温泉郷に程近いこの地に移り住んで六年になる。大輝が小学校に入学するのを切っ掛けに、手頃な一軒家を購入した。
妻を病気で亡くしたのは、大輝が五歳の時だった。それからは住み込みの家政婦を雇い、引き続きここでも働いてもらっていた。だが、二年ほどで足腰の衰えを理由に辞めて帰郷した。
それからは、大輝と二人暮らし。自然の中で育ったせいか、大輝は純朴ではあるが、母親に育てられていないことで何か将来に影響するのではないかと、俺は懸念していた。
その日も、締め切り間近の小説の執筆に追われていた。伸びた鬱陶しい前髪を手で梳きながら、筆を走らせていると、駈けて来る大輝の足音がした。
ガラガラッ!騒がしく戸が開いた。
「お父さん!」
「なんだ、煩いぞ」
「はーはーはー……女の人が倒れてます」
息を切らしながら、ランドセルを下ろした。
「何っ!どこだ?」
反射的に万年筆を置くと、急いで鼻緒を突っ込んだ。
「土手のとこです」
短距離に強い大輝を追った。下駄はカランコロンと音だけは勝るが、ズックのそのスピードに敵う筈もなかった。
況してや、俺の辞書には〈運動〉という文字は含まれてなかった。俺にとって運動は、文章を書くより難しい技の一つだった。
大輝に追い付いたのは、今にも割れそうに、砂利道の小石に下駄を叩き付けた時だった。
「ハーハーハー……」
土手の緩い斜面に立った楢(なら)の木の根元に、ポシェットをたすき掛けにした、ダウンジャケットにジーパン姿の女が、俯せで倒れていた。
「大丈夫ですか?」
声を掛けたが反応がなかった。女の頬に手を触れてみた。温かかった。目を閉じたその横顔は、身形よりは歳を重ねていた。
「……生きてるの?」
大輝がこわごわ聞いた。
「ああ」
「よかった~」
辺りを見回すと、ボストンバッグと黒いキャップが放られていた。躓いて転げ落ちたものと推測できた。
「カバンと帽子を担当しろ」
「はいっ!」
大輝は急いでそれらを拾った。
「他に何も落ちてないだろ?」
「お父さん、ドングリが落ちてます」
「プッ」
……糞真面目な顔で冗談を言うからな。我が子ながら、魅力的だ。
大輝をチラッと見ると、女の帽子を被って、ボストンバッグを提げていた。その格好が滑稽だったので、声を出さずに笑った。
俺は女を背負うと、足下にあった適当な枝を杖にして土手を上った。緩いとは言え、上るその勾配は、運動音痴にはさすがにきつかった。
土手道まで上ると、女を背負い直し、道を急いだ。
厚着をしている割には女は軽かった。歩く度、セミロングの毛先が俺の頬を突っついていた。
「気を失ってるの?」
大輝が心配そうに見上げた。
「ああ、多分な」
「チメーショー(致命傷)じゃなくてよかったですね」
「うむ……ああ」
……難しい言葉を知ってるな。我が子ながら感心する。
大輝に布団を敷いてもらうと、ポシェットとジャケットと脱がした女を寝かせた。枕に載せたその顔は、どことなく儚げだった。