死ぬ。そう直感した時でも私の脳は、走馬燈なんて気の利いた物を流してはくれないらしい。
目元まで黒い沼に飲み込まれて、視界を失った瞬間、脳裏によぎったことは単なる豆知識だった。くだらないと思っていた、自分には無関係だと思っていたその知識は、だからなのか、まるで当てにならず、おぼろげに浮かんでくるばかり。
人間の一番苦しい死に方って、溺死だったっけ。それとも焼死? 餓死? 今となってはその正しい答えが何だったとしても、お願いだから私が安らかに死ねますように……と、祈ることしかできない。
……頭の先まで沈み込んでようやく気が付いたのは、この「黒」は、液体ではないということだった。かといって気体でもない。固体でもない。
黒い沼に飲み込まれたその先には、すごく身に覚えのある光景が広がっていた。光景というか……その光のない様。無限に濃い黒色だけで満たされた空間。そこはまさに私が神様と対面した時の、得体のしれない場所にそっくりな空間だった。
それであぁそうかと思い出す。そういえば神様は言っていた。とても重要なことを言っていた。魔法少女となった者からは、痛み等の苦痛が取り払われると。気が動転するとそんなことさえ忘れてしまうもので、ようやく少しは冷静さを取り戻してみれば、そもそも苦痛から解放されるのでなければ化け物退治なんて責務、か弱い女子高生である私が自ら望んで背負うわけもなかったのだった。
つまり私はまた死んで、あっという間に神様のもとへと帰ってきたのだ。二度目の生を受けてから死後の世界へ出戻るまでの記録が二十四時間を切ってしまった。スケジュールとしてあまりにもハードすぎる。
「……ん?」
と、視界の隅に何かが映った。それはこの暗闇の空間には似合わない、目に悪そうな電気のような光源だった。
真っ暗な部屋で点けっぱなしにされたテレビのようなその光は、あの世から現世へ戻る時に通ったあの扉、私を大空へ投げ出したあの扉が放ったような希望と神々しさの光とは真逆に、不吉と俗っぽさを演出しているかのような光だった。
というかよく見ればそれはそのまま、私のよく知る「テレビ」という物体から放たれている映像の光だった。神様もテレビを見るのか……と思った、その時。
「ウェルカムトゥ、ようこそ、ガンダム動物園!」
突然の大声に肩が跳ねる。今日一日で大きな声に対して若干のトラウマが出来かねない。
振り返るとそこに男がいた。橋本典行だった。ただしその顔面は半分だけが黒くなっている。黒い部分は輪郭だけをハッキリとさせながら、それ以外のあらゆる物が無限の闇の中に深く沈み込んだようにぼやけていた。
顔の半分を覆う闇の中で、瞳だけは機械的なランプのような光を放ち目立っている。そしてその黒い輪郭は普通ではない。頭部に何か、ツンツンとしたアンテナのような物が立っている。
私がそれを見て真っ先に想像したのは人造人間……体の半分がロボットになっている人間だった。
「な、なんで、橋本さん……?」
「ノン、ノン。俺は橋本典行にして、橋本典行にあらず。俺は「橋本デザイア典行」、彼の欲望の化身さ」
「……え?」
デザイアという響きと、そのあまりにもダサい名乗りと。一気に二つの衝撃が押し寄せてきて、私のキャパはあっけなくパンクした。
「え、なに、デザイア?」
「ああ」
「欲望から生まれる化け物?」
「ああ、そのデザイアだ」
「……あんたが?」
「そうとも。それとも何か? 俺が人間に見えるのか?」
ビコーン……というような音と共に、彼の人ならざる方の目がひと際強く光った。
「いや……。え、じゃあ神様は?」
「神?」
「ここは神様の作った空間でしょう?」
今一度あたりを見回す。目に映る物は電源の点いたテレビくらいの物で、あとはこの世の物じゃないみたいに暗闇が延々と広がるばかりの空間……。……いや、いや違う、違った。私は見落としをしていた。
テレビの前にはゲーム機が置かれていた。暗闇のこの場にあってよりにもよって、そのゲーム機のカラーは黒。電源が入っていることを示すランプだけが存在を主張して、そこそこ大きいゲーム機がポツンとそこに置かれてあった。さらによく見ればちゃんとコントローラーも転がっている。
そして、さらにそこから少し離れた場所、テレビの光が当たるか当たらないかという場所に、よく見ると何かが打ち捨てられたかのように横たわっていた。闇の中に放られたそれは、それは人だった。その人というのは、橋本の姉。私より一瞬早く黒い沼に飲み込まれた彼女が、未だ意識を取り戻すことなくそこに転がっていた。
「お前の言う神が何なのか俺は知らず、また俺とて神にまでなろうという気はないが、しかし一応答えてやろう。ここは、この空間は、俺が作った物、俺の空間だ。それ以外の何物でもない」
「いや、ちょっとあれ、あんたのお姉さんでしょ。どうなってんのこれ」
「まあ落ち着けよ、順番に説明するから。俺は欲望の化身だがな、お前たちを殺したいってわけじゃないんだぞ」
一挙手一投足が神経を逆なでするような、独りよがりで大げさな芝居がかった動きで、デザイアを名乗る橋本はこちらに背を向け歩を進める。そして私がいる方でもなく、姉の倒れている方でもなく、テレビがある方でもなく、ただ何もない暗闇に向かって立ち止まった。
すると、彼の目の前にズズズッ……と何かが生えてきて、それが目をくらませるような光を放ち出す。彼の足元近くの暗黒から湧いて出たそれは、それはまたしてもテレビだった。そしてまたしてもゲーム機が共にあった。
「俺の欲望は、俺を認めさせること。満足にゲームも出来ないくせに俺を馬鹿にするクソみたいな人間を、負かして、叩きのめして、俺の前に跪かせることだ。私が間違っていましたごめんなさいと言わせること、それが俺の望みであり存在理由……! ただ何も別に、全世界の阿呆と老人にそうさせたいわけじゃない」
話しながら、髪でもかきあげるかのような何でもない自然の振る舞いで、顔の半分見えない彼が何かをこちらに放り投げてきた。暗い中で山なりに落ちてくるそれを慌てつつもなんとか受け止める。……手のひらの中に収まったそれはゲームのコントローラーだった。電池なのか充電なのか知らないけれど、どことも繋がっていないそれは軌道を知らせるように中心がぼんやりと光っている。
「気が強いだけのあのクソ女、姉だけでいい。あいつに俺を認めさせる。どうも厄介そうなお前はそのついでだな」
見える方の顔が、普通の人間の……いかにもオタクらしい顔面が、勝ち誇ったようにニヤリと醜く口角を上げる。わざとなのか素なのか、それほど強く「それ」を持っているはずではない私でさえ、その欲望の化身には「共感性羞恥」を刺激される。彼は毎秒の行動が寒気がするほど芝居がかっている。グロテスクな化け物といってもこういった意味での物を想像してはいなかった。
「う……」
「む、やっとか」
短いうめき声が聞こえたかと思うと、橋本の姉も目を覚ましたようで頭を抱えながら起き上がってくる。それを横目で確認した橋本の表情たるや、なるほど身内に向ける物とは思えない、相手の存在そのものに唾を吐き捨てるような顔をしていた。
「おい、二人ともよく聞けよ! この空間では俺のルールが絶対だ。だが俺は
あ? というドスの利いた声と共に弟をにらみつける姉。一度死んだからか、我ながら驚くほどすんなり状況を飲み込めている私。忌々しそうに舌打ちをするデザイア。和解という結論は見えそうもないこの三人とゲーム機だけの世界で、たったそれだけの他には暗闇しかない世界で、私たちがするべきことは何なのか。それが今から明らかになっていこうとしている……。
私は少し後悔し始める。もちろん、今に至る選択の数々を。両の手のひらの中ではゲームのコントローラーが、生まれてから一度もゲーム機に触れたことのない私に握られて居心地悪そうにしていた。
デザイアの説明を聞く限り、この空間を抜け出して無事に元の世界に帰る方法は一つだけ。それはデザイア本人にゲームで勝利すること。たった一度でも勝利すれば、その瞬間に我々はここを脱け出せ、デザイア自身は消滅するらしい。まさにその結末こそが私の目指すべき目標だった。
ただし、その目標を達成する前に私たちがゲームで百回負けた場合、私と橋本姉は二人とも今後一生、橋本典行の命令に逆らえなくなるらしい。欲望の化身が言う「跪かせる」とはそういう意味らしかった。だから私たちの百連敗はそのまま人間としての死を……通り魔に刺されて死ぬよりもある種恐ろしい結末を意味している。デザイアが説明したルールはそんな、まるでフィクションみたいな話だった。カイジみたいな話だった。
当然橋本の姉がそんな話に納得するわけもなかったのだけれど、デザイアの首根っこを掴んだ彼女は、電流でも流されたかのように悲鳴と共に体を痙攣させることとなったから、それでことごとくを信じて、ことごとく彼のルールに従うしか選択肢がなくなってしまった。自分自身がフィクションのような境遇にある私は、わざわざそんな経緯を挟まなくても直感的に、デザイアの話していることが全てこの場の真実なのだと理解できる。
デザイアいわく、この空間ではお互いへの暴力行為が禁止されており、違反すると体罰的なペナルティが課せられるらしい。私ならば痛みとは無縁なのだろうけど、だからといってペナルティを受けた人を目の前で見てしまえば、その上でなおデザイアを拳でボコボコにできるような自信が湧いて来るわけもない。オタク相手とはいえ男と殴り合ったことなんかないし。
拷問のような真似をして屈服させることは試みず、あくまでもゲームにこだわるところに欲望の化身の本質を見るような気持ちになるけれど、ともかく彼の姉とも相談した結果、私たちはルールの中で彼と勝負する覚悟を決めた。なので私たち女性チームは二人してすごすごと、コントローラーを握りしめてテレビの前に座ることになる。テレビやゲーム機は結局一人一台が用意された。
「本来は2on2のゲームだが、言った通り俺はフェアだ、ハンデをやる。そっちは二人でチームを組んで、俺は一人でいい。なんなら満足いくまで練習時間を取ってもいいぞ。とにかく二対一で戦い、一度でも俺に勝てばここから出してやる」
「チッ。あとで覚えとけよ」
舌打ちをしながら橋本姉がコントローラーを操作する。味方のはずなのだけれどガラが悪いので隣に座っていて怖い。神様のくれた力があったとはいえ、こんな人にカマをかけていたのかと思うと冷や汗が出る。
どんなタイトルにせよスマホゲーム以外のゲームは未プレイである私にとっては、どちらにせよ大差ない話なのかもしれないけれど、対戦するゲームとやらがせめてマリオカートのようなオープンな雰囲気のポピュラーな物ならよかったのに。目の前の画面に映るそれはいかにもオタク臭く、機動戦士ガンダムのゲームだった。使用キャラ選択画面の九割が見たことのない名前のロボットで埋め尽くされているそのゲームで、私たちは百回戦う内に彼に勝たなければならないらしい。
しばらくの間説明書を見ながら操作練習をする。が、この時点で私は強烈な不安を覚え始める。なんとこのゲーム、ただ移動するだけでボタンを素早く二度押ししなければならないようなのだ。なぜそんな面倒な操作方法に……? 右へ移動したければ右に方向キーを押しながら、移動ボタンを二度押し。右へ移動したければ方向キーを……以下略。……なぜこんな面倒な操作方法に?
コンピューターの動きを見本にする限り、このゲームは常に動き回っていなければあっという間に弾幕の餌食となってボコボコにされてしまうものらしい。相手に攻撃することを考えながら、あるいは相手から逃げることを考えながら、それはそうと常に移動ボタンを二回連打し続けねばならないわけだ。設計者は頭がおかしいのかと思う。ボタンは一度押せばいいように作ればいいのにと、橋本にそれを言うと、
「横軸の移動が一度押しだったら、上昇とかの縦軸移動はどうやってやるんだよ。専用にそのボタンを作りでもするのか?」
と鼻で笑われた。専用のボタンを作れよクソオタクがと思った。意味もなく横文字を使いたがる馬鹿と同じで、オタクは物事を小難しくすることをかっこいいとでも思っているのだろうか?
複雑かつ忙しい操作に姉共々キレそうになる私たちだったけれど、練習していればいつまでも成長しないというわけでもない。だんだんコントローラー捌きが体に馴染んできて、コンピューターといい勝負が出来るようになってきた。そして接戦の末に初めてコンピューターに勝利した時、「っしゃあ!」という気合の入った掛け声と共に彼女が言った。
「よし、一回本番やろう」
私たちは2on2でコンピューターと互角に戦えるようになったので、自信満々の人間が相手になるとはいえ、数の有利が加わればそれなりに戦えるのではないかと踏んだのだ。
橋本姉が「つよそう」と小学生並みの感想で選んだキャラはフルアーマー
ビームと言っても、ガンダムを知らない私でさえ知っているビームライフルとは全然違う。ピストルのように撃ち出すのではなく、ホースで水を浴びせかけるようにしばらく照射し続けるビームなのだ。さんざんコンピューターからくらわされたので分かるけれど、まともに当たりさえすれば相手はひとたまりもない。
一方、私が選んだのはガンダムデスサイズヘル。死神のような見た目のガンダムで、選んだ理由は「鎌を持ってるから」。……ガンダムに毛ほども興味がなくゲームにも同じくらい興味がない私たちは、つまるところそういった小学生みたいな理由でしかキャラを選ぶことが出来なかったのである。仮に私が神様から受け取った武器が大きな鎌ではなかったらとしたら、今頃私は別のキャラを選んでいたことだろう。
コンピューター戦での経験的に、デスサイズヘルとやらはとにかく鎌を振り回すのが一番強い。だからきっと射撃武器が心もとないように思えるのは、これで遠距離戦までこなせたら最強すぎるからに違いない。が、今回ばかりは二対一の戦い。こちらは近距離最強の死神と、遠距離最強の重装備が組んだチームだ。普通に考えて条件は悪くないはず。一方が気を引いているうちにもう一方が敵をボコボコにすればいい。
「それでは一戦目。ここからは敗北数として容赦なくカウントするが、文句ないな?」
「いいからさっさと始めろ」
「ちっ……はいはい。じゃあほら、どっからでもかかってこいよ!」
画面中央に「GO」の文字が映り、いよいよ運命の第一戦が開始された。私の方はとにかく近づかなければ話にならないので、移動ボタン連打でどんどん前方へ走っていく。
表示を見ると、どうやら相手のキャラの名前はバンシィというらしい。何やら黒色の地味なデザインをしているけれど、これといって近接戦が強そうな風には見えない。デスサイズヘルがビームを撃つかわりに呼び出せる味方のガンダム(名前は知らないけど、なんか緑っぽい)を呼び出しながら一気に距離を詰めて……。
「……あぁっ!?」
気が付いたら「ガキィン」という軽快な音が響き、私の操作する死神はキリモミ回転しながら空中に吹っ飛ばされていた。最強の鎌が、負けた……!?
けれど後方にいる重装備ちゃんが極太ビームを当ててくれればそれでいい、それでこそ二対一というものだ、やってしまえ! ……と思ったのだけれど、極太ビームも普通のビームもミサイルの雨も何もかも、相手のバンシィにはかすりもしない。私はというもの彼に接近するたび、その場に残る雷みたいなビームとか、二本一気に投げてくるブーメランとか、あと普通に鎌による格闘攻撃をスッとかわされてからのカウンター等をくらったりした。そうやってボコボコにされるばかりだった。
さらにバンシィというその機体は、一定時間ごとに第二形態へと変化し、少しの間さらに強くなるボーナスタイムみたいな機能が付いているらしい。黒いだけだったキャラがその強化モード時には金色の光を放ちだし、ただでさえ勝てそうもない強大な相手が見た目も変貌して「これが本気だ」と言わんばかりに襲い来る様は、ゲームとはいえども恐怖さえ感じるほどだった。
試合の中にはごく稀に、流れ弾のような致命傷にはほど遠い攻撃が相手にカスることはあったけれど、ついに相手の体力を半分も減らせることはなく、私たちはあっという間に撃破されて負けてしまった。
「…………」
「…………」
二人して言葉を失う。絶望……というには少し違う、なにこれ? という感じ。コンピューターと戦った時のことは何も参考にならなかった。あの時は互角かそれ以上に戦えていたのに、いざ人間を相手にするとこちらの攻撃が何も当たらないのだ。
「ちょ、ちょっと、もう一回」
すかさず再戦が始まる。が、結果は同じだった。基本的に攻撃が当たらない。そして基本的に向こうの攻撃が躱せない。操作がややこしいせいである。そのせいで攻撃が来ると分かっているのに、こちらにビームが飛んでくるのが見えているのに、逃げるのが間に合わないことが多々あった。一方で向こうはまるで私たちの動きを予知するみたいに完璧な身のこなしで戦い続けている。
「……もう一回」
また負け。
「もう一回!」
またまた負け。
「次ぃ!」
さらに負け。
「……ちょっと作戦タイム」
「ふっ」
勝ち誇ったように鼻を鳴らす弟によほどカチンと来たのか、ものすごい形相で姉が彼の方を振り返っていた。私はなんだか、ポカンとしてしまって、今この瞬間に現実味を感じられずにテレビの前で正座している。
……百回やった程度では、とても橋本にゲームで勝てる気がしない。このまま負け続けたら私たちは、本当に橋本に一生逆らえなくなるのだろうか。これまでの口ぶりから考えても、そんな権限を得た彼が私たちをどう扱うのかなんて、想像しただけでもおぞましい。少なくとも「跪かせる」とは比喩だけの話ではないだろうし、そんなことが可愛く思えてくるほど、他に数えきれない非道な仕打ちをしてくることは目に見えている。それだけは何が何でも避けなければいけない。仮に私が神の力によってそれに耐えられる鋼のメンタルをすでに得ていたとしても、だからといって奴隷扱いは御免だし、普通の人間である彼の姉なんかなおさらだろう。
けれども、しかし、ならどうすればいい……? 彼に勝てるようになるまでここで練習の日々を重ねるのか? コンピューターとのこれまでの練習は、彼との戦いに関してほとんど何の参考にもならず、ただ私たちが操作に慣れるためだけにあったような物だったのに。……それとも、いずれ九十と九回の敗北を喫した時、私たちは実質的に、ガンダムのゲーム以外何も存在しないこの空間に縛り付けられてしまうのだろうか。戦ってしまえば最後、彼の奴隷に落とされてしまうことが分かっているから、いつまでも無限に「練習」を続けるしかなくなるのか……? そんなのは、そんな未来は、死ぬことと同じかそれ以上に惨い。
そこまで考えてふと私は、それこそが橋本のデザイアの思い描く筋書きなのではないかと悟った。化け物となった彼の欲望そのものは、確実に私たちから尊厳を奪う気でいるようだけれど、それとは別に「屈服させる」ということについては、強制的な力によるものではない形を狙っているのではないか。
あと一回負ければ終わり……というところまで追い込まれて戦えなくなった私たちが、練習に逃げ続けて、ずっとこの空間に閉じ込められて、嫌になるまでこのゲームと向き合わされて。そしていつか精神が壊れかける限界になった時、私たちが自分の意思で「もう許してください」と泣きつくことを、彼は待っているに違いない。だから時間制限を設けないのだ。私たちを正しく屈服させるためにあえてそうしている。
彼にとってゲームとは何なのか、彼にとって姉とは何なのか。欲望の化身と向かい合わされてしまうと、否応なしにそんなことを考えさせられて、なんだか悲しくなってくる。
もちろん橋本の欲望の肩を持つわけではない。そんなわけではないけれど、でもどうして彼の欲望は、こんな物になってしまったのだろう。本人はあんなことを言っていたのに、その実彼の欲望の内容は、食欲でも睡眠欲でも性欲でも金銭欲でも、それらのどれでもないではないか。
「あなた、名前なんて言うんだっけ」
「え?」
作戦会議と称して一時休戦となったゲーム大会。心の距離を表すように橋本から距離を取り背を向けて、彼の姉は私にひそひそ話しかけてきた。私はしびれかけた足を解いて応じる。
「名前、聞いてなかったでしょ」
「あぁ、名前。そうですね……」
背中に背負った鎌を、悟られないように暗闇に乗じて一度消す。そしてそれを彼女の背後に出現させる。デザイアの支配する空間の中でも、鎌の使用は問題なく行えるようだった。だからそのまま手を触れずとも動かせるその鎌を、橋本の姉に向けて振りかざす。万が一にも違和感を抱かれないように。
ちらりと確認すると、橋本は余裕げな表情で私のことを見ていた。暴力禁止の空間において私の鎌が使えるという状況に驚かないということは、彼には「想定外」のことがない自信があるのだろう。どんな超常現象が襲い掛かろうとも、ここでのルールを無視することはきっと出来ないのだと思われる。突如現れたり消えたりする鎌や、それを操る得体のしれない女でさえ、この空間を支配するルールの設立者である彼にとっては取るに足らないことなのだ。
「名前はないんです」
「え、そうなの。それは……不便ね」
「適当に呼んでください」
「うーん、じゃあ……」
彼女は自分と同じようにぺたんと座り込んだ私のことを下から順に眺め見定める。何かあだ名のような物を考えているのだろう。私も改めて自分の姿を確認すると、この異常な状況にふさわしいそれ相応の「個性」というやつがそこにはあるように思えた。
この場に溶け込むような、適度にだぶついた黒色のフード付きローブを身にまとい、髪は対照的に明るいピンク色、背中には一見物騒にも見える大きな鎌があって、顔も悪くはない。これであとはハッピーエンドの保証さえ合わさってくれれば、アニメの主人公にでもなれるだろう装いの私。その私に名前がないというのは、確かにもったいないように思えた。いつかは名乗れるようになりたいものだ、生前のそれよりずっと気に入る素敵な名前を。
「死神ちゃんで」
「えぇ」
あまりにも安直すぎたが、同じ理由でゲームのキャラを選んだ手前何も言えず、とりあえず橋本姉にとって私の名前は死神ちゃんになった。他人に言われるまでもなく、あくまでもファッションの面では美少女と大鎌の組み合わせは意外性があって気に入っているけれども。魔法少女なんていうオタクでなくとも古臭いと分かる単語を持ち出す神様より全然良いセンスだろうと自負している。
「死神ちゃんは、このままやっててあいつに勝てると思う?」
「いやー、ちょっと、とてもじゃないですけど……」
「だよね、あたしも思う。……どうしよっか」
「うーん……」
どうしようと言われても正直なところ八方ふさがり。ゲームで勝たなければどうにもならないのに、ゲームで勝てる気はまずしないという、単純に詰んでいる状況だ。
試しに橋本姉に向かって「現実との繋がりはそのままに、この異空間との繋がりを断ち切る」ということを試してみたものの、案の定何の効果も得られなかった。デザイアの方を見やると、「俺にもやってみるか?」と言わんばかりの、腹が立つほど分かりやすい挑発ポーズで返された。どうせあいつに鎌を当てたって同じだろう。そしてもちろん私に当てても同じ。残念ながら今の状況では、この大きな鎌は何の役にも立てない。いくら神の力を持っていようと相手まで化け物ではこのザマだ……。
……ん? いや、ちょっと待てよ。
「……とりあえず、まだまだ余裕はあるんです。そのうち勝てることを信じて戦うしかありません」
「そうね……」
デザイアに再戦の意思を告げ、私たちはコントローラーを握り直す。それは暗闇の中で近未来を感じさせる独特の色味の光を放っており、この闇の中に存在する唯一のコンテンツの一部としてふさわしい存在感を醸し出し続けている。
そして、一息取り直して再開された戦いは、……やはり私たちが完膚なきまでに叩きのめされて一戦の幕を閉じた。これで敗北数は五になる。残りの命の二十分の一をあっさりと使い果たしてしまった。しかしこの戦いは、やるしかないのだ。勝つしかない。私たちは、ゲームで彼に勝つしかない。
「もう一回!」
負ける。
「もう一回!」
負ける。
「まだまだぁ!」
負ける、負ける、負ける。負け続ける。何度も何度も何度も、何度でも、少しの希望さえ見い出せることなく負け続ける。まるで流れ作業のように敗北を重ねていくうちに、自分の体が疲れているのか心が疲れているのかも分からなくなってくる。
体力とメンタル回復のためにまた休戦を要請すると、「ハッ」という癪に障る笑いと共に、どうぞ好きなだけと休憩が与えられた。その疲れなど微塵も感じさせない様子から察するにあの橋本はデザイア……つまり化け物であるわけだから、疲れとは無縁の、体力精神力共に無限大な存在なのだと思われる。消耗から来るミスに期待した勝負は現実的ではなさそうだ。
「死神ちゃん、あたしちょっとゲームが分かってきたよ」
「おお、奇遇ですね。私もです」
「覚醒だよね」
「そうそう」
私たちは少しずつゲームを理解してきていた。まず「覚醒」というシステムの重要性について。このゲームはダメージを与えたり受けたりしているとゲージが増えていって、そのゲージが一定以上溜まると「覚醒」という、一定時間の間だけキャラが強くなる状態に突入できる。その一定時間を橋本は確実に活かしてくる。どうやらそれがこのゲームの肝らしいことは、何度も負けるうちになんとなく私たちでもわかってきた。
けれど分かっただけですぐに何かが変わるなら苦労はしない。分かっているのに私たちは負け続けたのだ。こちらの覚醒は上手く逃げ切られて無駄にされ、向こうの覚醒では容赦なくボコボコにされる。それが実力差というものなのだ。一朝一夕でどうにかなるものではなく、百回の戦いで埋められる差とは思えない。
「橋本さん、そろそろ再戦お願いします」
「ふふん、言葉遣いがずいぶんしおらしくなったんじゃないか? 死神ちゃんとやら。もちろん受けて立つよ」
私をを鼻で笑った彼はコントローラーを握りテレビに向き直る。すぐに対戦が始まった。
休憩を挟んだあとの再戦でも、やはり私たちは負け続けることしか出来ない。それでもだんだんとゲームのセオリーが分かってきて、溜まる疲れと差し込む嫌気から度々休憩を申し出ては、体力もメンタルも回復して「次こそ」と再挑戦していく。そしてまた負ける、また休む、また挑む……。
……そんな流れを繰り返して、気が付けば私たちの敗北数は五十を超えてしまっていた。敗北時にデスサイズヘルのパイロットが言う、
「まあそんなに気にすんなよ、これでも負け続ける戦いは得意でね」
という台詞が悪夢のように、あるいは呪詛のように、耳に染みついて離れなくなってきた。きっと橋本姉の方でも、フルアーマーZZの敗北時の台詞で同じ現象が起きていることだろう。
さすがに疲れが溜まってきたので休憩を挟む頻度が増える。そのたびに私たちは作戦会議を繰り返した。
「着地だよね、着地。着地する時に攻撃すれば当たるはず」
「ですね。でもいつ着地するのか全然わからない」
「それなんだよ! あの移動する時に使うゲージ、自分のしか見えないから。あとあのガード、あれズルすぎる。太いビーム当たったと思ったらガードとかさぁ」
「自分たちでは分かっていても真似出来ないのが余計悔しいですよね」
さすがに五十回も負けていればゲームの仕組みや定石といったものを察してきた私たちだけれども、いかんせんその理論を実践することが出来ない。むしろそういったセオリーに気付いていくにつれて、相手が自分たちとは比べものにならないほど完璧な立ち回りをしていることが理解出来てきて、希望が生まれるどころか絶望が深まっていくようでさえある。
そして敗北が七十回目に達した頃、不意に橋本が私たちに話しかけてきた。こちらから話しかけない限りは、無様に負ける私たちを時々鼻で笑うか、ゲームのBGMにもなっている歌を小声で口ずさみ余裕を見せつけてくるかしかしなかった橋本が、ゲーム開始後で見てほとんど初めて、向こうからアプローチをかけてきたのである。
「なぁお前たち、本当にここのルールを理解してるのか?」
「あ?」
ヤンキー丸出しのガラの悪い返事はもちろん、彼の姉が返した物だった。
「あと三十回負けたら、お前ら俺の奴隷になるんだぞ。もう折り返し地点はとっくに過ぎてるんだ。それなのになんでそう、危機感がない?」
ほら見ろ、と私は心の中で彼をなじる。やはり彼は私たちの絶望する様を見たがっているのだ。
「ないわけないでしょ、こんなわけのわからない状況になって、あんたが言ってることが嘘じゃないって嫌でも理解させられて」
「いいや理解していない。命令に逆らえないってことの意味がお前はわかってないんだ。……右手を上げろ」
「は? ……え、なっ……!?」
対戦のセッティング画面でゲームは放置されたまま、橋本姉はコントローラーから手を離し、右手を上げた。言われた通り、命令された通りに、他人の意思で自分の右手を高々と。
途端、今までとは非にならない緊張感が私たち二人の間に走る。確かに何か勘違いしていたのかもしれないと、横で見ていた私でさえ思った。
私はここのルールを絶対の物だと思っていたけれど、もしかすると、それさえあの欲望の化け物のお遊びなのか……? そんな嫌な推測が生まれたことで、息が詰まるような感覚に襲われる。彼が本気になればゲームなんか、勝ち負けなんかどうにでもなるなんて、そんなことがあったら私たちは……。まさか、すでに詰んでいるとでもいうのか……?
「分かったか、「逆らえない」って意味が。別に俺が口に出す必要さえないんだぞ? ……こんな風に」
今度は何の支持もないまま、姉が「んべっー」と舌を出す。行動がデザイアに操られているのは明らかだった。そしてゆっくりと、舌を出した状態のまま、開かれた彼女の口が閉じていく。その白い歯が、硬く丈夫そうなその歯が、彼女の舌を挟み込み……。
「な、ひ、卑怯ら……! おま、こんにゃ……!」
何をしようと思ったわけでもなく、どうすればいいのかも分からず、とにかく私は背中の鎌の柄を握っていた。が、そこで橋本がアッハッハッハッと笑い始める。彼は心から愉快そうに、笑い狂ってしまいそうなほど底抜けに、手のひらを叩いて、腹をよじれさせて笑い続けた。
そしてそれが収まると、ひーひー言いながら目じりの涙を拭って、
「馬鹿かよ姉貴、言っただろ、ルールは絶対だ。そりゃ多少俺はここで力を持ってるけどな、ゲームに百回負けない限り、本気で拒否すれば命令には「まだ」逆らえるんだよ。それが出来なかったってことはお前、拒否する気持ちが萎えて、今マジでビビってたんだ!」
再び彼は笑う。お笑い番組を見て笑う子どものように、それは無邪気な笑みだった。事情を知らない者が一見して、彼が人の尊厳を踏みにじりたがる欲望の化身とは分からないだろう。
ある意味の純粋さが彼の中にあるかのように、それこそが彼の本質であるかのように、私の目には見えてしまった。……邪悪だ。橋本の欲望はシンプルに、裏表のない単純な邪悪そのもの。けれど私にはわからない。私には欲望の赴くままに、人を自分の前に跪かせたいというただ一心の気持ちが理解できない。彼の欲望は、それは間違いなく私の中にはない類の物だ。似た物さえ私は持っていない。だから私には彼の気持ちが分からない。
舌を口の中にしまった彼の姉は、拳を握りしめて震えていた。その表情が私からは見えなかったけれど、彼女は今の一件で急に自分の置かれた状況が恐ろしくなってしまったのだろうか、心が折れてしまったのだろうか。それとも頭に血が上って、無駄だと分かっていても弟に殴り掛からずにはいられないような、怒りの臨界点の秒読み状態なのだろうか。
そのどれでもない感情が、おそらくその時の彼女にはあったのだと思う。それも私の中には無いものだったように思う。彼女は静かに、
「殺す」
……と低く呟いてから、自分を落ち着けるように深呼吸を繰り返した。
それから十戦の敗北を重ねて、寿命の八割を私たちは失ってしまった。毎秒毎秒、橋本姉は怒りを超えた何かしらの感情を煮えたぎらせて、コントローラーを握りつぶしてしまいそうなほど強く握っていた。
さて、いよいよだ。私は彼女に耳打ちする。
「作戦があるんです」
耳を貸してくれた彼女に、かなり長い間こそこそとそれを話したように思う。橋本が顔の半分だけでニヤニヤと、普通の人間と変わらない方の顔でこちらを見ていたことも把握している。そしてそれを話し終えた時、彼の姉は私の目を真っすぐ見据えて問いかけてきた。
「本当にそんなことが出来るの……?」
状況に怖気づくことなく、圧倒的な実力差に戦意を喪失することもなく、気丈に振る舞うどころか、好戦的とさえ言える態度でここに至るまでのゲームに励んできた彼女。しかしいくらそんな彼女であっても、実際のところは限界が見えてきているようだった。私に問いかける目に、うっすら絶望の影が見えた気がしたのだ。今の彼女はすでに、自分で自分を奮い立たせているだけの状態にあるのかもしれない。
けれど勝てる。それでもきっと勝てる。私たちにはまだ、最後の希望が残っているのだ。最後でありなおかつ、はっきりとした形の明確な希望を。
「橋本さん」
コントローラーを置いて彼に語りかける。
私は自分を、図太い部類の人間だと自覚している。けれど何でも出来る天才というわけではない。鎌の力におんぶで抱っこの白々しい図々しさを持つことは出来ても、演技が上手いというわけではないように思う。けれども幸い、ここまで来る間にたまった疲労と、綱渡りをするような緊張感と、一筋の希望が見えていたところでなお消えない現状の絶望感が、私の声をちょうどよく震えさせた。
「私たちでは、無理です。あなたには勝てません」
彼の口角が、今までで一番高く吊り上がるのを見た。
「どうかハンデをもらえませんか。このままでは、残りの回数戦うだけ無駄としか思えません」
精神的な敗北を認めるように、私は頭を下げる。……これは簡単なことだった。プロのような演技が出来る人は少数派だろうけれど、私のような十代の子どもでさえ多くの人が、自分が悪いだなんてこれっぽっちも思っていないのに反省して見せ、頭を下げた経験があるだろう。それと何も変わらない。
そして橋本という、所詮はゲームが上手いだけのオタクに、人の感情を見抜くような心眼が備わっているわけもないはずなのだ。自分のことを認めさせることに必死な自意識の塊が、他人の思惑に敏感なわけがない。……そうであってくれなければ困る。
「ふん、何か企んでいるようだな。さっきこそこそと話していた「作戦」とやらか」
「…………」
「そうだな、俺もさすがに飽きてきた。その作戦とやらも見てみたい。ハンデが必要ならくれてやるよ、どんな物がいい? 開始十秒はコントローラーに触れるな、とかか? さすがに足で操作しろとか、無茶苦茶な要求は勘弁してくれよ」
「……ありがとうございます。欲しいのは」
私が申し出たハンデは、ノルマの軽減だった。
このゲームで試合に勝つには、彼の場合私たち二人を合わせて、合計三回は倒さなければならない。どちらかを二回、もう一方を一回倒すのも、片方だけを三回倒すのも同じことだけれど、何にせよ三回は倒すこと、それが彼のノルマである。それが彼の、もう八十回も達成したノルマ。
一方で私たちが彼に勝つには、同じく彼を三回倒さなければならない。この点においてはゲームの仕組み上たとえ二対一の構図だろうと変わらない。何にせよ三回も倒さなければいけないのだ、あの化け物を。それではあまりにも無理がある。私たちはこれまで戦ってきて、ようやくのことで一度だけ、幸運も重なって彼をほんの一度撃破することに成功したことがあるけれど、それは八十戦もやった中での、たった一度の出来事だ。それを残りあと二十戦の中で、一試合のうちに一気に三度も引き起こせというのは、どう考えたって不可能な話である。
だからハンデを申し出る。今後の試合、一度でも彼の機体を撃破出来れば、それで試合に勝利したということにしてほしいと。たった一度とはいえ撃破されたことのある彼がこれを飲んでくれるどうかは賭けだったけれど……。
「いいだろう。ただし、さっき言ったように俺も飽きてきた、こちらからも交換条件を出させてもらう」
「なんでしょう」
「ハンデを与えるかわりに、残りはあと五回だ。五回負けたら、初めに話した通りの「ルール」に則ってお前たちの負けということにさせてもらう。……いいな?」
「……わかりました」
……こうして最後の五戦、泣いても笑っても最後の連戦が始まった。……そして最初の一戦は、成す術もなく負けた。それ自体は何も珍しいことじゃない。むしろ想定通りのことである。
二戦目は少しいい線を行けたかもしれない。体力が一定値を下回ると、彼の使うバンシィは常時第二形態になる。一定時間の間ではなく、インターバルもクソもなく、死ぬまで永遠に金色の光を節々から放ち、永続的に最強の力を得るのだ。相手が金色に光っている時は逃げることを考えて、それが収まってから攻めるというセオリーさえ通用しないそんな最後の関門を、二戦目ではなんとか拝むことが出来た。が、常時強化状態のバンシィはおそろしく強く、私たちはそれに叩きのめされた。
いよいよあとがなくなってきた三戦目。「LOSE」の文字が私の見るテレビ画面に表示された瞬間、私は渾身の力でテレビに向かってコントローラーをぶん投げる……ッ!
「くそッッッッ! くそッ……!!」
これは純粋に、負け続けた鬱憤を全てそこに込めた物だった。コントローラーから何か小さな部品が壊れて吹っ飛んでいったような気がした。
「おいおい……」
呆れつつそれを見ていた橋本が、私の方へ向けて手をかざす。するとまるで魔法のように、私の目の前に新たなコントローラーがポンと現れる。起動していることの証として淡い光を放つそれは、私の手に取られることを待っているかのように宙に浮かんでいた。
「使えよ。まさか道具を壊せば逃れられるだなんて思ってないだろ?」
「……もちろん。すみません、取り乱してしまって」
宙に浮かぶコントローラーを手に取り、深呼吸をして、肩の力を入れたり抜いたりしてがくがく揺らす。それを見た彼は、やはり私を貶すように小さく笑った。
……ここからが、事実上の最終決戦だ。奇跡を起こすピースは揃った、いよいよ運命の賭けに出る。全てを賭ける。賭けて、彼の姉と共に、彼に勝つ。
大丈夫、バレていないはずだ。こちらの魂胆は悟られていないに決まっている。
「やりますよ、お姉さん」
「……うん、勝とう!」
彼女の目を見て意気込むと、力強く頷き返してくれた。
四戦目開始を告げるべく画面中央に映る「GO」の文字。相変わらず誰も使用キャラは変えていない。重装備のフルアーマーZZ、近接特化の死神デスサイズヘル、第二形態を備えた化け物バンシィ。この三機での最終決戦が開幕した。
ZZとデスサイズが一度ずつ撃破されながらも、私たちはバンシィを永続する第二形態にまで追い込んでいく。その時点ですでに、ほぼ百戦において学んだ全てを活かした死闘だった。数の有利を活かしてL字型の配置に付き敵を攻撃する作戦がちゃんと機能していたように思う。
しかしバンシィの本領はここからだ。撃破しない限り二度と消えない金色の輝きを放ち始めた奴は今までよりもさらに素早く、ただでさえ逃げ道を塞ぐように二本同時に投げてくるブーメランは倍の四本を投擲してくるようになり、敵を空に打ち上げる最強の拳は、敵を引きずり倒して蹂躙する悪魔の掌となる。
そしてさらに、その強化形態を完璧な物とする「覚醒」の存在。体力の減った姉のZZに狙いを定め接近したバンシィが、とどめを刺すべく取っておきの覚醒を発動する。プレイヤーの殺意を表すかのようにバンシィをアップで映すカットインが入り、奴が放つ金色の光は、元々の金色へさらに緑色を混ぜたような特別な物へと変化する。それは私たちに絶望を突きつける光、覚醒時だけに奴が見せる色の光。敵ながらこちらの目にも綺麗に映る、神秘的な残光を伴う殺意の光だ。
……そう、本来ならそれが、絶望になるはずの光だった。けれどそれこそが、その色が現れた一瞬だけが、私たちの唯一の希望に変わる。
「今だああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
私はコントローラーから手を離し、背中の鎌に手をかける。さすがに少々驚いたらしい橋本が肩をびくつかせながらこちらを見た。
私が使うべきは、ゲームの中の死神の鎌なんかじゃない。私に残された希望はそれじゃない。本当に全てを賭けるべきはこっち、自分の背負っている大きな鎌、神の力を持った鎌の方。神の力は、欲望の化け物を倒すためにもらったこの力は、最後まで無駄になんかならない……!
少しも重さがないその鎌を、橋本のコントローラーに向けて振るった。呆気にとられた彼はそれを避けられない。ゲームしか取り柄がないオタクにそんな咄嗟の判断はできなかったのだ。鎌の刃はコントローラーをすり抜ける。
その途端、画面の中でバンシィの動きが止まった。圧倒的力を象徴する光を放ったまま、ぷつんと糸が切れたようにその場で静止する。
「なっ、あっ……!? なに、なんだ!? はぁ!? 故障……なわけがっ」
この空間において、彼の操作するゲーム機だけ運よく故障して私たちが勝つとか、そんな都合のいいことはまず起こり得ない。それはさっき一瞬で新しいコントローラーを出現させて見せた彼を見ても、改めて確実になった事実だ。仮に故障が起きたところで、彼はそれを一瞬で直してしまうだろう。
けれど同時に、彼が私のコントローラーを直したことでさらに決定的になったことがある。この空間においても、ゲームとは正常なコントローラーがなければ操作できない物なのだ。たとえどんなに無残に破損したコントローラーでも一秒とかからず直せてしまうとしても、コントローラーが壊れていてはゲームが操作できないことに変わりはない……!
彼は油断していたのだ。彼は、人間への暴力行為しか禁止しなかった。ゲーム機への暴力は徒労でしかないから、人間以外への暴力行為をわざわざ禁止する意味もないと思い込んでいたのだ。だからコントローラーを壊した私には何のお咎めもなかった。そこがつけいる隙だった。
ゲーム機への暴力を、破壊工作を、「通常の人間が行える行為」の中でしか想定していなかった彼の、そのルールの穴こそが、唯一の希望だった。
彼のコントローラーと、ゲーム機との繋がりを「断ち切った」! それが投げてよこせるくらい便利な現代の道具、起動の有無を知らせるランプが点灯するような最新機器……ワイヤレスな存在だったせいで、初めはコンセントと同じように「抜いてしまう」ということを発想できなかった。けれどやはり所詮はゲーム、ひとたび操作不能に陥ってしまえば、素人でもプロでも等しく無力だ。
「いけええええええお姉さん!! やれええええええええ!!」
「な、なにをした! おまっ、このっ、待て待て待て待て……!!」
彼が元々持っていたコントローラーを投げ捨て、新しい物を即座に手元に出現させる。しかしあらかじめ全てを作戦として想定済みだった私たちの速さには敵わなかった。
「あああああああああ!! ハイ・メガ・キャノン!!!!!!!」
美しい光を放つバンシィは、その輝きさえ見失われてしまうほど……極めて太いビームの激流の中へと飲み込まれていった。瞬間、私たちの見る画面に、初めてその文字が映る。そのたった一つの英単語を見るための戦いだった。欲望の化け物と化した彼が、今日の一日で八十回と少し見続けたであろう、私たちにとっては念願の文字。
ただ「WIN」と。それが文字通り、それは私たちの勝利を証明していた。
「……………バカな」
ちょうど良い合図であったことの他に、万が一今の不意打ちで仕留めそこなった時に後の戦いを有利にするために、私たちはバンシィの覚醒するタイミングを狙い撃ちにした。けれど結果として一瞬の一撃で勝負はついた。一撃で倒せるところまで彼を追い込んだのは私たちの純粋な努力だ。そして最後の一撃は、「ルール」に則った私たちの作戦勝ちである。
私たちにとってのハッピーエンドがあるとすれば、彼がルールの設定を「通常の人間向け」にしていた時点で、この結末が決まっていたのかもしれない。だからこれは私たちの完全勝利なのである。
「嘘、嘘だ、こんなの。嘘だ……嘘だ…………」
……なのに、自分に言い聞かせるように嘘だ嘘だと繰り返す彼を見て、スカッとした気分になれないのはなぜだろう。
対戦が終了したあとの画面で、現実を否定するためふるふると首を横に振るかのように、彼はカーソルを左右へ動かし続けていた。何度も何度も、無意味にカーソルの動く音がむなしく鳴り続ける。
嘘だ……橋本がいつまでもそう繰り返す。彼の顔の半分を覆っていた闇は消えて、見た目だけなら、彼の全ては人間と同じになった。そしてやがて……少しずつ彼は光の粉になっていく。その光の粉は上へ上へと次第にばらけていって、それに従いみるみるうちに彼の体は薄くなる。透けていく。……デザイアの消滅。それもまた、ルールに組み込まれていたことだ。
「やったー!! よっしゃあ! いえーい! 死神ちゃんイエーイ!」
「あ、ああ、はい、やりましたね……! いえーい」
弟の姿をした化け物が消えていく様を一瞥もせず、彼の姉は私と喜びを分かち合いたがっている。私はそのハイタッチに応えながら、どんどん透明度が増していきついには消えてしまったデザイアを見届ける。最後まで彼はコントローラーを手放さず、テレビ画面から目を離そうともしなかった。
……彼が私というイレギュラーな存在を想定したルールを作らなかったのは、彼の本体である橋本典行が、ただの人間でしかなかった橋本典行が、私の鎌の影響を受けていて私の危険性を正しく認識出来ていなかったからだろうか。彼のデザイアもその影響を受けたのだろうか。
……それとも、それとも彼はやっぱり、ただ姉に自分の技術を認めさせたかっただけなのだろうか。自分の存在を認めさせたかっただけのことだったのだろうか。だから彼の眼中には姉の存在しかなく、ルールもそんな彼に影響された……そんな可能性はこれっぽっちも存在しないのだろうか……?
周囲が今までの闇との帳尻を合わせるように、過剰に白い輝きに包まれていく。デザイア本人と共に、彼が作った空間も消滅していく。私たちは元いた場所に戻るのだろう。黒い沼に飲み込まれたあの部屋へ、私が詳しい事情を知らない、ある一組の姉と弟が住むあの家へ。
あの時は緊張感のあまり味がしなかったけれど、私は二人と一緒にお昼を食べたのだった。橋本典行の友人を騙って、食卓を囲ったのだった。それがすごく遠い過去のことのように思えてしまうけれど……彼は、鎌の影響下だったとはいえ私をかばってくれた。
目が痛いほどまぶしい空間の中に、志半ばに敗北を味わったデザイアの姿はもうどこにもない。見ている方が恥ずかしくなる自信過剰で演技臭い振る舞いをする、彼の本性の姿はもうここにはない。ことあるごとに私たちを馬鹿にする彼の姿は、もうどこにもない。自分の得意なことで存分に腕を振るう、
……ズルをしなければ、勝てない勝負だった。
気が付くと玄関に立っていた。橋本家の玄関だ。ローブに備えられたポケットが震える。私のスマホが震える理由なんて一つしかない。見計らったかのように迅速な連絡だった。
「もしもし」
「デザイア討伐おめでとう」
どうやってそれを把握しているのか。そこまで出来るのに自分たちではデザイア退治が出来ない理屈とは何なのだろう。神様なら、純粋にゲームの腕で彼に勝つことだって出来そうな物なのに。
「どうも」
「さて、それでは最後のチュートリアルだ」
「は、はぁ? チュートリアル?」
「ああ、チュートリアル。これで最後だ。デザイア討伐後の処理について教えよう」
耳元で鳴っているはずの神様の声が、どこか他人事のように聞こえてくる。途方にでも暮れたかのように玄関で棒立ちする私の視界には、この家の二階に続く階段が映っていた。その階段だけがひときわ目立って見えて、まるで私を呼んでいるように思えてくる。……いや、むしろ私が、呼びに行かなければならないような気がしてくる。
「デザイア討伐後、一連の件に関わる全ての記憶が魔法少女以外の……魔法少女と神以外の全ての存在から消去され、消滅したデザイア以外の時間が、君がデザイア討伐のため地上に降り立つ寸前にまで巻き戻される。この後処理こそが誰もデザイアの存在を知らない理由なんだけど、……聞いてる?」
「聞いてますよ。記憶が消えちゃって、時間が巻き戻るんですよね」
「うむ、そうだ。デザイアだけが消えて、世界が元に戻る」
「何もなかったことになるんですね」
なるほどそれは納得だった。
一段一段噛みしめるようにゆっくりと階段を上りながら、欲望の化身が誰にも認知されない理由を知った私は、今にもスマホを床に叩き付けたい衝動に駆られている。なぜだろう、気に入らないのだ。
彼の欲望の化身は、欲望の発露は初めから無かったことになる。私が彼に会ったことさえなかったことになる。それはそうだ、そうでなければ私の知っている通りの「現実」が成り立たない。だからそれは私も最初から、頭の隅っこでは分かっていたことのように思う。
何も起こらなかった現実で彼、橋本典行は、いったい今後どんな風に姉と関わっていくのだろう。どんな風に生きていくんだろう。お願いだから、誰かの尊厳を踏みにじることだけは、それを試みることだけは思いとどまってほしいけれど。
ノックするまでもなく彼の部屋のドアは開いていた。
「こんにちは」
「ああ」
目が合うと彼は力なく笑う。
「化け物退治、終わったんだろう」
「ええ、はい」
「……記憶が残ってるんだ、化け物としての」
彼の部屋には別に、プラモデルが所狭しと飾ってあるわけではない。美少女の映る大きなポスターが壁にかかっているわけでもなければ、漫画やライトノベルで埋め尽くされた本棚もない。一見してこの部屋はオタク臭くもない、普通の男の子の部屋だった。
ただ、ゲーム機が置いてあるテレビ台の近くに、さっきまで私と彼の姉が命がけでプレイしていた、ガンダムのゲームのパッケージが少しだけ姿を覗かせている。それはゲームソフトの押し詰められた棚の中、数々のソフトが積み重なるその頂上に置いてあった。
「橋本さんは、ゲーム上手かったです。誇っていいと思います」
「……ははっ」
彼は笑った。化け物とは対照的に、自分を嘲るみたいに。
「ありがとう。……何も女の人がみんな、ゲームに否定的なわけじゃないんだなあ」
「そりゃそうですよ」
「だよなぁ。人それぞれだ、何もかも。……全部人それぞれだ」
窓の外で、鳥が飛んで行ったのを見た。尻尾の方に向かって、不自然に斜め上へ、本来の軌跡を巻き戻るように鳥が飛んでいた。……時が巻き戻るんだ、神様の言う通り。
「橋本さん、私に何かいい名前をくれませんか」
「え?」
時間がないことが感覚でわかった。
「死神ちゃんはちょっとアレなので」
「あぁ……」
目を閉じて、彼は思考を深めるためか完全に静止する。私の体が勝手にふわりと浮き上がった。
「デイズっていうのはどう?」
「ほう、デイズ?」
「デスサイズヘル、略してデイズ」
「あ、なるほど」
初めに思い浮かべたdaysとはまったく違う意味、由来の、安直といえば安直な名前。けれどそれは、私では思いつかないタイプのセンスだった。
なるほどあのガンダムから名前を取るというのは、私の第二の人生の初陣を名前の由来にするというアイデアは、全然悪くないように思えた。私はあの死神のようなガンダムが、原作アニメの劇中でどんな活躍をしていたのかなんて全く知らないけれど、けれど確かに、名前なんてそんな物でいいのかもしれない。何せここで言う名前とは、所詮は偽名なのだから。二度と名乗らないとしても私には「人間」としての本名がある以上、魔法少女なんてふざけた役職としてのハンドルネームくらいは、思い入れのあるところから適当に取ってきて然るべきだろう。
「じゃあ全部合わせると、死神JKデイズって感じですね」
「あ、女子高生だったのか」
「そうですよ」
「女子高生にガンダムのゲームで挑んでもなぁ」
「あはは」
私の体はどんどん浮かび上がって、ある時ついに天井をすり抜けてしまった。体の色が消滅していった彼のデザイアと同じように、だんだん透けて色が薄くなっていく。自分が使う鎌の刃と同じように全てをすり抜ける体で屋根を突き抜け外に出ると、空には異様なスピードで雲が流れていた。きっと全部逆向きに流れている。だって道を歩く人は後ろ歩きだったから。
ある地点まで上昇すると途端に景色は様変わりした。いかにも現実らしい物は全て見えなくなって、青や赤や紫の暗めのグラデーションが揺らぐ、この世ならざる光に照らされ続ける通路のような場所に出た私の体は、依然として浮遊感に支配されたままでいる。あぁ、ここはつまり、青い狸みたいな猫型ロボットがタイムマシンに乗る時に通るトンネルみたいな場所なのだなと、なんとなく理解した。
神様の声で、遊園地に行きたければ元の場所に降ろすけど……と聞こえて来る。私はそれを断った。
ずっとゲームをしていて疲れたので寝かせてほしい、そう伝えると、さすがは神様、どこなのかは知らないけれど、見たこともないほど大きくふかふかのベッドがある部屋に私は瞬時に移動していた。
何も考えずそのベッドに飛び込んで眠気に身を任せる。実はこれが人生初めてのベッドだった。家ではずっと布団だったから。……これからも今日の日のようなことがずっと続くなら、私の欲望のうち多くを占めるのは、第一位が生存欲で、次いで第二位が睡眠欲となってしまいそうである。
そんな欲望を満たすだけで良い人生の。なんと幸運なことだろう。そんな風に自力で満たすことの出来る欲望だけが全てである心の、何と幸福なことだろう。失ってから初めて気が付くことがあるとはよく言うけれど、一度死んでから初めて気付くことも、どうやらあるようだった。
あの二人が仲良く出来ますように……。