「…に…ちゃ……きて」
小鳥の囀りに混じって声変わりもまだな幼い声が聞こえた。
「お兄ちゃん、朝だよ起きて」
優しくも子供らしい荒さのある力で肩を揺する。
重い瞼を開ければ、目の前に幼い少女の顔があった。
「……今日は久しぶりの休みなんだ。寝かせてくれ」
いくら可愛い従妹の頼みであれど、こればかりは譲れない。布団に潜り込もうとして背中の感触に気づく。どうやら渚が背中に抱き着いたまま寝ているようだ。
「もう、パパみたいなこと言って!」
布団を引っ張る美海に抵抗する。しかし、不毛な争いを続ければ続けるほど眠気は飛ぶ。
斯くなる上は、
「じゃあ、一緒に寝ようか」
「ふぇっ?お兄ちゃん?」
起こしに来た美海をベッドに引き摺り込む。腕を掴んで引き倒し、抱き寄せてそのまま抱き枕にした。子供の体温は高いがその温かみが心地良い。柔らかくて抱き枕としては最高だった。
「もう、お兄ちゃんってば……」
嫌がる様子はなく、照れた様子で恥じらう美海。彼女も嬉しそうに回された腕を抱き締めるのでなお可愛い。
「……んじゃあ、おやすみ」
そして、意識は霞の向こうへ消えた。
『ごめんね、詠君の様子見て来てくれる?』
『やっぱり寝てるのか、詠は』
何時間経ったのか目を覚ました頃には暑さを感じるようになっていた。夏の日に長い睡眠を取るのは難しい。開けた窓から潮風が入ってくるのでそれほど暑くはないが、夏なのでそれなりに暑い。
ギシギシと階段が軋む音が聞こえ、廊下を進む足音がこの部屋に近づき、やがてこの部屋の扉を開けた誰かが入ってくる。
「起きろ。詠、もう昼だよ」
「……唯か」
古川唯。絶世の美女を体現した小学校からの友人だ。彼女が家に来ていたのだ。黒のワンピースを着ていつものように薄く微笑む。その微笑みだけで何人の男子を堕として来たのか、その笑顔に騙される男子生徒は後を絶たない。
「……休みなんだ。寝かせてくれ」
「知ってる。だから、遊びに来たんだよ」
休日となると古川唯はよく水族館にいる。海の生物が純粋に好きというのもあるが、それだけが目的ではない。
「……起きないとキスするよ」
この通り、水族館に来るのも僕が目当てだったりするのだ。自他共に認めていることから周囲からはカップルと認識されている。別に付き合ってもいないんだが。
好意に気づいていないわけでもない。
むしろこれで気づかなければ、鈍感を超えた新しい称号を授与されなければいけない。
「僕を起こせるものなら起こしてみろ」
「じゃあ、遠慮なく」
そう言って唯は僕の頰にキスを落とす。軽く触れる唇の感触は柔らかい。すぐに離れたが、余韻だけは残ってしまった。頰に残る熱もきっと真夏の暑さの影響だろう。
「さて、次はどうしようか。唇にキスをするか。接吻をするか。口づけをするか。裸で添い寝というのもいいな」
「……やめろ。別の何かが起きる」
僕は潔く負けを認めて降参する。ベッドから起き上がった。もう既に二人は起きているのか渚と美海の姿はない。
「むぅ。詠は私の裸も、キスも、嫌なのか。こんなにも愛しているというのに」
「そんなことされたら完全敗北だ。堕ちない自信がない」
「なら、堕ちてくれてもいいじゃないか」
不満そうに拗ねた表情を見せる唯の頭を撫でる。拗ねたことを忘れたかのように受け入れて頭を擦り寄せてくるものだから、本当にどんな思考回路をしているのか。
階下に降りて、遅めの「おはよう」を言って朝食を摂る。もうすぐ昼飯なのに朝食だ。不機嫌そうなミヲリさんの顔を見て居た堪れない気持ちになった。今度からは気をつけよう。
つい、いつもの休日は昼までコースをやってしまった。
「さて、それでこれはどういう状況なのかな?」
「あー、それは……」
食後に膝枕をされながら僕は色々と端折って説明した。
なんで膝枕かって?–––僕にもわからない。
「不倫されたらしくて、そんで此処に逃げて来たんだと」
「なるほど。そうか」
海村の掟については唯も知っている。
帰れない理由、此処にいる理由、それがわかっているので彼女は何も言わずに僕の頭を撫でる。
しばらく撫でたあとで唯が口を開いた。
何を話そうか悩んだ結果、疑問を解消することにしたらしく、
「それで相手は?」
「海村の人間でミヲリさんの……友達?」
「……凄く残酷だね」
と、誰もが思った感想を述べた。
「掟については知っていたんだろう?」
「いや、知らないらしい–––って、そうだ!」
完全に忘れてた。とても悲しい生き物を見るような慈愛の表情を浮かべて、家事をしているミヲリさんの背中をチラリと視線だけを寄越す唯の太ももから頭を上げる。上体を起こして、僕もミヲリさんを見た。
「どういうことですかミヲリさん、至さんが掟を知らないって」
「うっ」
少なくとも、知っていたらこんなことにはならなかった。とは言い切れないが。問い詰めずにはいられない。
あの日、帰ったら訊こうと思っていたが美海の可愛さについ忘れていた。
「……別に知らなくてもいいかなぁって」
食器洗いをしているせいでわからないが、きっと目を合わせていたら目は泳いでいただろう。容易に想像ができた。
「まぁ、過ぎたことは仕方ないですけど」
「だよね。仕方ないよね」
僕は倒れ込むように唯の膝枕に戻った。
人をダメにする枕をソファーで堪能する。
なんとも贅沢な時間だ。
「ま、それはともかく、今日もダラダラして過ごすのか?」
「んー、そうだなぁ……」
勝手に押し掛けてくる唯に僕の生活は引っ張られている。唯に今日の予定を聞かれても特に何も考えていない。休日は何も考えずにゴロゴロしたい。それが僕の本能からくる願望だ。
ぼーっとしながら考えていると玄関の開く音が聞こえた。「おじゃまします」という礼儀正しくも慌しい声が挨拶が飛び、それもかなり聞き覚えのあるものだった。
「ママ、ただいま」
「おじゃましに来ましたー!」
ドタドタとリビングに入って来たのは美海とその友達、久沼サユだった。
「詠兄と唯姉、久しぶり!」
礼儀正しいガキンチョである。僕がだらけた姿勢のまま手を振るとちょっと不機嫌そうにサユの顔が歪んだ。
「相変わらずあっついなぁ二人とも」
「ふふっ、そう見えるかな?」
「で、付き合ってんの?」
「残念ながらまだなんだ」
残念ながら。まだ。
外堀から埋められてるなこれは。
唯の主張を軽くスルーしつつ。
僕は否定する。
「予定はない」
付き合ったらそのまま結婚までもつれ込みそう。という理由から、慎重にことを運んでいる。
悪い気はしないけど、軽々しく決めると後が怖い。
「付き合っちゃえばいいのに」
「君もそう思うだろう」
ほら、付き合え。と視線を向けてくる二人。
吝かではないのだが。果たしてそれでいいのか。
「ねぇ、お兄ちゃん。暇だよね?」
二人から責め立てられていると美海が割って入って来た。
「僕は膝枕を堪能するので忙しいけど」
「暇なら海行こうよ。泳ぎたい」
「いや、暇じゃ……」
「暇でしょ?暇だよね」
何にしても美海は僕を暇にしたいようだった。
気づけば三人は着替えていた。否応なく引っ張りだされそうなところで、僕も渋々ながら着替えた。三人に連れ出されたのは家の前にある砂浜だった。
小学生二人は学校指定のスクール水着。唯だけはホルターネックの黒のビキニにパレオを着けている。特に唯なんてそんじょそこらの中学生とは違ってスタイルが良くも出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるから、目のやり場に困る。一言で言えば、エロをなぎ倒して美しさが滲み出ているのだ。
見目麗しい姿に狭山と江川ならさぞ喜ぶだろうなぁ、と思いつつ腕を引っ張る三人に着いて行く。砂浜にパラソルをぶっ刺したところで僕はだらけた。
「あー、暑い」
「海だー!」
「もう、待ってよサユ!」
「こらっ、二人とも準備体操はしなよ!」
「「はーい」」
海に向かって走って行く子供達に注意を促す唯。
普段から見ている“海”の何処がいいのだか。
紡も、唯も、そこがわからん。
何が二人をそこまで掻き立てるのか。
僕はこの山を見てる方が楽しいけど。
「やれやれ。何が楽しいのかね」
「そう言いつつ、視線だけは私から外さないよね」
「拝めるものは拝んでおかないと」
狭山と江川には悪いが、僕は楽しむことにした。この状況を。
胸を隠すように持ち上げる唯は照れたように笑う。
「……あまり熱心に見られると私も恥ずかしいんだけど」
「魅せるために水着を披露したんだろう」
「まぁ、確かに君を誘惑するために着たんだけどさ……それとこれとは別だよ」
元々、唯は積極的にアピールしてくるような子ではなかった。こうなったのは露骨なアピールを無視し続けた結果である。
「ふむ。じゃあ、浜辺で波と戯れているスクール水着の女子小学生でも眺めておくか」
「君は一々変な誤解を生むような言い回しをしなくてよろしい」
ミヲリさんには二人の監視を任されている。
海の人間なら、海での監視は最適だろう。
そういった理由で監視を任されているのだ。
万が一にも、溺れる心配はないし。
「まぁ、女子小学生を眺めているのもいいけど、これ塗ってくれないか?」
唯はそう言って小瓶を取り出した。
世間一般で日焼け止めに使われるサンオイルだ。
彼女は既にシートにうつ伏せになり水着を外している。
布が一切存在しない背中はとても綺麗で魅力的、かつ扇情的だった。
「あの二人に頼まなかったのか?」
「わかってるくせに。白々しいな。口で言わないとダメなのか君は?」
「僕が襲わないという保障はないぞ」
「君にそんな度胸があるとは思わないけど」
何だろうな。今日の唯はやけに挑発的だ。
これでも僕は男性なんだが。
「さて、それはどうかな」
受け取ったサンオイルの蓋を取り、逆さまに垂らす。
「ひゃっ!」
すると、落ちた冷たい液体の感触に背を仰け反らせてピクンと震えた。艶っぽい悲鳴もついて、首だけを回して僕の方を睨むとも言えない表情で見てくる。
「い、いきなり何をするんだ!」
「オイルを垂らしただけだが?」
「君はつくづく私に対して意地悪だな。あ、もしかして、好きな子には悪戯したり冷たくするタイプなんだな」
「ガキかよ」
そう。これはただ唯の反応が面白くてついやっちゃっただけなのだ。好意につけ込んだささやかな悪戯だ。
「っ…ふ…くぅ…」
早々に終わらせようと唯の背中に手を這わせオイルを拡げていく。その度に艶のある声が漏れて、エロいことをしている気はないのにエロいことをしている気分になってくる。
「……あのですね、唯さん、もう少し声抑えてくれません?」
「無、理だ」
人気のない海岸だからいいものの。
他人がいたら凄く誤解を受けそうな……。
「はぁ……ん、この手はなんだ詠?」
「あぁ、最近また大きくなったなと思ってつい魔が差した」
「潔いのはいいけどね、せめて手が滑ったとか言い訳があっただろう」
「サンオイルで?」
「まぁ、君が正直なのはいいことなんだけどね」
「自重しないで生きるってのが目標なんで。狭山や江川くらいエロに忠実だったらいいんだけど。実はこれが難しいんだよな」
が、やはり手は正直だった。
滑った程を偽装し脇の辺りを塗っていた手は唯の胸に触れている。
普通はこんなことしたら、ビンタの一つでも飛んでくるだろう。狭山と江川なら海に沈められる。だけど唯は怒らない。
だから調子に乗って堪能してみることにした。
「って、あっ…こら…やめろ」
口では嫌がりつつも逃げようとはしない。暴れるでもなく、ただ耐える。
僕も嫌われたくないのですぐにやめた。
「……まったく君というやつは。せめて一言くらい断りを入れろ。怒らないから」
恥ずかしげに俯きながら身を起こした彼女は手を胸に回して隠す。
背中を見せて、付けてくれと頼んだ。僕は紐解かれていた水着を付け直した。
膝を揃えて正座する。ぽんぽんと太ももを叩いて僕を呼んだ。
「どうせ君のことだ、寝るんだろ?」
「あれ、お詫びに水遊びでも付き合おうと思ったのに」
「詠が女の子を濡らして喜ぶ変態だっていうのは私も知っているよ。私はそれよりもこうしてる方が好きなんだ」
口では罵っているものの、嫌悪感は微塵も感じられない。
促されるまま僕は唯の膝に本日二度目の膝枕をしてもらっている。
「じゃあ、少し寝るから三十分くらいしたら起こしてくれ」
「ふふ、おやすみ詠」
そして、意識は闇の中へと消えた。
ちょうど三十分後には意識が浮上しつつあった。
何故か、夏なのに身体は妙に冷たい。身体を動かそうとすればピクリとも動かず、指の一本も動かすのに一苦労だ。
まだ眠っている脳を叩き起こしてどうにか重い瞼を開ける。するとそこには変わらず山があった。
「おはよう詠」
「……あぁ、おはよう」
満面の笑みで笑いかけてくれる唯だが、僕は山から目を逸らして人工的に造られた山を見た。それも僕の体の上に新たに建造されたと思われる土の塊。
「あの、いったいこれはどういうことでしょう……?」
「思いの外暇でね。まぁ、君は寝てていいよ」
手には赤いペン。唯の背中から二人の小学生が顔を覗かせる。美海とサユ、二人の手には小さなスコップが一つずつ。僕の体を埋めた犯人と首謀者が判明した瞬間だった。
そしてこの後、僕は女子小学生二人と女子中学生一人の玩具となったのだ。
ようやく解放された僕の顔にはこう書かれていた。
『古川唯を愛しています』と油性ペンで容赦なく。
しかしこれを見ると、妙に安心した気分になるところ彼女に毒されているのも事実だ。
–––慣れって怖い。
チサキの恋敵さん。
だけど、最強の伏兵は美海ちゃんだと思うの。