「おお、帰ってきた……」
着地して眼前に広がる光景は、なんの面白みもない普通の住宅地だった。あの暗闇に満ちた神の部屋からしてみれば、かなり生きている実感のある場所に舞い戻ってきたけれども。
とはいえここがどこなのかはわからない。特別暑くも寒くもないけれど、知らない土地は知らない土地だ。まさか国外ということはないだろう。
……私が一度死んでから、世界ではどれだけの時間が経ったのだろう? 浦島太郎になってるわけじゃないとしても、なんだか私は今、妙な感慨深さを感じている。まるで数年ぶりに故郷に帰ってきたみたいな……。生前は引っ越し経験ゼロの実家暮らしだったけれども。
と、死者蘇生の余韻に浸る間も少なに、ポケットが震えた。また神様からの着信だ。
「もしもし」
「着陸した?」
「しました」
「よし」
「ここってどこなんですか?」
聞きつつ思い出す。あの時は話半分に聞いていたけれど、神は、私の髪を染め服を用意するついでに、注意事項を話していたことを。
例えばそれは、生き返ったあとの私が、元の身分を主張することの禁止。死んだはずの人間が蘇ると大騒ぎになり化け物退治どころではなくなるから、別人として生きろとのことだった。あまり嬉しくはないけど、了承しなければ生き返れないのだから仕方がない。
そして大事なのはそれに伴い、身内との接触が禁止されていることだ。だから私は親に会いに行けないけれど、こちらから行かなくたってどこかでばったり会うことがないとは言いきれない。ということは、ここは私が住んでいた地域から遥か遠方にある土地なのでは? と考えられるわけである。それならばったりも何もない。
「どこと言われても、県で言うなら千葉県かな。ネズミの国がすごく近くにあって、そこからまっすぐ進んで大きな道路に出ると、大きな城が遠くに見える」
「へえー」
推測に反して自宅は思いっきり近かった。東京の名を冠する千葉県の物の中で一番偉大なあのランドとシーは、元々電車で一時間とかからない距離にあったのだ。その気になれば歩いてでも帰れないわけじゃない。魔法少女になった分、空も飛べるならなおさら。
魔法少女特有の力で空を飛んでいる間は誰にも認識されないって話だったから、ばったり会った時はそれでなんとかしろってことなのかもしれない。
「あー、本当だ見えますね、城」
「デザイアを倒したあとなら遊びに行っても構わないよ。知り合いに知り合いとバレなければの話だけれど」
「え、お金は?」
「単なる遊び程度ならこちらでいくらでも出す。命がけの仕事をしてもらうわけだからね」
神の話した注意事項その二、魔法少女が死亡した場合、再びあの暗闇へ戻され、リトライするかどうかを問われる。約束通り、魔法少女は死ぬほどの目に遭っても苦痛を感じないらしいけれど、死亡後辞退したければ出来るらしい。
だから確かに化け物退治はとんでもない仕事だけども、命がけと言われてもいまいちピンと来なかった。ピンとは来ないけど、お金はもらえるならもらえるほど良い。
ちなみに身内バレ等の不祥事を起こすと、強制的に命を奪われ、リトライの権利も剥奪され、私はあの世へ送られるらしい。呑気に遊園地で遊んでいられるのかというと怪しいところだ。しかし遊園地にも満足に行けない命だなんて、そこに価値がないのも事実。
「ところで、チュートリアルはまだ終わっていないのだけれど、説明に入ってもいいかな」
「え? あぁ、はい」
武器の使い方を習い、注意事項を聞かされ、不意打ちで上空へ投げ出されての飛行訓練も終えた。それでまだ続きがあるとは、嫌に長いチュートリアルである。
とはいえバイトでマニュアルを渡され、それをペラペラーっとめくった時も、似たような感想を持ちはしたけれど。
「まずは今回のターゲットについての説明だ」
ターゲット。神様がデザイアと呼んでいる、人の欲から生まれる化け物。一口に化け物と言われてもいったいどんな物なのか想像もつかない。バルタン星人みたいなやつかもしれないし、ゴジラみたいなやつかもしれないし、足のないお化けみたいなやつかもしれない。
……はっきり言って不安だ。空を飛べる、特殊な鎌を持っている、苦痛と無縁で命は一つじゃない。それだけ揃えば特別感というか、自分が「出来る奴」になったような気分が、正直そこそこには湧いてきている。けれどもその勢いで「怪人だろうと怪獣だろうと倒してやりますよ!」と言えるのかといえば、全然そんなことはないのである。
「これから送る住所に、これから送る顔写真の男が住んでいる。こちらの調べでは、本日中にその彼からデザイアが発生することになっている」
「はあ」
デザイアの発生は天候の崩れのようにある程度予見出来るらしい。そこまで出来るなら退治までやればいいのにと思うけれど、実際は「忙しい」と言ってそうしないところからするに、神様の言う予見は何かしら自動的な物なのかもしれない。もっと言えば、神の力を持っても退治までは自動化出来ていないということか。
「デザイアは人の欲望から生まれる化け物だ。だから当然、それぞれが各々の欲望の影響を大きく受けた存在となっている。恐ろしく個体差のある物なのだと、まずは事前に承知しておいてほしい」
「はあ、まぁ、はい。……見てみないことには何とも言えませんけど」
「うむ。それはそうだと思うが、しかし君にはミッションがある」
「化け物退治以外に?」
「以外と言えるかは微妙なところだ。デザイアの情報収集をしてほしい……というか、そうすることを推奨したい。君がターゲットの男性と接触して、彼の内に潜む欲望を把握すれば、デザイアへの対策も練りやすくなるだろう。ぶっつけ本番で化け物退治に当たるのも悪くはないだろうが」
「え、そこは神様がスーパーゴッドなパワーで欲望の詳細を調べて、私に教えてくれたりしないんですか?」
「しない」
「なんで」
「できない」
「なんで」
「神は忙しい」
魔法少女そのものはブラック企業的でなくても、その上にいる神様たちがブラック体制の中にあるのでは、結局はその影響がこっちにまで来てしまう……っていうことだろうか。神様に十分な暇があればそもそも私は生き返れなかったわけだから、ここは何とも言えないところだけども。
「だから情報収集は任せる。……とはいえデビュー祝いに一つアドバイスをしておこう。デザイアの出現位置は、必ずしも欲望の主と同じ場所になるとも限らない。が、そこまで離れることはないから安心して頑張ってくれ」
「なんか、大変そうというか、面倒そうというか」
「そこは二度目の命の対価だと思ってもらうしかない」
それを持ち出されては何も言い返せない。なんやかんやぼかしているけれど、実際私の命は神に握られているのだ。……あまりいい気分じゃない。
「それじゃあ、健闘を祈る」
説明するだけして、通話は切れた。直後、地図付きの住所と若い男性の顔写真が送られてくる。写真の下には男の名前と年齢が書いてあった。橋本典行、二十歳。
写真を見た限りでは、ターゲットの男性とやらは明らかなオタク系だった。決して醜いわけではなく、服に美少女がプリントされているわけでもなく、見ようによっては「普通の人」とも言える見た目だけれども、何をもってしてオタクだと思ったのかというと、こう、……爽やかさが欠片もない。
活力だとか、健やかさだとか、そういう物がまったく感じられない。見るからに不健康というと言い過ぎだけど、たぶん趣味は引きこもって漫画かゲームだろうな、という感じ。そして知性的にも見えない。彼のような人が教室の隅で小説を読むとすれば、表紙を隠しもしないライトノベルが似合いそうだと思う。さらに言うなら、「視力が落ちたので致し方なくかけました」といった具合の、まるで似合ってないメガネが気に食わない。
そして何よりその写真から伝わって来る雰囲気が、心の底で他人を馬鹿にしていそうな感じが、この時点でさえどうにも気に食わなかった。絶対仲良くなれないタイプだ。
神様は彼の家へ行き、彼と接触して、出来れば欲望の詳細を知れ、というようなことを言っていたけれど、正直まったく気は進まない。
しかしそこであることにも気が付いた。若くして死んだ女性が皆チャンスを与えられて魔法少女になるのかというと、まさかそんなことはないだろうと思っていたけれど、だとすれば今私がここにいる理由も、クジ引きで決まった結果ではない。見た目で決められたというのも、たぶん違う。
私が魔法少女に選ばれたのは、平均かそれよりちょっと上くらいには持っているであろう、コミュ力を買われたのだ。そうに違いない。それかコミュ力があって、なおかつ見た目がいいからかな?
言われるがままする以外にないので、私は地図を見ながら目的地に向かう。が、それで自分が死ぬ直前のことを改めて思い出した。そう、あの時の私は迷子になっていて、地図を使ったってそこから脱出出来なかったのだ。生き返らせてもらっておいて何だけど、これは人選ミスじゃないか……?
と思ったら、神様から支給されたスマホに入っていた未知の地図アプリは妙に優秀で、案内されるがまま歩いていると、それらしき家の前にあっさりたどり着いた。やはり生前のあれはGPSが狂っていたのだと思う。
「さて……」
見慣れない家の前で立ち尽くす。私がやるべきことは、インターホンを押し、おそらくは家にあげてもらって、情報収集とやらをすることだ。……やっぱり気は進まないけど、そのための鎌である。
デザイアを退治しに来た魔法少女です、情報収集にご協力を! あなたの欲望聞かせてくださいな! ……と知らない人から急に言われたら、誰でも警察への通報を考える。が、もちろんそれでは困る。だから鎌の「断ち切る」力を使う。不信感や違和感の類を相手から断ち切り、私と関わることを自然なことだと思い込ませる。
鎌の力は道中すでに確かめてきた。大きな鎌を背負った女が道を歩いていて二度見しない通行人はいない。だからその人たちに鎌を使った。今何の騒ぎも起こっていないことが、この鎌の力の証明だろう。
覚悟を決めてインターホンのボタンを押し込む。先行きは不安だけれど、どの道上手くいかなければどうしようもないんだ、やるだけやってみよう。
「どちら様ですか?」
「えっ」
驚いた。スピーカーから聞こえてきたのは若い女性の声だった。あの冴えない男に恋人が……!? と思ったけれど、よく考えたらたぶん姉か妹だろう。
「……あー、えっと、ノリユキくんの友達です」
多少のことは強引にでも押し切って、なんとか彼女に玄関を開けさせなければ。断ち切る相手が見えないことには鎌の力も使えない。
いや、それとも「鍵」を玄関ドアから断ち切ってしまえば、勝手に潜入することも出来たのだろうか……? ちょっと初っ端からそんなことをする覚悟はないし、事が済んだあとの橋本家のことを考えると実行することはないけれど。
「友達? 待って、今開けるね」
扉はあっけなく開いた。出てきた茶色い長髪の女性はきっと私より年上で、髪色でもファッションでもなく、顔からギャルっぽさが滲み出している人だった。ギャルか、そうでなければヤンキー。
背負った鎌に手をかけ、彼女目掛けて振り抜く。そのままの長さでは明らかに届かない大鎌は、瞬時に伸びてちょうど彼女の首元をすり抜けた。
「すみません、突然来てしまって。初めましてですよね」
白々しく言う。
「えぇ、そうね。あいつに女友達がいたなんて初めて知った」
「実は私も、お姉さんがいるなんて知りませんでした」
「あぁ、まぁそうかもね。とりあえず入りなよ」
「お邪魔します」
あっけなく潜入出来てしまった。さすがは神の作った鎌といったところか。もしも生き返りだの魔法少女だのという流れも無しに、生前に突然これを入手していたら、力に溺れてしまっていたかもしれない。
しかし力といえば、私の直感力も侮れない。やはりあの女性は橋本典行の彼女なんかではなかったのだ。そうだろうとも、そうだろうとも。
「ちょうど昼ご飯出来たところなの、食べていかない?」
「え」
「作りすぎちゃったし、……あなたと弟の関係もちょっと気になるし」
「いや、関係って……。何もないですよ」
「まぁまぁ」
初対面の人間とのコミュニケーション的距離感がものすごい人だなとは思いつつも、変に逆らって話をややこしくしたら、鎌の力をもってしてもどうにもならない状況となってしまうかもしれない。言われてみればお腹が空いているような気もしてきたし、お言葉に甘えておくことにする。
リビングに通されると、底の深い鍋がコンロの上に乗っているのが見えた。パスタでも茹でていたのだろうかと想像していたら、実際テーブルの上にペペロンチーノが並べられていく。
手伝いましょうか、って言った方がいいのかな……と一瞬迷っている隙に、
「その鎌、本物?」
と、向こうから話しかけてきた。
正直、ギクリとする。彼女の現状へ違和感を抱く感覚は、鎌で全て断ち切ったはずだ。だからこれは何も探りを入れられているわけじゃない。そのはずだと信じようとしても、ギクリとするものはしてしまう。これでもこんな悪い意味で非日常的なことをするのは初めてなのだ。
むしろ上手くやっている方だと褒めてほしいくらいである。仮に世界が全て自分に都合のいいように回ったとしても、赤の他人の家に涼しい顔して上がり込むことが誰にでも出来る所業だとは思えない。
「いや、偽物ですよ。刃物をむき出しで持ち歩いてたら危ないじゃないですか」
「そっか。だよね。よく出来てるなーと思って」
出てきたペペロンチーノは、見るとなんだか鷹の爪の量が多い気がした。露骨に多いわけではないし、気のせいかもしれないけど。
「あれ、聞くの遅れたけど辛いの平気?」
「あ、はい」
「よかった。じゃあ弟呼んでくるから、お先にどうぞ」
初対面の間柄でそう言われて、その通りにする人がいるのか……? と思わせられる台詞を残して、橋本典行の姉はどこかへと消えていった。足音からするに二階へ向かったのだと思う。
当然私はパスタに手をつけることなく、かといっておとなしく待つこともせず、鎌を握って部屋の出入口に立つ。鎌を使うのは初めが肝心だ、不意打ちが肝心だ。他人から違和感を断ち切るということが、何が起こっても私に不都合ない状態を作る力なのかどうか、いくら神様の作った鎌だろうとまだ過信することは出来ないから。
帰ってきた二人分の足音に身構えて、目が合うよりも早く、橋本典行へ向けて鎌を振り抜いた。刃は彼を無事すり抜ける。
そして彼は、確実に鎌の力を受けた「その後」で、私に訝しげな目を向けたのだった。
しまった……と、そこで自分のミスに気付く。彼の友達だと言って家に上がったのはまずかった。
「……どしたん?」
突然立ち止まった弟に姉が言う。きっと彼女は「友達の女子が来てるぞ」とでも言ったんだろう。彼はそこでまず違和感を抱いたはずだ。彼に女友達がいるなら「なぜ突然?」、いないなら「誰だ?」と。しかし何にせよ事実リビングまでは降りてきた、そこまではいい。
けれど実際私を見た彼は、やはりこいつは知らない人間だと認識したはず。そこから違和感の類を断ち切ったって、それだけじゃダメだ。この鎌にあるのは断ち切る力だけ。ありもしない記憶を植え付ける力なんてない。橋本典行は私を「敵」だとは思わなくても、やはり「誰だ?」とは思っているはずなんだ。
「いや、別に」
言って、彼は何事もないかのように席に着く。
それから三人で喋りながら食事をした。二人はいつ知り合ったのと聞かれると、彼が「ちょっと前にゲーセンで」と答えた。彼女はどんなゲームが趣味なのと姉が聞けば、やはり弟である彼が「この人はUFOキャッチャーばっかりで、ゲーマーとはちょっと違うんだ」と答える。
私は「デカいぬいぐるみとかが好きで、でも買うのと取るのとでは気持ちが全然違うんですよ」と、心にもない出まかせを言って話を合わせる。人間追い込まれると、嘘なんていくらでも紡げるらしい。
食べ終わったら、彼は「じゃあ俺ら部屋でゲームするから。下手くそは来んなよ」と姉に向けて言い、「ついて来い」と言わんばかりに私の肩を叩いてきた。やけに友好的な対応を不気味に思いつつも、私はそれに従うしかない。
階段を上り、彼の部屋に入って、ドアは閉められる。お互い適当な場所に座ったあと、冷や汗をかきながらほとんど青ざめていたであろう私に、ついにその言葉は投げかけられた。
「で、誰?」
「……あー」
やっぱりそうだ、彼は私を友達だとは思っていない。そりゃそうだろう理屈通りのことだ。
意外だったのは、彼が私を庇ってくれたということ。鎌の力を使いつつあからさまな嘘をつくとこうなる……という例でもあるけれど、それを踏まえてもきっと彼の根は善人に違いない。
そしてその「彼は善人である」という事実が、失礼ながら、私にとってはとても意外だった。なぜかといえばまた失礼を重ねることになるけれど、つまりこれが「人は見た目によらない」というものだった。
「名前は、その、まだないんですけど」
「はぁ?」
「ご、ごめんなさい」
本名を名乗ることは禁じられている。通り魔に刺されて死んだ女子高生として私は広く報道されてしまったらしいので、余計な騒ぎを避けるために本名を禁じられているのだ。そういう意味で、髪を奇抜な色に染めることに神様は賛成していた。元の面影から遠ざかるから。
「まぁいいや。何か事情があってウチに来たんだろう、大きな鎌なんか背負って」
「あ、はい。そうです。とても事情があるのです」
鎌の力で、他人の私に不都合な感覚を断ち切った。見知らぬ人間がわけのわからぬことを言って家に上がりこもうとしても、首を傾げる以上のことはしないくらい、私の存在を拒否しないように。
しかしそれが具体的にどういうことなのか、私はどうもまだ把握しきれていない。鎌を背負った女を「鎌を背負った女だ」と認識しながら、さらにそれを「普通ではない女だ」とまで理解しているのに、だからそいつを排除しようという気持ちがまるで湧いてこない状態の人間というのが、つまりどういう物なのかってことを、面と向かっていながらまるで理解出来ていない。
「事情って?」
「それは……」
自分で力を振るっておきながら、気味が悪い。彼に私がどう見えているのかさっぱり分からなかった。
そして馬鹿正直に「あなたの欲望から生まれる化け物を退治しに来たのです」と言うことが怖い。頭のおかしいやつだと思われることが怖いのか……? いや、仮に難なく話を受け入れられたとして、やっぱり気味が悪いからだ。なんだか目の前にいる人が、人間じゃないみたいに思えてしまう。
改めて、とんでもない力を持ってしまったのだと実感するしかない。一番かわいい武器は大きな鎌だ……なんて考えていたことが大昔の記憶のように思えてきた。
「信じてもらえないかもしれませんけど」
謎の女を庇い部屋に入れた男は、全てに対してひどく興味がなさそうな目をしていた。
「あなたの欲望から生まれる化け物を退治するために、私はここへ来たんです」
結局そのまま言ってしまった。それ以外を思いつかなかった。
「はぁ?」
頭のおかしいヤツを見る目で、彼は言う。
「そんな化け物がいるわけないだろ。仮にいたとして、どうやって倒するつもりなんだよ。その鎌があれば出来るのか?」
……あれ?
何かが、少しずれている気がした。化け物退治と言ったところで妄言だと思われるだけだとばかり私は思い込んでいたけれど、なんだか、そうでもない……? 化け物なんかいるわけないと言うのに、「仮に」の話をしてくれるんだ。どこの誰とも知れない、名無しの女に。
だんだんわかってきた。私は鎌の力を「私に不都合な全ての感覚」を断ち切るために振るったけれど、そういったアバウトな指定によって生まれたのが今の状況なのかもしれない。「不都合ではない」という指定の結果が、このなんとなくズレを感じる受け答えなのでは……?
もしかしてもっと具体的に「私を疑う一切の心」を断ち切ると指定して鎌を使えば、私の言うこと全てを鵜呑みにして信じ込み、妄信することに躊躇しないような、信徒のような人間が作り出せてしまうんじゃないだろうか。だとすればそれは、まさしく神の力である。
そんな力、空恐ろしい。私はとんでもない役目を背負ってしまった。化け物を見る前からやや後悔する。生きる喜びより先にそちらの方が目立った。
けれど生き返ってしまったからにはやるしかない。図太く、開き直るしか。
「それは、わかりません。けれど化け物は欲望から生まれるので、対策を練るために私はそれを知りたいんです。どうか欲望を、心当たりのあることを教えてもらえませんか」
「欲望ねぇ」
どうやら鎌の作用で円滑に会話を進めることが出来るようだったが、それとは別に、橋本は私に対してあまり良い印象を持っていないようだった。その目も、纏う雰囲気も、どこかこちらを馬鹿にしているように感じる。彼の根が善人であることを知ったはずなのに、どうしてこう「根」以外の部分は、私が写真で見た第一印象と同じなのだろう。
「人の欲って、そんなに個人差あるかな?」
「え?」
「大体は金じゃないか?」
言われてみれば、確かに。大抵のことは無限の財産があれば解決するだろうし、金銭欲が無い人間なんてほぼいないように思える。ならデザイアは全てそれにまつわる怪物なのか……?
そこで私に思い浮かんだ選択肢は二つだった。神の言う通りデザイアが非常に多様な物であるなら、大抵の人間の中にある「金銭欲」という存在が持つ半ば絶対性と呼べる物は、デザイア対策としてはあまり当てにならない物だ……ということになる。なぜそうなるのかと言われたら、それはさほど欲深い方でもない私にはさっぱりわからないけれど。
かといって、残ったもう一つの選択肢は……。いったい、私に神を疑えとでもいうのか? あの神様が言っていたことは嘘だったのだ、と。
「たぶん、それはあまり重要ではないと思います」
「はぁ? たぶんってなに。なんで重要じゃないんだ?」
「それはわかりませんけど……」
「あんた化け物退治に来たんだろう、なんでわからないんだ」
「うう……」
おっしゃることはごもっともだった。だから私はこんな時に、一度死ぬ前の人生を反省させられる。一方から見ればいかに理解不能な他人の行動であっても、こんな風に説明のしようがない事情を抱えている場合だってあるのだということを、身をもって知ってしまったから。二度目の人生はもう少し思慮深く生きようか……。
とはいえ、丸っきり何もわからないまま適当を言っているわけでもない。仮説は立てた。要するに神様は嘘を言わなかったけれど、真実の全てを教えてくれたわけでもないんじゃないか、という話だ。いきなり私を空中へ放り出したあの神様なら、そのくらいの不親切やりかねない。
「あの、わからないんですけど、思うにですね」
「うん?」
「人の欲望は一つじゃないから、化け物はいろいろな欲望がない混ぜになった結果の物だと思うんです。だから、仮にその中で一番大きい欲が金銭欲だとしても、他の欲も知っておかないとダメだと思うんです」
「……なるほど?」
納得とまではいかなくても、一理あるというくらいには思わせられたらしい。
「他の欲か。ううむ……」
彼は腕を組みうつむいて思考を巡らせ始める。それを待つ一方、私は私で考えた。仮にこの後現れるらしいデザイアが金銭欲の化け物だったとしたら、それは具体的にいったいどんな化け物で、どうすればそれを退治出来るのだろう……と。人間にそうしたように、人間の欲から出た化け物に対しても鎌を当てるだけでいいなら、そこまで命がけだったりすることはなさそうだけれども……。
なんだか胸騒ぎがする。そんな甘い話ではないような気がする。近付き難いほど恐ろしい形相の化け物に勇気を振り絞って接近し、鎌をちょっと振ることさえ出来れば全部解決だなんて、そんな簡単なことではないような気がする。何の根拠もないけれど、そんな簡単なことがゴールなら、私は今こんなに苦労していないように思えるのだ。
「三つ思い浮かんだ」
橋本が沈黙を打ち破るように言い出す。
「食欲、睡眠欲、性欲」
「それはただの三大欲求じゃないですか!」
「だから言ったんだ、そんなに個人差があるとは思えない。人間の欲なんてそんなもんだろ」
彼の言うことは、いちいちごもっともな内容ではある。三大欲求に勝る欲望なんてそうそう思いつかない。けれど、本当にそうだとしたら、神様はどうして私にこんな真似をさせているんだろう。情報収集をしろと神は言った。そんな楽な話ではないはずなんだ、そんな単純な話では……。
「きゃああああああああ!!!!!!!」
ドキリと心臓が飛び跳ねた。
ガラスを割ってしまいそうな高音が、聞いたこともないような悲鳴が聞こえてきた。通り魔に刺された私が血だまりに沈んだ時に野次馬が上げていた物より、格段に激しく危機を知らせるような絶叫だ。
「なんだよ、ゴキブリでも出たのか……?」
橋本が立ち上がり、のそのそと自身を引きずるような動きで部屋を出て行った。そうか彼の姉の声かとようやく我に返り、私も後を追う。
階段を駆け下りてリビングへ向かうと、あんぐりと口を開けた橋本が呆然と硬直していた。その目は「信じられない」と心情を物語っている。彼の視線の先を見ると……。
ついに、それはあった。
「た、たすけ」
黒い沼だった。床に小さな黒い沼が、墨よりも深く黒い沼のような物が広がっていて、それが橋本の姉を飲み込んでいく、まさにその最中だった。
あっ、と思った時にはすでに、彼女の髪が沼に沈み切ってしまう。
「あ、あれが……?」
デザイアなのか、という自問自答の、なんと愚かなことだろう。もしそうでなければ、あの超常的な存在はいったい何だっていうんだ。
黒い沼は人間を一人飲み込むと役目を終えたのか、あるいは満足したのか、土が水を吸うようなあっという間の速度で縮小していき……消えるかと思われたが、違った。「点」と呼べるほど小さくなったその黒は、ホースから放たれた水のような勢いで、私の足元に伸びてきたのである。
しまった、と思う暇もない。足元の黒点は一瞬で沼のような大きさに戻り、私をつま先から飲み込み始める。ぬかるみの中でもがくどころか、黒い沼はこの世の存在ではないのか、沼に沈み飲み込まれた部分はなぜだかピクリとも動かせず、体が硬直してしまっていた。
また、また死ぬの……? そんな恐怖を感じる余裕が、首まで沈んだ時に戻ってきてしまうのは、人間の欠陥点だと思った。そんなことを思って、怖がったところで、今さら何も出来ないのに。
一度死んでみたって何も変わらない。死ぬと思った時には、いつだって手遅れなんだ。