So Long, Lonesome ~追憶の言葉~ 作:けんごち
ロンドンからオックスフォードまで約六十マイル。馬車で移動すれば二日がかりの旅になる距離だが、鉄道ならば一日で移動できる。最も、それは何のトラブルもなく列車が運行された場合であるが。
俺は一人ロンドンのバディントン駅から列車に乗り、ここオックスフォードへとやって来た。オックスフォードを選んだことに特別な理由があったわけではないが、なんとなく一度来てみたいな、と思っていた場所である。
オックスフォード大学という名門大学があるが、うちの家の連中は基本的に地元のエジンバラ大学へと進学するので、親戚連中と顔を合わせる機会も少ないと判断したのも大きい。
はじめてこの地に降り立ったときは、大都会ロンドンとはまた違う街の雰囲気に圧倒された。さすがは学問の都市だと感心したものだ。しかし、そんなお上りさん気分も一週間も滞在すればすっかりと消え失せる。
「やぁ、リッチー、今日は仕事は休みかい?」
「おはようございます、大家さん。ええ、休みなんで、ちょっと街をぶらつこうかと」
玄関のドアを開けてアパートから出ようとしたときに大家さんに声を掛けられた。この恰幅のいい女性は、今俺がお世話になっている雑貨店オーナーの奥さんで、何の当てもなくオックスフォードまでやって来た俺を住み込みに近い形で雇ってくれたのだ。
「街で女の子でも引っかけるのかい?」
大家さんは含んだ笑みを浮かべる。品がないというか、なんと言うか――まぁ、下町のおばちゃんだなぁ、と思う。
「そんなことしないですよ」
「そうかい? けどリッチーは見た目がいいからねえ。女の子の方が放っておかないよ」
「勘弁してくださいよ」
俺は苦笑いを浮かべながら降参とばかりに両手を挙げる。どうにもこういう雑談は不慣れだ。
思えば、今の店に雇われたのも、顔がいいし仕草も洗練されている、というのが理由だった。実家でいやいやながらもたたき込まれたマナーやらなんやらが、実家を出奔してから役に立っているというのはまた皮肉な話だ。
「昼ご飯はどうする?」
「なんか適当に街で食べてきます」
「アンタ、うちの安月給で無駄遣いしてたら、すぐなくなっちゃうよ!」
冗談とも本気ともとれない。ここで、なら給料上げてくださいよ、と返せたらいいのだろうが、俺は曖昧に表情を崩しながら手を振るだけだ。
「気をつけて行って来な。うちの看板娘になりそうなかわいい女の子に声を掛けられたら連れて帰っておいで」
「だから、そんなことしませんって」
冗談を交わしながら、俺は休日のオックスフォードの街へと出る。
*
ワイルダーさんの店が閉店してから、六ヶ月経った。彼が、アルバイト代、と言って渡してくれた俺の仕事ぶりに見合わない高い給料のおかげで、オックスフォードまでの交通費が賄えた上に、落ち着いて仕事を探すこともできた。
近況を手紙で送っていたが、最初の方はマメに返ってきていた返信も、最近ではなしのつぶてとなっている。まぁ、それだけ赤ちゃんが生まれて忙しいということだろう。俺の方も、特になんという出来事もない日々を過ごしているので、手紙を書くことも少なくなってきた。
オックスフォードは学問の街と言われるだけあって、本屋が多い。ワイルダーさんが作家であると聞いてから、なんとなく本屋にある本を確認するくせがついた。ワイルダーさんの本を見つけると、なんとなくうれしくて、ワイルダーさんが元気にしている様子が感じられてほっとする。
今日も本屋巡りをしようと俺はいつもの巡回ルートに入った。そして、二件目の本屋さんで、ワイルダーさんの本を手に取っている客を見つけた。
俺が作家としてのワイルダーさんの何というわけではないのだが、気になる。そっと足音を忍ばせながら、その人の横に立ってみた。そして横目でチラリと顔をのぞき込む。
なんというか、すごく整った顔立ちだな――
同じ男の俺ですら、思わず見とれてしまった。ヘアバンドで髪をまとめていて、涼しげな目元が印象的だ。まるで創作の世界からそのまま飛び出してきたような、そんな印象を与える。
彼は流れるように本のページをめくっていく。本当にそれで読んでいるのか、と思ったが、彼の視線は確実に全てのページを捉えていることは見て取れる。すごい集中力だ。
「……何か?」
つい近づきすぎてしまったか、不意に男から声を掛けられてしまった。男はパタン、と開いていたワイルダーさんの本を閉じる。立ち読みを咎めにきた店員と勘違いされてしまったか。
「あ……いや、えと……その本、買うのかなって」
男に声を掛けられたことに面食らった俺は、的外れな質問で返した。
男は不審がる様子もなくじっと俺を見つめる。
「あいにくだが、もう持ち合わせがないんだ」
男はそう答えた。男の婉曲的な拒絶に、俺は肩を落とす。
「勘違いするな。その場しのぎの嘘を言っているわけではない」
男は俺の考えを見抜いたのか、足元に置いてある肩下げ鞄を指さした。決して小さくはない鞄にぎっちりと本が詰まっている。肩に食い込むくらいの重量感だ。
「これ……全部アンタの買った本なのか?」
「せっかくオックスフォードに来たのだから、と散財しすぎてしまった。給料のほとんどをつぎ込んでしまったよ」
男は、ふぅ、と短く息を吐く。確かにこれだけ本を買えば、相当の金額になるだろう。
「オックスフォードに来たのだから、ってアンタ地元の人じゃないのか」
「あぁ。休暇を利用してロンドンから来た」
「わざわざロンドンから!」
驚いた。本を買うためにだけにわざわざここまで来る物好きがいたもんだ。
「往復の交通費だって馬鹿にならないだろうに」
「あぁ。そう思って、ここまで歩いてきたよ」
「歩いてきたのかよ!」
ロンドンからオックスフォードまで、一日で歩ける距離じゃないぞ。
「でも、帰りはさすがに汽車で帰るんだろう?」
俺は異様に膨れ上がった男の鞄を指さす。本の買いすぎで、まるで岩のような重量感を放っている。
「あいにくだが、そんな金はない。休暇はまだある。のんびりと歩いて帰るさ」
「歩いて帰るさ、ってこんなんを担いで歩くのかよ……」
目の前にいる男。儚げな見た目の割には、相当体力があるのかもしれない。俺なら、これを担いでアパートに帰るだけでもごめんだ。
「そういうわけで手持ちはないのだが、本は好きなのでな。こうして本屋巡りをしては、気になった本を試し読みしている。図書館にはない本もたくさんあるからな」
確かにこんだけの量を買うんなら、そりゃ相当に本好きだろうな……。
「そうか……あ、あのさ」
そのとき俺は何を思ったのか、普段の俺なら考えられない提案をしてしまう。
「手持ちがないっていうんなら、俺がおごってやるよ。その本を買うお金」
何を言い出しているのだろうか。確かに雑貨屋で働いて数ヶ月。決して多くはない給料だが、本一冊分くらいの蓄えはある。それに俺が払ったお金の一部がワイルダーさんの懐に行くのなら、それはそれで構わないとすら思ってしまった。
男は俺の真意を推し量るかのように、俺をじっと見つめる。
「……残念だが、これは俺に向けられた内容ではない」
「そう……か」
彼の拒絶にあからさまに肩を落としてしまう。目の前にいる本の虫にワイルダーさんの本が否定されたという事実が重い。
「勘違いするな。俺に向けられたものではないと言ったが、この本の内容が悪いとは言っていない」
そんな俺の様子を見て、男は再び口を開いた。
「この本は――子供に向けて書かれている。想像力は、物語の母だ。そして子供の想像力は、俺たち大人よりもはるかに豊かだ」
男はワイルダーさんの本の背表紙を指さす。
「恐怖と想像力の距離はとても近い。子供は暗闇に目には見えない何かの姿を見いだす。自分の目の届かない世界に想像力を働かせる。それがどこか遠い場所であったとしても、この世界に存在しない場所であったとしても」
男は続ける。
「この本を読んだとき、明らかに作者は子供へ向けてこの物語を作ったことが伝わってきた。だから――その金でその本を誰かに贈るというのなら、その相手は俺ではない。もし今お前がこの本を買うというのなら、いつかお前が心からこの本を贈りたいと思う子供に会ったときのためにとっておけ」
言葉はぶっきらぼうだが、優しい。彼の本を愛する気持ちが溢れている。
「子供のための、本」
俺は男の言葉を繰り返す。ワイルダーさんが、誰に読んでもらいたくてこの本を書いたか――その答えはわかりきっている。
「そうだな……そういうのも、いいかもな」
俺は財布を取り出すと、なけなしの貯金から奮発する覚悟を決めた。