時は夜。
場所は未遠川近くの海浜公園。
地面はレンガ造り。
頭上には半月と、囚われの桜が浮いている。
眼前には敵の、スカサハが一人。
「———よし。じゃあ今度は、俺が出る」
そう意気込んで、俺は先頭に立った。
アーチャーは遠坂の魔力切れを心配して全力で戦えない。
ランサーの宝具は発動前に潰される。
スカサハが宝具を発動しないから、バゼットさんの斬り抉る戦神の剣は起動したまま、発射できない。
なら、俺が出るしかないだろう。
左手で腰をさぐる。腰に差した無逆の鞘をひっつかみ、地面と並行になるように“シュルッ”と引き出す。
そして、右手一本で太刀を握った。
「来るがいい、士郎」
スカサハは、腰を落として槍を地面と並行に。
彼女のボディーラインを強調する、赤紫の薄い服。腰に巻いている僅かばかりの遊び布が、夜風に吹かれてはためいた。
そして、ゲイボルクが光を燈す。
後ろから、息を呑む音が聞こえた。それら一切の全てを無視して、己の中に沈んでく。
———刺し穿つ死棘の槍という宝具を、衛宮士郎が初めてみたのは、冬木市にトンボ返りした、その日の夜だった。
時間を逆行し、因果を逆転させながらセイバーに疾走していく赤い槍。セイバーはそれを左右に斬り払い、最後には偶然すらも味方につけて、ゲイボルクから生還したのだ。
衛宮士郎が初めてゲイボルクを見た夜から、ずっと疑問に思っていることがあった。
それは『どうしてセイバーはまだ生きているのか』ということだ。
何のことはない、刺し穿つ死棘の槍の能力が、“セイバーの心臓を穿つという結果”を本当の意味で確定させたというのならば、当然、“セイバーの心臓が穿たれるという結果”は人理定礎に組み込まれているはずだからだ。
“人理定礎”、またの名を“事象固定帯”と呼ばれるそれは、“人類史を固定する事象”を指す言葉だ。余計な可能性を摘み取り、些細な出来事によって変動しがちな歴史を固定する座標のこと。
例えば、“フランス革命”や“ローマ帝国の崩壊”、“アメリカ合衆国の成立”といった人類史に大きな影響を及ぼした出来事は、無かったことになると歴史が土台から崩れてしまう。
こういった“変動してはマズい出来事を記録したもの”が“人理定礎”だ。
こうした出来事の“結果”をあらかじめ固定しておく事で、たとえ過去や未来から干渉を受けたとしても、世界は致命的な疾患を生じることなく、人類史は存続される。
ようは抑止力の一つ、人類の集合的無意識、“アラヤ”のひとかけらだ。
例えの一つとして、“ブリテン王国が滅びるという結末”があるとする。その“結末”を過去や未来からの介入によって変えようとしても無駄だ。
『未来からの介入によってより繁栄はした。アーサー王はカムランの戦いを生き延びた。だが、キャメロットに帰り着いたアーサー王に居場所などなかった。ブリテン王国はやはり、最終的には消滅する』となるように、過程を僅かにしか変えられず、大筋の“結末”は変わらない。
だから刺し穿つ死棘の槍が、カタログスペック通りに相手の心臓を貫いたという結果を本当の意味で確定させることができるなら、セイバーは今に至るまでのどこかの時点で死んでいないとおかしい。
———人理定礎に刻まれるとは、そういう事だ。
たとえ運良く、ランサーのゲイボルクを躱したとしても、セイバーが死ぬことに変わりはない。死因が槍のひと突きである必要は、どこにもないのだから。
死因はバーサーカーとの戦いか、美綴綾子との戦いか、あるいは何かの拍子にポックリと。
人理定礎に“セイバーの心臓が穿たれる”ことが組み込まれるなら、セイバーは心臓を貫かれて死ななければいけないのだ。
現実はどうだろうか。
あの日からすでに、ゆうに十日は経過した。だが、セイバーは未だ生きている。
だから、衛宮士郎は賭けてみることにした。
彼の槍の能力が、人理定礎にその結果を刻み込むものならば、衛宮士郎になす術はない。
———だが、
そうでないのなら、地の果てまでも追い詰めるほどの圧倒的な追尾の呪いを、軌道を捻じ曲げ、分裂してでも対象総てを穿つ呪いを、一つの心臓に収束させることにより因果逆転の領域にまで昇華させただけのものであるならば、俺の、腰の剣が効いてくる。
俺は左手で腰の鞘を握り、右手で投影した無逆を持って、前にいるスカサハに、ゆっくりと近づいていく。
お互いの距離は10メートルほど。
———まだ、近づける。
ゆっくりとスカサハに近づきながら、右手を、その先の打刀を、後ろに構える。
基本の五法の一つ、右脇構えよりもさらに、刀を体の後ろに置いて、正面にいるスカサハから刀身が見えないように。
———5メートル。
そこで止まった。
左肩を前、右肩を後ろ。左腰を前、右腰を後ろ。
脚は肩幅よりも広くとり、左膝を少し曲げ、膝の先端をスカサハに向ける。
左手は鯉口付近を握り、右手は刀を体に隠す。
———武術の歩法を極めれば、その全ては“縮地法”に行き着くとされている。
『視界にいてなお目で追えぬ』、『いつ動いたのかすら判らない』、そんな縮地法を居合術から求めようとする時、一番最初に始めること、縮地法への第一歩は“座構えからの立ち上がり”だ。
———“座構え”、居合道では“立膝”と呼ばれる構えは、ちょっと特殊な座り方で座る構えだ。流派によっては“片胡座”とも言われるコレは、一言で言えば、『左は正座、右胡座』。左足を正座のようにお尻に敷き込み、右足首は胡座を掻くように左膝の近くに置く。そして右膝を、横に寝かせる。
座構えから立ち上がる時『右膝を立ててはいけない』。先に腰を跳ね上げてから、その後に、腰と地面との間、その開いた空間で右膝を立てる。
居合術の稽古では、脚に力を入れている時間などない。常に、相手は剣を振りかぶっていることを想定し、こちらは座った状態から、剣の下ろされるより、さらに早くに立ち上がる。
文字にすればどうという事はないコレの、どれほど難しいことか。
通常、右脚にも左脚にも力を入れず、腰から上の動きだけで上方向の推進力を得ることなど、まず有り得ない。
だが居合では、最初にそれが要求される。
当然、秘訣は腰から上にある訳だから、慣れてくれば、正座からだろうと胡座からだろうと、脚に力を入れずとも立ち上がれるようになる。
そして当然———立った状態からでも、同じ事が出来る。
“脚を使わずに宙に浮く”、居合術が難しいと言われる所以は、案外こんなところにあるんじゃないかと、衛宮士郎は思うのだ。
腰を落とし槍を構えるスカサハに、右手の刀を投げつける。
ここはまだ、イマジナリ・アラウンドの中にいる。だから、投げた刀でのダメージは見込めない。だが、スカサハは刀を弾いた。
士郎は刀を投げることで、スカサハの視界を塞いだ。自分の感覚を遮られることを嫌って、スカサハは刀を弾いたのだ。
左手は鞘を握ったままで、衛宮士郎は、ググッと身体を低くした。その右腕が柄へと伸びる。
スカサハの槍が輝きを増した。飛んで来た刀を左に弾いたスカサハは、刺し穿つ死棘の槍を発動しながら、右脚を大きく踏み出し、穂先が左を向いた槍を、右手一本で振り切った。
ただそれだけで、絶技だった。
『達人同士の戦いは単純は技の応酬になる』と言う人がいる。
本当にそうだろうか?
例えば、目の前に紙屑が落ちているとしよう。それを拾う。
武術を知らない人間が紙屑を拾う動作、武術の達人が紙屑を拾う動作。同じはずがないだろう。
“腰を落とす”というただそれだけで、相手を吹き飛ばせる人がいるのだ。
“肩に手を置く”というただそれだけで、相手を倒せる人がいるのだ。
だから今でも、神様に演舞を奉納する武芸者がいる。
自らの鍛え上げられた身体を見せるためだ。武術の達人の身体は、一種の芸術品だと認識されている。彼らの身体は、その造りからして一般人とは乖離している。武術を知らない人間がどう動いても、彼らと同じようには、動けないのだから。
世の中には目に見えないモノが溢れている。
物理学者は“アインシュタインの方程式”に興奮する、数学者は“オイラーの数式”を見て涙を流す。そういった人々には見えているのだ、我々には見えない、とてつもなく綺麗なモノが。
武術の動きもそれと同じで、“現実世界には存在しない”し“誰の目にも映らない”。それでも確かに、“美しい動き”は存在している。
スカサハは左に構えたゲイボルクを真横に一閃、振り切った。
そんな横薙ぎの斬撃は、いつの間にか消えている。
「——————刺し穿つ———」
早過ぎて目で追えない横薙ぎ。次に士郎の目が追いついた時、それは突きへと変化していた。
「—————————死棘の槍ッ!!」
因果すらも逆転させる死の呪いが、士郎の心臓に狙いを定め、放たれる。
赤い閃光が士郎に向かって駆け抜ける。
———そして士郎は右腰を、後ろに引いた。
「————御稜威流居合術、奥儀の始まり——」
右腰を引き始めてから後、ほんの僅かの時間差で、柄に手を置き、右腰を追い越すようにして、左腰を引き切った。
「——————歩法水端・“居合染め”」
左腰を引き始めた瞬間から、衛宮士郎には手足の感覚がなくなった。自分の意識が体から離れていくような、目を開けたまま気絶しているかのような。あるいは、体が、消えて無くなったかのような。
士郎の体の左側を、ゲイボルクが駆け抜ける。
脚に力を入れることなく、両腰の操作だけでスカサハの突きを躱しきった。
だが、刺し穿つ死棘の槍は発動している。つまり既に、“衛宮士郎の心臓を穿つ”という結果は確定している。
スカサハのゲイボルクはカクカクと折れ曲がりながら分裂し、時間を逆行し、最初から分裂したことになって、複雑な軌道を描きながら五つの穂先が、心臓めがけて突っ込んで来た。
士郎の右手は柄を持ち、その左手は鞘を握る。士郎の肩と腰とが開き、するりと、そのその刀身が露わになった。
———居合。
それは、“絶対に勝てない戦いで、それでも勝ち筋を見つける能力”。
人間は時間を身体で刻む。人間は自分の体を使って時間をカウントする訳だから、体を細かく割って使う事は、時間を割って使う事に帰結する。
士郎の身体は、今、各部が別々のテンポで動いている。右肩と左肩、右腰と左腰、そして右脚と左脚とが全く違う時間を刻んでいる。
居合術の神髄は、他に類を見ないほど精密な身体操作にある。ゆえに、別々の速度で動く六のパーツと、それらを俯瞰して観る頭のパーツ。これら計七つの部位は、それぞれが未来へとフライングしている訳だ。
日本武術において“勝ち目が無い”ということは、“相手のほうがより先の未来に居る”ということだ。そして敵は、“未来体感”のスキルを持っていると思っていい。極めれば“天眼”へと昇華し得るもの。無限にあるべき未来を“たった一つの結果”に限定する、極めて特殊なスキル。
そんな相手から、未来を掴み取ろうというのだ、それは並大抵ではない。
その答えが、ここにある。
林崎甚助が授かったもの。それこそが、“並列の逆行”だ。
全身の時間感覚を七つに分け、それぞれが時間をフライングして“未来を体験”し、“勝てた未来に自分の全ての感覚を同調させる”ことで、その未来を引き寄せる。
———これら全てを、一呼吸のうちに重ねるのだ。
未来における、七つの同時並列斬撃。現在ではなく、体感する未来を飽和させて、未来において勝利をおさめる、それが居合の神髄だった。
俺は、完全に鞘から抜け出た刀を、下から上に、一直線に斬り上げた。
「——————極限切り裂く無からの一撃」
◇ ◇ ◇
「……凄い」
バセット・フラガ・マクレミッツには、その一言で精一杯だった。
衛宮士郎という赤毛の少年の一連の動きを頭の中で反芻していて、ハッと我に返ってから、やっと、自分が斬り抉る戦神の剣を発射していなかったことに気がついた。
力瘤を作るように構えた右腕と、天を向く拳。その10センチほど上で、未だに滞空している黒い球。
バセットは、自分の宝具を見ながら、ため息をついた。しかしそれは、“自分が宝具を使わなかった事への後悔”ではない。
軽く魔力を纏いながら浮いている逆光剣から視線を切り、衛宮士郎に目を向けた。
士郎は居合のあと、下から上へと刀を斬り上げた体勢だ。
スカサハは右脚を大きく踏み込み、右手一本で、真っ直ぐに槍を突き出している。その右手にあるゲイボルクは、半ばから切り飛ばされていた。
「凄い、何ひとつ見えないなんて……」
速くて見えない訳ではなかった。と、バセットは独りごちる。むしろ、感覚としては『衛宮士郎が遅すぎて見えなかった』感じだった。まるで、動いていないかのように見えたのだ。
「良かったな、バセット」
右隣から声がする。振り向くと、ランサーがいて、目と目が合うとニッと笑った。
「お前の宝具使ってたら、今頃ボウズは死んでたからよ」
付き合いの浅いバセットですら見抜ける程に上機嫌なランサーが、槍を右肩にかけ、三歩ほど前に出た。
「しっかしまぁ、面白え状況だな。
真正面からゲイボルクを、呪いごと切り裂きやがった」
士郎とスカサハが急に離れる。二人が反対方向にバックステップし、さらに何歩か大きく退がり、距離をさらに大きくとった。
バセットの後ろから舌打ち、アーチャーが弓の投影を解除した。
「衛宮士郎、なんだその様は。
自分だけで飛び出した挙句、手の内を晒すだけで帰ってくるとは、ガキである癖に間抜けとは、最早手が付けられんな」
結果もイメージせず勢いだけで飛び出すからだ、馬鹿め。とアーチャーが移動してランサーと肩を並べる。
「確率の最も高い手段だけを取れ、衛宮士郎。分不相応な憧れを持つお前では、それでもまだ不足だがな」
「まぁ、そう言うなよアーチャー。
戦いには“流れ”ってもんがある。ボウズの切り札は一切効果がなかったが、それでも勢いだけはあった。
———良いじゃねえか」
オレは好きだぜ、そういうの。と、ランサーもゲイボルクを光らせながら、低く構えた。
確かに、とバセットも頷く。
自分も、もう少しやれそうな気がしたから。
心を入れ替えて、先頭に立つ三人の戦士と最後方にいる一人の兄をチラッと見た。
この戦闘の始まる前、作戦会議を行った時に聞いた間桐慎二の切り札、起源弾。そもそも、術の構成からサーヴァントには効果があまり見込めない上に、イマジナリ・アラウンドの魔力源は間桐桜であるという。その事実があるだけで、起源弾は使えない。
アーチャーと士郎は、魔力がすでに心許ない。
スカサハにダメージを与えられる武器が自分とランサーの宝具しかない以上、選択肢は限られてく———
「……あらっ?」
ふと、バセットは思った。スカサハはなぜ、アーチャーの矢を避けたのか。アーチャーはなぜ、この状況で前に出たのか。
「———まさかッ!」
その真逆だった。
スカサハが、アーチャーの矢を躱している。
ランサーと士郎とで接近戦を仕掛け、少し離れた所からアーチャーが弓で援護している。その“射”は何度見ても惚れ惚れする腕前で、確実にスカサハに当たる軌道を描いている。
今まではそれを、スカサハは無視していた筈だった。
“その事”に気づいた時、バセットは震えた。
しばらく、鳥肌が消えなかった。
「“魔剣・無逆”—————そういう事ですか」
◇ ◇ ◇
間桐桜は、その戦闘をずっと、未遠川の上空から眺めていた。
今もそう、桜の眼下で、衛宮士郎が回避盾として戦っている。
スカサハの注意を引き付けて、その突きを躱す。士郎は地面を蹴ることなく、腰から上、体幹の操作だけで、自分の体を右に運んだ。
士郎の体の左側を、スカサハの槍が突き抜ける。突きを繰り出すために踏み込んだスカサハは、この瞬間、士郎の剣の間合いに入った。右脇が前の脇構えから横一閃。ちょうど、ストライクゾーンに飛んで来た野球ボールを打つような位置関係で、士郎が刀を左から右に、一文字に振り抜いた。
対してスカサハは、突き出した槍をそのまま、地面と並行にしたままで下から上に、自分の頭上に引きつける。
士郎の刀を、横に寝かせた刃の鎬を、槍の柄で上に押し上げることで空間を作りだし、体ごと屈めて、士郎の足元のスペースに飛び込んだスカサハは、相対的に体の上に位置する槍を、両手で掴んで、反転しながら振り下ろす。
士郎は振り切った刀をそのままに、自分の体を反時計回りに180度回転させる。スカサハと向かい合い、体の後ろにある剣を頭の上から振り下ろす。
士郎は刀、スカサハは槍。お互いに鎬を削りながら、両者共に振り下ろし、お互いの武器がお互いの武器を押しのけるように、両方の武器が逸れていった。
士郎はランサーに攻撃の場所を譲るように後ろに退がり、代わりにランサーが、スカサハの前に踊り出る。
———まるで、演舞を見ているような、皆で踊っているような。
———まるで、何手も先を読みあっているような、全てが予定調和であるような。
桜は思う、『きっとこの人たちには、自分の“負け筋”が見えているに違いない』と。そして戦闘中、遙か未来に浮かび上がった“負け筋”を、丁寧に潰しながら戦っている。
それから、士郎が大活躍を始めた。
今も、スカサハが攻撃に打って出ようとした瞬間に、スカサハの間合いギリギリで刀をひと振りすることで、スカサハの攻撃をキャンセルさせた。
桜には、何がどうなっているのか全然分からないけれど、スカサハは間違いなく士郎たちを殺しに来てるし、さっきも本気でゲイボルクを発動してたし。
そんなスカサハが攻撃をキャンセルしたなら、キャンセルしたなりの理由がある筈で、それはやっぱり、士郎だと思うのだった。
それとも。
それとも桜が、“士郎が活躍できる理由”を知っているから、士郎の動きが変わったように見えるのだろうか。
———あのバカ遠坂っ、何が『真人間にする』だ。全然解ってないじゃない———
……そうだ。
間桐桜は、士郎が“極限切り裂く無からの一撃”を使うことの意味を知っている。
もっと言うと、普段の士郎が抱える問題について正確に理解しているのが、桜だけだとも言える。
———『最近の士郎が変』だって? そんなの、随分前から解り切っていたことじゃない。アンタだって、薄々気づいてたんじゃないの? 自分自身と、士郎が抱える問題にさ———
アンタだって、魔術の才能が無いんだしさ。というような事を、美綴綾子に言われたと思う。
その時は確か、ムキになって言い返したような気がする。「わたし、こんな才能なんていりません」って。
そこは確か、衛宮邸の居間だった。
美綴は、座敷机に正座していた。右手を腰に当て、左手で顔を覆い、ため息と共に反論した。
「まぁ、アンタにとっては魔術の才能なんてどうでもいいモノだと思うけど、“何でも良いわけじゃない”んだからさぁ」
そう言うと美綴は、右手を腰から離して人差し指をピンと立て、対面に座る桜の顔を見て、口を開いた。
「アンタは、遠坂凛とほぼ同じだけの魔術回路を持って生まれて来た。この意味分かる? メインの回路が40本、そしてメイン一本につきサブ回路がそれぞれ30本づつ持ってるワケなんだけど。
———つまり、1,200の魔術回路が、その体には流れてる」
士郎なんか27本だぜ。と美綴。
「さらに言うなら、“架空元素・虚数”を持って生まれて来たアンタは、その属性の希少性でも“五大元素使い”と比肩し得る」
解る? と美綴は、琥珀色の目を少し細めた。
「そんなアンタに“魔術の才能が無い”なんてのは、嘘だろ」
「そんなっ、でもわたし———」
「『実際、何も出来てない』———そこだ、そこなんだよ桜。私がずっと言い続けてきたことは」
座敷机に置いている湯呑みを掴んで一気飲みする。ドンと湯呑みを叩きつけるように置いた美綴は、半ばほど桜を睨め付けながら、士郎について語り始めた。
「士郎はさ、才能が“有る”とか“無い”とか、そんな次元にはいないワケよ。アイツは初めから“無に成ること”が出来たから、才能云々以前に“始まりから至ってる”んだ、アイツはさ。
本人は魔術修行の成果だとか抜かすけど、アレは生来の気質だぜ、絶対」
そういえば一時期、拗ねていたことがあったな。と桜は、湯呑みを持って一人ごちる。
「柄を握るだけ無駄じゃないのよ」と士郎に詰め寄っていたことがあった。「アンタは刀を抜かずに勝てるんだから。抜刀するだけ“遅れ”だから」とか、なんとか。
———ふと、美綴綾子と目が合った。
彼女の目は琥珀色に輝いていた。
「でも、最近の士郎からは、剣の才能を感じない。桜の言う“士郎が変わった”ってのは、これのこと。士郎から、才能が消えている事。
原因なんて、始めから判りきってることだけど……。
アンタと同じよ、桜」
—————慢性的な、極度のストレス—————
ほら、また、士郎がスカサハの槍を止めた。スカサハが突き出した槍に、そっと左手を添えているだけ。
士郎はスカサハの握る槍を介してスカサハの、掌の皮膚に働き掛けて、一瞬だけ、スカサハの体を硬直させた。
そんな、活き活きしている士郎を上から眺める桜には、“士郎の感覚”が流れ込んできていた。
———それは、不思議な感覚だった。ただ、不快ではなかった。
自分の体から士郎の手足が生えているような感じがした。士郎の手足は明らかに桜の体から生えているように感じるのに、士郎の手が握る刀の触感がする。桜の体についていないはずの三本目と四本目の足が地面を蹴る感触がする。
それだけではない。
桜の胴体からもう一本、首が生えている感覚もあるし、“士郎の目”が見たものや“士郎の耳”が感じたものが、桜にも分かった。
———それは、不思議な感覚だった。自分の肩や脚を目で見ても、当然何も付いてないのに、その“付いてないはずの手足”を、動かすことが出来るのだから。
桜の両腕は背中で拘束されている。でも、桜にはもう一対の腕があって、その腕で、刀を振ったりできる。
桜の両足は地面から浮いている。でも桜にはもう一対の足があって、その足で、地面を蹴ったりできる。
———それは不思議な感覚だった。まるで足が四本、手が四本、首が二つある化け物になったかのようだった。
ただ、不快ではなかったのだ。
ふふっ、という声が自分から漏れた。それで初めて、自分が笑っていることに気がついた。
士郎の心配はしていない。だって、士郎が死ぬことはあり得ないから。桜には、士郎が今、なにを感じているかがよく分かる。士郎がどれだけ丁寧に、死を回避するために先手を打って行動しているかがよく分かるから、士郎は死なないと分かっているから、心配などしていない。
桜は、快感だった。
今、まさに今、自分と士郎とは繋がっているのだ。士郎がなにをどう感じているのか、手に取るようによく分かる。
逆に、自分の感覚が全部、士郎に転送されていることも……。
そして、二人は同じ事を考えている。
だからこそ、桜が士郎の手を動かそうとして、その通りに士郎が動く。桜が一歩を踏み出そうとして、士郎の足がそう動く。
「……。そういう事だったんですね、先輩」
桜は、目を閉じた。
でも今は、士郎の見ているものが、桜にも見えている。
目の前には、スカサハがいる。スカサハが槍を持ち、上から下に斬り下ろす———その矢先、スカサハの足元を掬うように、士郎は刀を低く薙いだ。
スカサハは、士郎の刀の届く距離にはいない。にもかかわらず、スカサハは攻撃をキャンセルし、防御の構えに移行する。結果、スカサハは一瞬、硬直した。
「———ありがとうございます、士郎さん」
桜はもう一度、目を開く。
桜の目には、空から降る無数の槍に追い立てられるランサーと、そのカバーに入ったアーチャー。ほとんど棒立ちで戦いに見入っている慎二とバセットが見えた。
ふふっ、と桜が笑う。なんのことはない。この状況で、思い出してしまっただけだ。
———桜。今日、一緒に帰らないか? 見て欲しいものがあるんだ———
あの日。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
士郎に連れられて、いつかの図書館に行った日のこと。
図書館に着くより前から、士郎は少し興奮気味で、鞄から一冊のノートを取り出した。
士郎が広げて、そのページを見えるように持ち上げる。
大学ノートの左のページの真ん中あたりに、その数式は存在した。
士郎の左隣にいる自分は、士郎が右手で広げたノートをマジマジと見つめて問いかけた。
「何ですか? それ」
「これは、“量子の存在を書き表す方程式”だ」
「“量子”……、前に聞いたことがあります。“物理学の何か”、ですよね? 先輩」
桜は学生鞄を後ろ手に両手持ちし、少し胸をそらせるようにして、士郎の左を歩いている。
そんな桜と並走しながら、士郎はノートのページを、その数式をチラリと見た。
「“量子力学”。この世界の事をより正確に、より深く知ろうとしていると、あるところで考え方をガラッと変えなければいけなくなるんだ。一定領域よりも小さな物を見ようとした時、そこには、今までの物理学では考えられないような世界が広がっていた。
そういった世界、量子世界の、最も基本的な方程式がコレ、“シュレーディンガー方程式”だ」
桜は別に、物理やら数学やらに詳しいわけじゃない。でも、そんな桜でも、士郎の見せる方程式を見て一つだけ、分かることがあった。
士郎がどうして、そんなものを持ってきたのか。
桜は右手を鞄から離すと、士郎の見せる方程式の左端を指差した。
「先輩、ここに書いている“$i$”っていうの、これが虚数なんですよね?」
「そう、この“シュレーディンガー方程式”は量子力学の基本方程式だ。そこに虚数が混じっているってことは、『量子力学以降の物理学は虚数を使わないと理解すらできない』ってことだ。
量子力学は世界の裏側を記述する理論なんだ。つまり、世界は虚数に満ちている」
何かの“存在を書き表す方程式”があるなんて知らなかった。
桜は図書館の戸をくぐりながら、そう思った。
「世界は二層構造になってるんだ」
図書館の奥まった場所にある読書スペースに座りながら、士郎はそう切り出した。
円形のテーブルに、椅子が二脚。それぞれが対面に座り、士郎はテーブルに両肘をついて、右手の指で、開いたノートの数式をなぞった。
「俺たちが知っている世界。一日は二十四時間で、原因の後に結果があって、起きたことは戻せない。そんな、表層の世界。
もう一つの世界。原因の後に結果がなく、結果があっても原因はなく、そもそも時間すら存在しない。そんな、深層の世界」
士郎の人差し指の先、桜にはちっとも分からない文字の羅列が、少しだけ、色づいて見えた。
「桜、これはその世界への入り口なんだ。俺たちが普通に見ている世界、遠坂の操る五大元素の世界とは別の、もっと深くにあるもう一つの世界への、入り口なんだ」
「でもそんなの……分からないじゃないですか。
世界の裏側は、とっても醜いかもしれない。だって“虚数の世界”なんですよ? そんなの、皆嫌いに決まってます」
桜が士郎の顔を見ると、士郎は目を細めて笑っていた。しょうがないな、という風に。
士郎は一つ息を吐いて、桜の目を見て、言った。
「桜はさ、“世界一美しい数式”って、知ってるか?」
「知りません。知りたくないです、そんなの」
桜が突っぱねると、士郎は「ハハハ」と声に出した。
別に困らせたい訳ではなかったから、せめて士郎の顔を見ていると、遂には左手で、首の後ろを掻いてしまった。
「“世界一美しい数式”は、人類史の結晶なんだ。今まで人類が積み上げてきた“考え方”ってものが、一つにまとまった瞬間だった。
人間は色々考えてる。長い歴史の中で、『こういう時にはこういう風に考えた方が良い』ってモノが、ずっと伝承されていた。
そうやって、個々別々に生み出され、運用されてきた色々な考え方を、ある時、『虚数を触媒にして連結させる事が出来る』ってことに気づいた人がいた」
残った右手で、士郎はノートのページをめくる。
一つ、二つ、三つ……。
そして、桜の気づかないうちに、士郎の右手は止まっていた。
士郎の開いたページの右下、最後の行に小さく書かれた数式を、桜は今でも覚えてる。
—————— $e^{ i \pi }=-1$——————
「数学者たちが初めてこの数式を見た時、感動して泣いたらしい。
だから俺も、先生たちに聴いてみたんだ。理系の先生の中で、数学を知ってる先生の中で、これを嫌いだって言う人はいなかった。“醜い”だなんて以ての外だ。先生方が皆そろって、俺にその“美しさ”を語ってくれた」
全部理解したなんて、口が裂けても言えないけどな。と士郎は、左手で首筋をモミモミしている。
その手つきが面白くって、桜は不思議と笑ってしまった。
「確かに、虚数は嫌な数だったかもしれない。でも、それはもう昔の話、だからな」
それから士郎は、桜にたくさんのことを語った。
“オイラー”という人が虚数の本当の意味に気づいた話。オイラーの公式を知った“シュレーディンガー”という人が世界の裏側に足を踏み入れた話。世界を正確に理解したいなら、一度“虚数領域”に潜り込んで、また現実世界に戻ってくる必要があるらしい事。
そして、“世界一美しい数式”と出会った人は、皆虚数を好きになると力説された。
「だから桜、苦しかったら『苦しい』で良いんだ。痛かったら『痛い』って言えば良い。
———傷は耐えるんじゃなく、ちゃんと訴えてくれ。じゃないと俺には、それが分からないんだ」
「それは———」
「俺は、自分から困難に突っ込んでる。それは、自分を成長させたいからだ。
俺が成長できるのは、“自分の能力では乗り越えられない困難”に出逢った時。自分の出来る範囲のことやり続けていても、大した成長は見込めない。
だから俺は、自分の知らない事を知るために、
出来ない事を出来るようにする方法を見つけるために、
そして今日、助けてられなかった人を、明日こそは、助けられる俺になるために、
自分の命くらいまでは、賭けるようにしてる」
「先輩がずっと、美綴部長に止められるまでずっと、あんな自殺紛いのことをしてたのは、そんな理由からなんだすか?」
士郎は、頷いた。
「俺の中には常識が無い。
たぶん、世界を見て感じる事が、あまりにも世間から外れすぎてる。
———前に、綾子から紹介してもらった人が、その事を“チャンネル”にたとえて、俺に話してくれたがあった」
士郎は頭の裏を見ながら、少しばかり脱線した。
「俺は、『他の人と見ているチャンネルが違う』、と。
他の人が8チャンネルを見ているところを、俺だけ11チャンネルを見ているんだと、そんなことを言っていた。
だから、他の人が話す8チャンネルのテレビの話に、俺だけがついていけない。俺が11チャンネルの事を話そうとすると、周りの人間と不協和が起こる」
士郎がノートをパタンと閉じた。
桜の口から声がもれた。もう少し、見ていたかった。
「だからこそ、俺は知らなければいけない。
何が良くって、何がダメで、桜はどうして欲しいのか。どの辺りから先、助けてほしいのか。
———痛みは、ちゃんと訴えてくれ」
士郎の言葉に、桜はつい、俯いてしまった。
桜の発する声が、口の中でこもってしまう。
「先輩、それなら……姉さんの方が良いと思います。
わたしじゃダメです。姉さんの方が、ちゃんと“常識”を見ていますから」
「だからこそ桜なんだ。
遠坂とじゃ、話がサッパリ噛み合わないからな。でも桜なら、チャンネルを切り替えることが出来るんだろ?
———“世界一美しい数式”と同じように。
俺と世界とを繋ぐ、触媒になってくれないか?」
◇ ◇ ◇
眼下に映る士郎を見る。士郎の目に映るスカサハを見る。
士郎の目に映る世界を見て、士郎の体感を感じとる。
桜には、士郎の次の行動が、手に取るようにわかっていた。
あの後、桜は士郎に「もう少しやらせてほしい」と言ったのだった。間桐臓硯のこと、間桐慎二のこと、桜自身の手で決着を付けさせてほしいと、あの時言った。
理由はいくつもあるけれど、一番は士郎と並びたかったからだと思う。士郎の独白を聞いた時、純粋に桜は、士郎が一番強いと思ったからだ。
能力ではなくその精神性が、強い。
周りの人間は時々、士郎のことを『ロボットのようだ』と言うけれど、桜にしてみれば、そんな彼らの方がよっぽどロボットみたいだった。
———人間の中にロボットがひとり。
士郎のことを、そんな風に理解する。でも、それって『自分たちの方が人間だと思いたい』だけなんじゃないだろうか。
彼らはきっと、逆を考えたことなんて一度もないのだ。
———ロボットの中に人間がひとり。
士郎から見れば、きっと世間はそう見える。世間の“自称普通”の人々のことが、士郎にはきっと異常に見える。「皆がそうしてるんだからしょうがないじゃない」って諦めてる事が、士郎にとっては異常なのだと、桜は知った。
そんな普通の、桜にすれば異常な人々の価値観を、士郎はずっと学ぼうとしている。自分のことを封印して、自分を異常者だと言ったりして。
この世界に、“誰かのために自分を異常だと言える人間”が一体何人いるだろう。
皆の“普通”を護るために、士郎は自分を“異常”にしている。
だから桜は、士郎が最強だと思うのだ。
そんな士郎の“切り札”なんて、たった一つしかないだろう。
———本当の自分を解放すること。
“リミテッド”というのはつまり、自分ではめた枷のこと。自分で自分を制限したこと。
それはまた、“常識の枷”でもある訳だ。『日本刀でそんなの斬れるワケない』と、周りが士郎に押し付けた枷。
極限切り裂く無からの一撃。
士郎には“士郎の常識”がある。士郎には“士郎の普通”がある。それがたまたま、他の人とは違っただけ。
それを無理に合わせようとして、士郎は“自分の普通”を封印した。そんな事も知らないで、皆は士郎を『へっぽこ』と言うのだ。
「助けてっ! 士郎さんっ!!」
士郎が一瞬、桜を見た。
桜と士郎の目と目が合った。
その瞬間、鏡合わせのようにお互いに、相手を通して自分を見た。
「———ああ、待ってろ桜。すぐにそこから解放してやる」
士郎が、目を外す。
士郎の刀、無逆をもう一度鞘に納めて、そのまま真っ直ぐスカサハを見る。
「さっきのは半端だったけど、そのお陰でコツを掴んだ。
次は確実に、断ち切れる」
士郎は柄に手をかけた。
士郎の扱う剣術、“御稜威流”の事も、桜は士郎に聞いていた。御稜威の剣術は決して打ち合わないのだと。
「刃同士で打ち合って、刃こぼれしたら大変だろ」というのが理由だ。
御稜威流は多対一を基本とする。刃こぼれすれば肉に引っかかって抜きづらくなる。その一瞬は、多対一では隙になる。
だから、士郎は決して打ち合わない。
———ひとつの、例外を除いては。
極限切り裂く無からの一撃は、士郎の剣術の中で、唯一相手と打ち合うものだ。
だが、刃こぼれを心配する必要はない。“打ち合い”はしても“鍔迫り合い”になることはないのだから。
衛宮士郎の武装の中で唯一の真作、日本刀無逆において繰り出される不可避の一撃。
士郎の心を“空”にすることで、相手の心を己の内に映し出す。ならば、回避など不可能。相手のあらゆる行動は、士郎の袂に、すでに映っているのだから。
無逆は士郎の最高傑作。担い手が切れると断じたものを切り裂く魔剣。“普通”であれば、それは意味のない能力だろう。常識の中に生きて、常識という絶対法則に守られている人間には、まったく意味のないモノだろう。
だが、“ありのまま”を解放し、“士郎の常識”を振るった時、魔剣は、担い手たる“士郎の常識”のもと、“世界の常識”を切り伏せる。
概念にすら、手を伸ばす。
居合の構えをとった士郎を眺め見て、桜は謳う。
空中で縛られたまま、桜は謳う。
「———わたしは決して望まれぬ者」
柄にかけた右手は添えるだけ、左手にも力を入れず、骨盤を開き肩甲骨をズラすことで刀を引き抜く。
「———心は壊れ、身体は汚れ、その存在は淀みに染まる」
桜の中から、士郎の手足の感覚が消えた。
「———でも、例えわたしが穢れていても——」
桜は知っている、士郎が、今度こそ確実に、わたしとスカサハとの繋がりを、切り裂いてくれるということを。
「———潰されそうな野の花が、誇れる世界でありますように」