So Long, Lonesome ~追憶の言葉~ 作:けんごち
俺はロンドンの街を走って、手当たり次第に病院を訪ねて回った。あの人相の悪い警察官の言ったことなど信じられない。自分の足で、自分の目で確かめなくては。
しかし、成果は芳しいものではなかった。尋ねても、心当たりがない、と言われるのはマシな方で、門前払いされることも多かった。それでも俺は諦めるわけにはいかない。
建築中のビッグベンの隣を走り抜け、テムズ川を渡る。このロンドンで最も大きな病院の一つ、セントトーマス病院。ワイルダーさんたちがこの病院にかかっていた可能性は、低くはないはずだ。
ワイルダーさん夫婦は天涯孤独の身で、頼れる親戚もいないと言っていた。だから、彼らの身に何かあったとしたら、必ずロンドン市内の病院を訪れているはずだ。
門をくぐり、受付の女性に向かって真っ直ぐに駈け寄る。場所柄、俺のようにすっ飛んで来る人間も特に不審に思われることはなかった。
「急患ですか?」
受付の女性に尋ねられて俺は首を横に振る。呼吸を整えながら、口を開く。
「……違う。人を探して……いや、この病院で診療した患者について教えて欲しいんだ」
「はぁ」
受付の女性はきょとんとした表情で俺を見る。
「ワイルダー。ジョナサン・ワイルダーという人かその家族が、この病院にかかっていたりしなかったか?」
俺はワイルダーさんの奥さんの名前を知らない。だから、こんなもどかしい尋ね方になってしまう。
「ワイルダーさん、ですか?」
受付の女性は首をひねる。そりゃさすがに訪れた全ての人の名前を覚えているわけはないだろう。だから、早くカルテを確認してくれ。
「すみませんが、貴方はそのワイルダーさんとどんな関係で?」
「そんなことどうでもいいだろ! とにかく教えてくれ!」
だから、早く。
「すみません。ご家族でない方に情報を開示するのは」
「なんでもいい! ワイルダーという人物がこの病院に来たのかどうなのか、それを教えてくれ!」
焦りから俺は叫ぶ。受付の女性がびくりと肩をふるわせたが、そんなことを気にしている余裕はない。
「あまり大声は」
「ワイルダーという人がこの病院にかかっていたかどうかを教えてくれるだけでいいんだ!」
たしなめられるのにも構わず、俺は再び叫ぶ。のんびりと交渉をしている余裕なんてない。
「おい。ここは病院だ。静かにしろ。さもなくばつまみ出すぞ」
襟を引かれ、体が後ろへ下がった。俺は慌てて後ろを振り返る。そこには眼鏡を掛けた若い医者がいた。その瞳が冷徹な光を放っている。
「……すみません。けど、知りたい、いや知らなくてはならないんだ。アンタ、ジョナサン・ワイルダーという人を知らないか?」
俺はその医者にも尋ねた。そうすると男は目を眇めて俺を見る。
「君は、医師には守秘義務があるということを知らないのか? どういう事情があろうと第三者にべらべらと患者の情報を開示するわけにはいかない」
医者はとりつく島もない様子で俺の要求を断った。
「それだけ大きな声を出せるなら、十分に健康体のようだな。なら、さっさと帰れ。ここは君がいるべき場所ではない」
医者は俺の手を振り払うとすたすたと歩き出す。しかし、その反応で俺は確信する。
「アンタ、ジョナサン・ワイルダーを知っているな」
「うるさいぞ、さっさと帰れ」
「いいや。帰らない」
俺は立ち去ろうとする医者の後を追う。
「アンタみたいな性格の人間なら、もしジョナサン・ワイルダーという人物に心当たりがないなら、そんな人物は知らないと一言言って終わるはずだ。でも、アンタはそう言わなかった。ってことは、アンタはジョナサン・ワイルダーという人物を知っているということだ」
「ふん。ずいぶん乱暴な推論だな」
「やっぱり否定しないんだな?」
「僕が例え何かを知っていたとして、なぜ君にそれを教える必要がある?」
医者は素っ気なく俺の手を振り払う。
「そもそも君は何なんだ? 患者の家族でもない君がなぜそんなことを知りたがる?」
医者は立ち止まり、俺の目を見つめる。その瞳は、納得できない理由ならば絶対に口を割らない、という強い意志を示していた。
俺は立ち止まり息を飲み込む。俺は何か? ジョナサン・ワイルダーという男にとって、俺は何なのか――
「俺は――友人だ。ジョナサン・ワイルダーの友人なんだ」
こんなことを言うのはおこがましいかもしれないけど、俺はあの人を友人だと思っている。例えあの人が俺のことをただの哀れな行き場のない男程度にしか思っていないとしても。
「……繰り返すが、僕は医者として患者のプライバシーについて喋ることはできない」
医者は背を翻し、拒否を繰り返す。その背中に俺は絶望を感じた。俺はもう届かない。このロンドンの街でワイルダーさんに何があったのか、それを知ることはない。
「だが、医者としてではなく、一人の人間としてなら話してやる。僕と関わったジョナサン・ワイルダーという男についてな」
男は再び振り返ると、顎の先で外へ出ろ、と俺に指示をした。
*
「時間が惜しい。僕は暇じゃないんだ」
言いながら医者は病院を出てすぐの場所にあるベンチに腰掛ける。
「さっさと座れ。君は人を見下ろしながら話を聞く気か?」
「あ、はい」
医者に言われて、俺は慌ててその隣に腰を掛ける。なんとなく拳二つ分の隙間を空けて。
「……ワイルダー夫妻には親戚がいないという話だったからな。医者として、彼らに何があったかを伝える第三者がいなかった。だから、このことを友人と名乗った君に話す。特例だ。覚えておけ」
医者はぶっきらぼうにそう前置きした。
「始めに言っておくが、僕が診察したのは、ジョナサン・ワイルダーではなく彼の妻だ」
「あの、それっていつくらいの話ですか?」
俺は医者に尋ねた。俺がワイルダーさんの元を離れてからもう一年半経つ。俺がワイルダーさんのところで働いていた頃から、奥さんは医者にかかっていたのだろうか。
「ちょうど一年と数ヶ月前くらいだ。奥さんは妊娠していた。僕は産科には余り詳しくないが――臨月を目の前にしているという位の時期だったろうか」
「その、ワイルダーさんの奥さんが病院に来た理由はなんなんです?」
医者は視線を下に落とした。口を開くための力を溜めるような仕草だった。
「つわりがひどい、という話だった」
「つわり、ですか」
奥さんがつわりに悩まされているという話なら、俺もあの花屋で働いていた時に聞いていた。つわりというのはある程度時間が経てば自然に治まるものだと聞いていたが、それが出産の直前まで続いたということだろうか。
「それまではなんとか粥のようなものでしのいでいたらしいが、ついにそれすらも受け付けられず、それでこの病院を受診した」
医者は淡々と感情を込めずに続ける。
「どす黒い胃液のようなものを吐いたらしい。それは――胃で激しい出血が起こっているということだ」
「え? それはどういう――」
「嘔吐を繰り返せば、喉や食道を傷つけてそれに血が混じることはある。しかし、そういった出血はもっと本来の血に近い赤い色をしているんだ。それがどす黒く変色してしまっているということは――原因はもっと根深い場所にある」
「何を……もったいぶらずにはっきり言ってくれよ!」
医者は、ふう、と小さく息を吸い込んだ。
「胃癌、だ。おそらくな」
「な――」
続く言葉が出なかった。あの家で一通り勉強させられたから知っている。胃癌という病気がどういうものかを。
「妊娠していたせいで、現れていた症状を全てつわりだと勘違いしてしまっていた。だから、気づいたときにはもう手遅れだった」
医者は再び視線を地面へと落とす。
「僕が告知したときのワイルダー氏の取り乱した様子は、今でもはっきり覚えている。彼らは自分たちの幸せな未来を疑っていなかった」
腹の中に重くてどす黒いものを詰め込まれたような気分だった。手の先から力が抜けていく。もしも座っていなかったのなら、俺はそのまま地面に倒れ伏していただろう。
「なんとか……なんとかできなかったんですか」
今さら訊いても意味の無い質問。しかし、俺は尋ねざるを得なかった。
「外科手術で患部を取り除くことができれば、理論的には根治可能だ。しかし、技術が……技術が圧倒的に足りない。どこに患部があるのか、二次感染を防ぐ清潔な環境をどうやって得るのか、麻酔技術も、ツールも、全てが足りない。もっと全ての技術が発展しなくては……僕たちにはどうすることもできない」
医者は空を見上げて、無力だ、と呟いた。
「そん、な」
「……ワイルダー氏は、ひたすら自分を責めていたよ。すぐ傍にいたのに気づかなかった、と」
その光景は目を突き刺すほどにはっきりと想像できる。あのワイルダーさんならきっと、そうやって己を責め続けるだろう。
「そうだ。子供は……子供はどうなったんです!」
医者は目を閉じて首を横に振った。
「余命が、どれくらいあったかはわからない。けれども、例え出産まで命が持ったとしても、体力的に不可能だっただろう」
「そんな……」
俺は再び言葉を失う。
「僕に医者としてできることは何もなかった。ただどこで最期を迎えるか、それだけしか選べるものはなかったんだ」
どこで最期を迎えるか――幸せを疑ってすらいなかったワイルダーさんを襲った絶望。
「それ以降、彼らがどうなったかについては僕は知らない」
医者は短くそう言って、立ち上がった。
「これが僕に話せることの全てだ」
俺は立ち上がることができない。全身の力が抜けたように、視線を動かすことすらできないまま、ただ地面の一点を見つめている。
「……すまない。僕は、君の友人を救うことができなかった」
医者はそう言って、再び病院へと向かっていった。
妻と子の無事を毎日神様に祈っているんだ――ワイルダーさんの言葉を思い出す。
神なんてこの世界にはいない。それを思い知った。
*
あれから当てもなく俺は川沿いを歩いていた。俺がロンドンを出てから起こったこと。もうワイルダーさんたちはいない。俺がここにいる理由もない。行く場所も、会いたい人もいない。
いつの間にか日は沈もうとしていた。連続殺人事件と怪物騒動のおかげで、この時間になるともう街を歩いている人はいない。嘘みたいに静かなテムズ川のほとりで、俺は道ばたにあった石の上に腰掛ける。見上げれば、ロンドン塔がそこにあった。
俺は懐からワイルダーさんの手紙を取り出す。
親愛なるリチャードへ
手紙をありがとう。君がオックスフォードで職を見つけてちゃんと暮らしていることを知って、とてもうれしく思う。君ならきっともう大丈夫だ。勇気を持って前へ進んで。
ジョナサン・ワイルダー
一切近況に触れない短い返信。その理由がわかってしまった。
「……ちくしょう」
思わず口から言葉が漏れる。もしも、この世に神様がいるのなら、俺はそいつをぶん殴ってやりたい。なんでワイルダーさんなんだ。なんであの人がこんな目に遭わなくちゃならないんだ。
だから、きっと神様なんていない。
理不尽ばかりだ。俺が魔法の才能を持たずにあの家に生まれてしまったことも。ワイルダーさんの祈りが届かなかったことも。俺にまつわる何もかもが。
「おい、兄ちゃん。そんなとこに座って何してんだ?」
顔を上げる。そうすると一人のホームレスが俺の顔を見下ろしていた。
「ずいぶん大荷物だな。旅行者か? なら悪いことは言わねえから、さっさとどこか宿へ行くなり建物の中に入るかしろ。バケモンに殺されるぞ」
「……ずいぶんとご親切だな。けど、アンタの方こそ人に構っている余裕があるのか?」
俺が嫌みったらしく返すと、ホームレスは露骨に顔をしかめた。
「うるせえよ。こっちだって、朝起きてバケモンに食い散らかされた死体とご対面なんてしたくねえだけだ。気分悪いだけでなく、警察まで来やがるからな。死んだらお前はそれまでだろうが、こっちはいい迷惑なんだよ」
へん、と鼻を鳴らしてホームレスは立ち去っていく。
殺される? 怪物に?
――望むところじゃないか。
もう俺には行く場所はないんだ。馬鹿にされ、さげすまれ、ないものとして扱われてきた人生だ。ここで死んだとしても悔いなんて無い。それにもしワイルダーさんがその怪物とやらの手にかかってしまったというのなら、一矢報いて死んでやる。
俺は自暴自棄のまま怪物と遭遇する決意を固めていく。しかし、俺の目の前に現れたのは怪物ではなかった。
「やっと、見つけた」
声のした方向。そこにいたのはロンドン塔を背にして、月明かりを浴びて微笑む少年。先ほどまで全く気配はしなかった。まるで霧に紛れるようにして現れた。
「見つけた? 何をだ?」
俺は思わず警戒することも忘れ少年に問い返す。
「見つけた。リチャード、君」
少年は天使のように笑う。
「見つけたって……俺はお前を知らない」
そう、知らない。もしかしたら、どこかで会ったことを俺が忘れてしまっているのかもしれないと思ったが、こんな目立つ容姿をした少年なら、一度会ったなら忘れるはずがない。
「君、リチャード。僕、アル。僕たち、ジョナサンの友達」
そう言ってアルという少年は俺に右手を差し出してきた。反射的に、疑うことなく、俺もその右手をとる。
「アンタ、ワイルダーさんを、知っているのか?」
俺の質問にアルは満面の笑みを浮かべながら頷く。
「リチャード、ずっと、会いたかった。ジョナサン、きっと、喜ぶ」
この場で怪物と出会い殺される覚悟を決めていた。しかし、実際に俺が出会ったのは、おおよそ怪物とはほど遠い天使のような不思議な話し方をする少年だった。