俺は走り出した。
打開策なんて無いし、正直この、馬鹿にされてるのかと思うくらい現実離れした状況は全く呑み込めていない。
けれども、今ここで俺がこいつに殺されたらきっと次の誰かが標的になる。だったら、今、こいつに対して俺ができる唯一の反撃は逃げて、生きることだ。
レジから酒類コーナーを抜けて総菜コーナーへ。極力、死角になるように。
心臓はこれまでの人生に無いくらいに悲鳴を上げているが、心にはもう恐怖は無かった。
蜘蛛は定めた標的の捕獲を開始した。
獲物が視界から外れたが些細な問題だった。酒コーナーの冷蔵庫を引き裂き獲物を見据える。島棚も意味を為さない。
総菜コーナーから壁伝いに移動していく。
迫り来る危機に追い付かれるのは時間の問題だった。
こっちが島棚を縫って動く間に、やつは何事もないかのようにまっすぐ向かってくる。
なにか、何か策が必要だ……。
蜘蛛が倒した島棚を見る。
店を持ち上げてシェイクしたような有様だが、あった。生き残る道が。
そこに落ちている瓶を掴めるだけ掴み取り、壁伝いの終着点、店の角の鮮魚コーナーで立ち止まる。
いや、奴を待ち構える。
すぐそこまで迫っていた蜘蛛と目が合い。そして持っていた瓶を叩きつけた。
砕け散る音がひときわ大きく耳の中に響くように感じた。
蜘蛛は何事もなかったかのように突き進み、立ち止まった獲物を捕食しにかかろうと跳躍した。
その時だ。
蜘蛛は自分の状況に表情のない顔で驚きを表した。その巨体は大木を切り倒したようにぐらつき、地面に倒れこむ。
「……っしゃ!!」
狙い通りだった。
さっき叩きつけたのは食用オイルの瓶。
自重が重く、支点が小さいこいつならこれで少しは時間を稼げるはずだ。
ここからは店の外、駐車場での追いかけっこだ。店の中じゃもう手立ては無いし、バックヤードの人たちが危ない。もう外に出るしかない。
日用品コーナーを抜けて食玩コーナーへ。
その時だった。絶望が空から降ってきた。
轟音を響かせて着地したそれは、確実に俺を見据えている。
食玩コーナーの横、着地した衝撃で圧し潰したアイス用冷凍庫を放り投げ、俺へ死が迫る。
完全に誤算だった。
オイルが効かなかったわけじゃない。奴は地面に爪を食い込ませ歩いていた。
一歩一歩、床を抉り金属音を響かせながら、獲物の恐怖を楽しむようにそれは近づいて来る。
確実に捕食される距離。鈍く光る爪が迫るその瞬間、俺は自分の生への希望と意識を手放した。
意識を手放す瞬間に見えた『紫の光』はいったい何だったのか、その時の俺は知る由もない。
目を覚ますと病院のベットの中だった。
どうやら俺は生きてるらしい。
すぐに警察官がやってきて事情聴取を受けた。監視カメラはどういうわけか役に立たなかったらしく、頼みの綱は俺の記憶なのだとか。
当然、本当の事は言わなかった。信じてもらえるわけがない、「フィクションの中の怪物に襲われた」なんて。
とりあえず「車が突っ込んできたことは覚えてるがそれ以外は覚えてない」とだけ伝えた。老人が突っ込んでくることが日常茶飯事な現代だ。
理屈は通るだろ、たぶん。
一応、と精密検査を受け全くの健康体だった俺はその日の内に退院することになった。
帰りにぐちゃぐちゃになった店の片づけに追われてるであろう店長に挨拶しとかなきゃな、と帰り支度を始めた時。
気付いた。
蜘蛛を目にした時と同じ、耳鳴りと不安感が周囲の雑音を飲み込んでいく。
俺のリュックの中、見知らぬ荷物が一つ。
龍の刻印が施されたカードケース。
それは間違いなく『仮面ライダー龍騎』の主人公、城戸真司のVバックルだった。