So Long, Lonesome ~追憶の言葉~ 作:けんごち
風に吹かれるゴミのようにロンドン市街を当てもなくさまよっている。
肌を裂くような寒さを、ツイードのコートとカシミヤのマフラーでやり過ごし、ただ足だけを動かして歩き続けていた。あてがわれた大学の寮は実家の百分の一ほどの広さもなかったが、それでも俺はそこに自分の居場所を見つけることはできなかった。それは鳥かご――いやゴミ箱に近いものだったのかもしれない。このまま追放されるように送られたロンドンの大学を卒業して、俺は親の伝手でロンドンのどこかで就職して、そのまま朽ち果てていくのだろう。
特にこれといってやりたいことがあったわけではない。けれども、そんな風に家の思惑だけで生かされることだけはいやだった。気がつけば、俺は寮を飛び出し、そしてロンドンの街を人の波に呑まれながら漂っている。
どれくらいの時間、どれくらいの距離を歩いたかわからないが、気がつけば俺は一軒の店の前で足を止めていた。
「スイートピー、か」
鉢植えの中に一つだけぽつねんと咲いた花を見て呟いた。名家連中の気取った嗜みとして、俺も一通り花言葉の類いは教えられていた。スイートピーの花言葉は、『門出』そして『別れ』。どこにも行けないまま、未だに家に縛り付けれられている俺にはただまぶしい。
たった一輪、そこに咲いているだけの花。人によっては寂しいとも言うだろう。しかし、俺はたった一人でも生きているその姿に、気高さと強さと、そして憧れを感じた。あの家にいたときは、花を愛でる気持ちなど全く湧かず、むせかえるような匂いと花粉に辟易していたというのに。
豪奢さのかけらもない。素焼きの鉢に無造作に一本だけある花になぜか妙に親近感を覚えた。見渡してみれば、この花屋自体がどうも垢抜けない。だが、その飾り気のなさがなぜか妙に心地よい。
行く宛てもないから、俺はずっと一輪の花を見つめていた。不思議と自分がこの世界にいてもいいような気がして、ただなんとなく、馬鹿みたいに同じ花を見つめていた。
「気に入ってくれたかい?」
不意に後ろから声をかけられて、俺は慌てて振り返る。そこにはニコニコと人なつこく笑う髪の長い男性がいた。その男の服装を見て、彼がこの店の人間であることにすぐ気づく。
どれくらいの時間俺はそこに突っ立っていたのだろうか。気がつけば陽が傾いていた。そろそろ店じまいをするから、いつまでたっても買う気配も見せず突っ立っているだけの邪魔な客に声を掛けてきたのだろうか?
「あ、すいません……邪魔しました」
「え? どうして謝るんだい?」
ばつが悪い気分で謝る俺に、その人は全く理解できないとばかりに目を大きく開いた。
「え。いや、だって、ここは花屋で、俺みたいなのが店先に突っ立っていたら邪魔になるだろうし」
「おかしなことを言うなぁ、君は!」
男は腹を抱えて俺の発言を笑った。怒られたりするよりかはいいかもしれないが、笑われるのもまた気分が悪い。
「あぁ、ごめんごめん。馬鹿にしたわけじゃないよ」
男は俺に謝罪してくる。しかし、笑いながらだから今一深刻さにかける。なんだか俺一人が馬鹿みたいだ。
「最初はただの冷やかしかと思ったんだけど、君が不慣れな私が植えた花を熱心に見てくれていることに気がついてね。うれしかったから、ついつい声をかけたのさ」
「うれしかった?」
「そう。自分のした仕事を認めてもらえるのはうれしいものさ」
男の笑顔を不信感をもって俺は見つめる。
「別に認めたとか、そんなんじゃなくて、俺はただなんとなく」
「それがいいんじゃないか!」
男は気安く俺の背中をばんばんと叩いてくる。思ったより力が強くて、地味に痛い。
「よかったら、差し上げようか?」
男がスイートピーが一輪だけ植わった鉢植えを指さす。
「え? いや、でも……俺は、その」
――ないんです。俺には、この花を置ける家が。
続く言葉を声にすることはできなかった。俺はただうつむく。あの寮の部屋も俺のものではない。親にあてがわれただけの空間。俺は囚人のようなものだ。
「お金なら心配しなくてもいいさ。それとも――場所の問題かい?」
この時はじめて、目の前にいる男が聡いことを悟った。俺の表情と答えから、俺の置かれている状況を察し始めている。
「いや、別に、あの、その」
どう言えば墓穴を掘らずにすむか。そんなことばかり考えている自分が嫌になる。
「あの、この花、見ていられればそれでいいんで。別に、その、邪魔はしないですし」
そう答えるのが精一杯だった。俺が求めるものはそれだけだ。
しかし、目の前の男は何かを考える仕草をした。そして、こう切り出す。
「君。よかったらウチで働かないかい?」
「え?」
予想外の提案に俺は問い返してしまった。一体、どういう思考経路を通ってその結論に達したのか、俺には理解できない。
「帰る場所がなかったり帰りづらかったりするのならさ、この店で寝泊まりしてくれたらいいよ。私は夜は店を閉めて家に帰っているからねえ、誰かが店の中にいてくれるほうが防犯上もいいかもしれない」
「いやいや! 何を言っているんですか! 見ず知らずの風来坊を店に住み込みなんて!」
「いやーお恥ずかしながら、見ての通り閑古鳥が鳴いている状況なので、給料は期待しないで欲しいんだけどねえ」
「いや、給料の話なんてしてないですよ! 気楽にとんでもない話をしてますよ!」
「そう?」
男はすっとぼけた様子で笑ってみせる。
「別にいつまでもいて欲しいというわけじゃないよ。君の気が済むまでの間でいい。もちろん強制はしないけれども――遠慮はしないで欲しいかな」
うまい話には裏がある――うちの親父が散々に俺たち子供に言って聞かせたことだった。曰く、隙を見せて足元を掬われるなよ、と。うまい話なんてものはおとぎ話だと思っていればいい、と。
「意味がわからないですよ。俺がもし泥棒だったらどうするんです?」
「だとしたら、ご期待に応えられるようなものがない店で申し訳ないね」
男は冗談めかしてみせる。そうじゃない。
「違う。アンタが俺によくしてくれる理由がわからない!」
「理由、か。私もあの鉢植えが好きだから、じゃだめかい?」
「理由になっていない! ごまかさないでくれ!」
「ごまかしてなどいないよ」
男は笑顔を引っ込めて、そして言い含めるように落ち着いた声で俺に語りかける。
「そうだな――きっと君と一緒に働いたら楽しそうだな、って思ったからさ。それだけだよ」
「それだけ? それだけでアンタはこんな得体の知れない人間を店に住み込みで働かせるっていうのかい?」
「……君が自分の事をどう思っているかまではわからないけど、君が悪人でないことだけははっきりとわかっているよ。善良な――悪く言えば臆病な人間だね。人を傷つけることなんてできやしない」
言い返すことができなかった。確かに俺は臆病な人間だ。あの家に反抗することもできず、ただやさぐれて、このロンドンの街をさまよっている。どこにも――俺のどこにも勇気と呼べるものはなかった。
「まぁ、そんなこんな理由はつけてみたけどさ――」
男は先ほどまで俺が見つめていた鉢植えを指さす。
「そのスイートピーの花言葉、知っているかい?」
俺は頷く。そうすると男はうれしそうに微笑んだ。
「スイートピーの花言葉は旅立ち、別離――なんとなくその鉢植えを君にあげてしまったら、そのまま会えなくなってしまうような気がしてね。だから、呼び止めてみた」
心の中にある何か固いものが溶けていく気がした。あぁ、この人は嘘を言っていない――なぜかそんなことに確信を持ち始めていた。
「ずいぶんとロマンチックなことを言うもんですね」
思わず茶化してしまう。しかし、男はひらりと笑ってかわす。
「職業柄ロマンチックでないといけないのさ」
あぁ、そうか、花屋だもんな、と俺は納得する。鉢植えの技術もないし、正直どうかと思っていたけど、立派に花屋なのか。
「わかった。いいよ。俺も――面白そうだと思う」
いいんだ。どうせあの寮に俺が帰られなくても、もしも俺がいなくなったとしても、あの家はきっとほっとするだけだろうから。
「よかった。なら、まだ陽があるうちに中の片付けをしよう」
男は笑いながら、店の中へと俺を促す。
「それはいいけど――俺たち、まだお互いの名前も知らない」
「あ、そういえばそうだったね」
男は愉快で仕方がないという風に笑った。
まったくもってして滅茶苦茶だ。名前も知らないただ店の商品を熱心に眺めていただけの人間を住み込みで雇うなんて。
「一応俺から自己紹介いいですか。俺は、リチャード。リチャード・スチュアートっていいます」
「よろしくリチャード。私はジョナサン・ワイルダー。この花屋のアルバイトだよ」
「よろしく、ワイルダーさん、って、アルバイト!」
思わずうわずった変な声を出してしまった。
「いや、え? 俺を住み込みで雇うとかえらそうなこといいながら、アンタアルバイトだったのかよ!」
「あぁ、そうだよ」
男――ワイルダーさんはまったく悪びれずに答える。まともな人かと思っていたけど、案外やばいくらいにいい加減な人なのかも知れない。雇われている身のくせに勝手に俺なんかを住まわせるなんて!
「そ、そんなの、大問題でしょ」
「いや、まったく問題ないよ」
そう言って、ワイルダーさんは自慢するように自分の店へ向かって両手を広げてみせる。
「なんてったって、このお店のオーナーは私の妻だからね」