今回は短めです。調理実習で終わる予定だったので。
それはある午後の授業のことだった。
次の授業は家庭科で調理実習。それはいい。だけど、それにしては妙に教室内が浮き足立っているような感じがしたのだ。
思わず何事かと教室内の違和感に疑問を持っているともう一つ違和感に気づいた。いつもは寝ているはずの詠が何処にもいないのだ。しかしそんなことを気にした様子もなく、クラスメイト達は家庭科室へと足早に教室を出る。私達も授業を受けるために教室を出た。
家庭科の調理実習は四、五人の班を作る。私達、海村の人間は四人で一班。私はなんとなく詠の姿を探してみるけど、詠の姿はやはり何処にもなかった。班はどうしてるのかと気になっているところ、どうやら詠の班は木原君や古川さんに狭山君や江川君の合計五人で編成されているらしい。それとなく聞いてみたら、教えてくれた。
じゃあ、詠はどうしているのかって疑問はすぐに解消された。
調理実習が始まって数分後、家庭科室の扉を開けて一人の生徒が入って来た。ビチビチと跳ね回る元気な魚を両手に持って木原君達に近寄るその人……それは、詠だった。
「ふむ。今日は随分と元気のいい魚を獲ってきたんだな」
「まあな。こいつらの声、訊きたいか?」
「遠慮しておこう」
側から見れば夫婦のような出迎えを古川さんに受けて、詠はまな板の上に魚を置いた。
今日の調理実習の内容は『ちらし寿司』で魚を使う予定はない。それなのに一体どうしてあの魚達が必要なのか。
遠目に見守っていると手際良くとどめを刺し、魚を捌いていく詠、鱗を落として塩揉みしてものの二分ほどで綺麗に三枚下ろしにした魚が出来上がっていた。
続いてその間に古川さんが用意した鍋に、刻んだ野菜などを放り込んでいく。
「それで今日は何を作ってくれるんだい?」
「磯汁擬き」
調理実習に磯汁の予定はない。だけど、先生は気にしていないようだった。いいのあれ?
「旦那ぁ〜、へへ、どうぞ」
「おう。だが、旦那はやめろ」
狭山君がそう言って差し出したのは豚肉のパック。これもまた調理実習とは関係ない。ついでに言うと磯汁には入れない。それを受け取り、鍋に投入する詠、その手際は手慣れている。
私も料理には自信があるんだけど。あんなの見せられたら妙に自信をなくしちゃうわけで。それでもやっぱり見ていたいと、思わずにはいられない光景だった。
–––そして、その時だった。
「–––いたっ!」
つい、魅入ってしまい包丁で自分の指を切ってしまう。その僅かあとにぷっくりと血が出て来て、咄嗟に手で抑えて血を無理矢理に止めようとした。
「ち、チサキ!」
「ちーちゃん大丈夫!?」
「大丈夫だよ。ちょっと切っただけだから」
我ながら情けない。料理はちょっと得意だったのに……こんな初歩的なミスをするなんて。するとその様子に気づいた先生が保健委員を呼ぶ。
「保健委員……えと、誰だったかな?」
「はい」
挙手したのは詠だった。
「女子の保健委員は?」
「残念ながら、医者の不養生ならぬ保健委員の不養生です」
「ま、いいか。じゃあ、潮留君は比良平さんを保健室に」
「了解しました」
二言三言交わして、詠は私を見た。
「ほら、行くぞ」
「う、うん……」
先導する詠の数歩後ろを私はついて行った。
「先生ーって、誰もいねー」
保健室の中には保険医の姿は見当たらなかった。
「どうせ職員会議かなんかだろ。まぁいいや。手を洗ってから、ほら、そこ座れ」
促されるまま私は手を洗って椅子に座った。救急箱とタオルを持って来てはタオルを渡して水分を拭き取るように指示される。そしてそのあとに彼は容赦なく、消毒液をつけた綿を傷口に押し当てて来た。
「ひゃっ!」
「悪い。痛かったか?」
「う、ううん、ちょっとびっくりしただけ」
少し痛かった。とは、言わなかった。
傷口に染みる消毒液も、水も、やはり慣れない。
そのまま無言で手慣れた様子で手当てをしてくれる詠を私はじっと見つめた。
消毒して、絆創膏を貼って終了。
救急箱を片付け始めた彼に私は話しかけていた。
「ねぇ、詠って海の人なんだよね?」
「元な。って、それ誰から聞いたんだ?」
「古川さんから」
「はぁ……。なるほど、教室の空気が傷口に塩を塗ったみたいに悪くなったと思ったらそれか」
元から教室の空気は少し悪い。それを詠も感じていたのか、更に悪くなった教室の空気に気づいたようだ。
「エナもあるんだよね?」
「商売道具だからな」
「でも、詠のエナって見えないよね」
「そりゃ化粧品を使って光を反射しないように偽装してるからな」
「へぇー、そんなことできるんだ」
知らなかった。隠す必要がないからか、そういう発想はなかったなぁ。……あれ?
「でも、なんで隠してたの?」
「別に隠してたってほどじゃないが。別に教える必要もないだろう」
「それはそうだけど……」
「それに初っ端からあんな面倒そうなやつ見たら、関わりたくないって思うのが心理だろう」
光のことだろうか。たしかに初対面であれは関わりたくないかもしれない。
「じゃあさ、詠は何処の海出身なの?」
「……村の掟については知ってるよな」
「あっ、そっか。ごめんね。言いたくないよね」
「まぁ、そういうことだ」
踏み込み過ぎてしまっただろうか。本人はヘラヘラしているものの、どうにも私の方に遠慮というものができてしまう。
「一応、手当はしたけど。僕がやった方法が正しいとは限らないからな。化膿はしないと思うけど、気をつけるんだぞ」
「大丈夫だよ。ちょっと切っただけだから」
「じゃ、さっさと行くぞ。料理が僕を待っている」
何故だか、今日の詠は張り切っているように見える。いつも授業の冒頭十分は寝てるのに。保健室から先に出ようとした詠を追い駆けて私は咄嗟に彼の腕を掴んだ。
「あ、えっと……」
どうして掴んでしまったのだろうか。私にも理由はわからない。でも、そんな私でも、胸の内に沸き上がってくるその感情があたたかいものだということはわかるのだ。懐かしいような、寂しいような、どうにも名前のつけられないこの気持ちを。私は胸に秘めたまま段々と上がっていく温度に心震わせて、
「あ、れ……?」
–––ぽろり。一筋の涙が零れ落ちた。
「……少し休むか?」
「ううん。大丈夫。大丈夫だよ」
「そうか。なら、少し遠回りしていこう」
私の手を握り返し、詠は微かに笑った。
僅かに回り道をして工作室へ。此処には制作途中のオジョシサマが置いてある。そこに足を運び、扉を開ける。
「あっ」
そこには先客がいた。赤いランドセルを背負った女の子。
誰だろう?そんな疑問が浮かぶ間に工作室の凄惨な光景が視界に飛び込んできた。
みんなで作ったオジョシサマが首からポッキリと折られ、顔には落書きされて、所々蹴られたのか罅割れていたのだ。
誰がやったのか–––それは、女の子が持っている緑のペンから想像は出来た。顔の落書きの色とも一致している。だけど私は、その光景を飲み込めないままに声も出せなかった。
「おー、随分派手にやったな」
「わ、やば!」
詠に気楽に声をかけられた女の子はそう独白すると、工作室の窓から外に逃げて行く。
気安い感じからして、あの子は詠の知り合いだろうか。
「……えっと、知り合い?」
「まぁ、そんな感じだ」
私達が頑張って作り上げた、オジョシサマ。それを壊されたのに詠は気にも留めていない様子で転がったオジョシサマの頭を拾い上げた。頭部は彼の仕事で切り株から削り出している。それをこんなにされたっていうのに彼の反応は薄情なほど、あっさりとしたものだった。
「これが漢字のテストだったら赤点だな」
『さゆ三じょう』の文字を見せて苦笑する彼。相変わらず、何を考えているのかわからない。
私達は頑張っていた。同じ目的を持っていた。一致団結していた。オジョシサマを作るために。それなのに……一生懸命に頑張っていたのに悔しいって思わないのだろうか。
こんな悲しい気持ちを持ったのは私だけなのだろうか。マナカは木原君に、光はマナカに、それぞれ理由があって釣られた感があったけど、それでも私達は……。
「僕からちゃんと言っておくから、今回の件は秘密にしといてくれないか」
彼は抑揚のない声でそう言う。
「え、でも……」
それならこの不始末はどうするのだろう。どう足掻いたって数分で直せるものではない。しかし、彼はご丁寧に犯行声明を残したオジョシサマの顔にヤスリをかけることで簡単に『さゆ三じょう』の文字を消してしまった。これで誰がやったかは不明になった。私と詠以外には知る者はいない。
「流石にそれは–––」
嘘はつけない。そう言おうとした、直後だった。
「–––ったく、あの野郎ども」
ガラッと扉を開けて誰かが入って来た。それもこの光景を見られて、一番厄介な人。汐鹿生の制服を着た男子生徒–––光だった。
「って、なんだよこれ!?」
凄惨な状態のオジョシサマに気づいた光。
その後ろには、マナカと要もいた。
「誰がこんなこと……」
「酷い……」
「……一応聞くけど、君がやったってわけじゃないよね」
光が、マナカが、要が口々に悲痛な声を漏らした。それに対して私が何かを言う前に詠がヘラっと笑ってこう言った。
「だったらどうする?」
「な、テメェ–––!!」
光の怒りやすい性格を理解しているのか、言葉巧みにそうなるように誘導してみせる。
私は「違う」と叫ぼうとしたけど、彼に視線を向けられてそんなこと言えなくなってしまった。
「チサキ、本当に……?」
「ち、ちーちゃん?」
「……」
私は何も言えなかった。指を怪我した方の腕をもう片方の腕で掴み、掻き抱くようにして目を逸らした。
「チェストォォォ!!」
「……ったく、面倒だなぁ」
雄叫びを上げて殴りかかる光に対し、詠は軽く避ける。同時に残したままの足を引っ掛けて光を転ばせた。
「ぐぼぉ!」
「うわ、痛そう」
床に思いっきり顔面から突っ込んだにも関わらず、光は立ち上がり再び詠に殴りかかった。
「相変わらず、能のない喧嘩だなぁっと」
殴りかかる光に対し、今度は蹴りを突き込むように放った。
それでもまだ光は倒れない。
「ったく、タフな野郎め」
「うおぉぉ!」
獣の咆哮を上げて光は摑みかかる。取っ組み合いになったところで、殴り合い、手が足らなくなったところで詠が頭突きを放った。
「ちょっと、二人とも!」
「わ、私、先生呼んでくる!」
こうなった光を私達は止めることはできなかった。