腕を組んで仁王立ちする黄金の王は、ここに開戦を宣言した。
「ならば貴様の望み通り、“神話の戦い”を再現してやろう。
———哀れな女神よ、この我が呑み干してやる」
◇ ◇ ◇
坂の上を陣取るギルガメッシュが顎を上げる。その背後に十数個の波紋が立ち、その内から剣身が姿を現す。
「せめて我を愉しませろ、駄女神」
背後に浮かんだ波紋の中から顔を覗かせた剣たちを一斉に射出。十数振りの剣は、まるで流星群のごとくメーティスに飛んでいった。
「凛、三十メートル程退がってくださいな」
メーティスは左手の盾を大きく掲げる。盾の表面にある仮面の目が、飛来する剣群を捉える。
飛んできた剣の群れは、目に見えて遅くなった。いくつも数えないうちに完全に停止し、空中で固まった。
凛はメーティスの指示通り、後ろを向いてダッシュした。強化魔術を施された凛の両脚は地面を蹴り、瞬く間に三十メートルを走りきる。
ズガガガガッ、と凛の後ろで土煙が立ち昇る。近くに突っ立っている巨木に手をついて振り返れば、自分がさっきまで立っていた場所には、いくつものクレーターが存在するのみだった。
「先ずは、此方の宝具を切るところからですね。このままでは戦いにすら持ち込めませんし……」
「ッツ———!!」
凛の両肩が跳ね上がった。背中から頭にかけての毛穴が泡立ち、鳥肌が立った。
「ちょっとメーティス! 後ろから急に声かけないでよ、驚くじゃないの!!」
凛が目線だけを後ろ、木の影に向けた。
「そう言われましても……」
凛の後ろに現れたメーティスは、少しだけ眉根を寄せる。
そんなメーティスの反応を半ば無視して、凛はギルガメッシュを視界に収めたまま、メーティスに聴いた。
「それで? 何の話なのよ」
「私の宝具の話です。
エポナは殺され、仮面盾ではいつまで保つか解りません。
———ですから、最終宝具を発動させます」
時間を稼いで下さいませんか? と、メーティスは凛に盾を押しつけ、木陰から飛び出していった。
「ちょ、調子に乗るんじゃないわよ!」
凛も慌てて駆け出した。
全く、何だっていうんだろう。士郎と関わった女達は、何でこうも暴走気味になるんだろう。
凛は脚を動かしながら考える。
メーティスが急に飛び出したのは、私に考える時間を与えないようにするためだ。現に私は、心の贅肉を罵りながら走り出してしまった。
メーティスが『時間を稼いで下さいませんか』と言ったからには、ギルガメッシュとかいう金ピカの攻撃を気にせずに動きたいと言う事。集中するなり、真名を解放するなり、時間がかかるというワケだ。
ここで問題になってくるのは、“どれくらいの時間を稼げば良いのか”だが、これに関してはあまり考えなくてもいいと思う。戦闘中に一分も二分も時間を捻り出せと言うのなら、一言あってもいいはずだ。そして時間を稼ぐ方法も厳選する必要がある。
なのに、あの女神は、何もしなかった。
なら、後は簡単だ。あの女神が、遠坂凛に行わせたい動作を、そのままなぞってやるだけでいいのだから———
メーティスが林の中を駆け巡る。
ギルガメッシュの目の前、彼の視界の中を左から右へ駆け抜ける。ギルガメッシュはその痩躯を瞳の中で追いかけながら、王の財宝を展開、自身の背後に細波立った三つの波紋から、それぞれ“神殺しの剣”を一振りずつ射出した。
ギルガメッシュが射出した三振りの剣を一瞥したメーティスは、速度を落とすことなく手短な樹に突っ込んだ。
剣が着弾する寸前、メーティスが地面を蹴って跳び上がると、“壁走り”の要領で、樹の幹に左足を置く。右脚を振り上げる勢いも利用してさらに加速すると、空中で側転して上下逆さまになり、三発の剣弾をやり過ごした。
ギルガメッシュの口がへの字に曲がる。
滞空しているメーティス目掛けてさらに三発、先ほど発生させた波紋を使って剣弾を射出した。
上下逆さまの体勢から、“後ろ回り”の要領で姿勢を制御、空中で体勢を立て直したメーティスは、迫り来る剣弾から目を逸らすことなく別の樹の幹に両脚を揃えて着地する。
両脚をバネに、自分の体を撃ち出すメーティス。空中で縦に回転しながら剣弾に突っ込んでいくと、三発の剣弾のうち、一番右側の一発に踵落としを叩き込む。縦に回転する勢いを全て乗せた、右脚による一撃だった。
「小癪な……ナッ———ッツ!!」
ギルガメッシュが硬直した。腕を組んだまま、坂道の上から凛とメーティスとを見下ろした状態で。
いつの間にか数が増えて二十門ほどになった波紋から顔を出している剣群すらも全てまとめて、完全に固まっている。
「メーティス! これでしくじったら、本当に容赦しないんだからねっ!」
ギルガメッシュの眼球がメーティスの後ろにいる凛を捉える。凛はゴルゴーンの仮面盾を、両手で捧げ持っていた。
「———そして、私の最終宝具を展開するための、一手でもあるのですよ」
ギルガメッシュは急ぎ、メーティスに視線を合わせる。
真っ先に目についたのは、変化した瞳だった。その大きな月色の瞳だ。ギルガメッシュの知っているイシュタルの日色の瞳とは真逆の、それでいて、金色の瞳。
ただ立っているだけのメーティスの瞳に、ギルガメッシュは魅せられたのだ。
「ほぅ、我もこれまで、幾多の魔眼を目にしてきたが———お前のそれは格別よな」
「ええ、私のコレはあらゆる魔眼の原典でございますから。
魔眼とは本来、この目のことを指すのです。この世に蔓延るあらゆる魔眼は、全て、私の目の模倣に過ぎない。
———ですが貴方には差し上げませんよ。この眼は私の姉のモノでございますから」
「その姿に戻ってなお、紛い物を姉と称するか。貴様のそれも、筋金入りよな」
メーティスとギルガメッシュ、両者の間に緊張がはしる。
坂道の上と下。お互いにただ立ったまま、静寂の時間が過ぎる。
「遠坂凛、それなり以上に、離れては頂けませんか?
このままでは、巻き込んでしまいますので」
凛は沈黙を保ったまま、ギルガメッシュからも目を逸らさずに、バックステップで距離を取る。
ギルガメッシュの剣弾のせいで周囲の木々は薙ぎ倒され、一面、見渡しが良くなっていた。凛はその境界線を越える。ギルガメッシュの被害の、及んでいない位置まで退がる。
「———それでは」
メーティスはギルガメッシュに向き直る。
最終宝具を発動しても、メーティスの姿はほとんど変わらなかった。唯一変わった彼女の瞳は、強く月色に輝いていた。
「“神話の戦い”を始めましょうか。
私も、明日の夜明けは見たいので、この場所で、捻り潰して差し上げますね」
「ハッ、言いおるわ。
———だがな女神よ、気づいているか? 神話とは常に、ヒトの歴史に塗り潰されるということを」
ギルガメッシュが右腕を上げる。真っ直ぐ伸ばした右手で宙を掴む。そんなギルガメッシュの右手を中心に黄金の波紋が立つと、その中から大きな鍵を取り出した。
それは黄金の鍵だった。柄のついた、小太刀ほどの大きさの鍵。
ギルガメッシュはその鍵を虚空に突き刺し、回す。
変化はすぐに訪れた。
鍵の先端から上空に、赤い、魔術回路ような、あるいは巨大な樹形図のような、直線的な固形魔力が展開される。鍵の先端を起点に、上空にいくにしたがって広く、大きく広がった樹形図型の赤い魔力は、一瞬光ったかと思うと、急速に縮み、黄金の鍵の先端に収束した。
「…………なっ、な……」
凛が、口を開けて固まった。目が、離せなかった。ギルガメッシュとかいうサーヴァントが持つ、ソレ。先ほどの黄金の鍵から変化した、剣のようなモノ。
凛はソレを見上げる形で固まって、何かを言おうとして、何も言えなかった。
———柄がある。黄金のアームガードが付いている。その刀身があるところには、赤い幾何学模様が発光する、黒い円筒があるのみだった。
「“神話の戦い”と言うからには、この我も、本気で相手をしようではないか」
突っ立っているだけのギルガメッシュが浮いていく。彼を中心に莫大な魔力の奔流を湛え、まるで重力など無いかのように、ギルガメッシュは宙にいた。
「忘れられた哀れな女神よ、見せてやろう。これこそが、ヒトの紡いだ重みと力よ。
———吹き荒れよ、エア。
見よ! 天地を分かち、神を切り離し、ヒトとしての歴史を開いた。我の偉業をっ!」
天高く掲げた円筒形の、剣の先端部分が回転する。
赤く色付いた魔力を逆巻きながら放出する神造兵装、乖離剣。その鋒をメーティスに向けて、黄金の王は、自らの最強宝具の、真名を謳い上げる。
「それこそが、この我の物語、天地乖離す開闢の星よっ!!」
その時、メーティスが右腕を突き出した。
衝撃波が駆け抜ける。
ギルガメッシュの宝具、天地乖離す開闢の星の出鼻を捉えた一撃は乖離剣の先端に当たり、剣に巻き込まれて鬩ぎ合う風を吹き散らした。
右拳の衝撃が、空中にいるギルガメッシュを強く叩く。赤い腰布がバタバタはためく。ギルガメッシュが歯を食いしばる。
そして、宝具に魔力を捻じ込んだ。
「———甘いわぁぁぁっ!!」
乖離剣の三つの円筒が回転を強める。それぞれが、隣の円筒に対して逆回転し、それぞれが風を巻き込むことで発生する暴風の断層が擬似的な時空断層となり、ギルガメッシュの腕の突きと共にメーティスへと襲い来る。
対するメーティスは、突き出した右拳を開き、五指を揃え、掌を乖離剣に照準する。その右掌を基準にして左手を引き絞り、両手の間で、メーティスは魔力をスパークさせた。
黄金の光が、メーティスの両手の間の空間から、外に向かって溢れ出る。その中から現れたのは、月色に輝く矢であった。
「———————母親殺しへの贄の天罰」
メーティスが弓もなく放った矢と、乖離剣の放つ時空断層旋風が衝突した。
月色の矢は乖離剣の時空断層に触れるやいなや細切れにされ周囲に光を撒き散らしながら消滅する。
———衝突の様子を観ていたギルガメッシュが、目を細める。
次の瞬間、時空断層を内包する乖離剣の暴風は、自らで自らを喰らい合い、時空断層どうしがぶつかり合い、それぞれで対消滅を引き起こし、メーティスに届くころには、完全に消えてしまった。
「———なるほど、貴様のソレは対神宝具、“神の権能を強制的に自身へと返還させる宝具”という訳か」
今のは、“アルテミスの天罰”だった。
かつてアルテミスの巫女だったイーピゲネイアという少女がいた。トロイア遠征隊が嵐から逃げてアウリスの港に立ち寄った時、アガメムノーンという男は仲間の隊長たちに説得されて、娘のイーピゲネイアを魔女として殺害した。
これを知ったアルテミスは、運命を操り偶然を利用して、アガメムノーンが勝手に生贄となって死ぬように、天罰を与えたのだった。
“アルテミスの天罰”が描かれるのは、主に“母親殺し”に対してである事が多い。自らを産み落とした母という存在をその手にかける事。それは父権制であるギリシア神話が始まるまでは“ 究極の法を破った罪”だった。
ギリシア神話世界では、この法を嫌ったゼウス一派によって『母というのは、その母の子と呼ばれる者の生みの親ではない、その胎内に新しく宿った“胤を育てる者”に過ぎないのだ。子を儲けるのは父親であり、母はただあたかも主人が客をもてなすように、その若い芽を護り育ててゆくわけなのだ』という理論のもと、『父親のみを“親”と認めることで“母親殺し”という現象は存在し得ない。よって、母を殺すことは罪ではない』という法律を作り上げ、アルテミスの権能の一部を剥奪した。
ゆえにこれは、今のアルテミスでは使えなくなった“太古のアルテミスの天罰”だった。
ギルガメッシュはもう一度乖離剣を振り上げ、上段に構えた状態で、メーティスの力を分析する。
「……だが———」
ギルガメッシュは口をつぐんだ。しかし、“ギルガメッシュが何を観たからそれを言おうとしたのか”は、すぐに知られる事になる。
それは、メーティスを見れば一発だった。
「アッ——————ッ!!」
メーティスが少し前屈みになって、左肩を押さえていた。その左肩から先、メーティスの左腕は脱力していて、左脚の少し前で揺れている。
そんな、メーティスの左腕は白く、所々が濃い青緑色に変色していた。腕の皮膚は次第に伸びて、ゆっくりと垂れていく。腕のいたる所で急速に水膨れが膨張し、破裂する。
そして何より、メーティスの左腕の各所から、蛆虫が湧き出してきた。
メーティスが左腕を垂らし苦しむ姿を眺め見て、ギルガメッシュはもう一度、王の財宝を、大量の波紋を展開する。
「左腕が腐り果てた……だけではないな。貴様の左腕から、神秘と魔力が急速に抜け落ちている。左腕ごと、アルテミスに奪われよったな?」
下らん、と吐き捨てたギルガメッシュは、乖離剣を振りかぶった状態で、波紋から神殺しの武具を大量に射出。続けて、乖離剣を起動した。
「まるで下らん。
———興醒めも甚だしいぞっ! 駄女神ッ!!」
乖離剣が振り下ろされる。
吹き荒れる時空断層の嵐と、飛んでくる剣群。
上から眺めるつまらなそうなギルガメッシュの顔が———驚愕に見開かれた。
「一度でも権能を使えば、私に奪回されたことに気付かれる。気付かれただけで、肉体ごと奪われる脆弱な神性 。ですが、
———舐めないで下さいね、英雄王。こうして無様を晒そうとも、私も大地母神が一柱。神話体系の生みの親、万神の母の一人です。
残った力で勝利を掴み取ることの、なんと———容易いことかッ」
メーティスは腐り果て、ちぎれ落ちた左腕を完全に無視し、左肩を押さえながら、ギルガメッシュを見つめていた。
メーティスは腕を失い、それでもドレスを翻しながら、アマゾネスの女神として、立っていた。
ギルガメッシュの口から「クッ!」という声が漏れた。
「石化の魔眼、双子の女神の光輪をも取り込んだ、その真の姿かっ」
ギルガメッシュが乖離剣の出力を上げる。赤い嵐が吹き荒れる。しかし、メーティスに届くことはなかった。
「メドゥーサの魔眼の中に、私の名の一つが残っていて良かったです。
こうして、貴方に対抗できる」
メーティスは右手をギュッと握ると、右腕を真横にピンと伸ばす。掌を上に指を解くと、その中には小さな蛇が存在していた。
メーティスの掌に収まる大きさの、細くて長い水の蛇。メーティスの「お行きなさい」の掛け声で、その蛇は空中を泳いで、メーティスの後ろの方に飛んで行った。
そして、ギルガメッシュに集中する。
「はぁぁぁぁああっ——————ッ!!」
メーティスは腐りかけた両眼から血を流しながら、ギルガメッシュを睨み付ける。両眼が内側から爆散することと引き換えに石化の魔眼の出力をさらに上げたメーティスは、時空断層の嵐を抜いて、乖離剣本体に効力を届かせることに成功した。
とは言え、メーティスの魔眼の性質は“戦意の喪失”。ゴルゴーンの仮面盾の宝具と同じに、石化させる事は本質ではない。
ゆえに、乖離剣の硬直時間はそう長くない。“一瞥するだけでモノの本質を見抜く眼”を持つギルガメッシュに、すでに一度見られている。だから、この眼で見られた場合の対処法も、知られていると思って行動すべきだ。
「———囲いなさいな、オケアノスっ!」
だからメーティスは、ペットを呼んだ。
突如、海が立ち上がった。海の水が、その巨大な鎌首をもたたげ、海水で出来た巨大な蛇が、空中を泳ぎ出した。
ギルガメッシュは一度脱力する。メーティスの魔眼の能力は“ 相手の『攻撃しよう』という意志そのものを縛るもの”。だから、もう一度動きたいのなら、一度脱力し、自らを鎮め、心を穏やかにする必要がある。
この時、ギルガメッシュは無防備になる。だが、ギルガメッシュには観えていた。目の前に迫りくる海水の蛇が、何をしようとしているのかを。
「———神代回帰か」
「ええ、この体です。私は長期戦闘に向いておりません。故に、全力で戦える“場”を用意しました」
海水と融合して巨大化した蛇、“オケアノス”と呼ばれた水の蛇が、周囲を旋回しながら浮遊していた。ギルガメッシュやメーティス、凛の周囲を大きく取り巻くように回遊する海流の蛇は、次第に自分の尾に追いついて、噛み付いた。蛇の口と尻尾が触れた場所から合体し、ひとつの巨大な、円環し浮遊する海流になった。
———“オケアノス大結界”。
最も古いタイプの結界のひとつ。水の流れによる円環結界だ。
ギギギギッ、と時空の擦れ合う音がする。
その音を聞いて、ギルガメッシュは凄惨に笑う。
「良いぞ、ならば幕開けといこうではないか。
———円環の大地母神よ、精々我を愉しませよ。貴様のそれが、“気に入らぬ結末を、本を最初から読み直すことで回避しようとする愚行”であるのだとしても、道化っぷりは認めてやる。精々足掻き、この地に跡を残すが良いぞっ!」
メーティスが走る。空中にいるギルガメッシュの足元へと。姿勢を低くし、上体を前に傾け、右腕は後ろを押し出す感じで、滑るように前へと進む。
ギルガメッシュが剣を放つ。自身の宝物庫に眠る武具のうち、目の前の女神の神性を貫通し得る性能を持つものを厳選し、走るメーティスに射出する。だが———
「成る程、砕け散った目で良く避ける。戦闘部族の神だけはあるな」
メーティスは脚の回転を緩めることなく、ただ歩幅の調節だけで自分のスピードに緩急をつけ、飛来する剣を躱していく。
ギルガメッシュは一度、王の財宝を全て仕舞うと、新しい波紋を展開、さらなる武器を撃ち放つ。
メーティスはそれも躱そうとして、その行動を途中でキャンセル。空に向かって跳び上がりながら、大きく右脚を振り抜いた。
「———————歪められた女神の話」
振り抜いたメーティスの右脚は風を巻き込み、風が権能に染められた。ペルセポネの権能によって“黄泉送り”の効果を付加された風は、ギルガメッシュが撃ち出した宝具の数々を、その効果が発揮されるより前に、纏めて異次元に飛ばしてしまう。
そして、メーティスの右脚が腐り始める。
蒼いドレスの裾から見える右脚は、すでに変色を始めている。皮膚の下で蛆虫が蠢いているのが分かる。
それらの一切合切を、奥歯を噛みしめて堪えたメーティスが飛び込んだ。さっきまで剣群が存在していた空間を通り過ぎ、空中にいるギルガメッシュの目の前まで迫った時、メーティスは右腕を振りかぶる。
ギルガメッシュが石化の魔眼の完成形、停戦の魔眼の対処法を看破したのと同じように、メーティスもまた、乖離剣の欠点を看破していた。
それは、“乖離剣が強過ぎる”という事だ。発動前に発生する吹き荒れる魔力によって、“王の財宝”からの宝具射出攻撃が不可能となる。ゆえに、王の財宝からの弾幕によってメーティスを足止めしつつ天地乖離す開闢の星をチャージすることができない。
メーティスはこうして、高速起動による接近戦に勝機を見出した。
ギルガメッシュがとっさに波紋を展開、宝物庫から盾の宝具を呼び寄せ、左手で引っ掴み、メーティスのパンチの軌道上に配置した。
ゴォォーーン! と鐘を叩いたような音が響いた。
自らの拳に金属の硬さを感じながら、メーティスは腕を内側に捻る。
メーティスの右腕が僅かに伸びた。メーティスのパンチに耐えるためにギルガメッシュは力を入れて全身が硬直している。その上から、メーティスの右腕が伸びた分の衝撃が、まるで打ち寄せる波のように、ギルガメッシュの体幹を襲う。
「何っ——————?」
ギルガメッシュ自身、不思議なくらい気持ちよく、痛みの一切を感じることなく、地面に吹っ飛ばされていた。
———骨に対して筋肉は螺旋状に付いている。だから、人の体は螺旋状に動くようにできている。
つまり、『腕を普通に上げなさい』と言われてその通りに行動する時は、腕を捻りながら上げるのが自然なのだ。その体勢こそが“腕が最も高く上がる姿勢”でもある。
しかし、『腕を普通に上げなさい』といきなり言われて、捻りながら上げる人はまずいない。
“真っ直ぐに上げる”ってなんだろう?
腕を捻らずそのまま上げる?
まるでロボットのように?
人間の肉体の構造を鑑みると、筋肉は“螺旋状”についている。だから人の体は“螺旋”に動くようにできている。それが“自然な動き”なのだ。でも、思い込みによって“普通に動く”つもりが、いつの間にか“不自然な動き”になってしまった。
“不自然な動き”でも、生きていける環境だからだ。
不自然な動きを続ければ、必ず何処かがおかしくなる。昔の人々も、きっとそれが分かっていたに違いない。だって、それぞれの国ごとに、対処法が伝承され続けているのだから。
ヨガや武術は、その発祥を紀元前まで遡る。
スポーツの起源は、三万年前には確認されている。
ウェイト・トレーニングは、ギリシア・ローマ時代だ。
———そうやって人々は、文明の発達によって“自然から解離してしまう身体”をなんとか繋ぎ止めようとしていた。
それでもやがて、文明の発展に身体の調整が追いつかなくなる時代が来る。
———現代だ。
おそらく、現代のトップアスリートでさえ、古代ギリシアやメソポタミアで“普通に生活する”だけで、相当に消耗するだろう。“日常”に求められる身体性能に、天と地ほどの差があるからだ。
そういう意味では、ギルガメッシュの認識は正しい。
———その点で言えば前回のは落第だったな。あの程度の火で死に絶えるなど、今の人間は弱すぎる———
では、今ここにいるメーティスはどうだろう。彼女は古代ギリシア世界の、さらに前に存在していた。その肉体理解と身体制御は、現代人の比ではない。加えて、“ 夜に留まされし運命の神”を発動させ、ちゃんとしたサーヴァントとなったメーティスなら、どうだろうか。
“純粋な盾としての性能”において、ギルガメッシュの王の財宝のなかでも、トップクラスの宝具を真正面から貫いてギルガメッシュに衝撃だけを通し、吹き飛ばしたメーティスが着地する。
右脚は腐り落ちているため左脚一本で着地したメーティスは、大きく膝を曲げ、しゃがみ込むようにして衝撃を逃す。遅れて、蒼いドレスのスカート部分が、ふわふわと漂いながら、ゆっくりと鎮まっていく。
メーティスは節穴となった両眼から血を流しながら、存在しない眼球で、それでもギルガメッシュに顔を向けた。
「よもやこの我が、このような無様を晒そうとはな」
ギルガメッシュは、空中の至る所に波紋を展開し、そこから鎖を射出、それを別の波紋から宝物庫の中に繋げることで蜘蛛の巣のように網を張り、衝撃を吸収していた。
そんなギルガメッシュは自分とメーティスとの間に王の財宝の波紋を壁のように展開し、中から魔術師の杖を覗かせて威嚇、牽制している。
ギルガメッシュは体を起こしながら、メーティスの体を観察した。
「だが女神よ、すでに貴様に猶予は無いぞ?
この戦いも、我の勝利で幕引きよ」
「何を言っているのですか? 私にはまだ、左脚と右腕が残っていますよ。此処からが大詰めです」
メーティスは片脚でしゃがんだ姿勢から、僅かに重心を前に傾ける。何時でも、ジェットのように突っ込んでいける体勢をとった。
それを見たギルガメッシュが、笑う。
もはや抑えが効かぬとばかりに、右手で顔を覆い、左手を腰にあて、笑うのを我慢しているようだったが、やがてそれも出来なくなり、最後には堂々と爆笑する。
「———貴様ッ、それでも女神か?
己が今何を背負っているのかも感じ取れずに女神だと?
ハッ! 笑わせるな駄女神め。貴様はすでに終わっているのだ。ここまで時間をかけた時点で、貴様の負けよ」
ギルガメッシュの言葉を聞いて、メーティスが自分の体を点検する。
目で見ることは出来ない。全身の感覚は痛みが飽和していて役に立たない。だから残った右手で体のあちこちを触り、異常がないかを確認する。と同時に、指先から魔力を流し、神秘的な視点からも確認した。
すると———
「ガッ、ああぁぁぁぁああッ——————ッツ!!」
右腕が、内側から捻り切られた。
体から離れていく右腕、右肩に残る神秘を感じる。
———知っている。
メーティスは、この感じを知っている。
——————女神アテナ——————
マズい、このままではマズいと直感したメーティスは攻勢にでる。
自分の右肩にはアテナの神秘がこびり付いて離れない。そしてさらに、メーティスの体をも、侵食しようとして来ていた。
メーティスは、気持ち前のめりになっていた重心をさらに前へ、完全に倒れそうになる寸前で魔力を溜めた左脚を解放。自分の体重と、それに対する地面からの反発を左脚で受け止めながら、その全てを推進力に転化する——————直前、メーティスの子宮が握り潰された。
「ッ—————————ッツ…………!!」
最早何の声もなく、メーティスは崩れ落ちた。
うつ伏せに倒れる両手右脚のないメーティスに、ギルガメッシュがゆっくりと歩いて行った。
「右腕に加えて、子宮までも潰されよったな? 潰したのはアテナと……ヘラか。
あまりにも暴れ過ぎたな、円環の女神よ。貴様側からアクセスせずとも、向こう側から干渉されるとは……」
ギルガメッシュは、倒れたメーティスから幾らか離れた場所で止まった。取り出してから、ついに一度も仕舞わなかった乖離剣を高く掲げ、ゆっくりと起動する。
「この結末は、解り切っていた筈だがな。何故宝具を起動した? 一度でも起動させてしまえば、貴様は“ギリシア神話という地獄”を追体験することになる。
例え、気に食わぬ結末を迎えた物語であろうとも、否定することに意味などあるまい。例え始めから読み返したとしても、いつかまた、結末を読み直す羽目になるだけだ」
ギルガメッシュの掲げる乖離剣の先端、三つの円筒が互い違いに回転を始める。その一つ一つが、ひとつの世界を象徴するとすら言われる円筒が、それぞれに発生させた三層の力場によって時空流を生み出し空間変動を引き起こす。空間を巻き込み、捻り、千切り、時空断層を発生させる。
先端を上に向けられた乖離剣から発生する時空断層の嵐は次第にその半径を縮め、段々と細くなっていく。
それが、まるで一本の赤い線のように見えた時、メーティスの口が僅かに動いた。
「ま……っ。まだ、です」
メーティスは首の力だけでギルガメッシュを見上げる。
高く掲げる乖離剣の、“創造神エアの権能”を一部再現した力場がまるで剣のように収束した。
———それはまるで、赤く円い実体のない光の剣。乖離剣の先端からビームセイバーのように発生する“権能の力場”はゆっくりと、だか確実に、世界そのものに干渉していた。海流によって世界を定義する大結界オケアノスが軋みを上げる。“神代回帰”の起点となった海水の蛇が、悲鳴を上げた。
メーティスは存在しない瞳でギルガメッシュを見上げながら、自身の想いを紡ぎ出した。
「例え、この先が地獄だとしても、構わないんです。
例え、この先に無限の苦しみが待ち受けていたとしても、大丈夫。
———私は、嬉しかったのです。あの瞬間は、何があっても忘れない。
この先、私がどうなろうとも———ずっと、幸せなのですから」
うつ伏せに倒れているメーティスの左脚に神秘が纏わりついていく。ところどころが破れているドレスの裾から少し見える脹脛、そこに、女神キュベレイの力が溜まる。
大地の権能、その一端を引き出して、左脚を赤紫色に染めながら、メーティスはギルガメッシュに狙いを定める。
「ですから、如何しても、負ける訳には、いかないのですっ!」
「……女神よ、貴様には———エアの真の姿をくれてやる」
ギルガメッシュは、手に持つ乖離剣を真っ直ぐに天に向けている。エアの先端に収束した赤い光のサーベル状の刀身から、天に向けて細いビームが放たれた。
かつて、エア神が世界を安定させた際に用いることになった、乖離剣の最古のカタチ。剣という概念が出来る前に生まれたもの。人の望みによって作られながら人の意思に影響されず生まれる“神造兵装”の一つ。
宇宙が、赤く渦巻いていく。
メーティスとギルガメッシュ、二騎のサーヴァントは互いを見上げ、見下ろして……
メーティスの脚の力が鳴動し、ギルガメッシュの右手がピクリと動き——————メーティスの頭が割れた。
まるで、斧を振り下ろされたかのように、メーティスの脳天から頭蓋骨が半分ほど、カチ割れた。
「ゼウウゥゥゥゥーーーース!!」
全身の激痛すら忘れて、メーティスは叫ぶ。
ギリギリのところで保っていたのに、今のゼウスの介入で、メーティスの勝機はなくなったのだから。
まるで、叫び声と共に命を吐き出したかのように、メーティスの存在感が消えていく。
ギルガメッシュは目を細め、天に掲げた乖離剣を、振り下ろす。
「……。——————天地乖離す開闢の星」
◇ ◇ ◇
ランサーのゲイボルクが、赤く輝きを放つ。
そのゲイボルクを、スカサハが槍で上から抑える。スカサハはランサーのゲイボルクを下に下にと押し下げながら、抉ぐり込むように突きを入れる。
「ぬぅぅわっ!」
ランサーが変な声を上げながら緊急回避する。体を思いっきり捻りながら乱回転ジャンプして、空いた空間をアーチャーが埋める。
アーチャーが真正面から繰り出す双剣の乱撃を、スカサハは右手一本で槍を操り、回し、尽くを弾き、捌く。
そんな、サーヴァント同士の戦いを見守りながら、俺はバゼットさんの隣にいた。バゼットさんは斬り抉る戦神の剣を構えながら、ランサーの戦いを注視している。
そんなバゼットさんが、ボソッと、声を出した。
「取り敢えず、今は安全策をとって、ランサーには打ち合って貰っていますが……
士郎くん、“イマジナリ・アラウンド”の性質、掴めそうですか?」
「いや、ダメだ。
さっきバゼットさんが証明してくれた“効果の中に破壊する対象が示されている宝具”でならダメージを見込める、ってこと以外さっぱり分からない」
俺は右手で投影した打刀を持ったまま、左手を腰に、鞘の内に納まっている“本打の無逆”を軽く撫でた。
ランサーやスカサハの持つ宝具、ゲイボルクの能力は『真名解放すると“心臓に槍が命中した”という結果を先に作り、後から“槍を放つ”という原因動作を行うことで、必殺必中の一撃を可能とする』というものだ。
そして、バゼットさんの宝具、斬り抉る戦神の剣の能力は『“対峙した敵が切り札を使う事”を条件に発動することで自らの攻撃を“先に成したもの”とする順序を入れ替える付属効果が発生し、絶対に相手の攻撃よりも先にヒットする。そして、ほんの僅かでも敵の攻撃より先に命中した瞬間に順序を入れ替え、敵を敵の切り札の発動前に倒したことにし、“先に倒された者に反撃の機会はない”という事実を誇張することで、結果的に敵の攻撃は“起き得ない事”となり逆行するように消滅する』というもの。
どちらの宝具の能力にも、“先に相手を倒すことを確定させる”という効果が付随している。
宝具がキチンと発動すると、“自らが先に相手の急所を穿つ”という事実が確定する。そしてそこに、パラメーターは関係ないのだ。
イマジナリ・アラウンドの効果によって全ての“攻撃力”が意味をなくしたとしても、“急所を穿つという効果によって破壊”される現象に対しては、何の防御にもなりはしない。
だからこそ、『ゲイボルクと斬り抉る戦神の剣の宝具による攻撃は、イマジナリ・アラウンドの影響を受けつけない』と言う事だった。
俺は左手を鞘から離し、しかして柄頭を掴むことなく、ダラりと下げる。
右手一本で刀を握って、サーヴァントたちの戦いから目を離して、俺は月夜に浮いている桜を見上げた。
———去年の夏、学校で“虚数の授業”があった。その時、全く理解できなかったものだから、図書館を巡って調べたことがある。
「……先輩。虚数って、やっぱり嫌な数だったんですね?」
その図書館巡りにひと段落ついた時、一緒に付いて来ていた桜が、そう言った。
穂村原学園の夏服に身を包んだ桜は、両手を組んで俺を見上げて、俺と二人、目と目を合わせた状態で、問いかけたのだ。
そんな風に懇願する桜の言葉を、否定してやることが、当時の俺にはできなかった。
図書館巡りの結果、俺が知り得た虚数の情報は一つだけ、『計算結果に虚数が浮かび上がってくる時、それは“出来ない”という意味だ』ということだけだった。
例えば、『間桐桜がこのまま努力を続けていくと、何年後に遠坂凛に追いつくか』を計算したとする。
答えが“3”と出たならば、『三年後には追いつける』という意味だ。
答えが“−2”と出たならば、『二年前には追いついている』という意味になる。
では、計算結果が虚数になったら、どういう意味になるのだろう。
———『追いつけない』という意味だ。
『あらゆる過去、現在、未来において、間桐桜が遠坂凛に追いつくことはない』という意味になるのだ。
虚数という概念は数直線上には存在しない。よって、現実世界では『解なし』となって、結果『出来ない』というのが分かるだけだ。
そんな事しか分からなかった図書館からの帰り道、「虚数は嫌な数ですね」と桜が言って、俺は否定できなかった。
それから、虚数のことを調べ始めた。
何でもいい、何か材料が欲しかった。『虚数はすごいヤツなんだ』と、桜に言える材料が。
「———桜。今日、一緒に帰らないか?」
それがいつの頃だったか、今ではあまりハッキリしないが……ともかく俺は、その日、桜を呼び止めた。
午後の授業の合間、休み時間に一年の教室に行って、扉の近くにいた生徒に桜を呼んでもらって、一緒に帰る約束を取り付けた。
やっと見つけた、宝物を携えて———
「———バゼットさん」
上空で拘束されている桜から、未だ戦闘中の三騎のサーヴァントたちに視線を移して、俺は隣のバゼットさんに声をかけた。
「このイマジナリ・アラウンドっていう魔術のことはサッパリだけど、でも、“虚数”は本来、もっとすごいヤツなんだ。もっと、祝福されていいようなヤツた。
だから、何とも言えない」
「“架空元素・虚数”には、もっと別の力があると?」
「そう、だから俺は、最後まで手を伸ばし続ける」
「では私も、最悪を想定して動きましょう」
俺も、バゼットさんも、三騎のバトルに集中する。
たった三騎、たった三人による戦闘のくせに、それはもはや“戦争”だった。
スカサハは、自身の投槍をランサーに弾かせることで、一瞬その場に釘付けにして、もう一本の槍を捻りながら思いっきり引く、その槍の回転でアーチャーの黒い短剣、干将を弾く。
槍を引きつける力を利用して5メートルほど飛び退がった時、スカサハにとって相手のサーヴァントは隙だらけだった。
右腕をカチ上げられたアーチャーに、投槍を弾いた直後のランサー。ランサーはすでに次の攻撃に備えつつあるが、アーチャーは……
「させねぇ!」
ランサーがスカサハに突っ込んでくる。
それを見もって、スカサハは息をゆっくりと吐いた。
呼吸と共に魔力を両脚に、そしてその先の地面へと流し、自分が流した魔力の流れに乗った滑るような高速移動で、ランサーの突進を左にふくらむように躱し、横一文字に斬撃を放つ。
アーチャーの腹から、血が舞った。
ランサーが振り向いた時にはもう、スカサハは離脱していて、両手でクルクルと槍を玩びながらため息をついた。
「誘われたなセタンタ。
いつも言っているだろう。戦闘に集中するのはいいが、熱中すると大雑把になるのは欠点だと」
スカサハがランサーを横目に見る。
槍の回転は止まっていた。
「バディの危機と、私の晒した隙に惑わされ逸ったか。
まったく……もう少しお前が冷静ならば、アーチャーが傷を負うことも無かったろうに」
スカサハが眺める先、アーチャーの腹には、ちょうどヘソの辺りに一文字の傷がある。
アーチャーの、莫耶のガードの上から斬って、その身に斬線を刻んでいた。
「やはり……か」
アーチャーが右手で腹をさすりながら、思わず、といった風にこぼした。
「スカサハ、その身に虚数魔力を取り込んでいる貴様だけが、このイマジナリ・アラウンドの中でダメージを与えられる、というわけか」
「虚数という概念は他の数と比較できない。だが虚数を掛けてやれば話は別だ。“どちらが深く沈んでいるか”だけは、辛うじて表現できるのだからな」
スカサハが一歩、二歩、三歩と歩き、胸を張って声を張る。
「間桐慎二に綾子を追わせないことで無力化し、イマジナリ・アラウンドでアーチャーと士郎とを無力化した。セタンタの宝具は撃たせる前に儂が潰すし、儂がゲイボルクを放たなければ、そこな小娘は振り上げた“ルーの剣”を下ろせない。
———さぁ、次はどうする?」
チッ、とランサーが舌を打つ。
バゼットさんが険しい顔で黙り込む。
「お前たち、そろそろ気付いているのだろう?」
スカサハは赤槍の石突を地面に立てて、槍にもたれ掛かるように、右腕を絡めて立っている。
「アーチャーが、極力魔力を使わずに戦っていることを。
だからこそ、セタンタがよくカバーに入る。
———違うか?」
スカサハは、目を細めてランサーを見た。
ランサーは黙って槍を構える。
そんな反応に、スカサハはフッと笑った。
「彼の女神が戦っている。だから、アーチャーは魔力を制限して戦わざるを得ない。固有結界の発動には遠坂凛の宝石から。その解除は士郎の魔力から。
———お陰で、衛宮士郎も魔力切れだぞ?」
そう、さっきの場面も、普段のアーチャーなら弾かれた干将はすぐに手放していた。下手に握りしめた状態で腕ごと弾かれると、体幹が崩れて隙になる。だからこそアーチャーは、さっさと手を離し次を投影する。その時に飛ばされた剣をも攻撃に利用できるように、“干将・莫耶”を好んで使う。
だか、さっきの一瞬、アーチャーは迷ったのだ。弾かれた干将を、手放すかどうかで。
少し、笑ってしまった。
それほどに、ピンチだったから。
「———よし、じゃあ今度は、俺が出る」
だから俺は前に出た。
バゼットさんの隣にいた俺は、ずーっと歩いて、アーチャーを追いこし、ランサーをも追いこして、一人、先頭に立った。
「須賀さんにも見せたことが無い、“切り札”を切る」
「———馬鹿者、儂の名は“スカサハ”だ。
何度言ったら判るというのか……」
◇ ◇ ◇
神代回帰の効果を持つ“オケアノス大結界”が消滅し、神秘の濃度が元に戻って、“神話の戦い”は終わりを告げた。
隅っこに避難していた凛は、戦いの中心地に走った。その場所に辿り着いてみると、メーティスは倒れている。そこから、ある程度離れたところで、ギルガメッシュが立っていた。
慌ててギルガメッシュを警戒する凛を見ると、ギルガメッシュは口を開き、ハキハキとした声で言ったのだった。
「我よりも、だ。そこな女神を看取ってやれ。それの存在はもうじき終わる。
せめて貴様が看てやるのが筋だろうよ、リン」
ギルガメッシュの言葉に従って、凛はメーティスを振り返った。元より、凛が立ち止まった場所はメーティスの近くだった。だから、メーティスの状態がよく見える。
「私に……触れてはなりませんよ、凛。貴女が…………汚れてしまいますから」
凛がメーティスに駆け寄った時の第一声は、こちらを気遣う言葉だった。“汚れる”というのもやはり、文字通りの意味だろう。メーティスの全身は腐りかけ、蛆虫が這い回っていた。
そんなメーティスを、遠坂凛は抱き起こす。
「汚れてない! 汚れてないからっ!
———アンタは綺麗だからっ」
凛はメーティスの耳元から、それでも大声で叫んだ。万が一にも、メーティスが聞き逃すことのないように。
「でも、ほら———貴女の頬にも蛆虫が……ね?」
「関係ないっ! 蛆虫だろうが何だろうが、アンタの美貌を損ねるには、ぜんっぜん足りないのよ! アンタは、私が出会ったどんな女よりも、綺麗だから」
凛の声を言葉を聞いたメーティスは頬を緩めて、それからフッと凛の頬にいた蛆虫を吹き飛ばした。
「———女である貴女がそう言うなら、少し、信じてみたくなりました」
—————私は、本当に—————
「士郎とアルトリア、それから桜のこと……どうか———」
「——————ッ、まかせなさいっ」
メーティスは最期に、微笑んだ。
「……あぁ……月が、綺麗ですね。叶うことなら、シロウと……次の夜明けを————」
メーティスが、魔力の粒になって消えてゆく。
ものの10秒も経たないうちに、凛の腕の中には、何も、いなくなってしまった。
「終わったな、ならば行くがいい。今ならまだ、間に合うだろうよ」
メーティスの最期を看取った後、彼女の粒子の残滓を見ながら、英雄王が口を開いた。
凛は立ち上がり、ギルガメッシュに向きなおる。
「『間に合う』って、どういう意味よ?」
「ハッ! 何かと思えばそんな事か。下らん、我は“結末”に“間に合う”と言ったのだ。さぁ行け、後はその目で見るが良い」
そこまで言うと、ギルガメッシュは黙ってしまった。ただ立ったまま、ずっと。
これ以上は何も答えてくれないことを悟った凛は、全身に魔力による強化魔術を施した。
「ありがとう、王さま」
それだけを言い残し、凛は走り出す。セイバーの後を追って、円蔵山へ。
……、
…………、
………………。
「———行ったか」
ギルガメッシュが唯ひとり、言ノ葉を遺す。
「もう少し、きちんと説明すべきではあったが、王が無様な姿を晒すわけにはいかぬ故な。
———まあ、せいぜい頭をひねるが良いぞ、凛。貴様なら、辿り着くだろうよ」
王はあくまでも、立ったまま、ずっと。
「愉しかったぞ。この我が本気を出せる存在は稀だ、褒めて遣わす」
それは英雄王の前に立ちはだかった原初の女神、メーティスとの戦い。
そして———
「ひと睨みで我を殺すか。
天地乖離す開闢の星のさらに上からねじ込まれるとは———良い目を持っているな、メーティス」
—————じゃあね。さようなら、可愛いメドゥーサ。最後だから口を滑らせてしまうけれど、———憧れていたのは、私たちの方だったのよ? —————
「まぁ、今の貴様なら、逃げ回らずとも良かろうて……。
いや、何にせよ……これで終わりか」
黄金の英雄は、最期まで立ったままだった。