「……はあ……」
吐き出した息は白かった。
当たり前だ。正確な時刻は知らないが、今は真夜中。しかも真冬である。
身体はとうに冷え切っていて、力を抜けば勝手にぶるぶると震えた。
目の前に映る景色も、目を瞑ってるんだか開けてるんだか分からないほど深く、暗く、恐かった。
それなのに、馬鹿な自分はまだここから離れようという気にはなれなかった。
──真夏の夕焼けの帰り道。
また夢にみるのが嫌なんだ。
──小さくて笑顔なアイツ。
別に嫌な思い出というわけじゃないさ。
──側を走ったバイクを見て、交わした約束。
それはとても大切で、宝物だ。
でも、だからこそ辛いんだ。最近は特に。
アイツにとっては取るに足らないものなんじゃないのかって。
とっくの昔に忘れているんじゃないのかって。
そう思うと気が気じゃなくて、でも聞くに聞けなくて、また夢にみて、夜風に吹かれて。
柄じゃないって思うのに、どうしようもない。
「……くそっ……」
めんどくさい自分が心底嫌になる。
「……はあ……」
もう何度吐いたか分からないため息は、やはり白くて、暗闇に散って、やがて消えていった。
◇
未だカーテンを閉めていない窓から見える逆さまの景色は、陳腐だが、綺麗という言葉がよく似合っていた。
藍色と黄金色のグラデーション。見る人の哀愁、郷愁を誘うような空模様に、俺はなんだか切なくなった。
黄昏時。今の時間は正しくそう言うのだろう。
──その意味も風景も儚いものさ。だが、それを美しいものとして捉える人間の感性は……ああ、儚い。
黄昏時で思い出したそれは、公園の小丘で二人で黄昏てた時に薫が語っていたことだ。場の雰囲気もあってすごく様になっていたのを覚えている。
そういえば、あの頃からもう半年以上になるん──
「つく兄〜〜!」『あ』
「────ッ」
その声と共にに突如、猛烈な衝撃が腹を突き抜けた──って、まいぼでぃいずいたいたいなのだ、いたいたいなのだぁぁぁあああ!!!!
一瞬遅れて脳天に届いた鈍痛に内心絶叫である。
「あれ? つく兄? どうしたの??」
腹より上、鳩尾でくりんとした目を向けるお方は堕天使あこちん十五ちゃい。驚くことに俺と同い年だ、学年は違うけど。さて、あこちん。
「ぐおぉ……みぞおちぃ……しぬぅ……どけてぇ……」
急務でありましてよ?
「ミゾオチ……? あっ、ごめんつく兄!」
あこは慌てて鳩尾から顔を、というより上半身を持ち上げ、俺の臍辺りで正座のような体勢になった。 “これ絶対入ってるよね? ” ではないようだ、惜しい。て、そうじゃない。
「ふぅ……どうしたんだ? いきなり」
俺がそう言うと、あこは申し訳なさそうな顔から一転、えへへと笑った。かわいい。
「あのね、つく兄おねーちゃんに怒られて落ち込んでたから元気つけよーって思ったんだー!」
「あこ……!」
なるほど、それであこは飛び込んできた訳か。納得である。
不運にも、飛び込みはフライングボディプレスになってしまったものの、その気遣いだけでお釣りがくるというものだ。それに俺は身体が頑丈であり、あの程度は後には響かない。……いやほんとだよ? 僕ちん嘘しかつかない。屑じゃねぇか!
まあ、それは冗談として。
真面目な話、あこの気遣いは嬉しい、それはもうすっごくだ。だが、いまいち喜べない自分がいるのもまた本心であった。
理由は明白だ。あこは一つ勘違いをしているのだ。
それは何かって? 決まってるじゃないか。
あこちん君、ぼくぁね、別に落ち込んじゃあいないんだよ。
もう一度言おうか? 俺は落ち込んでなどいないのだ。
巴に怒られて意気消沈? んなわけないだろ笑止千万。寝言は寝て言えツインテちっぱい厨二少女。
だって燐子をお姫様抱っこして?
みんなの前で晒して?
巴に怒られて?
アホかと。
そんな俺に落ち込む余地などどこにあろうか。みっともないだけやんけそんなん。
だから、
「──あこありがとう。けどな、俺別に落ち込んでないから」
「えー? うそだー」
「うそじゃない」
「だってつく兄落ち込んだらすぐ外みるでしょ? さっきみたいにゅっ!?」
俺は両手であこのほっぺたを挟み込んだ。
「それ以上……言うな……! ってぷっ」
むにゅっとサンドされたあこの顔。それ即ち凶器なり。やられたぜぇ!
「あはははははははは!」
「む〜〜」
あこはひーひー笑う俺の手を払いのけ、ぷくーっと頬を膨らませた。
「やったな──! りゃー!」
そのまま反撃にくるが流石俺、顔だけでひょいと避ける。まるで闘牛士のような身のこなしに我ながら誇らしいね。エクセレンテ!
「ふはははははは! あこ、貴様の攻撃が我に当たるとでも? バカここに極まれりだなァ!」
流れるように厨二的挑発。楽しいんだよね、これ。
挑発を受けたあこは不敵に笑い……ってあれ? どういうことだ? なぜ笑うんだい?
「ふっふっふ……バカはなんじよ! わらわは忘れてはおらぬぞ? この前のテスト、なんじは全てにおいて血の如き赤で染まってたではないか! 魔王二人にこう……バーン! って怒られてる姿は見ものだったぞ!」
き、きき貴様ァ!! せっかく忘れかけていたことを!!
「言ってはならぬこと言った! 言ってはならぬこと言ったァ!! その咎、生きて帰れると思うてか!!」
「わらわの言葉じゃ!!」
よろしい、──ならば戦争だ。
◇
ホワイトとブラウンを基調とした広いレトロモダンなリビングは、カラフルなスプライト模様のカーペットがもたらすギャップによって程よく弛められている。
そこへふんわりとダウンライトの電球色も加わることで、雰囲気は謂わば実家のような安心感へと昇華していた。
していたのだが、
「──わらわはまだ変身を2回のこしておるのじゃ」
「なん……だと……?」
ココア色の大きいL字型ソファから降りて争っている二人には関係ないことであった。
「もぅー、二人とも子供なんだから」
そう言いながらぷんぷんお菓子を食べるのは上原ひまり、スイートピンクの髪をおさげにしたスイーツに目がない女の子だ。
ちなみに今日は夕食の他に自作スイーツをご馳走するらしい。その腕はあのリサをも上回るともっぱらの噂だ。この子、スイーツガチ勢である。
「まあまあ、ほらひまり、アタシのポテチやるから」
「むぅ、ありがとっ! ……あ、おいしい」
「はは、そうか? なら残ってるやつやるよ」
「ほんと!?」
「ああ、アタシはこれ食べ飽きてるしな」
「巴ありがとね!」
先程とは打って変わって幸せそうな顔でお菓子を貪るひまり。その横顔を微笑ましそうに見ているのは宇田川巴であり、ひまりを宥めたその手腕は最早匠の域である。一年生のおねーちゃんは伊達じゃない。
「……ふぅ、ふぅ……」
それらを眺めながらホットミルクを啜った燐子は、そのいつも通りの光景に安堵してほっと息をつくのだった。
「……あ……」
燐子は中身の減ったマグカップを置いてテレビに視線を移した。ちらり、と掛け時計を見れば五時まで後数分といったところ。危うく見逃してしまうところだが、なんとかそんなことにはならなそうで燐子はまた安堵した。
これから始まるのは日曜夕方五時放送のローカル、『5時さんぽっ!』という人気番組である。さんぽ、と番組タイトルに入ってはいるものの、その割に散歩しないのはご愛嬌。それに視聴者の目的は内容ではなくレギュラーの“Pastel*Palettes”──通称パスパレであるために何の問題もなかった。今週の担当は彩と千聖である。
燐子の目的もそれであり、身内が出てるみたいで気が気ではないのだ。──特に彩ちゃん。
すると、隣のひまりも同じ気持ちだったようで、
「なんかこっちまで緊張しちゃいますよね、燐子さん」
と、うずうずしながらテレビを齧り付かんばかりに凝視していた。
「うん……なんか……慣れないね……」
燐子もうずうず。
巴はどうかと横を見れば、──?
巴はテレビではなく、外をみていた。
それだけであれば別にどうということはないのだが、その表情は憂いているようで、寂しげで。今の時間帯、 ──黄昏時に非常によく似合っていたのだ。
「……巴、ちゃん……?」
燐子はまるで、その絵画の中の美女のような儚い雰囲気を放つ巴に、恐る恐る話しかけた。そうしないとそのまま消えてしまいそうな、逢魔に
「……ん……あ、ああ燐子さん、どうしました?」
だが巴が燐子に気づくとその危うさは何処へやら、巴はいつもと同じ頼り甲斐のある笑みを浮かべて燐子を見るのだった。
(──杞憂? そんなわけない)
燐子は確信していた。確証はないが。
だが、燐子はそう結論づけた──決して万能ではないが──その生来の察しの良さを信頼しているのだ。それにAfterglowには及ばないもののそれなりの時間を巴と過ごしている。
だから、
「巴ちゃん、何かあったら、言ってね? 私でも、他のみんなでも」
巴に何があるのかは分からないが、拠り所として自分が、自分達がいることを忘れないように。本当にどうしようもなくなった時に、思い出せるように。燐子は巴に優しく、力強く、言葉を渡して微笑んだ。
「────」
その言葉に対して巴は目を見開いた。そして燐子同様に、微笑んだ。
「……燐子さん、ありがとう……」
「ううん……いつも……助けられてるから……気にしないで……」
と、そこで。
『こんばんはー! まんまるお山に彩りをっ! パステルパレットの、丸山彩でーす!』
『皆さんこんばんは。同じく、白鷺千聖です』
「彩さん頑張って!」
ちょうど『5時さんぽっ!』が始まった。
二人の口上は声のみとなってしまったが、それと引き換えに巴の力になれたのなら、と燐子は笑うのだった。
「……じゃあ……みよっか……」
「はいっ」
◇
「──……ぁ」
目が覚めた。どうやら夕べのことを夢にみていたようだ。
「……ん……」
巴は首だけを動かして辺りを見回した。薄暗かった。
体勢を変えて、目を凝らしてヘッドボードに置いてある古風な感じの目覚まし時計を見れば、短針は六と七の間を指していた。長針は四である。この時間になってもみんなに起きる気配がないのは、昨夜にはしゃぎ過ぎたからだな、と巴は一人納得してベッドから降りた。その際に隣のあこを撫でたのはなんとなくである。
「……んにゅぅ……」
「────っ」
寝返りをうったあこ。一瞬起きたかと思ったが、どうやら杞憂のようで巴はほっと胸を撫で下ろした。もう少しで起きる時間ではあるのだが、それまではそっとしておきたかったの、──!?
「……えへ、へ……おねぇ〜ちゃ〜ん……」
だらしなく破顔したキュートな寝顔。下ろした長くて美しい紫髪に口元には若干幼さの残る涎の跡。そして極めつけはお姉ちゃん子な寝言。
「……ぁ……あぁ、あ……」
(アタシの妹マジ天使!)
巴はにっこりである。シスコン戦士よここにあれ。
部屋の壁に掛けてある上着を羽織ると、巴は高揚した気持ちのままで掃き出し窓から外へ出た。
ぶわっ。
「……さむ……」
浮ついた気分はすっかり平常まで冷まされてしまった。巴は広々としたベランダの隅まで歩き、そして空を見上げれば、白んでいた。その景色に浸りながら、巴は物思いにふけた。
浮かぶのはあの思い出ばかりではあるけれど、それでも不思議と気分は良かった。一つ一つ浮かんでくる、その時の情景をなぞっては、巴は笑みを浮かべてやるのだ。
「ははっ」
こんな風に宝物を手に取ったのいつ振りだろうか。
それはもう思い出せないほど前だ。小学生の時かも知れないし、中学生の時かも知れない。
けど、こうしてまた微笑むことが出来るのだ。そんなのは些細なことである。
それよりも、巴はきっかけを与えてくれた燐子に感謝をしていた。
燐子が昨日放った言葉。それは間違いなく巴の力になっていたのだ。
──巴ちゃん、何かあったら、言ってね? 私でも、他のみんなでも。
巴はその言葉をその通りに受け取ったし、言外の意味もしっかりと受け止めていた。夢にみたおかげで二回分しっかりと。
(そうだよな、アタシにはみんながいる。頼りになる仲間がいるんだ。分かってた筈なのに、情けないなアタシは。
それにアイツが忘れているからってどうした、出掛ける用事やらなんやらをほっぽり出したことは一度や二度じゃないし今更だろ。
思い出は他にもたくさんあるし、これからもつくっていくんだ。
ははっ、そうさ。 “これからもつくっていく”、だからこんなことで悩んじゃいられない。
前をみようぜ! アタシ。
よしっ、そうと決まればアイツが起きたらあの約束のことを聞いてみよう。はっきりさせないとな。
それで忘れていたらぶっ飛ばしてやるんだ、お前から約束してきたんじゃないかバカ野郎! って。
それでもう一度約束して、この件はおしまいだ。
覚悟しろよ九十九、アタシの鬱憤溜まった拳は重いぜ)
巴はそう決心し、空をもう一度見上げた。
「まだ少し暗──」
「わっ!」
条件反射。巴の頭は真っ白になった。
「う、うわああモガモガ」
「ちょ、ちょっ! ばか! 近所迷わ──ぐふっ」
巴は口を押さえられたことで更に混乱し、暴れ、その最中に肘鉄をぶち込んだようだ。
手が外れ、口が自由になったことで巴はいくらか落ち着いた。そして背後を振り向くと──バカがいた。
「……おい」
巴は毛布で包まり蹲っているバカ──九十九に殺意が湧いた。マジである。巴は久方ぶりにブチギレ寸前である。
巴は歩いて数歩の距離にいる九十九へ近づく。
九十九はダメージが抜けてないようだが、関係ない。
「ぐおぉ……ちょっ、まっ、悪気は」
あと一歩。
「悪気は……! ……あれ? あったわ……」
情状酌量の余地なし。アイアンクロー。
「いでででででででででででで!」
「──はあ……ったく」
巴は九十九の頭から手を離した。
「どうしたんだ? こんな時間に起きるなんて」
九十九は起こさないと八時近くか、過ぎてから起きる。最近は直そうと頑張っているがそれにしても早い。
怒りから冷静になった巴の頭に浮かんできたのは、何かあったのか? という疑問であった。
九十九は涙目で答えた。
「おぉーいてぇ……ん? しょんべん」
ずっこけた。
「いやー、部屋ん戻ったら巴いないのに気づいてさ、どこいんのかなーって思ったらここだよ。ほんと好きな景色眺めんの」
そう言って九十九は手摺まで行き、空を眺めた。
「まあな」
巴もそれに続いて隣に並んだ。今日はそれが目的ではなかったが、別に間違いというわけではないので特に否定はしなかった。
「ほら」
九十九は毛布を右腕いっぱいに広げた。
「ん?」
「震えてる、さみぃんだろ」
「あ」
そう言われて視線を落とせば、確かに身体は震えていた。考えごとばっかして気づかなかったが、意識すると冷気が堪らなくなった。パジャマに上着一枚ではとっくに限界を迎えていたらしい。やばい、寒い。
でもこっぱずかしくて、巴は中々入ろうとしなかった。
「問答無用」
「あっ」
強引に腕の中に巻き込まれた。巴は文句を言うとしたが──やめた。毛布も温かかったが、それ以上に九十九の身体は暖かく、心地良かった。
「ふへへ、どうよ、あったけーだろ」
そう言って笑う九十九。
だが、
「──お前今えろいこと考えたろ」
「……? ニホンゴワカラナーイ」
白々しい。バレバレである。
「ふへへって笑う時はいっつもそうだからな、いい加減わかるさ」
「麻弥に謝れ!」
「その笑い方移したの九十九だろ! お前が謝れ!」
そして二人でいくつかコントのようなやりとりをして、顔を見合わせて笑った。
「あはははっ、あーあ、どうでもよくなっちまった」
「ん? どうした?」
九十九に出鼻を挫かれタイミングを失って、いつ言おうか巴は考えていたが、なんというかもうどうでもよくなってしまった。もう言ってしまおう。
「なあ、九十「おっ! 巴みろよ! 日の出だ」
「はあ」
「ん?」
なんでいざ言おうとすると邪魔が入るのだろうか。厄日か? 厄日なのか?
「あ、そういやー巴」
巴がうんうん唸ってるいると、空を眺めたまま九十九が話しかけてきた。
「なんだ?」
「小1ん頃の約束、覚えてるか?」
(──は? 今なんて)
巴はそう言おうとしたが、声が出なかった。いや声だけではない。身体全体が硬直していた。
だが九十九は巴の状態に気づくことなく続けた。
「懐かしいよなー。夏休みでよ、初めて巴と二人きりで遊んだんだよな」
九十九は懐かしむように朗らかに語る。
薄暗かった周囲が色づき始め、九十九の顔がはっきりとしてきた。
「巴んちの近くから俺んちの近くまで冒険してさ、転んだり、木に引っかかったりして、大変だったよなぁ」
語られていく内容は、思い浮かべていたものと重なって、巴は胸がいっぱいになりかけていた。
そして同時に恥じた。九十九を疑っていた自分を。
「でさ、帰り道でバイクが走ってたのをみて、約束したんだよな」
(そう、二人一緒になって目で追ってたよな。そして、約束したんだ)
「こうやって、──巴ちゃん、僕大きくなったらバイクに乗るよ。そして一番最初に巴ちゃんを乗せるんだ! ね、約束しようよ!」
その言葉が最後だった。嬉しさ、申し訳なさ、懐かしさ、色々な感情が胸にいっぱいに注がれて、渦巻いて。
意地で耐えてたけど、ダメだった。
巴の目から大粒の雫が落ちた。
「──うん、約束。忘れちゃダメだよ」
なんとか絞り出すことが出来たものの、もうまともに喋れそうになく、巴は堰が壊れたように泣き始めた。
「なんだ、やっぱ覚えてってあれ? なんで泣いてんの?」
そのタイミングで九十九は巴の方を向いた。
起きて間もないというのにつるると煌めく燕尾色の長髪。花緑青の瞳からは涙が滂沱の如く、朝日を反射して実に幻想的だ。表情はくしゃくしゃだったが、それでも巴は美しかった。
巴は唇を震わせながら、なんとか謝ろうと、必死に言葉を紡いだ。
「……ぅ、ぁ……っ、ごめ、ん……ぁ、アタシ、さ……、……九、十九が忘れてるんじゃないのかって……ご、めん、疑って……」
九十九はそれを聴き、怒るわけでもなく、優しく慰めるわけでもなく、ただ笑った。
「はははっ、なんだそんなことか」
そして、巴の涙を毛布で拭い、言った。
「ほーら、巴、いつまでも俺の顔見てんなよ。見てみろよ、空を」
巴は言われるがまま、空を見た。
「……ぁ……」
相変わらず視界は涙でぼやけていたけれど、それでも大まかに見ることは出来た。──オレンジ色に染まった空を、しっかりとみることが出来た。
「綺麗だよな、朝焼けって。言ったことあったっけか? 俺、朝焼けが一番好きなんだ」
初耳だ。
「ははっ、そうだっけ。まあ偶にしかこんな早くに起きねぇけどな。でもさ、いいもんだよな。なんか祝われてるみたいで」
巴は目を擦って、尚も涙は止まらなかったが、擦って擦って、合間に見える空模様を目に写していた。
昇る朝日に、染まる空。
暗闇から、光明へ。
それはまるでみるもの全てを祝福して、暖かく抱擁しているような気がした。
「……ふぅ……」
おかげで巴の涙も収まった。
「お? 泣くのはもうおしまいか?」
「……うるさい」
「へいへい──ってそうだ、巴。1月のどっか空いてる日あるか?」
巴は頭に疑問符を浮かべた。ここで聞くことの意味が分からなかったのだ。
「……なんで、今聞くんだ?」
「ん? だって今しかないだろ?」
説明が足りない。情報求む。
「いや、だって巴と約束のこと話したろ?」
うん。
「それで?」
「だからその約束果たそうと思って」
「──は?」
今度はしっかりと声が出た。
「今なんて?」
「だから約束果たそうって。バイクの免許取ったんだよ」
「え、ええ、え?」
ばいく、bike?
「自転、車……?」
「は? バイクだよ。普通の」
ぶわっ。
「おおおい! なんでまた泣いてんだよ! ったく」
今日はもうダメかも知れない。巴の頭も涙腺も心も臨界点だ。
「……いや、だ、だって九十九、お前──うわっ!」
一瞬身体が浮いたかと思ったが、どうやら九十九にお姫様抱っこをされたらしい。
「ちょ、ちょちょ、おま」
動揺ここに極まれり。巴は遂にショートした。思考はK点の遥か向こうへ、世界新である。
「有咲みたいなこといってんなよ。大丈夫、燐子の時みたいに晒すなんてことしないから」
「ちょ、ちょおまおまおまちょなん、──なんで!」
辛うじて発することの出来た言葉に、九十九は意地悪く笑った。
「なんで? なんでってそらぁ、俺がしたいからだ! あははははは!」
「ちょちょふざふざけんな! おろせ! おい!」
「いーやっ」
そうして戻っていく二人を朝日は、カーテンから覗いていた三人は、微笑ましく見守るのだった。