So Long, Lonesome ~追憶の言葉~   作:けんごち

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第十四話

 アイザックは冷め切った目で静かにチャックを見下ろす。その瞳に映る侮蔑の色に、チャックは不快感を露わにしながら魔導書を掴んでいるが、次の一手は打てないでいる。

 いとも簡単に錬成を行って見せた魔導士、アイザック・ベイリ。目の前で唇の端を伸ばして笑っているこの男の底が知れない。

「勢い込んで追いかけてきたかと思ったら、もしかして、おじさんの魔法を目の当たりにして怖じ気づいちゃった?」

 からかうような口調でアイザックは言った。

「……ふっ。馬鹿なことを。馬子にも衣装とはよく言ったものだと感心していただけですよ」

「そう? あんまりこのスラム街で目立つ格好もするのもあれかなー、と思ってぼろ布着てたんだけど、そっちの方がよかった?」

「別に貴方がどんな格好をしていようが、私は構いませんよ」

「あらー。せっかくだからちゃんとした格好でお相手しようとおめかししたのに……おじさん、無断骨だった? やだねえ」

 わざとらしくアイザックは両手を広げてうなだれてみせる。

「――無駄話はこれくらいでいいでしょう。おとなしくお縄につくというのなら、私としては貴方がどんな格好をしていようが構いません」

「おとなしくお縄?」

 アイザックが鼻の先で笑う。

「何を勘違いしているのか知らないけどさあ。おじさん、別に諦めたから逃げるのをやめたわけじゃないのよ? 逃げるのが面倒くさくなっただけ」

「面倒、ですと?」

「そう」

 アイザックは嫌らしい笑みを浮かべながら、チャックを指さす。

「アンタだってわかってるでしょ? イギリス魔導協会最強と謳われるテューダー、最悪と恐れられるウィローハウス。それに対してアンタ自身は一枚も二枚も格が落ちるってね」

 アイザックはへらへらとわざとらしいまでの笑い声を立てる。煽られている――チャックは肌に刺さるようにそう実感する。

「うちの一号さんだって、アンタが倒したわけじゃないんだよねー。代筆屋のサム、いや本名は百千万字郎だったけか? まぁ、いいや。アイツは俺たちにとっちゃ相性最悪中の最悪。魔法力に自在に干渉する、ねえ。そんなんやられたら、俺たちはほんともうどうしようもないよ」

 アイザックは一気にまくし立てる。

「あとは赤星光正か。サムの力を取り戻したあの日本人の魔術師――アイツの能力も正直底が知れないだけに怖いよねえ。絶対に敵には回したくない相手だよ」

「……それに引き換え私は、とでも言いたいのですか」

「そうそう、そのとーり!」

 我が意を得たりとアイザックは満面の笑みを浮かべる。

「確かにアンタは魔導士としては優秀だ。でもねえ、器用貧乏っての? 何でもできるけど、何をやらせてもそう大したことはない。さっき俺が名前を挙げた四人の魔導師に対して、明らかに格が落ちるよね」

 アイザックはチャックを糾弾するように人差し指で指す。

「わかる? テューダーやウィローハウスが追いかけてきたのならともかく、ロウ程度なら逃げる必要もないってわけね」

 アイザックはチャックを煽り立てる。アイザックの言葉は、岩の隙間に水が染みこむようにチャックの心の内へと浸食していく。このままならチャックは冷静な判断力を失うはずだったが――

「それがどうかしましたか? 私があのお二方よりも劣っている、その事実が、今ここで貴方を捕縛することと何の関係があるのでしょう? 私は、私のやるべき事をやるのみですよ」

 静かにチャックは魔術書を構える。自分でも驚くくらい冷静だった。少し前までの――そう代筆屋を捕まえることに躍起になっていた頃なら、間違いなく怒りに我を忘れていたことだろう。

 チャックは考える。間違いない。サムと光正との邂逅が、自分を大きく変えた。あの戦いが自分を成長させた。今ここにはなすべき使命がある――全てはそれだけのこと。

「……ふーん。聞いてたのとちょっと違うかなぁ。慇懃無礼な態度の激情家。ちょいとばかしコンプレックスを煽ってやったら、馬鹿みたいに突っ込んでくるかと思っていたんだけどねえ」

「ふっ。少し前までの私なら、そうかもしれませんね。目の前に、無策に貴方に突っ込んでいく私の姿が見えるようですよ。……貴方のという魔導士の得体が知れない以上、じっくりとやらさせていただきます」

 

――ぞわりぞわりと草木が生い茂る薄暗い道。足首までの長さのまるで刃物のような鋭い葉っぱ。旅人は注意深く足を抜き差ししながら進んでいきます。本当はこんな草むらなんか歩きたくはありませんでしたが、近道をしないと日が沈んでしまいますのでしかたありません。ため息をつきながら、こうこぼします。「どうかここにいるカマイタチとかいう怪物に出会いませんように」

 

 刹那、一陣の風がアイザックの足元を吹き上げた。アイザックは「お」とつぶやき、よろめく。見ればズボンの裾がすっぱりと切れてしまっている。

「あらー。ちょっとちょっと、せっかくおじさんおめかししたのに、ツンツルテンにしないでよ、もう。これ直すのめんどうくさいんだからさあ」

 口を尖らせながら、アイザックは左足を持ち上げて、切れたズボンの裾を確認する。

「にしてもさぁ。偉そうなこといっていたわりに、そっから繰り出したのが、このアンタの魔法かい? 悪いけど、おじさんの体には傷一つないんだよねえ。せっかく作ったズボンはおしゃかになっちゃったけど」

 へらへらと笑いながらチャックに視線を向けるアイザック。確かに魔法が起動する速さは大したものだが、それだけだ。表向きは平然としているように見せかけているが、やはり冷静さを欠いて丁寧に言葉を紡ぐことができなくなっているのだろう。

「いちいち魔法を詠む前に、私の目的をお伝えする必要がありますか? 生憎、私は無愛想でとっつきにくい男という評判ですので」

「……どういう意味かなあ? このへなちょこ魔法も、狙いの内だったっていうこと?」

「その通りですよ」

 チャックはアイザックの足元へと視線を向ける。チャックの魔法はアイザックのズボンを切り裂きはしたが、その身に傷を付けることはなかった。冷静に、チャックはその事実を確認する。

「あのフィリップにテューダーさんが敗れたのは、相手に対する情報不足が原因でした。奴の体を普通の人間のものと変わらないと思い込んでしまったために生まれた隙を突かれたのです」

「……つまり、今のはおじさんの体を調べるために放った魔法ってことかな?」

「その通りですよ。そしてわかりました。貴方もフィリップほどではないが、普通の人間よりもはるかに耐久性が高そうですね」

 チャックはアイザックの足元を指さす。綺麗に一本の線を引くように裂かれたズボンの裾と無傷なままの足首。

「ふーん。すぐに熱くなって暴走しやすい性格って聞いていたんだけど、どうもなんかちょっと違うみたいね。けどさぁ、そいつをおじさんにばらしてしまったら、意味なくない?」

「意味ならありますよ。欲しかったのは、時間ですから」

 唇の端だけをのばして、チャックは魔導書に力を込める。

 

――それはなんとも変わった石でした。触れてみるとまるでふわりと降り積もった雪のように柔らかい。ぎゅっと握りしめれば、握りしめた形に変わります。彼は不思議に思って、何度も何度も握り直してみました。そのたびに石は雲のように形を変えていきます。これはおもしろい、彼はそう思って握るだけではなく、石の中に指をめり込ましてみます。そのときでした。彼の指を飲み込んだ瞬間、石は『本当の石』のように固まってしまったのです。彼は慌てて指を抜こうとしましたが、間に合わず、指は石の中に取り込まれてしまいました。

 

「チャック童話、人食いの石」

 チャックが魔法を詠み終わると同時に、アイザックの足元が地中へと沈んでいく。まるで柔らかく降り積もった新雪に上に立ったかのように。

「ちょ。いきなり!」

 突如足元がおぼつかなかったことにうろたえるアイザック。そのまま体勢を崩し、地面に尻餅をつく。そうすると、ズボンに溶けた雪が染みこんでいくように、アイザックの尻が地面へと沈んでいく。

「物理的なダメージを与えて貴方の魔導書を回収させていただく事は、やめまておきました。代わりに貴方の体を拘束させていただいて、その上でじっくり対処させていただきたいと思います」

「いやいや、丁寧な口調で結構とんでもないこと言ってない!」

 なんとか魔導書を持った右腕だけは地面に沈まないようにしながら、アイザックが悲痛な声を上げる。

「……なーんてね」

 

――石は錬金の術をもってして液体を分散媒とした存在へと変わる。分散媒の中で細かく断ち切られた石の分子は水のように流れ、質量が生み出す浮力は彼の体を地表へと押し出した。

 

 アイザックが魔法を詠む。するとチャックの魔法で新雪のようになっていた地面は、さらに液体へと変化し、海に浮かぶ人のごとくアイザックの体を持ち上げる。

 

「ものを変化させる勝負でおじさんと戦おうなんて、ま、十年早いんじゃない?」

 先ほどの焦りは演技だったとばかりにヘラヘラと笑うアイザック。

「生憎ですが、それくらいのことはやってのけると私も思っておりましたよ」

 

――水面に浮かび上がった蛙は、燦々と降り注いでいた太陽の光が、一瞬遮られたと感じました。そして、ほぼ間隔を置かずして、彼の視界は水面を見下ろしていました。蛙には何が起こったかわからない。ただ、昔、父や母が口を酸っぱくしてこう言っていたことを思い出します。水面に顔を出すときは気をつけろ、奴らがそれを狙っている――次に蛙の視界が真っ黒な暗闇に包まれたとき、ようやく気がついたのでした。それは、鳥のくちばしの中だと。

 

「チャック童話、水面を見上げていた蛙」

 チャックが魔法を詠み上げる。それとほぼ同時に空から黒い影が一つ、アイザックに向かって降りていく。それが何かを理解した瞬間、アイザックは思わず悲鳴を上げる。

「ちょ! 何これ、鳥? 大きすぎでしょ、何なの!」

 物語の世界にしか出てこないような怪鳥と呼ぶべき巨大な鳥。そのくちばしにアイザックの体は捕らえられ、空高く昇っていく。

「油断大敵、ですよ。人間、窮地を乗り越えたと思った瞬間が最も無防備なものです」

 チャックは空を見上げる。錬金術を得意とするアイザックではあるが、ろくに物質の存在しない空ではその能力を存分に発揮することはできまい。あとはうまくアイザックの体を振り回し、魔導書を落とさせることができれば――この勝負はチャックの勝ちだ。

 しかし、チャックの安堵はすぐに打ち砕かれた。

 鳥は急に力を失い。二つの羽を閉じて地面へと真っ直ぐに落ちてくる。まるで空に真っ直ぐな一本の線を引くかのように。

「な……空中で錬金術を行った、だと?」

 地面に墜落すると同時に、チャックの召喚した鳥の体が消える。

「あー、いててて。おじさん、思いっきり腰を打っちゃったじゃないのよ。別にスリルとかには飢えていないんだからさあ、まったくもう勘弁して欲しいよねぇ」

 軽口を叩きながら、尻をさすりつつアイザックが立ち上がる。

「空中に錬金術の素材はないはずなのに、って言いたげな顔だねえ」

 アイザックは驚愕しているチャックの表情を横目で見ながら、にやりと笑みを含んでみせる。

「空気中にだって、物質はあるさ。窒素に酸素に二酸化炭素あとはアルゴンやらなんやらかんやら……要は、毒ガスを作り出すのなんて簡単なことなんだよねー」

 アイザックは首を横に振りながら大きく両腕を挙げる。

「つまりは、私もいつでもその毒ガスとやらで倒せると?」

 チャックの問いかけに、アイザックは唇の端を歪ませて首をひねる。

「うーん、とはいえねえ、俺のこの体も人間だからねえ。さっきみたいに密着していて、しかも空気よりも軽いガスだったら影響もあまりないんだけど、この位置からだと下手すれば俺も巻き添えくっちゃうからねえ」

 さすがにそれは間抜けだねえ、と一人で納得した様子でアイザックは頷いている。

「ま、人間の体って脆弱だよね。うちの一号が人体改造にご執心だったのも理解できるよ」

 どこまでが本当の話でどこからがはったりなのか――チャックはアイザックの表情から情報を読み取ろうとするが、うまくいかない。ただはっきりしているのは、目の前にいるこの魔導士が非常に危険な存在である、それだけだ。

「で、どうするの? そろそろあきらめてもらえると、こっちも楽ちんでいいんだけど」

「……確かに貴方は優秀な魔導士です。それは認めましょう。しかし、だからといって、ここで私が白旗を挙げるわけにはいかないのです」

 チャックは魔導書を構えた。そうすると、アイザックが呆れたように大きく息を吐く。

「諦めの悪いことで」

「生憎ですが、諦めが悪いのが私の売りでしてね」

 

――蠅の王様の指揮する軍隊には、蠅が一万匹もいます。一匹一匹は小さな蠅でも、それが一万匹も集まるとどうでしょう! 一糸乱れぬ行進。その姿は大きな斧にも、大きな手にも、そして巨人にも変わるのです。その恐ろしい力に森の動物たちはただ震えることしかできないのでした。

 

「チャック童話、蠅の王!」

 チャックが魔法を唱えると同時に、巨大な影のようなものが現れた。うるさいまでの羽音――アイザックがそれが蠅の巨大な塊であることに気づくまでに時間はかからなかった。

「気持ち悪! 数で押して誤魔化そうってことかい? 甘いねえ、甘い甘い!」

 

――一つは二酸化炭素の結合を切ること。もう一つは窒素の結合を切ること。一つ一つを原子に分解し、全く別の分子へと再構築させる。炭素の輪と窒素でできたその分子構造は、蠅の運動中枢に働きかけ、その動きを麻痺させる。抵抗することも能わず、蠅は一瞬にして皆地に落ちるのだ。

 

「殺虫スプレーってところかな? 安心してね、人体にはそんなに害はないから」

 アイザックが魔導書を大きく振り上げると風が巻きこる。その風に当てられた蠅たちは、砂山を切り崩すように地面へと落ちていく。そして、あっという間にチャックの作り出した巨人は、地面の巨大な染みと化していく。

「しかしまぁ、気持ち悪! おじさんへの精神的ダメージを狙ったの? ひどいなあ、全く」

 地面に落ちて消えていく蠅たちを蔑んだ後、アイザックは視線をチャックの方へと向ける。しかし、そこにチャックの姿はなかった。

「え?」

 意外な状況に驚くアイザック。しかし、その驚きはすぐに物理的な衝撃へと変わった。

「なっ」

 地面がぐるりと回る。いや、己自身が回っているのだ。そう気がついた瞬間、アイザックの体は地面に横たわっていた。

「腕を捉えて相手を投げ飛ばす――日本武術バリツの技です。検閲官が格闘を仕掛けてくるとは、夢にも思いませんでしたか?」

 チャックがアイザックを見下ろしている。チャックの両手はしっかりとアイザックの右腕を極めている。

「使命を全うするためなら手段は選ばない、それが我々検閲官の誇りです。必要とあらば己の魔導書ですら投げ捨てる覚悟、おわかりですか」

「ちっ……やられたねえ。あの蠅はあくまで目くらましだったってことか」

「ええ。それに貴方が毒ガスの話を持ち出して私を牽制してくれたおかげで、貴方の中から『私が接近戦を仕掛ける』という選択肢が消えたのも大きかったです」

「策士策におぼれる、か。いやー、おじさん、かっこわるいねえ」

 この期に及んでもアイザックはへらへらと笑っているが、極められている右手には彼の魔導書がある。

「どれだけ貴方が優秀な魔導士だとしても、魔導書無くしては魔法は発動しません。その腕をへし折ってでも、奪わせていただきますよ」

 腕を折るなどという荒事はしたくはないが、そんな悠長なことを考えていられる状況ではない。チャックは魔導書を奪うべく力を込める、が――

「なぜ、笑っているのです?」

「なぜかって? 自分の予想が当たると、そりゃうれしいでしょ。実はさっきこんなこともあろうかとおもってさ、仕込んでいたんだよねえ」

 アイザックが指さす先には、大きなガラスのボールがあった。それが街頭のように廃墟の壁に掛かっている。

「さっき鳥についばまれていたでしょ? あんときに使った毒ガスの余り……というか、あっちの方が本命かな」

「まさか……あのガラス玉の中身は」

「そう。結構強力な毒ガスだよ。一呼吸で大の大人一人死ぬねぇ。今日は結構風が強いねえ。風が吹いている方角は、ロンドン市街地の方かな? ところでさぁ、あのガラス玉は俺の魔法力で作っているものなんだよねえ」

 チャックは奥歯を噛んだ。今ここでアイザックの魔導書を奪い、魔力の供給を絶ってしまえば――あのガラス玉は消滅する。

 

――その鷹は真っ直ぐに空を飛び、鋭いかぎ爪で相手を捕まえます。捕まえた相手は絶対に離しません。真っ直ぐに、太陽へ向かって真っ直ぐに。彼は捕まえた獲物を運びます。誰にもとられないように、それを太陽の神様へと捧げるために。

 

 チャックが魔法を唱えると同時に一匹の鷹がガラス玉をかぎ爪で掴み、空高く飛び去る。アイザックの先ほどの言葉が正しいとしたら、あの中に詰まっている毒ガスは空気よりも軽い。空高く持ち運んでしまえば、市街地に被害は出ないはずだ。

 しかし、ここでチャックが魔法を詠むということは――

「そうすると思ったよ」

 アイザックがいやらしい笑みを浮かべる。

 

――一握りの土の塊は、同じ重さの金属へと変わる。そしてその切っ先は尖っていき、やがて原子一つ分の大きさへと変わる。この世界で最も鋭い刃物。それが切り裂けぬものはこの世に存在しない。

 

 チャックに隙ができた。その瞬間を逃さずアイザックは魔法を詠む。アイザックが無造作に握った左手の土塊は、ナイフへと変化する。そしてアイザックは一直線にチャックの心臓めがけて、ナイフの切っ先を振る。

「本当に頭が固くて融通が利かない馬鹿だねえ! だからアンタは結局何一つ守れないまま、死ぬんだよ!」

 接近ていることが仇になった。チャックにはナイフを避ける余裕はない。ただぼんやりと他人事のように、視線の先で鈍く光る銀色を見つめている。

 アイザックの言うとおりだ、とチャックは思う。自分は頭が固くて融通が利かない。あの毒ガスを見過ごして、魔導書を奪うのが最適解だったのだ。ここで自分が殺されてしまっては、あの毒ガスを防いだところで、何の意味も無い。しかし、例え百回やり直せたとしても、自分は魔法を詠んであのガラス玉に対処しようとするのだろう。例えいくら頭が固いと嘲笑われようとも、融通が利かないと馬鹿にされようとも。

 ――死から免れ得ぬのなら、せめて差し違えてみせる。

 心臓を刺し貫かれてから一体どれくらい動けるのかはわからないが、それでも魂だけになったとしても、この男から魔導書を奪い去ってみせる。チャックは、目を閉じ来たるべき衝撃に向けて決意を固める。

 しかし、心臓を貫かれる衝撃がチャックに訪れることはなかった。

 

――それはまるで光の速さだった。少年はその軌跡を呆気にとられた表情で見つめる事しかできなかった。そのハヤブサは残像しか残さない速さで、しかし正確に獲物を仕留めていたからだ。

 

「な!」

 呆気にとられるアイザックの声が聞こえる。チャックがゆっくりと目を開くと、アイザックの手にナイフはなかった。

「頭が固くて融通が利かない……全くその通りだと、僕も思うよ。――だから僕はここに現れた」

 冗談だとチャックは思った。聞き覚えがあるけど、もう二度と聞くことはないと思っていた声。心の奥底では、どれほど彼がここにいてくれたら、と思ったことだろう。しかし、それを口に出すことはできなかった。それは絶対に叶えられない希望だったから。そのはずなのに――

「赤星さん!」

 見間違うはずがないあのローブ。そして、巻物状の魔導書。

 そこにあったのは、間違いなく一週間前にロンドンを去ったはずの赤星光正の姿だった。ついに自分がおかしくなって幻をみてしまっているのだろうか、とチャックは思う。しかし、チャックの感覚ははっきりとしており、またアイザックも驚愕の表情を浮かべてちん入者の姿を見つめている。

「どうして、貴方がここに……日本へと発ったはずでは」

 確かにチャックは光正がロンドンを去るのを見送った。ここにいるはずがないのだ。

「驚かせるつもりはなかったんだけどね。確かに僕はイギリスを去って、船の上にいたんだけど」

 光正は懐から一枚の紙を出す。

「ウィローハウスさんから連絡が来たんだ。『まだアカシックレコードの行方がわからない。チャックを助けて欲しい』ってね」

「な……ウィローハウスさん、あの人は全く……貴方は無関係だというのに」

「そうやってチャックに怒られるから、自分の名前は出さないで欲しい、とも書いてあったよ」

 ばらしちゃったけどね、と悪戯っぽく光正は笑う。

「ロンドンまで戻って来たのはついさっきだったんだけど――間に合ってよかった。出迎えに来るはずのウィローハウスさんがいなくて、代わりに彼の魔法が僕を待っていたからね」

「全く……あの人は」

 あふれ出そうになる感情をチャックは必死に押しとどめる。まだだ。まだ何も解決していないのだから。

「それに、関係ないなんて言うなよ。この街は万次郎が愛した街――僕にとっても大切な人たちが暮らす街。その危機を救うためなら、例え地球の裏側からだって駆けつけてみせるさ」

「赤星さん……ご迷惑をおかけします」

「そういうところが頭が固いって言われるんだよ」

 変わらないチャックの姿に光正は笑いかける。

「こういうときは、ありがとう、だけでいいんだ」

「――ありがとうございます」

 そして、チャックと光正の視線はアイザックへと向けられる。彼からは結局魔導書を奪うことはできていない。まだ戦いは続いているのだ。

「赤星さん、この男を拘束するのに、力をお貸しいただけないでしょうか」

「わかったよ。チャックをここまで追い詰める魔導士だ、相当な手練れだね」

 アイザックを挟みながら、二人は魔導書を構える。光正の登場から後、何かを考えるようにじっと目を閉じている姿が不気味だ。何かを仕掛けてくるのかもしれない。そう二人が息を呑んだ瞬間――

「やーめた! 降参!」

 地面に胡座をかいたままアイザックは両腕を大きく振り上げた。

「な! 降参、ですと」

 チャックが驚きを隠せずに問い返した。

「そ、降参! だってさあ、腕利きの魔導士相手に二対一なんて勝ち目がなさすぎるでしょ。もともと別にアンタを殺したかったわけでもないし、命を賭けてまで戦う理由もないしね。なんで、降参。やめました。いやー、ほんともうウィローハウスって最悪の魔導士って言われるだけあるよねえ。おじさん、いやんなっちゃう」

 あっさりと掌を返したアイザックの様子にチャックと光正は拍子抜けする。

「信じられないなら、あげるよ、これ」

 ぽいっとアイザックはチャックへと魔導書を投げてよこす。意表を突かれたチャックは慌ててそれを受け取める。

「さー、おじさんはこれで丸腰だよ。丸腰相手に手荒な真似なんて誇り高い検閲官はしないよね?」

「……貴方はいったいなんなのです? いい加減な」

 ため息をつきつつも、チャックは安堵する。チャックと光正の二人相手に勝ち目がないと諦めるのは、至極当然の判断と言えるだろう。

「まぁ、いいでしょう。厄介なのは、魔導士の魔法を封じるデイブの方ですが、テューダーさんとウィローハウスさんならきっと彼を打ち倒せるはず」

 チャックは拳を握りしめる。アイザックとデイブ、この二人の魔導士を倒したとなればほぼ勝利を手中に収めたと考えていいはずだ。

「……あのさあ、おじさん負けちゃったからいいこと教えてあげるけど」

 教師に意見する小学生のように右手を小さく挙げながらアイザックがチャックに話しかける。

「アンタの言う、言葉や動きを奪ったりした魔導士って、デイブじゃないよ」

「え?」

 アイザックの告白にチャックは目を丸くする。ならば、あれはアイザックの仕業だったというのか。

「ついでに言っておくと俺でもないからね」

 しかし、そんなチャックの考えを見透かしたのか、アイザックは自分であることも否定した。

「チャック、僕には話が見えないんだけど、他にも魔導士がいるのかい? それもチャックが最大限警戒しなくちゃいけないような」

 光正に尋ねられて、チャックは頷く。体の自由を奪う――あれは間違いなく魔法だった。しかし、それを行ったのはアイザックでもデイブでもないということは?

「まさか、本当に危険なのは」

 チャックは三手に別れたときを思い返す。

――相手が魔導士ではないのなら、俺でもなんとかなるだろう。

「赤星さん! レイン警部補が、レイン警部補が危ない!」

 

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