閉館した水族館のショーを行う屋外のプール。そこの清掃は海の生物達の住む水槽の清掃と同じくらい大事な業務となっている。夜の照明だけのそのステージで僕はせっせと働いていた。ブラシで地面を擦り汚れを取る。
もう何ヶ月もしてきた行動に苦楽を感じてはいない。あるとするのなら、金を得るために義務を果たす。という責任感だろうか。僕は意外にも献身的であった。
「お疲れ少年」
「あっ、お疲れ様です。雪菜先輩」
そこに指導係の雪菜先輩が登場した。ウェットスーツも制服も着ていない、プライベートな私服姿だ。それもかなり綺麗系のカッコ可愛い衣装である。彼女の好む服装が如実にわかる服装だった。
「君もそろそろ上がりなよ。仕事熱心なのはいいけどさ」
「いえ、僕は無理を言って雇ってもらっている立場なので」
「そうかな。君の能力は館長も買っているけどね」
「それにもうすぐ終わります」
「くふっ。その社畜精神を他の人にも見習ってもらいたいよ」
話をしながらゴシゴシとステージを擦る。と、気を抜いた瞬間だった。
「ふぅ、これでおわ–––ったぁ!?」
首筋に冷たい感触。
バッと振り返れば、雪菜先輩が飲料缶を手に笑っていた。
「隙あり。随分と気の抜けているようだね」
「こういう場合は気が抜けているのではなく、仕事熱心だと言ってください」
「物は言いようだぞ」
「まったくです」
差し出された缶コーヒーを貰いつつ、いつも通りの意地悪に苦笑した。たまにこうして差し入れてくれるいい先輩なのだ。雪菜先輩は。気配りが上手で美人、それなのに何故か独身である。
二人でベンチまで移動し、座って星空を眺める。雪菜先輩は自分の分のコーヒー缶を開けて一口呷った。
「……それで、最近はどうだい?」
「どう、と言いますと?」
いきなり大雑把に訊かれて手の中で転がしていたコーヒー缶を止める。
「んー、学校とか家庭のこととか」
「別にこれといって変わったことは……あ」
家庭のこと。そう言われれば普通、僕のような事情が複雑な家庭は言い淀むだろう。だけど、頼れる先輩にはまぁ色々と知られているし問題はないので抵抗なく話せる人間の一人である。
僕は変わりない、と言おうとして最近のことに思い至った。そういえば最近は忙しくて僕の方が遅くなるなんてことは珍しいので、こうして会話をする機会がめっきり減っていた。こうして会話することは僕の方が早上がりの時にはないのだ。
「最近なら、海の学校が閉校になったらしく、陸と海の学校で合併されましたね」
「へー……ということは、君の故郷の村とか」
何やら僕はそんなことまで話していたらしい。
僕が働き始めたのは中学に入ってからだがよく覚えてるものだ。
僕なんてとっくに何を話したか忘れている。
一年程の付き合いでしかないというのに記憶力のいいことだ。
「で、昔の女が現れてドキドキスクールライフが始まったと」
「始まってませんし、別に好きとかでは……」
「青春だね。いいな、羨ましい」
「人の話を聞いてくれちゃあいないですね」
「いくつになっても女は恋話が好きだ。少年は覚えておくといいよ」
「はぁ……」
「おや、ため息なんて吐いてどうしたんだい?」
「誰のせいですか、誰の」
「それは唯ちゃんと昔の女が潮留詠を取り合った結果かな」
この話は進みそうにない気がした。やめよう。
「それともう一つ、僕の悩みではないんですが」
「ほう?」
雪菜先輩が興味を示した。
僕も元々黙っている理由もなかったので口は軽く滑る。
「実は、親戚のある男性が不倫をしまして……家庭崩壊の危機だったり」
「ふーん。それで?」
「うちに従妹と叔母が居候してますね」
「なるほど、よくある話だね」
「叔母が家事を全面的にしてくれているので僕は願ったり叶ったりというか」
「他人の不幸は蜜の味ってそんな言葉だったっけ」
「いや、別にそういうわけじゃ……」
「わかってるわかってる。少年の生活が少しは楽になったわけだ。でも、それは長く続くわけでもないだろう。そのまま離婚する話は多いけど、再構成という場合もある」
「いや、あれは絶対に別れますね」
「根拠は?」
「だって不倫相手が、その、奥方の知人ですよ」
「修羅場の中でも最悪のパターンじゃないか」
チビチビと飲んでいたコーヒーの缶を握り締めて雪菜先輩はバッと振り返った。残ったコーヒーを飲み干すとスタスタと歩いていく。相変わらず、マイペースな人だ。
「じゃ、話はまた今度。先に帰るよ。続きよろしく」
そう言って館内を通って裏手へと回って行った。
僕も帰り支度を始める。道具を片付けて、服を着替えて、その途中で男子更衣室の扉が開き、ひょこりと顔を出したのは雪菜先輩だった。
「先輩、ここ男子更衣室です!」
「別に減るものではないしいいだろう。それより、君に客が来てるよ」
「客?」
「顔を腫らした男だったな。危うく通報するとこだったが君を待っているらしい。君もコアなストーカーに狙われたものだな」
冗談めかしてそう言う雪菜先輩。
なんとなく、顔面が腫れた男というワードに引っかかるものが。
いや、別に顔面腫らした男に知り合いはいない。
いないのだが、腫らす理由については心当たりがある。
「……はぁ。わかりました」
学校の鞄を手に僕は更衣室を出た。
案の定、というか……。
駐車場で待っていたのは至さんだった。
顔面を腫らして、湿布を貼って、絆創膏を貼って、包帯男もかくやという悲惨な顔面崩壊をした男が駐車場から水族館を見つめている。
流石に雪菜先輩もこれにはドン引きらしく、引き返して僕に報告するわけだ。あの人、意外と怖がりだから不審者がいて相当ビビっていたのだろう。それが漁業のよく水族館に餌用の魚を納品に来る男だというのに、酷い遠ざけられようだ。
「噂になってますよ。不審者がいるって」
「あ、はは……酷いな。君を待ってただけなのに」
「なら、挙動不審に周りをキョロキョロすることをやめることを提案します」
「ごめん」
子供相手でも謝れる。そういう素直なところが美徳だ。もっとも、今回の件は頭を下げたところで簡単に終わるような話でもないが。
「何か用ですか?」
「実は君に頼みがあって……」
「断固拒否します」
「即答!?待って、話くらい聞いてくれても……」
「大方検討はつきますよ」
このタイミングで現れたこと。それが何より雄弁に語っている。
「じゃあ……!」
「それとこれとは話が別です。察しただけで力になるとは言ってません」
よく勘違いするパターンだ。相手が既に知っているというだけで手を貸すと思っている。その用意があると。だが、僕は中立……いや、多分ミヲリさん側の人間だろう。
「あなた次第です」
「わ、わかった。取り敢えず、車で話そう」
促されるまま、僕は軽トラの荷台に自転車を積んで助手席へと座った。
こうして僕は帰りの足をゲットした。
そのまま走ること数分、運転しながら至さんが単刀直入に切り込んできた。
「……もう、ミヲリから話は聞いてるよね?」
「えぇ、まぁ、一応」
確認するためにそう問うてきたのだろう。適当に返事してから、僕も気になっていたことを本人に聞いてみることにした。
「至さんが不貞をやらかしたって話は訊きました。その相手がアカリさんってことも。それはいいんですが、ミヲリさんとはちゃんと話しましたか?」
「えっと……。その、一方的に離婚を突きつけられて、美海を連れて行っちゃったから話はできてないというか……」
どうやら不倫関係を聞き出した後、激昂して出てきたようだ。その興奮はまだ冷めやらぬまま。でも、今のミヲリさんを見てわかる。あの人本気だ。
「さ、探そうと思ったけど、美海を連れて実家に帰ったのかと思って……アカリと手分けしたけど、見つからなくて」
「バカですか。美海にはエナがないのに海村に帰れるわけないでしょう」
「そ、それは後で冷静になってわかったよ」
「まして追放された身で海に帰るなんて–––」
「えっ、ちょっと待って、追放?」
「は?」と間抜けな声を出したのは誰なのか。僕だ。今まで知らなかったような顔をしている至さんに対して、僕の漏らした声はあまりにも間抜けに響いた。
「……まさか知らなかったんですか。掟ですよ」
「掟って、海村にそんなものがあるのかい?」
「……」
言葉を失うとはこういうことなのだろう。
僕はそれを身を以て体感していた。
「結婚する時、ミヲリさんから訊かなかったんですか?」
話題に上がれば“掟”については知っている筈だ。
もし、そうでないとしたら……。
「えっと、ミヲリは親の反対を押し切って家出同然で出て来たから……まさかそれが理由だったのかい」
「あぁ、そういうことか……」
つまりだ。ミヲリさんは好きな人と結ばれるために親の反対を押し切るどころか無視して海を出て来た。そして、親の反対する理由も、ミヲリさんが反発した理由も原因は一つ。“掟”だ。陸の人間との結婚を認められず、掟なんかに自由を縛られた結婚は嫌で、それすらも至さんには話していないと。
僕は額を左手で覆い、そのまま目を隠して嘆息する。
過ぎたことは仕方がない。いや、仕方がなくはないけど。
「この話はいいです。……それでミヲリさんに会ってどうするつもりだったんですか?」
「と、取り敢えず、話をしようと……」
「何の話ですか?離婚についてですか?親権についてですか?それとも養育費の話ですか?慰謝料の話ですか?」
「……まずは、離婚云々の話、かな」
この人は変なところで迷う。一気にまくしたてられて言葉も返せないようじゃ僕も一発殴っていたところだ。
「へぇ。じゃあ、決まってるんですね。これからどうするのか」
「いや、それはまだ……」
「一応、聞きますが……まさかどっちつかずのまま流されようっていうんじゃあないでしょうね」
「……ち、違うよ」
「では、どっちと一緒になるか、決めてるんですね」
「……」
無言で車を走らせる。
僕は無言で至さんの胸ぐらを掴んだ。
「ちょっ、僕運転中だから!」
「それを流されてるって言ってるんですよ。一緒にいてくれる方と一緒になろうなんて都合が良過ぎじゃないですか」
「殴るなら後にしてくれないかなっ!?」
そう言われて僕は手を離した。
「……まぁ、僕も人のことは言えない立場なので殴りはしないですけど」
「唯ちゃんのことかい?あの子、君にぞっこんだからね」
それは関係のない話だ。今は別の問題だ。
「その顔面、大方、海村の人か光にやられたんでしょう」
「えっ、はは……君にはお見通しか」
殴られた痕を撫でながら至さんは認めた。
徐々に車の走る速度が遅くなり、やがて停まる。
家の前だった。
僕は無言で降りようとして、最後の相談を持ちかけられる。
「頼む。……ミヲリと話をさせてくれないかな。今日、来たけど門前払いされて」
「一応、話をしておきますが……今日は無理ですよ。説得もしません」
「それで十分だよ。ありがとう」
自転車を降ろしている間、至さんは家を見つめていた。
それだけ礼を言うと軽トラに乗って走り去って行く。
僕は見送ることはなかった。
家の扉を開けて、僕も帰ることにした。
「ただいま」
「お帰りお兄ちゃん」
玄関のドアを開けて入ればお出迎えしてくれる従妹。
頭を撫でれば気持ち良さそうに目を細めて、もっとと頭を押し付けてくる。
「本当に可愛いなぁ美海は」
「お兄ちゃんのバカ」
抱き上げるとぷいっと視線を逸らす。
満更でもなさそうなのでそのままリビングに連れて行った。