両親と共にビルを飛び出した千枝は、すぐ目の前にある出版社のビルへと走る。
途中何度も人の波に押しやられそうになったが、その度に無理矢理でも前に出ようとした。
怒涛にも聞こえる人々の声をかき分けながら、騒然とした状況が続いている場所へと急ぐ。
「関係者以外は立ち入り禁止ですっ!」
「下がってくださいッ!」
「っっ!」
人の波を更にかき分けて入口へと近づこうとすると、待機していた警官たちに身体を押さえつけられた。
後方から来た両親たちも、他の警官たちに止められてしまう。
千枝たちの様子を見ていた一般人たちは、何事かと身を乗り出して彼女たちを見つめる。
「わ、私達は屋上でバケモノに襲われている中学生の家族ですっ!」
「妹が心配なんですっ!通してっ!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
「すみませんがっ!許可が無いとっ!!」
無理に警官を引き離そうとする千枝や両親に、警官たちは更に力を加えて制止させた。
一向に先へと進ませてもらえない事に、千枝は苛立ち始める。
「妹が死んじゃったら、どう責任を取ってくれるのっ!」
「千枝っ・・・」
警官の腕を振り払った千枝は、震える声で叫ぶ。
後方で片津を飲んで見ていた一般人たちが彼女の言葉にざわめき、辺りには異様な空気が流れ出した。
千枝の母親が彼女に駆け寄ると、震える手を握る。
今にも倒れそうな程の顔色をしている両親の表情を見て、千枝は更に言葉を発しようと前方を睨んだ。
「おやめください。」
「なっ・・・」
千枝が声を発するよりも早く、後方から棘を挿すような鋭い声が聞こえ、彼女は弾かれたように振り返る。
「おやめくださいな。そんな事をしても意味はありませんわ。」
「・・・いなくなったと思えば・・・のこのこと・・・」
「ち、千枝っ!」
後方から現れた小鳥を見て、千枝は吐き捨てるように呟く。
睨み合う二人の状況に、辺りはざわめき両親が間に入る。
小鳥の後方には柊と賢三の姿が見えるが、二人は顔を見合わせているだけだ。
小鳥と千枝の間に沈黙が流れだす。
「む・・・何事だ?」
「あっ。しょ、署長っ!」
二人が睨み合う中、重い入り口の扉が開け放たれ、中から人が現れる。
彼は警官から事情を聞くと、睨み合う千枝と小鳥の間まで歩み寄った。
「あら・・・これは。」
「え・・・。」
穏やかな表情に戻った小鳥とは対照的に、千枝は眼を白黒させる。
彼女たちの間に現れた人物を見て、周りからは更にざわめきが起きた。
「・・・竜崎署長だ・・・」
「警察署署長だわ・・・」
「じゃぁ、やっぱり先バケモノと戦っていたのは・・・」
周りから湧き上がるように聞こえる声には一切反応せず、竜崎は小さく小鳥に頷く。
「こちらの方々は、先の・・・」
「・・・そうでしたか。それで・・・・」
言葉切れが悪いような小鳥の言い方だったが、竜崎はそれだけで何かを理解したらしく、後方をちらりと見る。
千枝の両親や彼女たちは、何も言えずにただ様子を見ている事しかできない。
「では。中へどうぞ。」
「え・・・。」
「いいのですか?」
ゆっくりと腕を上げて手招いた竜崎に、千枝は間の抜けた声をあげてしまう。
千枝の両親も周りにいた警官たちもぽかんと口を開けるしかない。
こくりと頷いた竜崎は、それ以上何も言わず、ただ手招くだけだ。
「時が動きだしましたわ。さぁ、行きましょう。」
「あ・・・あの・・・」
「中に入りたかったのでしょう?」
「え、えぇ・・・。」
その場に立ったままの千枝をしり目に、小鳥は先と打って変わって穏やかな表情で彼女に問いかけた。
――
出版社の中は、外とはうって変わり静まり返っていた。
入り口の扉が静かに閉じられると、更に気味が悪い程にしんとし始める。
「時が動きだせば、ちゃんと物事は動くモノですよ。」
「?」
千枝の不思議そうな表情を気にせず、小鳥は竜崎が歩いてゆく方へと進んでゆく。
彼女に寄り添うように柊が無言でついて行くのを見ながら、千枝は何も言えずにたたずんでいた。
「すみませんね。小鳥先生はちょっと・・・その・・・独特な先生でいらっしゃるものでして・・・」
「は・・・はぁ。」
堅三が苦笑いを浮かべつつ、千枝や両親たちを中へと手招く。
彼も状況がよくわかっていないのか、口元は笑っているが眼が笑っていない状態だ。
状況に流されて動いているようにも見える。
「署長。やはり、内部には人はいないようですよ。」
「む・・・そうか・・・。」
千枝が両親と不安げに中へと進んでゆくと、不意に前方から男の声が響いてきた。
何人かの警官が携帯を片手にすれ違い、入り口と違ってエントランスホールには人の声が響いている。
エレベーター付近には何人もの警官が待機しており、非常階段の方でも人の声が響いていた。
「では。やはり・・・」
「姿を消してしまった・・・のか・・・」
「・・・・。」
竜崎と話をしている男と目が合い、千枝は何度も瞬きをしてしまう。
彼も外から入ってきた新たな人物たちに戸惑っているのか、声を詰まらせ竜崎へと視線を移すだけだ。
「武田くん。飛勇部長を呼んできてくれるか?」
「は、はい!」
武田と呼ばれた男は、竜崎に指示を受けると弾かれたようにその場を後にする。
彼はエントランスホールを抜けて、ビルの外へと走り去って行った。
「さて。ここならば、部外者はいないので話ができますな。」
「あ、あの・・・妹を探して・・・」
「娘は・・・・娘の姿を・・・」
重い口を開けて言葉を発した千枝とその両親を交互に見て、竜崎は低くうなると近くにあったソファへと手招く。
そこに座れと言わんばかりに彼女たちへと視線を向けると、しぶしぶ千枝たちはソファへと腰かけた。
小鳥や堅三たちも近くの物に腰を掛ける。
「まず。現状、我々が知る限りでは屋上には人は残っていません。」
「え・・・っ。あの・・・娘が確かに先まで・・・っ!」
「はい。おっしゃる通り。確かにあの場には数名のヒトがいました。」
「じゃ、じゃぁ・・・!」
身を乗り出して聞こうとする千枝の両親に、竜崎はなだめるように手を動かす。
立ち上がり声を震わせた千枝の父親は、不安げな表情で腰を降ろした。
それを見た竜崎が更に続ける。
「空の漆黒が消えた際、あの場にいた者達が姿を消しました。降り注いだ光に混じって姿をくらました・・・という言い方が良いのかもしれませんな。・・・ヒトの姿はおろか、バケモノの姿も・・・」
「そんなっ!じゃぁ、妹は・・・妹は連れて行かれたってこと?」
「お。お姉さんっ!落ち着いてっ」
「千枝・・・。」
声を荒げて竜崎の言葉を遮った千枝に、母親が彼女の身体を抑えるように手を回す。
千枝は震える両手を押さえつけ、小鳥や竜崎を見るしかない。
言葉を遮られた竜崎は、困惑した表情でビルの入口へと視線を向けた。
どうやら、何かを待っているようだ。
「連れていかれた・・・のか、あるいは・・・」
「自らの意思でついて行ったのか。」
「み、自らの意思で?」
ぽつりと言葉を発した竜崎に続き、小鳥が更に言葉を続ける。
悲鳴のような千枝の母親の声が聞こえたが、あえて小鳥は彼女を見ない。
「ご自宅でお話をした通りです。るりさんには“巫女”になる権利があるのですから。先の戦いで決意を持たれたのかもしれません。」
「そんな・・・の・・・」
千枝の脳裏に妹の顔が映りこむが、そこには目の前で話されている大それた事を仕出かそうと動く妹は想像できない。
物静かで一歩後ろから物事を見ている姿しか知らないからだ。
絶句にも取れる様な父親のため息が耳に入り、千枝は水を被ったように身体から力が抜け落ちるような感覚に襲われる。
「断定はできません。我々がこの目で見たわけではなく、事実としては姿がない。姿を消した。としか言えませんから。」
「・・・そうですね。」
「ただ・・・」
「・・・?」
勢いを無くした千枝は、ぽつりと呟いた小鳥の声に、耳が痛くなる感覚を覚えてしまう。
小鳥は何故か目を細めると、小さく微笑む。
「あの漆黒を破壊したのは・・・・まぎれもなくあなた方の娘・・・るりさんです。巫女の力を覚醒した・・・ね・・・。」
「っ・・・。」
今まで感じた事が無い程の冷たい空気に、千枝は逃げ出したくなるほどの恐怖感を感じる。
目の前で静かに呟いている小鳥に対して、得体のしれないモノを見た時と同じ恐怖感を感じてしまった。
それは周りにいる両親や堅三も同じだったのか、彼らは息を飲み、目を泳がせている。
ただ、柊と竜崎二人だけが平然としていた。
「署長っ。お呼びですかっ・・・・って、先生方も?」
「あ。ひ、飛勇さんっ。」
「あら・・・。」
ビルの入り口から息を荒げて二人の人物が駆け寄ってきた。
先の武田という男と一緒に現れた男が、小鳥と賢三の姿を見て目を丸くしている。
小鳥の視線が彼へと向かれた瞬間、千枝を襲っていた恐怖感が一瞬にしてなくなり、息が詰まる程の感覚も消えた。
「飛勇司といいます。あ・・・。そうか。あなた方がるりちゃんのご家族ですか。」
「えっ。あ・・・はい。」
はっとした表情で言葉を発した司に、千枝の両親も弾かれたように立ち上がって頭を下げる。
司の隣で状況を見ていた武田が、彼の言葉に驚いた表情を浮かべたのが見えた。
「こちら、飛勇さんは、るりさんと同じ私のクラスにお子さんをお持ちの方なんですよ。」
「娘は奈美といいます。るりちゃんのお話は娘から聞いております。何やら仲良くさせて頂いているようで・・・。」
「そう・・・でしたか・・・。」
ばつが悪そうな表情を浮かべつつも、賢三が千枝の両親に司を紹介し、それに合わせるように司も言葉を続けた。
「今回の件は、こちらで事件が起こる少し前に聞きまして・・・。いえ、あの・・・その・・・娘さんのこと・・・」
「部長・・・。」
目を泳がせて言葉を探している司を見かねたのか、武田が彼へと視線を送る。
彼の視線に気が付いた司は、大きく深呼吸をした。
「娘さんの捜索はこちらで全力をあげてさせてもらっています・・・。しかし、どこにも姿が見えなくて・・・。」
「屋上にいた人々の姿も未だ見つからない状態です。」
「・・・・。」
「そうですか・・・。」
歯切れの悪い答え方をした司に変わって、事務的に武田が続く。
妹の同級生の親。ということもあり、千枝の両親は竜崎の時とは違い、妙に納得しているようだった。
二人の様子を見て、竜崎が待っていた人物が彼だと千枝は確信する。
「ですが、バケモノ達に連れ去られた。ということはないと思います。」
「奴らが消えた場所と、娘さんが最後に確認された場所は別ですので・・・これは・・・断言できるかと。」
「・・・・。」
重々しい空気の中で、千枝たちに安心感を与えようと、司と武田の二人は何度も顔を見合わせながら言う。
まるで、誰かに“そう答えろ”と言われたように千枝は彼らのぎこちなさを見て思ってしまった。
「バケモノの出現も市内では収まってきているようです。・・・あの・・・ご自宅に一度お送りした方が・・・」
「うぅむ・・・」
武田が黙ったままの竜崎に向かって言葉を発する。
唖然とした表情で千枝や彼女の両親が彼の顔を見上げるが、武田は気に留めず話を進めた。
「確かに娘さんの安否が不確かであり、不安かとは思います。しかしながら、闇雲に探されてはご両親の身の安全も定まりません・・・。ですので、できればご自宅にて待機して頂いた方が・・・」
「・・・。」
これといった反論の言葉が何故か見つからない千枝は、黙ったままの両親と顔を見合わせるしかない。
勢いも無くなり、静かになってしまった両親は、千枝が何度視線を送っても言葉を発しようとしない状態だ。
このままでは、武田の言う通りに自宅へと戻されてしまう。
堅三や小鳥も特と言って何も語る事も無い状態で、その場の流れで話が途切れてしまいそうでもある。
「妹は・・・誰と一緒に・・・いたんですか?」
「え・・・。」
まるで武田の言葉を聞いていないかのように、千枝は泳ぐ目を彼へと向けて問いかける。
思わぬ言葉だったのか、何故か武田の表情が一転し、凛とした業務的な表情から困惑へと変わってゆく。
今度は武田が千枝に堪える答える事ができないらしく、隣で苦笑いを浮かべた司に視線を向けて助けを求める事しかできないらしい。
「警察の方もいたのに・・・妹はどうして一緒に戻ってこられなかったんでしょうか・・・助けにあの場に行けなかった?・・・助けに行かなかった・・・?」
「ち、千枝・・・?」
だんだんと頭が冴えてきた千枝は、何も言わず目さえも合わせない武田や司の方へと鋭く声をかける。
ぴくりと竜崎の肩が動いたように感じたが、千枝は深呼吸をすると急に冴えた頭で更に辺りを見た。
異様な程に静かだと感じたビルの中は、見直してみれば人で溢れかえっている。
警官たちの声が響き、かすかに外の音さえも聞こえていた。
なぜこんなにも音に溢れているのに、今まで気が付かなかったのだろう、と不意に千枝は更なる疑問を思い浮かべてしまう。
しかし、その事に関して今は二の次だ。
「私たちは、隣のビルで見ていました。考えてみれば、貴方以外にも数名のヒトがいましたよね?・・・妹と一緒に、あの不思議なモノを登っていた子供の姿も見ています。・・・そういえば・・・大人の女性もいたような・・・」
「ち、千枝どうしたの?」
「・・・どうしたんだ千枝?」
「え?」
急に多弁になった娘を訝し気に見た両親たちに、逆に千枝は不思議そうな表情を向ける。
両親の表情自体が今の千枝にとっては不思議なモノだ。
「お父さん達だって見たでしょう。このビルの屋上にいたのは・・・るりだけじゃないし、子供や大人の姿だってあったわ。男の子の姿だってあったし・・・」
「そう・・・だったかしら。」
「・・・・そうだったか?」
「ちょっと、二人とも何不思議がっているの?」
苦笑いを浮かべた両親に、千枝は困惑した表情を向けるしかない。
ものの数十分前に見た情景は、確かに脳裏へと焼き付いている。
だが、この両親の反応はどうだろうか。
まるで“そのようなモノはない”と言わんばかりである。
何も語ろうとしない堅三も不思議だ。
小鳥とは違い、自分たちと同じ場所で見ていたのにも関わらず、千枝に賛同もしようとしない。
「・・・ふふ。ちょっと、限界かもしれませんね。」
「そのようですね。」
「・・・は?」
小さく肩を動かして笑った小鳥と、彼女の隣でため息をついた柊に、千枝は小首をかしげる。
小鳥は千枝の反応を無視し、竜崎と賢三を交互に見た。
「どうやらお姉さんには“小細工”は効きそうもありませんわ。」
「逆にややこしくなってしまうでしょう。」
「・・・仕方ないですね。」
大きなため息をついた堅三は、小鳥に向かって小さく頷く。
「では・・・。」
「っ?」
小さく咳ばらいをした小鳥を皮切りに、千枝の隣に座っていた両親が痙攣をおこしたようにビクリと肩を震わせた。
その様子を間近で見ていた武田と司が、驚いた表情をする。
千枝の両親は左右を見ると、お互いの顔を見合わせて不思議そうに辺りを見つめた。
「ここは・・・」
「千枝?・・・ここは、どこ?」
「え・・・・。」
ぴしゃりと水を被ったように、千枝は両親の言葉に唖然としてしまう。
呆然と辺りを見て、今の状況を理解できていないような表情を浮かべた両親は、千枝や竜崎たちを不思議そうに見つめている。
まるで“ここに来た理由がわからない”というような顔をしていた。
「さて。この場で最初からお話を致しましょう。」
「そうなり・・・ますか・・・ね。」
苦笑いを浮かべた小鳥と賢三は、困惑した表情をしたままの千枝の両親へと視線を向ける。
竜崎も彼らと同じように姿勢を正してソファに座りなおした。
「状況がスムーズに進むようにと、ご自宅に私達が行った時から、ちょっとした細工を皆さんにさせて頂いたんです。」
「簡単に言えば、るりさんがご家族に反対され・・・動けなくなってしまわないように・・・と言えばいいのでしょうか。」
「・・・まさか・・・」
小鳥と賢三の言葉を聞き、千枝は声を震わせる。
「つまり、ご両親共々、白昼夢を見ている様な状態になって頂く予定だったんですが・・・。お姉さんは最初からその“小細工”にかかりにくかったようですね。」
「ご両親は、先までの事をすっかり忘れて・・・いえ、覚えていらっしゃらないんですよ。」
「・・・な、なんのことですか?」
「先の事って?・・・ねぇ、千枝・・・どういうこと?」
「・・・・。」
目の前で話されている事が理解できず、千枝の両親は隣で愕然としている娘の肩を揺らすしかない。
彼らの様子を見ていた司や武田は、信じられないと言わんばかりに、穏やかに語っている小鳥へと視線を向けた。
しかし、彼女は終始表情を変える事が無い。
「さてはて。どこから、お話したらよいかしら・・・」
大きなため息をついた小鳥は、ふいに顔を上げて自分を見ている司たちへと視線を向けた。
「できれば、このビルの中で起こっていた事も交えてご両親にお話をしたいのですが・・・よろしいかしら?」
「え・・・え・・・?」
「ぼ、僕らもですか・・・?」
救いを求めるように司は黙ったままの竜崎を見る。
竜崎は何か考えるように腕を組み、少しの間じっと動かなくなった。
そしてゆっくりと腕を降ろすと、司と武田の二人へと顔を向ける。
「わかりました。・・・“我々で話せる程度”の事をお話しましょう。」
「助かりますわ。」
柔らかく微笑んだ小鳥は、まるで本を読み聞かせるかのように、言葉を紡いでゆく。
その一つ一つに、千枝や両親たちは言葉を無くしていった。
まるで、数十分前に自宅で聞いた話など聞いていなかったかのように、千枝たちは小鳥や竜崎の言葉に何度も唖然とする。
その様子を隣で見ていた司や武田達も、彼女たちの会話に言葉を無くていった。
――
うっすらと目の中に光が入り、外が明るい事がわかる。
人の声が頭の上を行き交っているのもわかるが、身体が思うように動かない。
最後に見た情景を思いだし、まだ眠っていてもよいのだろう、と、勝手に思い込んでいた。
緊張感や緊迫感は感じられない。
「・・・・。」
深い眠りに入っていたのか、何処にいるのかは分からない状態だ。
恐らく、あの“空”にはもういないのだろう。
照りつけるような太陽の光は目の中に入ってこない。
「貴方はそこにいた方がいいと思うわ。」
「・・・え・・・。」
頭の上で誰かの声が響く。
だんだんと夢から覚醒しているのか、人の声が耳に入ってきた。
「助けてくれたわけだし、何よりも彼女が貴方を探してしまうもの。」
「そう・・・か?」
「あら。女の勘って結構当たるものよ?」
クスクスと誰かの笑い声に混じり、困惑した男性の声が聞こえる。
それに混じって他の人々の声が入ってくると、なんだか自然と身体が軽くなるように思えた。
先までの押しつぶされそうな緊張感も感じられず、誰かに守られているような安心感が身体を包む。
そして、一番聞いていたいと思う人の声がじんわりと耳の中に入ってきているのだ。
早く目を開けて、その顔を見たいと思ってしまう。
「彼女がこれからどうしたいのか。それを聞くのはもう少し後ね。」
「うん・・・。」
「今は、休息が必要だろう。」
聞いたことのない女性の声が聞こえ、誰だろう?と疑問が浮かぶ。
何処かであった人なのか、なんとなくだが懐かしさも感じた。
「まぁ。先話した通り。一応、彼女に話を聞いてちょうだいね。」
「えっ・・・お、俺がっ?」
「そうよー。ここに置いてあげてるんだから、そのくらい良いじゃない。」
「・・・だ。そうだ。」
明るい声が笑いを含んだ声に変わり、ヒールの音を響かせながらその場を去ってゆく。
ため息交じりに小声が聞こえ、何となく居心地が悪くなる。
はやく・・・めを・・・開けないといけない。
自分の中では大きく深呼吸をしたつもりで、その後に意を決するようにゆっくりと瞳を開けた。
眩しい程の光が入り込み、ぼやけた視界が段々と色を帯びてくる。
同時に、鮮やかな青や緑が目の中に入ってきた。
「・・・あ・・・。」
「るりっ!」
言葉を発しようとするがうまくできず、口から出てきたのは小さな悲鳴のような音だった。
その声に反応したように、ふっと顔を覗くようにランゼフと目が合う。
鮮やかなガラス玉のような目が光り、表情が和らぐ。
彼女の後方からは、他の人影も見えた。
小さなため息交じりにその場を後にするディルの姿。
彼は隣に立っていたアリスの肩を叩くと、彼の返事も待たずに部屋を出てゆく。
照れくさそうに頭をかいたアリスは、ランゼフの後ろからこちらをじっと見つめていた。
「おはよう。気分は?」
「え・・・っと・・・・」
柔らかな彼の声に、思わず目が覚めるような感覚を覚える。
恐らく、初めてと言ってもいい程の事だ。
彼と日常会話に近いこのような言葉を交わしたのは初めてだし、何より傍に彼が居てくれたという事が、内心をかき乱す様に嬉しくなる。
「よかった。るり・・・。」
「大丈夫だよ。ランちゃん。」
「うん・・・。」
大きなため息をつくように、ランゼフがすがるように手を握ってくる。
相当安心したのか、彼女の手は小さく震えていた。
重たい身体を起こしつつ、寝かされていたベッドの上に座り直す。
辺りをぐるりと見回してみれば、質素ながらも落ち着きのある家具が並べられ、窓の外には鮮やかな緑が生い茂っているのが見える。
見慣れた風景とはかけ離れたその場所は、何となくだが“自分たちの世界”とは違う場所だと勘付く。
鳥の声や、木々のざわめく音は変わりないが、漂う空気が何処かしら違っていた。
「先、るりは力を使い果たして倒れちゃったんだよ。」
「それで・・・ここに?」
「そう。ヒーリカの提案で“隔離された世界”に来たんだ。」
「・・・?」
ランゼフの言葉に小首をかしげるしかないが、彼女は自分の疑問に気が付いていないらしい。
深呼吸をしたランゼフは、何故か後方に立っているアリスを睨みつけると、握っていた手を離した。
「ボク・・・ヒーリカの所に行ってくるね・・・。」
「え?あ・・・う、うん。」
歯切れの悪い言葉の後に、ランゼフは淡々とその場を後にしてゆく。
出入り口の扉を開け再度こちらを見た彼女は、じっとアリスを睨んでいるようだった。
アリスは苦笑いを浮かべている。
勢いよく扉を閉めたランゼフは、廊下を走って行ったのか、バタバタという足音をたてていた。
「・・・」
「隔離された世界。俺達の世界でも、るりちゃんたちの世界でもない。」
「また、別の?」
「そう。」
ベッドわきに置かれた椅子に腰を降ろしたアリスは、そっと指を外へと向ける。
木製の窓枠から見えた世界は、生い茂る木々であまり辺りを見回すことができない。
微かに見えた近くの建物は、レンガ造りのようだった。
「ここはいわゆる避難場所みたいな所らしい。るりちゃんは力を使い果たしちゃったから、あの場所やあの世界・・・俺達の世界にいたら、敵に狙われてしまうだろう・・・って事で此処に来たわけ。」
「そう・・・だったんですか・・・。」
そっと自分の手を見つめ、そのまま首に下げた“鍵”へと手を伸ばす。
鍵は形を変えており、黒の女神が変形させたままになっている。
発光していた鍵は輝きを無くし、ただの赤い石にも見えた。
「目が覚めたってことは、力が戻ったという事だろうな。魔力も十分とは言わないけれど、感じられる。」
「・・・。」
穏やかに語りかけるアリスに小さく頷きながら、彼の顔をこっそりと覗くように見る。
青い髪が揺れ動き、瞳が静かに動いていた。
「・・・?どうかした?」
「えっ?」
ふいに視線が合い、心臓が跳ね上がるような感覚に襲われる。
彼は小首を傾げ、まじまじとこちらを見ていた。
思わず大きく首を横に振り、視線を逸らすしかない。
「色々と急だったから、疲れたんじゃないかな?」
「あ・・・。」
話題を変えるかのように、アリスがぽつりと呟く。
自分を心配してくれているのか、彼が言葉を選んで喋っているのを感じ取り、次に伝えたい言葉が見つからなくなる。
今までため込んでいた疑問や、彼に聞きたい事が色々とあったはずなのだが、それらが上手く出てこない。
「ここ数日で、るりちゃんの周りは大きく変わっただろうし・・・何よりも、君が“普通”じゃなくなっちゃったしさ・・・。」
「・・・。」
「・・・大丈夫・・・かな・・・って。」
「えっと・・・。」
心配そうなアリスの声に、すぐに答えることができない。
大丈夫だ。と伝えればいいはずなのだが、何故か口が動かなかった。
「大丈夫・・・じゃ・・・ないよな。」
「・・・・。」
湧き上がるような感情に、手が次第に震えを帯びてゆく。
思い出してみれば、成り行きでバケモノと戦い、他の人とは違った力を発動させてしまった。
“巫女”という存在になりつつあることも不安だし、これから先の事もわからない。
「わからないです。どうしたらいいのか・・・」
「・・・。」
「私は普通の人間だったし、何より巫女様という偉い人には慣れないし、それに・・・不安ばかりでどうしたらいいか・・・っ。」
とめどなく溢れてきた恐怖感と不安感が喉をせせり上げ、嗚咽のような物が混じりだす。
ここから逃げることができたらどれだけ楽だろうか。
時間を巻き戻して、鍵を白の女神から受け取らなければよかったのだろうか?という思いが湧き上がってしまう。
何もなかった。何も起こらなかった。それらに戻れば、こんな不安感に襲われることはなかっただろう。
「巫女様にはさ。一人じゃ慣れないって聞いた?」
「え・・・は、はい・・・。」
泣き出しそうになった瞬間に、アリスが穏やかな口調で問いかけてくる。
目頭にたまった涙を手でぬぐい、彼の方をゆっくりと見た。
「巫女様には主帝という対になる存在が必要だ。・・・その存在がなければ・・・その・・・君は巫女様にはなれないから。」
妙に心臓が痛く鳴り響き、思わず叫びそうになる。
そう、それ以上の言葉を彼から聞きたくなかった。
「主帝となる男がいないなら、少なくとも巫女様になる心配はないよ。」
目の奥が痛くなり、それ以上言わないでと叫びそうになる。
「大丈夫。君は元の生活に戻れるさ。」
彼は、アリスは心配して安心させるために言ってくれたのだろう。
そんなことはわかりきっている。
彼だって成り行き上で“知り合ってしまった”のだろう。
そして、放っておけないと“人助けの為に協力してくれた”だけ。
無自覚で半端無理やり状況に流された自分の為に、協力してくれた。
たった、それだけ なのだ。
「でも・・・そしたら・・・」
息が詰まりそうな感覚を押し破るように、必死に言葉を探す。
このままではいけないと何かが押し動かすのだ。
「アリスさんに・・・会えなくなる?」
「え・・・・。」
精一杯の声に出して、一言だけ彼に問いかける。
思いもよらぬ言葉だったのか。
彼は唖然とした表情へと変わった。
外で木々がざわめく音が聞こえたと思うと、入り口の扉が勢いよく開く。
同時に、彼からの答えは得られなくなった。