So Long, Lonesome ~追憶の言葉~   作:けんごち

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プロローグ

 ロンドン塔の上に幽霊が出る――そんな噂が囁かれ始めたのは一週間ほど前からだっただろうか。ここ一年、夜な夜なロンドンにはびこる殺人鬼、そして怪物騒動。さらには一週間前に魔導協会の建物が崩壊し、夜空に戦艦が浮かび、さらにはグリーンパークに大穴が開いた。今、ロンドンの街は混迷を極めていると言っていいだろう。十九世紀末ということもあり、世界の終わりと扇動する自称予言者や超能力者が灰汁のように際限なくあふれ出る始末。ロンドンの街は、背筋まで凍らせるような恐怖と同時に不思議な興奮にも包まれていた。

「よう。今日も夜勤かい?」

 ロンドン塔の中庭。一人の守衛が同僚に声を掛けた。

「あぁ」

「怪物が出るってのに暢気なもんだね」

 同僚は話しかけてきた男の軽口を鼻であしらう。

「うちのぼろ家にいるより、この立派なロンドン塔様の方がよっぽど安全だろうよ。それに給料も出る」

「そいつに守衛付きと来たもんだ」

 守衛の男はけらけらと笑う。冗談めかしているが、半分は本気だ。

 室内で怪物に襲われた例はない――とはいえ、それで心の底から安心できるわけもなく、人々は震えながら夜をやり過ごしている。いつ何時怪物がドアを、窓を、天井を破って侵入してくるかわからない。もはや無事目覚めることだけを願って眠りにつくだけだ。そんな状況であるからこそ、下手に眠るよりは夜警の任務に就いていた方がよっぽどいい。

「まぁ、このロンドン塔も幽霊が出るとかいう噂があるけどな」

 同僚の男がため息をつく。怪物の次は幽霊だ。世の中、何もかもうまくいくという選択肢はそうそうない。

「そりゃ、ここで血を流した王族や貴族がどんだけいるんだって話だ。幽霊の一人や二人いたっておかしくないだろうがよ。けど幽霊に頭をかじりとられたってやつはいねえ。なら、こっちの方がまだよっぽどましさ」

 守衛の男が、ふん、と鼻を鳴らす。その響きに虚勢を感じたが、同僚は特に何も言わないでおく。

「まあ、何事もなく朝日が昇ってさえくれりゃあ、俺はそれでいい――」

 そこまで言って、同僚の男はぽかんと口を開けたまま止まった。ぼんやりと、どこか遠い一点を見つめている。

「……おい! 何やってんだよ、お前! 冗談だったら、笑えねえからやめろよ!」

 守衛の男が同僚の方を揺さぶる。なにせつい先ほどまでの話題が話題だ。気味が悪いことこの上ない。もしも冗談で怖がらせるためにこんな仕草をしているのだとしたら、笑えないにもほどがある。

「いた」

 同僚の男は口を開けたまま言葉をこぼすように呟いた。

「いた? 何がいたんだよ?」

 守衛の男はいぶかしげに尋ねる。

「あの塔の天辺に……いたんだ……幽霊」

「はあ!」

 守衛の男が慌てて塔の上へと視線を向ける。しかし、そこには何もなく、吸い込まれそうな黒い雲に覆われた空が広がっているだけだ。

「……なにもいねえじゃねえか」

「いや。さっきまで、いたんだ」

 ぼんやりと熱に浮かされたように同僚の男は言葉を発する。

「幽霊がか? 鳥か何かの見間違いじゃねえのか?」

「いや。人だった。あれは、人だった」

 守衛の男はがりがりと頭を掻く。まるで魂を奪われたかのように同僚の様子にいらだちと、恐怖を感じる。

「なんだよ、そんなおっかないのが、あそこにいたっていうのか!」

「――違う。おっかないのなんかじゃない。綺麗だった。思わず見とれちまった。あれは、天使だったのかもしれねえ」

 守衛の男は鼻白んだ。何を言い出すと思えば、天使、とは。疲れで幻でも見ているのだろう。恐怖心は霞のように消え、白々しさだけが心に残る。

「そうかいそうかい、よかったな。天使様が見えたんだな。ならこの世は救われる。俺たちみんな万々歳だ。じゃあ、与太話は終わりだ。さっさと仕事に戻るぞ」

 守衛の男はつまらなさそうに身を翻す。一瞬でも戦慄した自分が馬鹿みたいだ。

「いや、確かに天使みたいに綺麗だった。綺麗だったんだよ――」

 でも、と同僚の男は付け加える。

「街を見下ろすあの赤い目には――」

 まるでこの世界を壊そうとするような無邪気な悪意があった、と続けようとしたが、それはただ荒い吐息にしかならなかった。

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