精一杯書いたのでほんの少しでも楽しんでいただけると幸いです。
『起きて。起きて、マスター』
――誰かの声がする。なんて優しくて暖かい声なんだろう。心が安らぐようだ。
『さぁ早く……』
彼は星々が顔を覗かせている真夜中に目が覚めた。
――ここは一体どこなんだ。
疑問が彼の頭を駆け抜けていく。どうして彼は仰向けになったまま、外の人通りの少ない道で寝ていたのか。彼はまったく思い出せないでいた。
――俺は、一体何をして。俺は一体、誰なんだ?
彼が上半身だけを起こし、思い出そうとすると頭が割れんばかりに痛み出す。
おそらく目が覚める前の記憶があったはずだ。だが頭は痛むばかりで何一つ思い出せず。頭の中に霧がかかっているようで気持ちが悪い。
彼は一時の間ベッドになっていたコンクリートの地面から立ち上がろうとするが、しきりに頭が痛み、よろけてしまう。
近くのレンガ造りで趣のある家に肩からよしかかり、一息つく。
痛むのは頭だけで、それ以外の傷は何もない。かといって、頭部に傷が見られるかと言えばそうでもない。彼の記憶の混濁は一般的な記憶喪失と言って相違ない。記憶喪失に陥るにはいくつかパターンがある。一つ、頭を強く打ってしまって脳に障害が残っているパターンと、もう一つ、心的外傷による自己防衛的記憶喪失。だがこれは辛い記憶のみが欠落するので、後者の可能性は極めて低い。
彼は壁伝いにたしかめるように歩き出し、辺りを伺う。誰もいない。家の中は常にカーテンで閉め切られているので見えない。
ここにまともな住人がいるのか雲行きが怪しくなってきたが、まずは病院を探すことにした。
記憶喪失と言っても、本人の関係のあることが欠落するので、一般常識や道具の使い方は覚えているのがほとんどだ。
彼の近くで、こつんと足音がした。
彼は立ち止り、音がした方向を向くと闇の中に一人の少女が立っていた。不気味さを拭えない彼だったが、ようやく出会えた一人目の住人。
彼は歩いて来た方向を少しだけ戻り、路地にぽつんと糸が切れた人形のように立っている少女に話しかけた。
もしかすると彼女が声の主なのかもしれないと、淡い希望を抱いながら。
「なぁきみ、ここが一体どこなのか教えてくれないか……?」
しかし、少女は彼の問いかけには何も答えない。それどころか目の前の人間を見ていないのだ。彼は気味の悪さを払うためにもう一度彼女の肩に手を置いて話しかけようとした。
「え?」
端的に言おう。この少女は人間ではなかったのだ。
真っ黒な瞳に体温を感じさせない表情と肌。そして、手首の球関節。少女はまさに人形だった。
「うっ!」
じろりと人形が彼を見つめ返してくると、彼は驚いて腰を抜かしてしまう。人形は動き始めてぴたりぴたりと近づいてくる。
肌を刺すほどの恐怖を感じた彼は上手く立ち上がれず、這うようにして後ずさりする。
人形は表情一つ変えずに逃げる彼の首を容赦なく掴んだ。
「がはっ!」
万力で首を絞められているようだ。人形の力は凄まじく数秒後にでも、彼の首の骨をへし折ってしまいそうなほどだった。
みしりみしりと骨が軋み、意識が朦朧とし始める。彼の視界が暗転しようとした瞬間だった。人形は飛んできた何かに頭を吹き飛ばされて動きを止めた。
奇跡的に死の魔の手から逃げ出せた彼はすぐさま立ち上がる。人形の手形が赤く残る首をさすり、とにかく逃げることだけを考えて走り出した。
目の前で何が起きているのかまったく理解できない。
「ぐっ!」
逃げ出すために動き出した足が思わず止まってしまうほどの激しい頭痛が突如として襲いかかる。
「くそっ!」
視界の天地がぐるりと回っているような吐き気を堪えて膝をつくが何も思い出せない。自分の名前も、どこで生まれ、誰に愛され、そして自分がどうしてここにいるのかも。
「驚いたぞ。まさかサーヴァントも連れずに歩いているマスターがいるとはな」
混乱している彼の目の前に追い打ちをかけるように家の影から一人の深い黒色のスーツを身に纏った男が現れる。彼は息を飲んだ。目の前にいるこの男もまた人間ではない何かだ。
「何なんだ、あんたは――」
男は問答無用にいつ間にか手にしていた剣で斬りかかってくる――という、現実と見紛うほどの鮮烈なイメージが影となって彼の視界に写る。理由も分からないまま、男が先ほど見た影の通りに動き始めた。
避けろ。
本能が叫んでいた。
彼は手足が震えながらも必死に飛び退き、力だけで振り下ろした男の剣戟から逃れられた。
男はほんの一瞬だけ表情を歪ませたが、獲物を狙う爬虫類のように鋭く冷たい目で彼を見つめる。
「それなりの能力はある……か」
男は息を切らして様子を伺っている彼に向かって静かに歩み寄る。
奇跡は一度だけ。二度目は無い。確実な死の足音が近づいて来ていた。
男は最小限の動きで彼を斬りつける。だが、またしても相手の動きが先んじて影となって見えたのだ。身を翻して躱そうとするが、完全に回避できずに切っ先で左腕が切り裂かれ鮮血が飛び散る。
男も三度切り損ねるような者ではない、彼に休む暇を与えずにすぐさま剣を振るう。
見えていても体が反応できない。脳が命令を出しても結果が伴わず死ぬ。
彼が死を覚悟した、まさにその時であった。
× ×
漆黒の戦装束を身に纏い、彼岸花のように赤い瞳をしている長い髪の女が、この街唯一の時計台の上に闇に溶けるかのように立っていた。
彼女はれっきとしたサーヴァントなのだが、一つ問題があった。
サーヴァントとは実在したまたは伝説上の英雄として聖杯に呼び出され、願いを叶える願望機である聖杯を勝ち取るために戦いマスターに仕える者のことを言うのだが、彼女には仕えるべきマスターはいない。否、正確にはいた。
彼女が召喚され、マスターをその瞳に映した途端、彼女の元マスターはこう言った。
『勝った! 勝ったぞ!』
それだけならばまだ良い。最高級のサーヴァントを召喚したのだ、許容の範囲内だ。この程度で機嫌を損ねるほど器量の小さな女ではない。問題は、次の言葉だった。
『それにイイ女だ! 最高じゃないか! こいつを好きにしても良いんだろう!?』
男のこの言葉が彼女の琴線に触れた。半狂乱気味に喜ぶ男に嫌悪感を覚え、まず得意のルーン魔術で彼女から一方的に契約の結びを切り、そのあとで呆けた顔をしていた元マスターを徹底的に打ちのめし、温情で半殺しにしてきた。
契約が切れ、顕現に必要な魔力がマスターから供給されることがなくなり、彼女はただこうして消え去るのを待っているのだが、しかし召喚された手前、ただ座に帰るだけでは面白くない。なので彼女は観光気分でこの街を回って見ることにしたのだ。
そして時計台に立った途端に轟音が鳴り響く。
――始まったか。
彼女は家の屋根から屋根に飛び移り、この戦いの様子を見てみることにした。ほんの気まぐれだった。彼女はその道中に記憶喪失の彼を見つけてしまったのだ。
マスターだがサーヴァントを持たずに、ただ逃げ惑い懸命に死から遠ざかろうとしている。
助けた道理は本人にも分からず、だだ彼女がその姿が愛おしく思えたのか、酔狂にも剣を持った男と彼の間に割って入ったのだった。
× ×
乾いた金属音が鳴る。彼がおそるおそる目を開けるとそこに、黒装束を纏った彼女はいた。
「サーヴァントだとッ!」
男は割って入ってきた彼女を警戒し鍔迫り合いを早々に止め、瞬時に距離を取る。闇夜に浮かぶ真紅の槍を一本携えた彼女は横目で怯えている彼を見つめた。
「……お主は下がっておれ。だが、それ以上儂から離れることは許さん」
そう言った彼女は男に向かって槍を構えて突き刺さるほどの殺気を放つ。いつの間にか尻餅をついていた彼はただ彼女の言う通りにするしかなかった。
「見たところ貴様、その男のサーヴァントではないな? 助ける義理は無いと思うが?」
瞳は敵を睨みつけながらも男は終始落ち着き払った声で彼女に話しかけた。
「さてな。儂にも分からん。ただの酔狂だ!」
彼女は言葉を言い終えると同時に強く踏み込み、男との距離を刹那のうちに詰め同時に槍を打ち込む。
常人の瞳には写すことが叶わない速度で放たれた槍を男は剣で受け、またしても鍔迫り合いの様相となる。
「ならば酔ったまま死んでいけ!」
男は力で強引に彼女を押し返し、槍を跳ね除けた。そして息もつかぬ間に剣を切り上げるが、それを彼女は身を翻しまるで踊っているかのように華麗に躱して、そのまま反撃に転じる。
横薙ぎの一閃。男は身体を反らし辛うじて躱すが、彼女の意識の外から繰り出された鋭い蹴りが腹に突き刺さり三十メートルほど先まで蹴り飛ばされる。
「生憎、おいそれと死ねぬ身でな」
彼女は捨て台詞のように口角を上げてそう言うと、ゆっくりと彼の方へ振り向き近づくが彼は反射的に逃げ出そうとする。
「これ、逃げるではない。儂はお主の味方だ」
彼女が彼の足を止めようとすると、吹き飛ばされた男が今度は空中から現れた。
「おい上だ!」
彼が咄嗟に叫ぶ。肩甲骨辺りからまるで竜のような翼が生えた男が怒気を孕んだ声で吼え、飛翔し着地する勢いそのまま剣を振り下ろす。
本来なら回避するに値しない太刀筋を完全に見切った彼女は彼を抱きかかえ、彼を守るために斬撃を回避する。
「子守をしたままではいささか分が悪いか。お主、儂に掴まっておれ。死んでも離すでないぞ」
女性の腕に抱きかかえられた彼は頷くしかなかった。
「逃げられるとでも思っているのか?」
地面が深く抉れた道だったところに立っている男が睨むと彼女は不敵に笑う。
「フフ、逃げるのではない。儂が逃がしてやると言っておるのだ」
彼女がそう言うと、男は殺気立てた剣で斬りかかる。すると彼女の『退避のルーン』が発動した。
彼が目を開けると身体は空中にあった。
状況が把握できない。先ほどまで翼を生やした男がいて、今自分を抱きかかえている彼女は逃走を図ろうとしていたはずだ。
「着地する。舌を噛むなよ」
彼女は彼に囁くと屋根の上に音も無く静かに降り立ってみせた。
「ひとまずここまで来れば落ち着ける……わけでもなさそうか」
彼女の四方はすでに囲まれていた。大量の人形によって。その数十三体。逃走した先に新たな敵がいるのは考えうる最悪の中でも選りすぐりのものだろう。
「儂ら用に改造された人形か。くだらん真似をする」
彼を襲った少女型の人形。彼女は敵が行動を起こす前に先制を仕掛けた。
抱いている彼を真上に投げ飛ばし、その手に顕現させた真紅の槍でまばたきもせぬ内に囲っていた人形たちの頭部を破壊して一蹴する。
そして槍を手元から消し、落ちてくる彼を抱く。
「いっ、いきなり投げないでくれ!」
おそらく、彼が彼女に問い詰めなければらないのは了承も得ずに空中に投げたことではない。だが、彼の口から勢いのまま出てしまったのだ。
「許せよ、あれは儂の客だ。ああする他なかった」
彼女は静かに彼を降ろす。
「……なぁあんた、どうして俺を助けてくれたんだ?」
当然の質問だった。彼の知り合いにこれほどの美女はいない。いや、今となってはその知り合いの顔すら思い出せないのだが。
「言ったはずだぞ、ただの酔狂だと。なに、二千年ぶりの乙女の気まぐれだ。お主があれこれと無粋に勘繰るものではない」
彼女は妖艶に笑ってみせた。
どうやら本当に敵ではないようで彼は心の底から安堵した。記憶が思い出せない中、頼れる人物など存在しないこの状況では、またとない僥倖だ。
「やれやれ。次から次へと。余程この
彼女が突如として現れた着物に羽織そして雪駄に袴という時代錯誤甚だしい格好の男に視線を向ける。
「やれやれってのはこっちのセリフだぜ。俺はあまり戦いたくなかったんだがなぁ」
和服の男は後頭部をかき、まったくやる気のないため息交じりでこう言った。
「仕方ねぇ。ますたー殿の指示だ。やるしかねえみたいだな」
和服の男はいつの間にか腰に携えていた刀を抜く。
月光に映える美しい刀身。言わずもがな敵に伝わる名刀の息吹。彼女は槍を手元に召喚し、すぐさま構える。
男はどこかたどたどしく刀を構えると、柄の感触を何度か確かめてから踏み込み斬りかかる。
彼女が白刃を槍で受け止めてから、向けられている刀の凄まじさに改めて気がつく。魔力で鍛えられた名刀であることに間違いないが、切れ味は容易く神秘までも切り裂いてしまうだろう。
この域に達しているのは
彼女は刀を弾き、間合いを外さないまま、心臓を狙って人間が目視できる速度を軽々と超えた一撃を放つ。
乾いた金属音が宵闇に沈む。
和服の男は槍を紙一重で防いでみせたが、男の刀には亀裂が入り男自身も防いだ衝撃で背中から屋根に叩きつけられる。
「俺の刀にひび入れるとはな。おめぇさんのもなかなか良い槍じゃねぇか」
早々に起き上がった男は亀裂の入った刀をどこか嬉しそうに見つめる。
彼は戦闘中にあることに気がついてしまった。目の前にいる彼女の姿が足元から透けていることに。そのことは和服の男も気がついたようで、驚いた顔をしてこう言った。
「なっ! おめぇさん、まさか!」
――飛来。
突如として和服の男に一筋の光が降り注いだ。
「そこなサーヴァント!
小汚い
彼女は彼を再び抱きかかえ、屋根伝いに外套の男の後を追う。
「お主、何者だ?」
暫く戦線から離れた頃合いに彼女は男に尋ねた。
「そういう貴様は解りやすい。槍の英霊、ランサーよな」
外套のフードの隙間から見える鍛えられた刃のように美しい横顔をしている男がそう言って屋根から地面に飛び下りると、そこには男の仲間と思われる青い瞳の女性がいた。
「連れてきたぞ」
男が不服そうに言うと、色白で
「ありがとう、ジョーカー」
ジョーカーと呼ばれた外套の男は、壁に背中からもたれ腕を組んで鼻を鳴らした。彼を助けるのに余程の力をつぎ込んだようにも見える。
「どうして儂たちを助けた? それなりの理由があるのだろう?」
瞳から敵意が漏れ出ている彼女が質問した。
「あまり身構えないで。簡単な自己紹介をしましょう。私の名前はアルテシア。あそこの偉そうなサーヴァントはジョーカー。口は悪いけど、良い人よ。貴方は?」
アルテシアと名乗る女性に名前を聞かれ彼は目を泳がす。
彼に名乗る名前だとなかった。
「すまない、俺は……自分の名前が分からないんだ」
彼は素直に謝ると、アルテシアは複雑そうな表情を浮かべる。
「貴方もしかして記憶が?」
アルテシアの勘の良い言葉に彼は申し訳なさそうに頷く。
「これは込み入った話になってきたわね」
彼女が顎に手を当てて頭を悩ませていると、先ほどまで黙っていたジョーカーが突然ひときわ大きな声で高らかに笑う。
「フハハハハハハハ! 滑稽よな! 危険を冒してまで助けた男が何の使い物にならないとはな!」
肩を震わせて自嘲気味とも受け取れる笑いを、アルテシアが厳しい言葉で諫める。
「ジョーカー、黙りなさい。そもそも貴方の未来視で見えたのは彼で間違いないのでしょう?」
ようやく笑うのを止めたジョーカーは、呆れた様子で話し始める。
「ああそうだ。だが流石の我でも、記憶喪失までは見抜けなかったわ。して、この男とアレはどうする? 貴様も知っておろうが、アレはそやつと正規に契約を結んだサーヴァントではないぞ?」
ジョーカーとアルテシアの視線は、彼の後ろにいる彼女に向けられた。
「貴方のことを教えてもらえるかしら。綺麗な槍兵さん?」
彼女はアルテシアたちの質問に静かに答えた。
「儂のクラスはランサーだ。故あってマスターとの契約を破棄しておる。これを助けたのもただの酔狂だ。安心しろ、儂もそこのジョーカーとやらも無理が出来る体ではあるまい。ひとまずこちらに戦闘の意志はない」
ランサーと名乗った彼女は軽く両手を広げて、言葉通り戦闘の意志はないとアピールする。
「ランサー……ね。分かったわ、ひとまず貴方たちには交戦の意志はないと判断します。ついて来て。ここから少し歩いたところに私たちの隠れ家があるの。そこで彼に色々と話しておかないとね」
アルテシアがそう言うと、ジョーカーが強い語気で反論する。
「おい、あやつらを招き入れるつもりか? 人が増えれば見つかる危険性も当然上がる。然るにあやつらも裏切るやも知れんのだぞ?」
ジョーカーの言葉にアルテシアは笑みを零す。
「あの英雄の頂きとまで謳われた貴方が、ここまで慎重を期すなんてらしくないわね」
彼女の言葉を聞いたジョーカーは見るからに苛立った様子で会話を続けた。
「そうではない。我たちの計画が破綻するやも知れんのだぞ。貴様の積年の執念も無駄になるのだぞ? 少しは冷静に考えろと言っているのだ」
アルテシアはジョーカーの方へと振り返る。
「大丈夫よ。貴方が視たんですもの。それだけで信用に足りるわ」
アルテシアは断言した。彼が信用に足りうると。するとジョーカーは深い溜め息を吐く。どうやら彼女を折らすつもりだったが、逆に彼が折られてしまったようだ。苛立ちを通り越して心底呆れた様子で彼はこう言った。
「もう良い。好きにしろ」
彼らはアルテシアの後を追い、彼女たちの隠れ家に招き入れられた。
彼の頭の中は疑問符で覆い尽くされていた。
――この戦いはなんだ。どうして俺がいる。俺はどうしてこんな。
彼がどれだけ記憶を無くしたことを悔やんでも、記憶の星屑たちが煌めくことは無かった。
深い海に沈められていく感覚と似ている。答えが見えず、ただ暗闇だけが支配する。もがけばからまり、身体はいつしか黒に染められてしまう。
「さて、きみ。これから重要なことを貴方に話すわ。まず上着のポケットのどちらかに端末が入っていないかしら?」
アルテシアは上着のポケットを指差す。彼も今まで逃げることに夢中で気がつかなかったが、ポケットの中身をまさぐると彼女の言う端末が入っていた。
「これか?」
四角い箱のようなものだった。現代社会に流通しているスマートフォンと呼ばれている物によく似ている。彼はどうやら自分が何者か思い出せないが、物の記憶はきちんと思い出せるようだった。
「それはね、その日の開戦を知らせるものになっているの。ルールブックであり、加えて通信機器としても役に立つ。その端末に魔力を込めてみて」
アルテシアに言われるがまま、本能的に身体の奥底に眠る魔術回路に魔力を通す。
やはり彼の身体にはある程度記憶が残っているのだ。そして、端末に魔力を込めることは、彼が魔術師であることを同時に意味している。
「やっぱり魔術師であることに間違いなさそうね」
彼の持っている端末に可視化した光る文字が音もなく浮かび上がる。
「貴方が巻き込まれているのは、実験的聖杯戦争。時計塔の魔術師たちは大聖杯戦争と呼んでいるわ。通常の聖杯戦争は七騎のサーヴァントを駆り、勝利者が決まるまで殺し合いを続ける。だけど今回は違う。この聖杯戦争は勝ち抜き戦なの。生き残った一騎だけが次の聖杯戦争に組みこまれる」
端末に浮かび上がっていた文字はこの聖杯戦争に関してのルールだと理解できるのに、そう時間はかからなかった。
一つ。この聖杯戦争に参戦した者は如何なる理由があってもこの島から出ることは許されない。
二つ。戦闘を許可する時間は日が沈み、この端末に合図が来てから朝日が昇るまでである。
三つ。昼間の戦闘は原則禁止とする。また故意に住民を傷つけた場合、罰則として令呪一画を剥奪することとする。
四つ。二周目以降のサーヴァントは真名しか名乗れず、クラスという枠組みから解放される。
五つ。周回中のサーヴァントは新たに加えられたサーヴァントまたは同じく周回中の陣営を撃破すると、敵マスターから令呪を一画奪うことが出来る。また一周目の陣営は、周回中の陣営を撃破すると令呪を一画奪うことが出来る。
以上だった。
文面でこそ言葉の意味は理解できるが訳が分からない。どうしてこんなことを。
「ルールは理解したようね。先ほども言ったけれど、これは実験的な聖杯戦争なのよ。この聖杯戦争を引き起こしている時計塔の本来の目的は大聖杯を使った根源への接続」
時計塔。聖杯戦争。根源。彼には聞き覚えがあったが、理解できない単語が行き交った直後に激しい頭痛がまたしても襲いかかる。
「っ!」
この痛みにも慣れてきたのか表情をあまり変えずに堪えることが出来たが、何も思い出せないままである。
「根源っていうのはね、この世界すべての叡智と言っても過言じゃないの。協会の連中はそのためなら命なんて惜しまない。この戦いを維持し続けるのに、毎月何百人のただの子どもやホムンクルスたちが生贄になっている」
アルテシアは拳を握り、心のうちに潜む烈火の如き怒りを露わにしていた。
「私たちの目的は大聖杯の破壊と協会への復讐よ。そして貴方は、ジョーカーが予見した私たちに協力してくれるイレギュラー」
頭が真っ白になっていた。自分が何者なのかも思い出せず、この狂った聖杯戦争とやらに巻き込まれていたのだ。とうに彼の頭で理解できる範疇を優に超えていた。
彼が眩暈を起こしてふらりとよろけると、ランサーが背中を左手で優しく支えた。
「興奮気味で説明するのは良いがな、こ奴自身、自分が何者かすら知らぬのだ。そんなか弱き者に、あれやこれやと仕込むべきではないな、アルテシアとやらよ」
ランサーがまるで影のようにするりと心に這い寄ってくる静謐たる声で話すと、アルテシアは俯き焦燥感に囚われている己を諫めるように深く息を吐いた。
「そうね、貴方の言う通りだわ。ごめんなさい、急に話を進めてしまって。今の話は無理に理解しようとしなくていいわ。……今日はここでお休みなさい。話はまた後日に。ジョーカーもそれで構わないでしょ?」
彼女がジョーカーに確認すると、彼は両肩を竦めて好きにしろと返事をする。アルテシアが踵を返し、隠れ家から立ち去ろうとするが彼が額を手で押さえたまま呼び止められる。
「待ってくれ。俺が、あんたたちに手を貸したらどうなる?」
アルテシアが驚いたように歩みを止め、腕を組みながら振り返った。
「貴方の記憶を取り戻す協力をしてあげられる。私たちはこの聖杯戦争おいて正当な参加資格を有していないイレギュラーだから表立って動けないけど、影ながら貴方のサポートもしてあげられる。……お願いしている立場なのにこれじゃダメね。素直に言うと、私たちと一緒に戦ってほしい」
どくんと、心臓の鼓動が一際大きくなった。
「わかった。……だったらあんたに利用されてやるよ。それで記憶が取り戻せるなら、こんなふざけた戦いをぶっ壊せるならな」
彼にとっては、聖杯のことはある意味どうでも良かった。一番はこの実験のような戦いのために人の命がないがしろにされているという事実だった。何故彼がここまでこの事実に憤りを覚えているのか分からない。
ただ揺るぎない真実として、彼が戦うことを決意したのだ。
「なら私たちは今から協力関係よ。これからよろしくね」
アルテシアは彼に歩み寄り手を差し出す。彼もその手をしっかりと握ると、ここに聖杯戦争に記されることのない影の同盟関係がここに築かれた。
「なら、そこの槍兵さんと再契約しないとね。貴方も問題ないでしょ?」
再契約。サーヴァントを持たない彼は、他陣営と戦うために別のサーヴァントと契約しなければならなかった。彼にとって背中を任せ、運命を委ねるサーヴァントは後ろに立っているランサー以外に考えられなかった。
「儂は構わんが、お主はそれでいいのか?」
「あんたにも、助けてもらったお礼をしなきゃいけないだろ。あんたが消えかかっているのは記憶がない俺でも何となくわかる。礼をする前に消えられちゃ夢見が悪いからな。……ランサー、改めて訊く。俺と一緒に戦ってくれるか?」
彼の想像が容易い
「乗り掛かった舟と言うやつだ。だがお主、舵を取り間違えることは許さんぞ?」
そして彼はアルテシアから教えてもらった再契約の詠唱を唱えながら、ランサーに右手の甲にある赤い花びらのような痣を向けた。
「――告げる! 汝の身は我が下に、我が命運は汝の槍に! 聖杯のよるべに従い、この意、この
痣が光り輝き、空気の渦が魔力を帯びて彼らの周りを包む。
「――ランサーの名に懸け誓いを受けよう。お主を我が盟友として、ここに認めよう!」
アルテシアとジョーカーが見守る中、彼とランサーの再契約がなされた。存在が薄くなり透明に近づいていた彼女が明瞭に姿を現す。魔術回路を通して感じる圧倒的なまでの迸る魔力。これがサーヴァントの本来の力。
「しかしお主にも名前がなければ、いよいよ不便よな。こう見えても儂は名付けが不得手でな……セタン――いやこれは無い」
ランサーが彼に名前をつけるためにあれやこれやと頭を捻り迷っていると、水平線から太陽が昇ってきた直後に眩しいくらいの朝陽が部屋中に差し込んでくる。
「名前は、あんたが呼びやすいように決めてくれ」
すると、ランサーが何か思いついたのか窓の外の太陽を見つめながら、一言。
「……朝陽」
ランサーは彼の顔を真っ直ぐに見据えて、慈しみの面影すらある声色で改めてこう言った。
「お主の名は朝陽だ。うむ、実に良い。これからよろしく頼むぞ、朝陽」
朝陽。不安と恐怖の夜を終わらせる優しく温かな太陽の光。それが彼の新しい名前だった。
「ああ。しばらくよろしく頼む、ランサー」
こうして、聖杯戦争一日目が終わりを告げた。だがこれは彼――もとい朝陽にとって、これからどれだけの絶望が待っていようとも、記憶を取り戻す戦いの始まりでもあったのだった。