんで……!?」

「知らない」

「えぇー……」

 突然、空中を旋回していた彼女が急停止した。ほんの少しだけれどその急停止によって、飛んでいた時よりも強い力が俺にもかかる。反射的により強く彼女を抱きしめることになった。でも全然嬉しくない。マジで生きてる心地がしない。

「ほら、いた」

「え?」

「アレ」

 少し高度を下げて駅の方を指さされるけれども、特に何も変わった物は見えない。

 と思った矢先、ビルが一本倒壊した。映画みたいに砂煙を上げながら倒れていく。なぜか何も音は聞こえない。

「行くよ、しっかり掴まってて」

「え」

 嫌な予感がして、今までで一番強く彼女にしがみつく。人間は抱き合うと安心することが科学的に証明されているとかなんとか、何かの番組で見たことがあった気がするけれど、今は例外中の例外だった。

 俺は知った、今までの飛び方は散歩程度の物だったのだと。ジェットコースターみたいなGを感じながら、また怖いもの見たさで横を向いてみれば、快速電車の窓から外を見た時みたいに景色がスクロールしていくのがわかる。

 そうして間もなく、彼女の言う化け物が見えてきた。それは大きな人型の、言ってみれば怪獣だった。ビルを倒壊させ得るほどの巨体を誇るそいつの見た目は、「巨大」「人型」という以外にもう一つ特徴があった。

 全身が同じ色だ。白以外の絵の具を全部混ぜたような、まず真っ先に「汚い」と連想する色で全身が染まっている。醜くも黒に近いその色で全身が染まったその巨人は、巨大な影のようでもあった。

「山本くんはここで待ってて」

 地上まで降りた魔女は、俺をその場に置いて再び浮遊し始める。巨人のサイズ感に俺の遠近感もやられている気がするけれど、たぶん今いる地点からあの巨人が立っている場所まではまだ少し離れているはずだ。

 一般人を安全な場所に置いておこうってことか……? 彼女が俺をここへ置いていく理由をなんとなくそう察した。疑問に思うことは、ならなぜ俺をここまで連れてきたのかということだ。

「待つって、な、なにを……?」

「私がアレをやっつけてくるのを。……でも最後に一つだけ聞かせて」

 ずいぶん上の方から、彼女が俺の瞳を覗き込んでくる。今さらだけど、ちょっと神々しかった。魔女なのか死神なのかって感じの黒いローブに、ピンク色の髪が映えるんだ。その上またいつの間にか、あの大きな鎌を背負っている。そうして浮かぶ彼女は神々しかった。見上げる形だからそう思うのか……?

「あの巨人は山本くんの欲望から出来てる。……心当たりはない?」

 ぐっ……と息が詰まるような感覚がした。

「……いや、特には」

「そっか……。ありがと、じゃあね」

 また明日ね……とか、まるでそんなことを言いだしそうな軽い雰囲気で手を振って、彼女は飛び去っていった。その軽さが逆に、これが最初で最後のお別れだというようなことを予感させる。

 ……俺は、俺は走った。彼女の飛んで行った方向へ、巨人が暴れる方へ向かって。空飛ぶ死神魔法少女にはまるで追いつけないけど、それでもとにかく走った。仮に追いついたとして、その時やり直せるのかわからない、自信がない。でも俺は嘘をついてしまった。罪悪感が台風みたいに強い追い風になって、立ち止まっていられなかった。

 欲望の心当たりなんか一つしかない。なんでそれがあんな馬鹿デカくて物を壊すことしか出来ない巨人になっているのかはさっぱりわからないけれど、でも俺の中の欲望なんて、化け物になってしまうくらい大きな欲望なんて一つしかない。

 モテたいんだ、俺は。だから人の型をしたあの化け物を見た時思ったんだ。もしあれが本当に俺の欲望から出来たのなら、だったら、なんであんなに汚い色をしてなくっちゃいけないんだって。俺みたいなやつがモテたいって思うのが、そんなに悪いことなのかよって思ったんだ。

 でもそんなこと、フッと聞かれてポンと答えられることじゃない。相手は空から降ってきた美少女だぞ? 運命の相手かもしれない美少女に、言えるかよそんなこと。……そう思ったけど、でも途端に罪悪感が湧いてきた。

 よく考えれば彼女は運命の相手なんかじゃない。彼女との出会いから、俺を主人公にしたライトノベルみたいな物語が始まったりなんてしないのだ。強いて言えば今がそれだけれども、とにかく、一つ言えることがある。

 悲しいけど、彼女が急に俺に興味を持って「あなたの欲望は何?」なんて聞くとは思えない。じゃあなぜ聞いてきたのかって、自分のためにその「情報」が必要だったからだ。デートなんて言って俺に付いてきたのも、全部そうだ。彼女は自分の「化け物を狩る」という目的のために、その化け物の主である俺がどんな人間なのか、敵情視察の意味で、俺を見に来ていたんだ。

 やっとそれに気が付いた。走っても走っても思うように前に進まなくて、もう見上げたって空の中に浮かぶ黒いローブもピンクの髪も見えやしない。息も上がってきた。気が付くのが遅すぎた、そんな気がしてくる。罪悪感を抱くのも遅すぎた、手遅れだ、そんな予感がする。

 でも足を止めるわけにはいかない。俺は取り柄と呼べる物が何もないような、かといって大きな欠点をかかえているわけでもない、中途半端な人間だけど、だから何もかも遅すぎたのかもしれないけど、でもだからって諦められない。

 彼女が俺の運命の相手じゃなくたって、この先の人生特にモテることがなくたって、この際もうそれでいい、仕方がないことだ。俺は彼女の求めていた「情報」を伝えて、それで少しでも感謝してもらえたら、もうそれでだけでいい。それで我慢する、だから逆にそれだけは諦められない……!

 俺は走った。メロスってこんな感じだったのかなとか思った。気が散っているのか、酸素が足りない苦しさに耐えかねた脳が、何か現実逃避のようなことを始めたのか、自分のことなのに俺にはまったくわからない。

 走りながらハッとする。急に閃くかのように、巨人の異変に気が付いたのだ。ビルを倒すほどの暴れっぷりだった巨人が、さっきから少しも動いていない。よくよく目を凝らしてみると、巨人の頭の高さに、黒い何かが飛んでいた。彼女だと直感した。

 静止したままの両者を見てまさかとは思ったけれど、どうやら二人は会話をしているようだった。距離……というか高度があるせいで地上の俺にはほとんど内容が聞き取れないけれど、巨人の口の部分が動いているのはだけは確認できた。

「オレハ……」

 やはり聞き間違いでなければ巨人が、人の言葉を操り何かを話しているのが聞こえてくる。浮遊することで目線を合わせている彼女も何かを話しているような気がするけれど、巨人より声の通りが悪くて上手く聞き取れない。

 しかし走りに走って、いよいよ彼女がはっきり見える距離まで来た。さっきまで背負っていた鎌を右手で握っているところまで見える。きっと今なら声が届く。俺は全力疾走で乱れた息を整える時間も惜しんで、無理やり息を吸い込んで叫んだ。

「デイズ!! 俺の欲望はッ……!」

 表情なんか見えやしないけど、彼女がギョッとしたのが雰囲気でわかった。そして巨人に一言二言何か言うと、俺の方に向かって猛スピードで飛んできた。

「ちょっとなんでいるの! 危ないよ」

「俺、さっき……、い、言えな……かったこと……あって、言わな、きゃって……思って」

 普段まったく運動しないことが祟って息も絶え絶え、まともに喋れない。そんな俺に対してなぜか、今までで一番「好意」に近い感覚で、彼女が話を聞こうとしてくれている気がした。

「うん、なに……? 聞くよ」

「俺は、俺の欲望は……」

「うん」

「俺は……」

 ……ここまできて、ここまできたのに俺は、やっぱりどうしようもなく「言いたくない」と思ってしまう。本当のことを言って一瞬空気が凍る未来が、もう今から肌で感じられるくらいだ。誰もが一度は体験したことのある、あの時が止まったような感覚。自分の口から出るたったの一言でそれを味わうのが、俺は怖くて仕方がなかった。

 そうして躊躇している間に、うつむいていた俺の足元には、大きな影が落ちた。

「あぶない!」

 彼女にいきなり飛びつかれた。その勢いのまま俺たちは二人で地面に転がる。その衝撃や痛みに集中することもできないくらい、まったく何が起こったのかわからなかった。

「あいつ! 待てって言ってんのに!」

 混乱する思考を落ち着けようと、さっきまで俺と彼女が立っていた場所を見ると、地面が小さなクレーターみたいに凹んでひび割れていた。鎌を持ったままの彼女の視線につられて上を見上げると、屈んだ巨人の拳から砂利のような物がパラパラと落ちていた。

 巨人に殺されかけた。いや、俺一人だったら死んでいた。俺は助けられた。一歩間違えば自分も潰されて、いくら空が飛べても、自在に鎌を扱えても、潰されたら死んでしまうのに、彼女に助けられた。

 尻もちをついたような体勢のまま、足が勝手に震えて止まらない。本当に寸前まで死が迫った経験なんて初めてだ。そりゃそうだろ、俺はただの平凡かそれ以下の高校生なんだぞ。普通の高校生が一度だって、死と隣り合わせになんかなるものか。

 今の自分は、車道に飛び出た子どもみたいだ。そう思うと情けなくなった。

「俺の欲望は、モテたいんだ。女子にモテたいんだよ。それがなんであんな巨人になるのか意味不明だけど、でもそれしか心当たりがない!」

 気に入らないクラスメイトを睨み付けるみたいな、気の強い女子高生の目で、彼女は巨人を見上げ敵意をむき出しにしていた。しかし俺の声が耳に入ると、その表情がふっと緩んだ気がする。

「ああ、なるほど、それで」

 何かに納得した彼女は浮かび、巨人の顔の高さまで飛んでいく。

「あー、ヤマモト・デザイア・サトシよ、取引をしよう」

 ……何か、また脳が理解を拒んだ気がした。「え?」と聞き返したくなるような音が聞こえてきた気がする。

 記憶違いでなければ、彼女は化け物のことを「デザイア」と呼んでいたはず。で、俺の名前は山本聡だ。苗字と名前の間にデザイアを挟んだようなフレーズを今彼女が、俺の欲望から生まれたらしい巨人に向かって使っていたように見えたけど、どういうことだろう。

 ……信じられないくらいダサいその名前が、仮にそれが神の決めた呼び名であろうと、俺は受け入れる気がしない。

「トリ……ヒキ……」

「十秒、いや五秒でいい。そこで直立不動のまま動かずにいてくれたら、私がヤマモトくんの言うことなんでもきいてあげる。そういう取引、どう?」

「なっ」

 横で聞いていて唖然とした。彼女は敵情視察の意味で俺に接触してきたのだと思ってはいたけど、まさか情報をそんな使い方するなんて。

「ワカッタ……!」

 巨人はあわれにも、その場で気を付けの姿勢を取って微動だにしなくなった。すると突然巨人の腹にデジタルタイマーのような表示が現れる。「5」からのカウントダウンが始まった。

 両手で鎌をかまえて、巨人の首元へ突進していく死神を見て俺は思わず叫んでしまった。

「おまっ、おい! 卑怯だぞ!」

 俺の叫びは間違いなく彼女の耳に入ったけれども、しかし彼女の心には一ミリも響かなかったらしい。シャッ……と鎌の刃が巨人の首元を走ったかと思えば、巨人はうめき声を上げることさえなく、オレンジ色の暖かそうな光となって消えていった。そして俺は見た……巨人が完全に消え去るその時まで、光になりゆくタイマーはしっかり時を刻んでいたことを。

 そして巨人が完全に消え去ると、その光の中から何かが現れたようだった。「それ」は宙を漂いながらゆっくり下降していく。…………人だ。消えた巨人の光の中から現れたのは、無数の人間だった。

 よく目を凝らすと、どうやらそれらの人は全員が女性のようだった。そしてその人たちとは別に、死神みたいな鎌を背負った女子が一人、猛スピードで俺のもとへ飛んで来る。

「いやー助かったよ! 楽に済んだ! 山本くんのおかげ!」

「……どうも」

「不満そうだね」

 彼女がクルクルとバトンのように鎌を回すと、手品みたいにスッとそれは消えてしまった。RPGの勝利リザルトみたいだなと思ってしまう。

「アレ、たくさん浮いている人たち、もしかして巨人が……?」

「そうだろうね。閉じ込めてたんでしょ、自分の中に」

「…………」

「あー、デザイアは欲望が過激な形で化け物になるんだよ。気にしなくても大丈夫だって」

 俺の欲望から生まれた巨人が街を破壊して、人を捕らえていた。ビルを倒したりしていたのは、その付近に隠れた人間をあぶりだすためか……?

 少し、考えてしまう。もし俺が仮に、あんなような物理的な力ではなく、もっとリアルな力を手に入れたとしたら。そうしたら俺はその時、あんな風に人を捕らえようとするのか……? 超常の存在の化け物と違って物理的に閉じ込めるのではなく、もっと生々しい方法で、逃げられないように……。

 そうやって、力があれば俺はそんな風にして、自分の欲望を叶えようとしてしまうのか……? だとすればその時は、卑怯だなんだと抗議することも出来ず成敗されてしまって、それで仕方がないとしか言いようがない。

 俺は、自分が歪んでいく様を想像したのだろうか。それとも、自分が言い訳をする暇もなく、首を狩り取られる様を想像したのだろうか。自分の頭の中に浮かんだことが何なのか見定めるより先に、感情が言葉になった。

「怖い」

「うん? どうしたの……?」

「もし、もしも仮に、あんな化け物みたいな力じゃなくて、金とか権力とか、リアルな力を俺が手に入れたら。そしたら俺も見た目だけ人間で、化け物みたいになっちまうのかなって」

 口に出してから、いろいろあったとはいえ今日初めて会った女子に、俺はいったい何を言ってるんだろうと我に返ったけど、それでこっちが「なんでもない」と言うより先に、彼女が笑った。心底おもしろそうに笑っていた。

「そういうのは力を手に入れてから言ってよ」

「……それもそうか」

 たしかに、もしも仮にとかなんとか言っても、俺がそんな巨大な力を手に入れる日が来るなんて、まったく想像できやしない。それこそ空から降ってきてもらうくらいしか無さそうなのに、隣にいる空から降ってきた彼女が、全然俺に都合の良い存在ではないんだもの。やっぱり奇跡を空に期待するのは無理なんだ。

「あ、時間だ」

 今思い出したみたいにそう言うと、彼女はまたしても地面から足を浮かせて空中へ向かって行った。……でも心なしか、今度は自分の意志で飛んでいるようには見えない。まるで何かに引っ張られているみたいだ。

「じゃあね山本くん、お別れだ」

「え、ちょ、そんな急な」

「大丈夫! 時間が巻き戻るし、記憶もいろいろといい感じに調整されるよ!」

「はぁ!? えっ、なに、ちがう! なんだそれ!」

 行かないでくれと、俺は言いたかったのだろうか。それとも全部わかるように説明してくれと言いたかったのだろうか。あまりに急で自分の気持ちもはっきりとは認識できなかったけど、たぶんどっちもだ。

 結局、彼女が何者なのか知ることは叶わなかった。自分の置かれた状況が何であったのかも、たぶん半分くらいしか理解できていない。頭上に彼女が降ってきた時にはバラ色の人生の始まりを期待したのに、これじゃあ消化不良、肩透かしだ。

 でも、かけがえがない思い出になったのも確かだと思えた。記憶がなんとかって言ってたから、もしかすると一秒後にはそれも失っているのかもしれないけど、それは仮にバラ色の人生を手に入れていたとしても同じことだ。

 天高く上って行った彼女はすぐに見えなくなった。そして俺が唖然とする暇もなく、感慨を抱く暇もなく、快速電車の窓の外なんて目じゃなくらいの速さで、視界中の景色がギーッと横に引き伸ばされたようになって、わけもわからない捻じれた世界が俺を包んでいく…………。

 …………これといって食べたいわけではないのに、むしろ全然食べたくないのに、なぜ俺はポテチを持って自分の部屋へ向かおうとしていたのだろう。疲れているのだろうか、一人で居間に突っ立っている俺は、おつかいを終えて家に帰ってきてからのことを、まったく思い出すことが出来ずにいた。

 でも、なんとなく不思議な気分だった。悪くない気分だ。心なしか体が軽い。俺はポテトチップスを菓子類のまとめてある場所に戻してから、ゲームでもしようかと思い自分の部屋へ向かう。

 もしも部屋に彼女なんか連れ込んで、一緒に遊べたりしたら、きっと楽しいんだろうな……。それにそんな関係の相手がいれば、ただお喋りやゲームをして遊ぶ以外にも、もっといろいろなことを……。

 ……と、いつも通りというかなんというか、そんな妄想がまた勝手に湧いてくる。けれどもなぜか、一つだけいつもとは違う、何かしら予感のような物を俺は漠然と感じ取っていた。

 なんとなく、仮に自分の部屋に女の子を連れ込めたところで俺は、キョドってしまって楽しむどころではないような気がする。それこそ手持無沙汰の末にポテチなんか持って行って、微妙な空気の中黙々とそれを食べるみたいな。そんな図を想像すると、少し自分がおかしく思えて、俺は一人で笑った。

 こんなことだから、俺がモテる日はいつまでも来ないのだと思う。

 

 

 

 

 


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