So Long, Lonesome ~追憶の言葉~ 作:けんごち
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン。1826年設立の総合大学にして、イギリスを代表する超名門校である。
ロンドン警察からは徒歩で四十分弱。チャックトレインは道すがらお互いの情報を交換しつつ、目的のマルティン博士の海洋学研究室へと向かっている。
「マルティン博士から情報が漏洩するような可能性はありますでしょうか?」
「さぁ、そこについてはなんともな。人に軽々しく機密情報を喋るような御仁ではないが、とはいえ俺もあの状況でしっかり口止めできたわけでもないしな」
「そうですか」
チャックが残念そうに呟いた。
「まぁしかし、だ。奴さんの頭の中にあるのはほとんど海のことばかり。自分からペラペラ喋るとは到底思えないしな。可能性はない、とまでは断言できないが、限りなく低いとは言えるだろう」
「だといいのですが、それはそれでどこから情報が漏れたのか……また、暗中模索になりますね」
マルティンから情報が漏れていないなら漏れていないでいいのだが、そうすると再び手がかりなしの状態に立ち戻ってしまうことにチャックは歯痒さを感じる。
結論の出ない話を続けているうちに二人はマルティンの研究室へとたどり着いた。レインが、コンコン、と短く二回扉をノックする。
「はい」
十秒ほど間を開けて、マルティンが扉を開け顔を出した。学者然としていない実地調査で引き締まった肉体に端整な顔立ち。仕立てのよいシャツを着ているが、室内でも常に掃いている長靴と腰からぶら下げたタオルの存在が近寄りがたい印象をどこか珍妙なものへと変えている。
「おや。レイン警部補にロウ検閲官ではないですか。お久しぶりです」
二人の顔を見たマルティンは丁寧に挨拶をした。
「よう。この間は世話になったな」
「お久しぶりです、博士」
気軽な調子のレインと慇懃に挨拶を返すチャック。
「大して手間はとらせない。ちょっとお前さんに確認したいことがあってな」
相変わらず水槽やら標本やらで散らかり放題の室内をちらりと見やりながら、レインが切り出した。
「あぁ、かまいませんよ。というより、私もレイン警部補にお伝えしたいことがあったのでちょうどよかったです」
「ほう」
予想しなかったマルティンの言葉にレインは目を丸くした。チャックといいマルティンといい、自分が会おうとした人間がことごとく自分に用事を持ってくるのは不思議な感覚である。
「中へどうぞ」
マルティンに促されてチャックとレインの二人は部屋の中へと入る。乱雑に散らかった机の上のものを端に寄せて、マルティンは二人のためのスペースを作った。
「散らかっていてすみません」
「なァに、必要とあればいつでも俺が掃除してやるさ」
冗談めかしてレインが答えると、マルティンは柔らかく笑った。
「まずはこちらの用件からいこうか」
「はい」
話を切り出したレインにマルティンが頷く。
「お前さん、例の怪物騒動の真犯人が誰だか知っているかい?」
レインに問われて数秒マルティンは考える仕草をする。
「犯人、ですか……記憶はだいぶおぼろげなのですが、私は聞いた覚えがないような気がします。光正たちから事件が無事解決したことは教えられていたのですが」
マルティンの返答を聞いてチャックが大きく息をついた。元々確率は低いとは思っていたが、実際に空振りであることを確認すると、力が抜けてしまう。
「ならお前さんは犯人の名前も知らなかったわけだ」
「ええ」
マルティンは頷く。その表情に嘘をついている気配はない。
「お忙しい中、お答えいただきありがとうございます」
チャックが慇懃に礼を述べた。
「いえ……私の方こそお役に立てなかったようで」
マルティンが悲しげに目を伏せる。非常に真面目で心優しい男であるから、状況が飲み込めていなくても、自分の返答が彼らの期待したものではなかったことを察して申し訳なく思うのだ。
「まぁ、いいさ。捜査なんてもんは九割九分が無駄足だ」
悟りきった口調でレインが言った。そして隣のチャックの肩を励ますように叩く。
「して、マルティン博士。お前さんが俺に用事っていのはなんだい?」
話題を変えてレインが尋ねた。
「あぁ、そうですそうです」
そう言うやいなやマルティンは立ち上がり、パタパタと長靴の音を鳴らして、部屋の隅にある水槽を持ってくる。
「なんだい、こいつは?」
「……魚がいるのに水が入っていないようですが?」
レインとチャックの二人は水槽をのぞき込む。わざわざ持ってきたからには、マルティンはこの中身を見てもらいたいのだろうが、これが何を意味するかがわからない。水槽の中に水はなく、魚の死体が一匹、ごろんと横たわっている。
「これは昨日テムズ川のほとりで発見されたものです」
言いながら、マルティンは手袋をはめる。そして中にあった魚の死体を取り出す。水槽から魚の身体が出ると、生臭い匂いが部屋中に広がる。
慣れない匂いにチャックは思わず顔をしかめた。
「この魚を見て、思うところはありますでしょうか?」
マルティンが二人に魚を見せながら尋ねた。
「……そうだな。やけに顎が発達している。ロンドンで暮らして三十年近くになるが、テムズ川にこんな怪物みたいな魚がいたとは知らなかったぜ」
「ですね。魚と言うよりは、まるで古代神話に出てくる怪物のようです」
レインとチャックはマルティンの見せた魚に対しての感想を述べた。身体の部分は普通の魚と変わりないのだが、頭というよりも顎が異常に大きく発達している。口からは鋭い牙が覗いており、魚と言うよりは怪物のミニチュアといった佇まいだ。
「お二人ともさすがですね」
マルティンは魚の顔を指さす。
「ご指摘の通り、この魚の顎は異常に発達しています。それこそ陸上生物に噛みつきその肉をかじりとれるほどに」
とんとん、とマルティンは魚の顎を指で叩いてみせる。
「しかしながら、こんな魚がテムズ川で発見されたという報告は過去にないのです。さらには生物学的にも疑問があります。一体この魚は何のためにここまで顎を発達させる必要があったのか。その環境的要因がまったく解りません。そして、それ以上に不可解なのが、ここです」
マルティンは魚のえらを指さす。
「この魚の巨大な顎に比べて、えらが小さすぎます。ローチというコイ科の魚がいるのですが、それと同じくらいの大きさ――ローチの顎だけが異常に発達した形態と表現した方が齟齬が少ないです」
マルティンは魚を指さし一気にまくし立てる。
海洋学についてはレインもチャックも門外漢ではあったが、マルティンの言いたいことはなんとなく理解できた。
「つまり、この魚は不自然に顎が発達している、と言いたいわけだな」
「その通りです!」
我が意を得たり、とマルティンが満足そうに頷く。
「魚の大きさを考えた場合、えらが小さすぎる、つまり酸欠になってしまうのです。実際にこの魚たちは全て死体となって浮かんでいるところを発見されました」
「ちょっと待て、お前さん。魚『たち』と言ったな? てことは、こいつと同じ魚が何匹もいたのかい?」
レインの指摘にマルティンは頷き返して答える。
「その通りです。合計十一匹のこの魚の死体が回収されました。しかし、その場所以外では同じような生物は見つかっていないのです」
マルティンのこれまでの発言、そこから導かれる結論は――
「――誰かが人為的に魚の形態を変化させた、ということですか」
歯噛みしながらチャックが言った。これまでだったら、そんなことはあり得ない、と一笑に付していただろう。しかし、ジョナサンによって引き起こされた事件を目の当たりにした今、あり得ないと笑って済ませることはできない。
「お前さん達は、あの怪物騒動とこの魚が似ている、と言いたいわけだな」
レインがマルティンとチャックの顔を交互に見る。
「確証はありませんが、生物学的見地からは自然発生したものとは到底思えません」
「人間を怪物に変えたのです。魚の姿を変えるくらい、できてもおかしくはない……」
なんということだ、とチャックは思う。アカシックレコードの力を取り込み怪物と化したジョナサン。そのジョナサンを打ち倒したことで、事件は解決したと安堵していた。しかし、実際は残り火のように燻り続けるものがある。
「あの怪物騒動の犯人が生きていて、この魚たちにこんなひどいことをしたということでしょうか?」
マルティンが憤りを隠さずにチャックに尋ねた。
「――いや。検閲官として言わせていただきますが、これはその犯人の魔法ではない思います。しかし、まったく違うものとは言い切れない。似ているが、別のもの。しかし、一体誰がこんなことを」
チャックは額を押さえる。
「マルティン博士。この魚はどれくらいの時間、生きられたと思われますか?」
チャックに尋ねられて、マルティンは考える。
「はっきりとしたことは言えませんが、一日でも保てばいいほうといったところです。魔法で魚を変化させたにしても、考えがなさ過ぎます。その犯人には魚の知識と海への敬意がまったくもってして欠けていることが見て取れます」
憤慨しながらもマルティンは答えた。普段穏やかなマルティンの口調がここまで激しくなることは珍しい。それだけ、海と川――いや生命に対する冒涜が許せないのだ。
「最低でも一日以内……ならばやはりこの魚を変えたのは奴ではない。しかし、ならば一体誰がこんなことを?」
行方の掴めないアカシックレコード、リチャード・スチュアートはなざジョナサンのことを知っていたのか、金塊を売りに来た男、そして魚を怪物へと変えた魔導士――問題は山積みだ。
「一体何が起こっているというのだ。この街に、奴は一体何を残していったというのだ……」
チャックは両手を机につき、じっと下を見据える。まだ危機は完全には去っていない。チャックの本能が警鐘を鳴らし続けていた。
*
「あー。お金さえあればもっといいアパートに引っ越して……いやいっそのこと大邸宅買ってのんびりロハスライフを送っていたのにねえ」
テムズ川のほとりで欄干に身体を預け力なく川面を見ている一人の男。前髪で右目が隠れている彼は、イーストエンドロンドンの古具屋に金塊を持ち込んだ張本人だった。
「完璧に金だったのよ、あれ。陽子の数も中性子の数も電子の数も、ぜーんぶ自然に存在している金と同じにしたのになんで買い取ってもらえなかったのかねえ」
「うーん、ちょっとSuspious objectだったのかもしれないねえ」
金を売った男の隣に立つのは、短い金髪と屈託のない笑顔が印象的な若い男。小洒落たツイードのジャケットの上にピーコートを羽織っている。彼の話す英語には、ところどころ発音に変な癖がある。
「いやー、大金持ちになろうと思って、あんだけ持っていたのが間違いだったかな? もうちょっと控えめにした方がよかったかねえ。でも、それだと、おじさん、億万長者にはなれないけどねえ」
「No problemだよ! 別に俺たちRich manにならなくてもいいじゃない」
ケラケラと金髪の男は笑う。彼はお金についてはだいぶ無頓着なようだ。
「ちぇ。イーストエンドロンドンの小汚いアパートなんかより、ウェストミンスターの一等地にでっかい邸宅でも借りて悠々自適な暮らしがしたかったのに」
「そうかい? 俺は今のイーストエンドロンドンのアパートもSo closeで好きだけどねえ」
「まぁ、すんだことを悔いてもしょうがないねえ。それよりもデイブ、テムズ川の魚で魔法の実験したでしょ」
「オー、That‘s rightだよ! 魚をMonsterにしようと思ったんだけど、うまくいかなかったみたい。すぐにDead bodyになっちゃった」
「まー、俺は別にどうでもいいけどねー。あんまり目立つ行動はしなさんなよ」
「Heyそれを言うなら、ミスターベイリだって、Alchemyで作った金をそこらへんに捨てちゃったでしょ」
「えー。しょうがないでしょ、あれ重いんだもん」
テムズ川のほとりで会話をする二人。辺りを通りすがる人々は、まさか彼らが金塊を錬成したり、テムズ川の魚を怪物に変えた犯人だとは夢にも思っていないだろう。それくらい、彼ら二人は自然に談笑している。
「ま。俺たちの仕事はあくまで計画の進行を『邪魔させない』こと、だからね。ちょっとしたお茶目くらいうちの天使様は大目に見てくれるよね」
「そうだね! 邪魔さえされなければ、この世界はEverything into the voidしてしまうからね! 俺たちが何か失敗したところでEvidenceは全てなくなるよ!」
ヘラヘラと軽い調子で笑っている男の名はアイザック・ベイリ。そして屈託なく世界の破滅を告げている男はデイブ・バレット。
白昼堂々とロンドン市街に姿を見せた彼らの正体を、道行く人々は知らない。