今回はチサキ視点で。
暗い部屋に月の光が差し込む。そこは海ではなかった。知らない天井、知らない壁、知らない匂い。夜中に目を覚ました私は起き上がり外を見た。空だ。夜の帳が下りる空に丸い月が浮かんでいる。雲が霞みがかって初めて見る空だった。きっと海の中では目にすることはできなかっただろう。
よくよく考えたら男子の家に宿泊するなんてとても緊張して眠れなかったけど、いつのまにか眠っていたらしい。
喉が渇いた。エナも乾いている気がする。
目を覚ました私は廊下を歩いてキッチンへと向かう。
その道すがら、誰かの声がした。
私は無意識に声のする方へ足を向けた。
会話が聞こえた場所はリビング、私はそっと中を覗いた。
「ごめんね、詠君。こんな時間に」
「ふぁ…いえ…気にしなくて…いいですよ」
リビングにいたのはパジャマ姿のミヲリさんと眠そうに瞼を擦る詠、二人は灯りもつけていない部屋の中でソファーに隣合って座っていた。
何を話しているんだろう。
私の疑問はすぐに吹っ飛ぶことになった。
「また、エナ診て欲しくて……」
「?検診は十日前にもやりましたよね」
「その、なんか不安で…嫌なことって続くでしょ?」
エナをみる。観察という意味だろうか。検診と言ったようにも訊こえた。だけどそれは、お医者さんの仕事ではないだろうか。意味がよくわからず私は更に二人の会話に神経を研ぎ澄ませた。
「…別に海村の人間がいる今じゃなくてもいいのでは?」
「わかってるんだけどね。ダメ、かな……?」
「まぁ、僕が困ることなんてないんですけどね。わかりました」
内緒の話みたいだ。けれど、その話が海村の人間にバレるとどうなるのか?私にはまださっぱりわからない。
「–––ッ!?」
凝視して、耳に神経を研ぎ澄ませている時だった。徐にミヲリさんがパジャマのボタンを外し始めたのは。やがて、下まで全部外すとゆっくりと脱いだ。下着姿になってトップスをソファーに賭ける。すると今度は立ち上がってパジャマのズボンまで下ろし、半裸の下着姿でソファーに座る。
詠がミヲリさんの身体を観ている。時には触れたりして擽ったそうにミヲリさんがくぐもった声を漏らした。
(じ、実は浮気してたのはアカリさんとミヲリさんの夫じゃなくて詠とミヲリさんってこと!?それとも両方!?)
軽く混乱しながら私は目の前の光景に目を離せないでいた。
でも、何故だろうか。詠の視線にいやらしさがない。
それどころか神秘的な雰囲気が感じられる。
まるで、ウロコ様を見ている気分だった。まぁあの人は大概セクハラをするけど。
お互いに無言で向かい合うこと数分。
「じゃあ、息を吸って」
「…すぅ」
「吐いて」
「…はぁ」
ミヲリさんの胸に右手を当てて目を閉じ、呼吸を促した。それを何回か繰り返した後、詠がゆっくりと瞼を開けた。
「少し我慢してください」
「んっ」
今度は傍に置いてあった桶から水を含んだタオルを押し当て全身を拭く。水の冷たさにピクンと肩が跳ねたミヲリさんは、慣れると気持ち良さそうに身を預けていた。
「異常はないです。服を着て大丈夫ですよ」
「下着は外さなくていいの?」
「今回は前回の検診と日数が開いていないし、体調が悪くなったというわけでもないので」
「むぅ。そこは騙して裸にしちゃうところじゃないかな」
「下着姿でも十分目に毒です」
「あの人といいみんな若い子の方がいいのかな」
健診が終わり安堵したように二人の空気は和らいでいた。さっきまで緊張していた様子なのにミヲリさんの表情は明るかった。
「そういうのは至さんと正式に別れてからにしてください。本当に狼になりますよ」
戯けた様子で詠が言う。その間にもミヲリさんは服を着始めていて、パジャマのボタンを留めていた。
「……本当に感謝してるんだよ。私のせいで髪までこんなに白くなっちゃって」
服装を正したミヲリさんが詠の髪を撫でた。
「では、身体で返してもらいましょうか」
「うん。家事は任せて。明日はギリギリまで寝てていいからね」
「ありがとうございます」
「感謝してるのはこっちの方なんだけどね」
楽しそうに少し談笑した後、詠が立ち上がってこちらに歩いて来た。私は思わず、膝を立てて覗いていた体勢を崩して背中から壁にぶつかった。扉を開けた詠と目が合った。
「あ、えと、話し声が訊こえて……、喉が渇いて、エナも乾いた気がして……」
私は何を言ってるんだろう。
焦って取り乱しているのが相手からは丸わかりだ。
詠は眠そうな表情だった。
「エナなら風呂場の第二浴槽に塩水が入っているからそれに浸かれ」
潮留家には浴槽が二つある。一つは普通に二、三人が一緒に入れるほどの大きなお風呂。もう一つは一人用の何故あるかわからない浴槽だ。私はそれをミヲリさんが使うのだと思った。そして、それは正しいのだろう。私もエナが乾いたり不安なら使えと教わった。
詠は私が覗いていたことに気づいた様子もなく、二階へと戻って行った。
◇
翌日、起きたらミヲリさんがキッチンに立っていた。まだ美海ちゃんと詠の姉、渚さんは起きていないようだ。それに詠君も実はお寝坊さんだっりするのだろうか。いつも教室で寝てるし。
「おはようございます、ミヲリさん。何か手伝いましょうか?」
「いいよ座ってて。……あ、やっぱり美海だけ起こして来てくれないかな?」
「えと、詠と渚さんは……?」
「詠君は水族館にもう行ったよ。渚ちゃんは人前に滅多に出てこないから」
「えっ、そうなんですか!?」
「あっ、渚ちゃんのことは気にしないでいいよ。私でも面と向かって話してくれるどころか顔を合わせてくれもしないから。そうだ、学校は詠君が一度、家に帰ってくるまで待っててね。迎えに来るって」
もう詠は家を出てしまったようだ。一人だけ寝ていて申し訳なくなってくる。それに私が起きたのは午前六時、既に詠は家から出て水族館へと向かったようだ。
私はミヲリさんに頼まれたまま美海ちゃんを起こしに行った。起こすとまだ眠そうに瞼を擦っていたが布団から出てくれ、顔を洗って戻って来た頃には、朝食が並んでいた。
「さ、食べよっか」
ミヲリさんの作った朝御飯は海で食べるご飯と何も変わらなかった。
7:30
詠が帰って来た。
自転車の後部に乗せられて二人乗り。
朝の道路を潮風を感じながら走った。
いつもは海から陸へ出る。
それなのに変な気分だ。
潮風が気持ち良く、風を切る感覚が心地いい。
彼の背中に抱き着きながら、私はひたすらそれを感じていた。
「朝、早いんだね」
「もう慣れた」
何を話していいかわからずそんなことを言った。
くだらない会話、当たり前の返答、私が聞いたのはそう言うことじゃない。
私個人の感想によるものだ。
「ねぇ、大変じゃない?」
「大変だな。でも、僕はこれでいいと思ってる」
諦めとは似つかない、達観した答え。
懐かしむ表情をしていたように思う。
「渚は両親が死んでから僕を育てるために頑張ってくれた。血の繋がらない赤の他人だってのにさ。本当なら、自分一人で生きる為に僕を見捨てるなりすればよかったのに。ただ家族だって理由で僕を受け容れたんだ。今ではあんな感じだけど、僕が敬愛するただ一人の姉だ。それは変わらないさ」
だから大変じゃないと言う。
他の人は言ったそうだ。
彼の姉を「役立たず」だと「引き篭もり」だと「弟さんが可哀想」だと。
散々、罵倒された。だけど、彼は言う。
この世界で最愛の人で、守りたい存在だと。
「渚が変な男に拐かされるくらいなら、僕が養うさ。あんな綺麗で可愛い姉を手放したくない。尽くして死ねるなら本望だ」
とても真面目くさった顔で詠は言った。
「好きなんだね、お姉さんのこと」
「一目惚れもした。僕の自慢の姉だ」
恥ずかしげもなく詠は宣言する。光ならきっと「はぁ、ちげぇし!」とか顔を赤くして否定しただろう。光も詠もシスコンだ。
「お、お姉さん相手に……?」
「最初に会った時はなんて綺麗な人なんだろうって思ったさ」
「そんなに綺麗なの?」
私は直接顔を合わせたわけではない。でも、確か写真に特別綺麗な人が写っていた気もする。きっとその人なのだろう。
「最初はお互いに余所余所しくて話すらまともにできなかった。だけど、同じ家に住み始めてぶっ倒れた時に岩塩一袋をぶっかけられて浴槽に沈められたな。文字通り」
「す、凄いことするんだね……」
「打ち解けたのはそれが切っ掛けだよ。涙目で渚がワンワン騒ぐものだから、それがおかしくって……つい二人で笑ってた」
岩塩、水攻め、普通の子供にする所業じゃないと思う。
「まぁ、オチは岩塩一袋無駄にしたせいで渚も僕も怒られたわけだが。でも、そのあと、岩塩買いにおつかいをするついでにアイスを買う代金もくれて、二人で仲良く手を繋ぎながら買いに行った」
その光景を想像すると微笑ましくて、私も笑った。
それから暫くして学校を通り過ぎる。
私は彼の行動に疑問を覚えて、彼の腰に回した腕の力を強くした。
「ねぇ、学校通り過ぎたよ?」
「着替えたいだろ。……こう言うのもあれだが、渚やミヲリさんの下着じゃサイズが合わないし」
「そ、それもそうだねっ」
彼が気を遣ってくれたのに私は詠に態々言わせてしまう始末、二人して顔を赤くして逸らした。
「学校には遅れるって伝えてある。早く行ってこい」
「う、うん」
私は胸を隠すようにしながら、海に飛び込んだ。
着替えを済ませた私は待っていた詠と再び学校を目指した。
教室に着いたのは二限目が始まってすぐ、二人揃って教室の扉を開けると先生は何事もなく言うのだ。
「あ、来たね、二人とも」
「遅れてすみません」
「いいよ、事情は聞いてるから。さ、席に座って」
視線が突き刺さる。
陸の子達のにやにや笑い。
海の子達の怪訝な表情。
マナカは席を挟んでこっそり耳打ち。
「大丈夫?ちーちゃん」
「うん。大丈夫だよ」
心配そうなマナカ、きっと私が帰って来てないという連絡は海中にあったのだろう。その原因の一端である光には睨まれる筋合いなんてないのだけど。光の機嫌は完全に損なわれて、矛先はどうやら詠に向けられているようだ。後ろの席の私ではなく目の前の席にいる彼に向けられているのだから。
彼は授業に半分意識を向けている。
ただ、次第にコックリコックリと船を漕ぎ始めた。
いろんな出来事が重なって、眠いのかもしれない。
特に昨日は遅くまで起きていたし、それはそうだ。
そして、事は起こった。
「そんならあいつと二人で組んでりゃいいだろ!」
教室に怒号が響き渡ったのはグループ学習の時間。寝ている詠をグループに入れてあげようと光に提案したら、昨日と同じようにキレられて怒鳴られてしまった。
私はただ、彼をグループに入れてあげようとしただけなのに、どうしてか光は詠を敵対視している。それも今日の一件や色々が重なったことが原因だろう。あとは彼が寝ていることか。
「その、詠だって色々とあるんだし……」
夜の睡眠時間は三時間もなかったように思う。それが大変そうで少しは彼を助けようと思ったら、光の琴線に触れてしまったようだ。
「陸のやつらなんてクソばっかじゃねぇか!何が色々とあるんだよ!センコーもあいつが寝てても贔屓しやがるし何が教師だ!陸と海の子で差別しやがって!」
最初に差別的発言したのは光だったように思うけど……。
確かに詠に対して先生は甘い。授業中、寝てるのを起こそうとして、起きなければ放置するし。
光が居眠りした場合、すぐに起こす。だけど、光は一度の注意で起きるから二度目はなかった。
それだけ。ある意味で勘違いだ。
先生は光も詠も平等に起こそうとした。
それだけなのだ。
確かに先生が贔屓をしているように感じるけど。
「おいおい、誰が差別したって?」
「それは聞き捨てならねぇなあ」
光の文句に反応したのは、よく光と啀み合っている狭山君と江川君。光が此処に来てから喧嘩する筆頭候補だった。
「うるせぇ豚!」
「やんのか魚!テメェ捌いてちくわにしてやんよ」
光が売った喧嘩を狭山君が買う。
「だいたい俺らがいつ差別したんだよ」
「んなもん、最初からだろうが!」
「あっれれ〜?おっかしいぞぉ〜?最初に喧嘩売って来たのは何処の誰だったかなぁ〜?」
右手を腰に当てて、左手を耳に当て欹てるポーズ。完全に光を煽っていた。
「俺は悪くねぇ!」
実際、喧嘩を売ったのは誰だったか。最初から最後まで喧嘩腰だったのは光だけだ。私達も必要以上に関わろうとしていないけれど、気さくに話しかけてくれる人とはもちろん会話している。というか、むしろ光の行動が嫌でみんな避けているだけで、売り言葉に買い言葉だっただけなような気も。
そういえば、此処に海の人間に対して否定的なのは光に喧嘩を売られた二人くらいだった。いや、それともう一人いたっけ。女子にだけど。その子は光にすら言い返すから、名前もよく覚えている。
「滑稽だね。君がギャアギャア騒いでるだけじゃないか」
そう。この女子生徒だ。
烏の濡れ羽色と呼ぶのに相応わしい、艶やかでしっとりした黒髪。すらりとしつつ出るところはきっちりと出たモデル顔負けのスタイル。だけど、何処か異国を思わせる顔立ち。
悠然と立つ姿は神秘性すら滲み出ている。
名前は“古川唯”。よく私やマナカに話しかけてくれた子だ。
しかし、彼女が光に喰ってかかるなんて初めてのことで、大人しそうな感じでいつも本を読んだり詠の寝顔に悪戯をしている姿しか見たことがない。
「なっ、滑稽って何がだよ!」
「そのままの意味だよ。先生も生徒も海と陸で差別なんてしたことなんてないよ。昔はともかく、ね」
「海と陸でしてるだろ!」
「それは君が詠を陸と見て、自分を海に置き換えてるだけだろう。いや本当それって滑稽だ。喜劇としては十分かな」
大仰に手を広げてみせる古川さん。
クスクスと笑う。それが光の神経を逆撫でする。
光が何かを言う前に、光が誰かに殴りかかる前に。
古川さんは光に悪意の宿った言葉のナイフを突きつけた。
「いやね、本当に滑稽だよね。陸だの海だの言って差別している張本人が同じ海の人間を差別するんだから。人間ってどうして面白い」
「「「……え?」」」
三人分の疑問符。
笑みを消して、古川さんは光を睨んだ。
「そもそも私達は海の人間を差別なんてしてないんだよ。私達は何度か海の人間と衝突したし、特に狭山と江川なんてイジメまで始めちゃうくらいだからね。返り討ちにされたけど。これでも二人は丸くなった方だよ」
「あのですね古川さん、その話は……」
「若気の至りでして……」
「詠が赦しても私は赦す気はないのだけど」
「「すんませんでした」」
照れ臭いのか、はたまた別の理由か、気まずげに目を逸らす二人。いつも柔和な表情をしている古川さんの表情が絶対零度のそれだ。海さえも凍りそうなほど冷たい視線を二人に向けている。やがて飽きたのか、光へと視線を戻した。
「うん。この際だ。はっきり言おう。先島光、私は君が嫌いだ」
とても一方的な通告だった。
「彼の築いた信頼を土足で踏み荒らす横暴な態度が嫌いだ。彼の努力を貶されているみたいで本当に腹が立つよ」
その瞳には激しい怒りが灯っている。
彼女の憤怒は、ただ一心に光へと向けられていた。