So Long, Lonesome ~追憶の言葉~   作:けんごち

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第二十話

 ロンドンのパディントン駅に降り立つ。パディントン駅から発車するホームは人で溢れかえっているものの、ロンドン行きの列車には回送列車と勘違いするくらい人がいなかった。

 1888年から始まった連続殺人事件。未だに犯人は逮捕されておらず、新聞で伝え聞く限りでは、その犯行は凄惨さを増していっているらしい。おかげで、パディントン駅からロンドンを発つ人々には、旅行者然とした明るさは全くなく、まるで戦場から逃れる難民のようだ。

 人の波に逆らいながら、俺は歩く。この時期にロンドンに降り立った俺を行き交う人々に奇異の目で見るかと思ったが、彼らにはそんな余裕もないらしい。

 駅舎を出る。往来を行く人々の数は、俺がロンドンを発ったときの半分くらいだ。これでもまだ人が多い方らしく、日が沈めば街からは人っ子一人いなくなるらしい。

「急がないとな」

 俺は一人呟いて、懐から一通の手紙を出す。直接訪れたことはないが、住所さえわかっていればたどり着けるはずだ。

 俺は往来へと飛び出し、早歩きで目的地へと向かう。

 

  *

 

 かつて俺が働いていた花屋は雑貨店になっていた。ワイルダーさんが言っていたとおり、俺がロンドンを発ってすぐに完全に店を閉めたらしい。雑貨店になったことは、最初の方の手紙で伝え聞いていたが、店を売ったのか、それとも貸し出しているのかまではわからない。そもそもワイルダーさんからそんな話を聞いたことがなかった。

 まぁ、いいだろう。人の懐具合を探るような真似はよくない。

 ここまで来る途中で見かけた本屋で、ワイルダーさんの本が平積みされていた。手紙の返事はなくとも、新刊が出ているのを見れば元気でやっているのがわかるのは作家ならではだろう。ただ、最近のワイルダーさんの作風が大きく変わったのは気になるところではあるが。

 ここ一年ほどロンドンを騒がしている連続殺人事件、そして夜な夜な目撃されるようになった怪物騒動。ワイルダーさんの新刊は、物語というよりもその事件を取材したルポルタージュに近い。確かに人々に恐怖を与えるホラー作家の面目躍如といった作品ではあるのだが――どうにも悪戯に恐怖を煽るだけで、これまでのワイルダーさんの作品になった未知のものへの想像力を駆り立てられるようなものではない。

――まぁ、こんなご時世だからベストセラーにはなっているけどな。

 そんなことを思いながら、俺は懐から一冊の本を取り出す。オックスフォードの本屋で買ったワイルダーさんの小説だ。いつかお前が心からこの本を贈りたいと思う子供に会ったときのためにとっておけ――あのとき出会った不思議な男の言葉。

 これを贈ったら、ワイルダーさんはどんな反応をするだろう?

 ありがたいけど、どうして私の本なんだい――そうワイルダーさんは笑うかな?

 残念。その本は売るほど持っているよ――そう冗談を返してくるかな?

 そんな反応をするかな? でもどんな反応でもいいな。

 もしくは笑いながら、こう言うかな。

――まだ歩けもしないうちの子には早すぎるよ、リチャード。

 そう、赤ちゃんを抱きしめながら幸せそうな笑顔で。

 

 

 パディントン駅からおよそ三マイル、徒歩にして一時間の距離を南のテムズ川へと向かって歩く。そろそろ近くに来ているはずだ、と俺はコートのポケットから手紙を取り出す。タイト通り三十四番地――テムズ川にほど近いこの場所にワイルダーさんの家があるはずだ。

 手紙の住所と実際の街を確認しながら歩く。もうすぐだ。もうすぐワイルダーさんに会える。

 そう思っていた俺の目の前に奇妙な光景が飛び込んできた。真っ昼間の住宅地をせわしなく動く多くの男たち。殺気立った雰囲気からは、何事か起こったことが察せられる。

 彼らがどこの家に出入りしているのか――それに気づいた瞬間、俺は駆け出していた。「おい!」

 家の真ん前で陣頭指揮をしている男に俺は声を掛けた。

「あん?」

 そうすると男が俺の方を振り向いた。三白眼気味の目にサメを思わせるキザ付いた歯――人相の悪さとこの男を包む鋭い空気から堅気の人間でないことが察せられる。普段の俺なら、こんな男とは絶対に関わり合わないところだが、その男が立っているのが――ワイルダーさんの家の前だとしたら話は別だ。

「アンタ、この家で一体何をやっているんだ! どこのチンピラだ! イーストエンドロンドンのDとかいう奴の手下か!」

 鞄を地面に置き、俺は男の胸ぐらを掴む。そうすると、ワイルダーさんの家からぞろぞろと男の仲間達が出てきた。圧倒的多勢に無勢。だが、何もしないわけにはいかなかった。

「ちょ、ちょっと待て。何なんだ、お前は」

 俺に胸ぐらをつかまれた男は、怯えるというより驚いたという表情で俺を見る。

「訊いているのは俺だ! アンタの方こそ何者なんだよ!」

 俺が言うと、男が呆れたように視線を上に上げた。そして、手を離せ、と俺にジェスチャーを送ってくる。なんとなくその仕草に毒気を抜かれた俺が手を離すと、男は服装を整えながら名乗る。

「俺はロンドン警察の警察官だ。今日未明に俺のボスからジョナサン・ワイルダーの家宅捜索を行うように指示があって、それでここにいる」

「……アンタ、警察官、なのか?」

 驚く俺に、相手の男は懐から身分証を取り出し見せる。

「まぁ、この人相のおかげでチンピラに間違われるのは慣れているけどな」

 男は俺が納得したのを見届けて、身分証を懐にしまう。

「……悪かった。勘違いで。だけど、アンタらはここで何をしているんだ? 家宅捜索って、どういうことだよ?」

「守秘義務だ、と言いたいところだけど、俺も事情はわからねえ。何せ、朝一で指示を出したボスはそのまま慌ただしくどっかへ行っちまったしな。何かはあったんだと思うが」

「何かって……何があったんだよ!」

 俺は警察官の肩を掴む。彼がマフィアのチンピラでなかったとしても、ワイルダーさんの身に何かが起こっているという事実に変わりはない。

「そこまでは知らねえよ。事件の重要参考人だということしか聞いてねえ。けど、このジョナサン・ワイルダーは例の怪物事件を夜な夜な調べていたという話し出しな」

 そこまで言って警察官は口をつぐむ。わかっている。その先の言葉は言わなくとも。

「……ワイルダーさんが怪物事件に巻き込まれた可能性があるって」

 俺だって、頭では理解できる。状況から考えて、十二分に起こりうることだ。しかし、感情が追いつかない。どういうことだ? なんでだ? 何があった?

「そうだ! アンタ、ワイルダーさんには家族がいるだろう!」

「家族?」

「あぁ! 奥さんと、まだ一歳にもならない子供がいるはずだ! その人達はどうなっているんだよ!」

 俺の質問に警察官はきょとんとした表情をしている。

 何をやっているんだ、使えない奴だな! 俺の中で焦りと憤りが激しく膨れ上がっていく。

「このジョナサン・ワイルダーという男に家族はいない。一人でこの家で暮らしていたんだ」

「な……」

 警察官の返答に、理解が追いつかなかった。家族は、いない?

「馬鹿を言え。家族がいないわけが」

 ワイルダーさんが俺に嘘をついていた? いや、そんなわけはない。そもそも俺にそんな嘘をつく意味がない。なら、目の前の警察官が嘘をついている? いや、しかし、この男にもそんな嘘をつく理由がない。

 もしかしたら、ここ一年で治安が急激に悪化したロンドンからどこか別の街へと避難しているのだろうか? その可能性なら十分にあり得るし、ならこの家でワイルダーさんは一人暮らしだ。何より俺がロンドンに戻ってきたのも――連日殺人事件が起こる街で暮らすワイルダーさん一家が心配になったからだ。

「そうか……ワイルダーさんの家族はきっとどこか別の場所に避難しているんだ」

 自分自身を納得させるように呟いた。しかし、その言葉を聞いた警察官は顔をしかめる。

「いや、そのことについてだが――」

 男は言葉を選ぶように沈黙する。何だ。何が言いたいんだ。

「うちのボスからの情報だ。ジョナサン・ワイルダーは天涯孤独の身だ。妻とは死別している」

 頭の中をハンマーで殴られたような気がした。鈍い音が響き続けている。何を言っているのか理解できても、心が全く受け付けない。

「そんなの……何かの間違いだろ?」

「悪ぃな。うちのボスは――そんなヘマをやらかす人じゃねえ」

 警察官は申し訳なさそうに言った。

 馬鹿な。わけがわからない。何が起こっていたんだ。俺がロンドンから離れた後に。

「お前もジョナサン・ワイルダーの知り合いだっていうんなら、一度警察署に戻って話を――」

 警察官が俺に伸ばしてきた手を振り払う。そして、俺は走り出す。

「お、おい!」

 警察官は俺を呼び止めるが、止まるものか。のんびりと警察署でお前ら相手に話をしている場合ではない。確かめないといけないんだ、俺は! この街で――俺がロンドンを発った後で、ワイルダーさん達に何が起こったのかを。

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