夏だ。六月を過ぎて、梅雨の涼しさなんてどこへ行ったのかとうなだれるような暑さが、この街を包み込んで離さない。夏と言えば、西瓜に胡瓜、海にプール、冷房に扇風機、そして――
「やっぱり、グラビアよね!」
「どうしてそうなる」
隣にいる彼女、百瀬莉緒は今日も絶好調だ。
「だって夏よ? 水着着てグラビアして、私のセクシーを見せつける時なのよ!」
「落ち着け」
「……もう、君ったら、そんなに興味ない?」
「お前仮にも有名人だぞ、アイドルだぞ……」
「はいはい、分かってますよー」
この前の一件から、彼女は一層仕事に励んでいるらしく、彼女から仕事の話を散々聞かされて、何故か分からないけど仕事ぶりについてはよく知っている。別にアイドルでもプロデューサーでもテレビ関係者でも芸能関係者でもないのに。
二人でこうしてカフェに入れたのも本当に偶然で、休みがやっと取れたことに由来する。テラス席の白いテーブルに座る彼女は、いつも以上の満面の笑みでそこに座っている。
「で?」
「今度はなんだ」
「君はいつ連れてってくれるの?」
「どこへ」
「もうっ、そんなの君の実家に決まってるじゃない」
「どうしてそうなる」
莉緒はアイスティーを一口飲んで、キメ顔で俺に言う。そのいい笑顔は仕事用に取っておけ。
「だってー、男をつかむにはまず胃袋、って言うじゃない? ほら、お母さんとも仲良くして――」
「絶対やだ」
「えー」
今日の莉緒は至極テンションが高い。俺も一口アイスティーを飲む。……ぬるい。彼女はアイスティーを置くと、ふと目線を俺から逸らして空を見上げた。
「まぁ、でも、いつかもっと知りたいわね、君のこと」
彼女はまたキメ顔でそう言った。
*
『これからも、765プロをよろしくね!』
さっきまで会っていた人が、こうも輝かしくテレビに映るというのには、未だ慣れない。部屋のテレビをつけると、ちょうど夕方の情報番組で765プロが特集されていた。そのゲストで莉緒は出演していたらしく、つけたばかりだから分からないが、恐らく歌ったのだろう。夕方になるとパパラッチが動き出す時間なので莉緒を早めに家に帰したが、テレビで見てしまうと、我ながら初心な男だと思うが、もう少し話していたかったとか思ってしまう。
彼女との日々はこうして円満に続いている。あのライブ以来、メールもよくするし、休みのたびに会うし、で、生活が一変した。お互い仕事は忙しさを増していき、莉緒に関してはサードシングルや765プロの全体楽曲を含むコンプリートアルバムなどを出しつつ、こうしてテレビへの露出も増えているし、俺は俺で前に任されていた小さなプロジェクトが上手くいき、取引先に気に入られたのもあって、大きく前進していた。それ以上に疲れや気苦労が絶えなかったが、また馬鹿な男らしく、彼女の声を聴いているとそれも何ともないように思えた。俺はこんなに「チョロい」男だったのかと気を落としながらも、でも満更でもない日々を過ごしていた。
「飯でも作るか」
疲れた体に鞭を打って立ち上がる。ただのアパートのワンルーム、一人では幸せもへったくれもなく、彼女に初めて出会うまでと同じ部屋である。一つ違うことと言えば、料理の際に歌う鼻歌がもれなく彼女の曲になったことだろうか。
*
なんでもないような一日ってのは案外早く過ぎる。
『もしもし? 莉緒だけど』
「もしもし。どうした?」
土日はゆっくりと、平日は忙しさからあっという間に過ぎて、気づけば蒲団の中にいることが多い。こうして蒲団の中で莉緒からの電話に出るのも、もう数えきれない。
『今大丈夫?』
「風呂あがったところだしちょうど大丈夫」
『ならよかった』
彼女も寝る前らしく、いつもより小さく、そして柔らかい声で話す。
『ねぇ、今度のお休み、ちょっとおでかけしたいのだけど』
「どこへ?」
『カレーのお店に行きたいのよ』
「唐突だな」
『このみ姉さんや風花ちゃんがこの前ロケで行ったところ、是非行ってみてって言われてね。それなら君とがいいなって』
……。
「恥ずかしげもなくよくそんなセリフ言えるな」
『ちょっ……いや、あの、その』
「まぁ、いいぞ。次の休みいつだ?」
『あ、えっと……木曜日?』
「今週の木曜か……ちょっと厳しいな」
『そっか……なら金曜日は?』
「それなら大丈夫だ」
『じゃあ木曜日の休みを金曜日にしておくわ』
「合わせてもらってすまん」
『いいのよ、私がしたいだけだから』
こうして会う約束をするのにも、最近は一苦労だ。お互い忙しいからか、休みが合わず、どちらかが上手く合わせてやらないと、偶然合うなんてことはないので、会うことすら許されない。
「……っていうか、こんな時間まで起きてていいのかよ。もう一時半だぞ」
『え? あぁ……さっき仕事が終わったところでね、今やっと家に着いたの』
「随分遅くまで仕事してるんだな」
サラリーマン顔負けの仕事量と給料……別に男だからとか思うわけじゃないが、なんだか顔が立たない気分に苛まれる。それと同時に、彼女の睡眠時間、体調にはいつも心配させられる。
『慣れたものよ。アイドル始めて今月でもう四か月なんだから』
「まだ四か月、の間違いじゃねえのか?」
『そうね、まだ短いけど……でも、売れてる時期こそ頑張らなきゃ、でしょ?』
「……体調だけは崩すなよ?」
『分かってるわ、心配ありがとう』
彼女がお姉さん系アイドルとして売れる理由、それは多少心配になっても、こうして安心させようとしてくれるところにあるのかもしれない。
「何かあったらすぐ言ってくれ、悩みでもなんでも」
『もう、そんなのないわよ。今は十分、楽しいわよ?』
「……ならいいんだが」
『さて、じゃあそろそろ私もシャワー浴びてくるわ。君はもう寝るの?』
「ああ、明日も朝一だから」
『そっか。お疲れ様。じゃあ、おやすみ』
「ああ、おやすみ」
通話終了の文字と、受話器のマークが赤くなるのを確認して目を閉じる。携帯を握りしめ、まるで縫いぐるみを抱いて寝るように、その声を手放さないように、寂しくならないように、うずくまって眠った。
付き合いだしたのに、一人でいる時間は何故かいつまでも、寂しかった。
*
しくじった。莉緒との約束の日の朝、急なクレームがやってきて、運用中のプログラムの見直しが決まった。プロジェクト全体の担当だった俺は当然駆り出され、先方への電話とプログラムの状態の確認、調整を続けていたが、彼女との約束の時間に全く間に合いそうにない。
「申し訳ありません!」
頭を下げ続ける。どうやらエラー値を入力した際にデータが書き換わってしまうバグがあったらしい。デバッグミスだった。もちろん、デバッグは最終チェックであり、担当は俺。
「もしもし、俺だ」
『もしもし? どうしたの?』
トイレに行くふりをして現場から抜け出し、電話をかける。
「すまない。クレームが来てしまってトラブってる。約束に間に合わない」
『えっ、えっと、いつ頃終わりそう……?』
「……それが、今日一日は」
『そ、そっか……えっと、頑張って?』
「……すまん」
『う、ううん、いいのよ! 私もすっごい急に誘っちゃったし!』
「埋め合わせは必ずするから」
『うん、頑張ってね、応援してるから』
彼女の震える声は、仕事のミスよりも強く、心に響いた。
*
しばらく眠れない日が続いた。会社のパソコンの前に付きっ切りで、会社用の携帯を睨んで、右手にはマウス、左手には栄養ドリンク。エラーを確認しては潰す作業。深夜二時。もう誰もこの社内にはいない。
「……一息入れよう」
立ち上がると、右ポケットからプライベート用の携帯が落ちる。……そういや、この三日ぐらい、ずっと見ていない。
久々に携帯を開くと、莉緒からの着信履歴五件、メール十二件。
『もしもし? 莉緒です。何回かかけたけど出られなさそうなので、こうしてメッセージを残しておくわ。……その、あんまり無理しないでね』
『莉緒よ。もし必要であればお弁当とか作っていくから、受け取れそうな場所、教えてね?』
『ねぇ、休めてる? 私はやっと特番のお仕事が終わって寝るところ。君は、ちゃんと寝てる? 睡眠が大事だって言ったのは君だからね。ちゃんと寝ること!』
やってしまった。仕事のミスよりも、自分の管理ミスよりも、何よりもやってはいけなかったのは、ミス一つに囚われて周りが見えなくなることだ。彼女からの留守電やメールには、きっと俺が逆の立場だったら同じように思っていただろうことが残されていて、だからこそ、返信がなかったらどう思うか、容易に想像できた。
「……もしもし」
『もしもし? あ、もしもし!』
二コールもしないうちに、彼女は電話に出た。深夜二時だというのに。
「今見た。すまん、全然返信できなくて」
『ううん……いいのよ、全然。それより、元気? お風呂入った?』
「いや……まだ」
『今から?』
……。
「ああ……今からだよ」
『そっか。遅くまでお疲れ様。体調崩してない?』
「ああ、なんとか」
困ったような、心配するような声。そんな声を出す彼女の表情が、閉じた瞼の裏に浮かんでくる。
『お昼ご飯、ちゃんと食べてる?』
「まぁ……それなりには食べてる」
『駄目よー? お昼ご飯食べないとエネルギー足りなくなっちゃう』
「そうだな、気を付ける」
『メールにも書いたけど、お弁当、いらない? 良ければ私のと一緒に作るけど』
「申し訳ないから大丈夫。作るのは問題ないかもしれないが、渡しづらいだろ」
『そ、そっか……』
「さすがにアイドルと付き合ってるって会社にバレると、それなりに莉緒を厄介に巻き込んでしまうだろうしな」
『……そう、そうね、ごめん』
「謝るなよ。気持ちは嬉しいから」
彼女は今にも泣きだしそうな声だった。
「で? 莉緒はもう家か?」
『う、うん。今日の仕事はだいぶ前に終わってて』
「え、じゃあなんでこの時間に起きてるんだ?」
『それは……ほら、なんだか眠れなくて』
「へぇ。でも睡眠不足はお肌の敵、なんだろ? ゆっくり休め」
『……それは君にも言えるんだけど?』
「善処するよ」
彼女が電話越しにため息を吐いたのが聞こえる。と、同時にパソコンから通知音が鳴る。
「おっと、すまん。風呂の前に仕事が俺を呼んでるみたいだ」
『そっか……頑張ってね』
「ありがとう、じゃあまた」
電話を切って右ポケットに入れる。パソコンの画面に向き合う。
今日も、家へは帰れそうにない。
*
「ただいま」
久々の帰宅。あの騒動から二日後のことだった。旅行から帰ったような雰囲気の部屋に、その弾むような楽しさは見当たらない。あるのは肩と腰にのしかかる疲労感のみだ。
電気をつけると、ちっぽけなワンルームはその姿を現す。寝床とちゃぶ台しかない質素な部屋。カーテンを閉め切っていて、この部屋の唯一のアピールポイントだった大きな窓もその役目を果たしていない。壁が薄くて音が響きやすいのもあって、テレビも夜中に帰る最近はまともにつけていない。部屋の隅に固められた着替えたちや、随分と放置された冷蔵庫の中身。野菜関係は全滅らしい。ついでに冷凍しておいたご飯も。
風呂に入る気力すらない。蒲団に転がり込む。あの日の朝以来使われてない蒲団はぐしゃぐしゃで、ふわっともしていない。俺の体は、床にそのまま打ち付けられるのと同じぐらいの勢いで倒れた。
その時。
『莉緒よ。今度の日曜日に休みがとれたんだけど、君は空いてる? 言ってたカレーのお店、行きたいな、って』
彼女からのメールの音だった。そうか、今日はまだメールが来ていなかったな、なんて思いながら返信を考える。
『日曜日か。たぶん大丈夫だと思う』
『そっか、よかった。お仕事ひと段落ついた?』
『なんとかね。今日でやっと』
『それはよかった。お仕事お疲れ様』
『莉緒もお疲れ。最近テレビ見られてないんだけど、どうだ?』
『絶好調よ! 最近はライブも増えてるし、テレビの出演も多いの。……グラビア雑誌の仕事はないけど』
『そうか。何本か録画してるから、また見ておくよ』
『ありがとう。じゃあ、今日はもう早く寝て。明日もあるんでしょ?』
『ああ。ありがとう。じゃあ、おやすみ』
『うん、おやすみ』
*
日曜日。七月の暑さは相変わらずで、日差しが強く、空が眩しい。雲一つない空は清々しいが、太陽の輝きが暑苦しくて困る。
家の前で待ってて、と言われ、急遽俺の家の前が待ち合わせ場所になった。ということは恐らく「あれを出せ」ということだろう。
「お待たせ!」
そんなことを考えていると莉緒はやってきた。今日の私服は白いシャツにライムグリーンのジャケット、山吹色のミニスカートとベージュのヒール。全体的に明るくて、彼女の髪の色のおかげもあってよく似合っている。
「待ってないから大丈夫だ」
「準備できてる?」
「ああ、出してある」
バイクのヘルメットを莉緒に渡してエンジンをかける。地面に響くこの重低音を聴くのはいつ以来だっけ。
「君のバイク、久しぶりだなぁ」
「俺も通勤が電車だからバイクは久々だ」
大学時代に貯めて買った大型バイク。その頃はみんなで山にキャンプに行ったり、バイクで遠出したりが多かったのでこういう大きなやつが欲しくて買った。大学サボって何度か友達に迷惑かけたな、なんてことも同時に思い出される。時々彼女を連れて出かけたこともあったが、付き合ってからは初めてだ。
「じゃ、お願いします」
「おう、手離すなよ」
俺の後ろで彼女がサイドのバーをしっかり握ったのを確認して、スタンドを上げる。エンジンの音がして、そのまま走り出した。
「こうしてみると、やっぱり速いわねー、バイク」
「そうか? まだこれで六十キロぐらいだぞ」
「あら、そんなに出してないのね」
「後ろ乗せるときは気を付けるんだよ」
住宅地を抜けると、東京だというのにすっかり田舎のような山の風景が広がっている。車の量もだんだん減ってきて、うっすらと見覚えのある山が見えてくる。
「もう富士山見えるのね」
「今日は晴れてるからな、昨日雨だったし」
「雨の日の次の日ってよく見えるの?」
「ああ。塵が水分によって落ちるから、空気に不純なものがないんだ」
その姿はどんどん大きくなってくる。都内からでも見えるが、この山はいつ見てもその色彩や大きさに圧倒される。……もちろん、安全運転の範囲内で見ているだけだが。
「スピード落とした?」
「ああ。ゆっくり見たいだろ?」
「あはは、気にしなくていいのに。……でも」
背中にいる彼女は、俺からは見えないが確かに口角を釣り上げて笑って、そのまま腰に温かい感触がやってくる。
「おい」
「す、スピード落としてるんだし、君にしがみついても平気でしょ?」
「……はぁ」
全く、彼女らしい一面を見せられる。きっと今、俺の顔は赤くなっているだろうけど、幸いなことにヘルメットで隠れて彼女に見えていない。……時折、こういう初心な少女みたいなことをするから、彼女は油断ならない。
「車も少ないんだし……もう少しこうさせて?」
「別にいいが……」
「こ、こういうの一回してみたかったのっ」
「はいはい」
彼女の慌てた反応に笑いそうになる。こうして二人で乗るバイクは、夏の暑さが気にならないほど暑かった。
*
峠を登っていく。日曜だが山道なので交通量は少なく、ゆったりとした風がゆっくり走るこのバイクを柔らかく包み込む。それから山の緑と空の青のコントラストが綺麗で、走っていて心地よかった。実際、既に結構走っているが疲れる気配はない。
「あー! あれってもしかして東京タワー?」
無論、彼女も疲れるわけはなく、景色の中で何かを見つけては口に出しており、その表情までは見えないものの、きっと笑っているだろうというのは容易に想像できた。
しばらくこんな時間も取れなかったので、こうしていられるのは、素直にはなれないが、内心嬉しかった。莉緒が笑っていて、俺も幸せで、平凡な毎日に何か面白いものを見つけられる彼女と、こうして二人で過ごせる時間が、貴重になってしまったのもあって、愛おしかった。
「こっから東京タワーは見えねえだろ。見えてスカイツリーだ」
「スカイツリー? やっぱりすごいのねー、スカイツリー! 高さいくつだっけ?」
「六百三十四メートルだ」
「高いわねー」
見ている景色に夢中なのか語彙が貧困になっていく彼女の姿は、きっと他では拝めないだろう、なんて思ってにやけた。ここにいるのはアイドル百瀬莉緒ではなく、一同級生の百瀬莉緒。お姉さん要素のない、無邪気な二十三歳の少女が今俺の腰をつかんでいるのだ。これを笑わずしていられるか。
「ねぇ」
「なんだ?」
「小学校の時、二人乗りとかしなかった?」
「あー、したなー」
「私、昔何故だか知らないけど、異性と自転車の二人乗りをすると子供ができるって思ってたのよー」
「ぶっ――」
穏やかな会話が一気に吹き飛ばされて、思わず噴き出した。こいついきなりなんてこと言いやがる。バイクがぐらついた。スピードを落として立て直す。
「ちょっと! 大丈夫?」
「おま、お前なぁ! いきなり笑わせんなよ……」
「いや、まぁ、ほら、誰にだってそういう勘違いってあるじゃない? って話よ」
勘違いで済ませていいレベルなのかは、一度置いておこう。
「それでね? その頃、初めて二人乗りしたのよ、男の子と」
「おう」
「その日お母さんにすっごい自慢したんだけど、何故か通じなくてね?」
「そりゃただの二人乗りだからな」
「子供ができるとしんどいって何故か子供ながらに知ってたから、心配で心配で」
「まさか夜も眠れなかったとか?」
「そこまでじゃないけど」
「そこまでじゃないんかい」
「それで、二人乗りに誘ってくれたんだから気があるに違いない、って思って告白したのよ」
「はぁ」
なんともオチがない話である。そしてとてつもない勘違い野郎であることは間違いなく、莉緒の告白癖が始まったのがこの頃ということは、随分長い間患っていたらしい。
「それが私の初恋。ちなみにフラれた」
「だろうな」
「で、君は?」
「何が?」
「初恋」
そしてこの意味があるかないか分からなかった話は、俺から話を聞きだす前座だったらしい。なんとも長い前座だ。音楽番組とかのトークでやればダダ滑り間違いなしだ、なんて思いつつ、なんて返そうか悩んでしまう。
「初恋、か」
「私が初めてじゃないでしょ? 恋愛相談に乗ってくれてたってことは、それなりに知ってるってことだろうし、って思ってるけど」
……初恋なんて聞いて面白いのだろうか、という思考が頭によぎる。第一、今の話を聞いて最初こそ笑ったもののあまり興味が湧かなかった。今が幸せで、この前までそれに気づけなかった自分がいて、今で精いっぱいなのに、過去を持ち出して彼女に知らせる意味があるのか、なんてことまで頭に出てくる。そんなことを考えているうちに、言葉が止まってしまった。
「なーにー? 話したくないような初恋なの?」
「いや、別にそういうわけじゃないんだが。……あ、見えてきたぞ」
「あっ、そらしたー! もう、君ったらシャイなんだから」
何を言い出せば分からなくなって、咄嗟に見えた目的地を指す。見えたものを口に出す彼女のことを言えた立場ではないな、と口元だけで笑って、バイクのアクセルを握りなおした。
*
「カレーってこんなに種類あるのか」
カレー屋は位置も位置だし道中の交通量を考えて確実に空いている……と思いきや、ほぼ満席だった。どうやら、この山につながるロープウェイがあるらしく、普通はここに車やバイクで来ることはないらしい。これがアイドル宣伝力か、なんて思いつつ待合室の席につく。十数分待ってから呼び出され、二人用のテーブルに案内された。メニューを開くと、カレー屋とは思えないほどの種類が列挙されていて、すぐ決まると思っていた自分をぶん殴りたい気持ちに駆られている。
「スパイスがそれぞれで少し違うんだって。ちなみにこのみ姉さんたちが食べたのはこれ」
迷っていると、莉緒が覗き込んできた。
「カツカレー? アイドルもパワフルにがっつり行くんだな」
「食事にアイドルも何も関係ないわよ?」
「テレビの収録で食ったんだからイメージくらいあるだろ」
まぁそうね、と返す莉緒は、もうその時には既にメニューに興味が移っていて、その返答はあまりに適当だ。
「私、カツカレーにしようかな。君は?」
「そうだな、俺もカツカレーで」
「ちょっと! 分かってないわね、君ったら」
「なんだよ」
「こういう時はお互い違うもの頼むのが鉄板でしょ?」
「カツカレー勧めておいてカツカレー選んだお前が何を言うんだ……」
「それはそれ、これはこれよ」
今日の莉緒はえらく張り切っているのか、テンションがただ高いだけなのか、妙に会話の流れをつかまれる。「お、おう」としか返せなかった俺は、言われた通り別のカレー、目についたキーマカレーとやらを注文した。
待っている間に店を見渡してみると、店自体はそんなに大きくない。ログハウスのような雰囲気の中にスパイスが詰まっているような場所で、香り以外にカレーを感じるところはない。天井は高く、上で大きな回転翼が回っていて、熱くなった空気を循環させているようだ。
「やっと来れたなぁ、ここ」
「そんなに来たかったのか?」
「勧められたのに一向に行かなかったら、なんだか気まずいでしょ?」
「まぁ確かに」
向かいに座っている莉緒は両肘を机に突いて、顎の下で手を組んでいる。その表情はえらく楽しそうで、まるでおもちゃを買ってもらう前の子供のような笑みを浮かべている。
「お待たせしました」
運ばれてきた二種類のカレーは、同じ名を冠するとはいえ全く形状も色も違うものだった。そしてもう一つ驚くことは、彼女の頼んだカツカレーのカツがメニューの写真以上に大きいということだ。
「それ、食べきれるか?」
「な、なんとかなるわよ、たぶん」
「まぁ、無理だったら引き取るから」
暑さのせいではない汗が垂れていそうな莉緒に一言添えて、スプーンを握った。
「じゃ、いただきます」
カレー屋なんて今まで来たことがなかったので、味の想像すらつかなかったが、食べてみると案外今まで食べてきたカレーに近くて、しかし決定的に鼻に抜ける香りが異なる。具材とスパイスの旨味や香りが一気にやってきて、これまで以上に異国の雰囲気を感じる。
「カレーって自炊してると結構食べるが、こうして食うと別の料理みたいだな」
「でしょ? 確かカレーばっかり作ってたな、って思ったりして、それならこういうお店のも知ってほしかったの」
「へぇ。キーマカレー、今度調べて作ってみるか」
「いいわね、私もそうしようかな」
「お前の方は、カレー自体は普通のカレーだろ?」
「まぁそうだけど。……ねぇ、それ、ひとくち頂戴?」
「ん? ああ、いいぞ」
「ちょっと、君本気でやってる?」
「は?」
「こういう時にわざわざお皿を向けるとか、ほんと、分かってないわねー……」
欲しいと言われたから皿を向けたのに、俺の何が間違っていたというのか。首をかしげていると、莉緒が体を前に乗り出してきた。
「ほら、あーん」
「……しろってか?」
「もちろん」
「はぁ。……はい、あーん」
「あー……、んー! なるほど、確かにこれは今までのとは違うわね!」
俺のスプーンで一口食べると、莉緒は満面の笑みで頬を押さえながら笑った。……もしかして、こういうのに対して憧れがあるタイプか? 大人なふりして子供っぽいのは知っていたが……まぁ、元々そういうのに疎い奴だったな。改めて彼女の初心な少女ぶりを確認して、なんだか少し恥ずかしくなると共ににやけてくる。
「んじゃおかえし。あーん」
「ん、あー……ん」
呆れ気味に口元だけで笑っていると、目の前にスプーンがやってきて、反射的に口の中へ許してしまう。中でカツとカレーのスパイスが混ざった、カロリーの塊みたいな暴力的な旨味がやってくる。
「どう?」
「んー……確かに旨いが、昼から食うには重くないか?」
「重い?」
「その、カロリー的に」
「女の子の前でカロリーの話する?」
「……すまん」
「まぁ、確かにこの味はお昼にはちょっと重たいわよねー、おいしいけど」
莉緒は俺に差し出したスプーンで次のカレーをすくって自分の口へ入れる。気が付くと莉緒の皿の中にはほとんどカレーがなくなっており、俺よりも多そうに見えたあのカレーはすっかりその姿を消していた。
「問題なかったな」
「何が?」
「量だよ」
「あぁ……美味しかったからつい」
「……莉緒って結構がっつり食うよな」
「まぁ、失礼なのは置いといて、エネルギー足りなくなっちゃうと大変だからね、ちゃんと食べるわよ?」
「なるほどなぁ」
「君は小食?」
「そうでもないけど、なんか最近は食が細くなったな」
「……やっぱりお仕事のせい?」
「いや、別にそうではないと思うけど」
皿を空にした莉緒は、まだ食べている俺を見ながら少し心配そうな顔をした。……いらぬ心配をかけてしまったか。次からはもう少し気を付けよう。
「ならいいんだけど。でも、最近頑張りすぎてないかちょっと心配なのよ?」
「まぁ、新入りなのにも関わらず企画担当させてもらえてるし、あんまり我儘は言えねえから、頑張るしかないってのが本音だな」
「休むのもちゃんと頑張って休むのよ?」
「頑張って休むってなんだ……」
「そうね、私とデートするとか、ご飯一緒に食べるとか、ぐだぐだお話するとか」
「全部今してるな」
「そういうこと。こうやって過ごす時間が、君にとって一番いい時間になればいいな、って思ってるからさ」
さっきまでの無邪気な莉緒の姿はなく、いつもの頼れる彼女の姿がそこにある。こうして想ってくれているという事実によって、嬉しさの裏側に申し訳なさが生まれてくる。
「だから、何かあったら気にせず言ってほしいし……ほら、せっかく、その、彼氏彼女なんだから、つらいことは分け合って、嬉しいことは二倍にしたいじゃない? 私だって君に心配かけてるし、迷惑だってかけるんだから、気にしないで頼っていいのよ?」
だからかな、いつもなら茶化すこんな言葉に対しても、
「……そうだな、気を付ける」
「ん、分かってくれたらいいの」
二人して静かになってしまう。俺は彼女の目を見ることができなかった。それは何故か、まだ分からない。もう遮るものは何もないのに、立ちふさがるものも、問題もないのに。二人で次の目的地を考えている間、俺の頭にはずっとその謎がこびりついたままだった。
*
電車に揺られていると、頭にはいろんなことがよぎる。週が明けるとまた仕事が始まり、こうして満員電車の中の一般人Aとして揺られる日々が始まる。幸い、座れているからまだ楽だが、これで立ちっぱなしとなると汗の匂いとベタつきと暑さとで、気がおかしくなりそうだ。いや、気は少しおかしくなっているかもしれない。昨日のあの瞬間の理由を、こうして考え続けている。まだ自分は気づけていない何かがある。彼女に対して、まだ何かある。スーツのネクタイを緩めて、一回だけため息を吐く。縛られていた空気が抜けて、頭に新鮮な空気が少しだけ入ってくる。でもこの思考にその新鮮さはない。
彼女のアイドルとしての活動を、最近ちゃんと追えていない。テレビを見ることなく寝ることも多い。録画がたまっていくばかりで、彼女にいつその話題が振られるか分からず、びくびくしている節がある。……それは、我ながら馬鹿だと思う。自分に必死になりすぎて彼女を追えてないのに、それがバレるのを怖がっている。話についていけないかもしれない不安がある。……きっと彼女なら、そんなこと気にしないだろうに。でももし気にしたら? 付き合いだした途端に自分のことしか目に見えなくなった男に、何の価値があるだろうか。
莉緒が今どれくらい売れているのか、知らない。ただ、忙しいだろうに休みを俺に合わせてくれて、気遣いしてもらいっぱなしで、メンツが立たない。忙しさを極める彼女に、これ以上、心配をかけるわけにはいかない。
思考がひと段落すると眠くなるのは悪い癖だ。だが、癖というのはそう簡単に治るものではない。つまり何が言いたいかというと、案の定目的の駅を二つ乗り過ごし、タクシーで帰宅することになった。
*
『そういや、大学時代の友達とは連絡とってるの?』
「いや、最近は何も音沙汰がないな」
会社で定められた有給を消化すべく家で過ごした日の夜、莉緒から電話がかかってきた。もちろん、有給とはいえ持ち帰り残業中だが。
『あら、結構仲良くしてたのに』
「まぁ俺も忙しいし、同じようにあいつらも忙しいんだろ」
『じゃあ趣味のキャンプとかも、もうしてないの?』
「キャンプなぁ、用具だけは持ってるけど、もう倉庫の奥の方にいっちまった」
音が立たないように慎重に資料を漁り、必要な書類をまとめていく。余計な心配はかけたくないので、もちろん返事をおざなりにするつもりはない。
『私、キャンプ行きたいな』
「どうした突然に」
『いや、君がキャンプ好きなの知ってたけど、結局一回も一緒に行ってないなって』
「まぁ、そりゃ、な」
『だから、一緒に行きたいな、って』
そういうことはもう少し早めに言ってくれていると、有給をため込んで長期休暇を取るんですが。内心そう思わざるを得なかったが、ぐっとこらえる。
「……そうだな、行きたいな」
『山奥の、キャンプ場とかじゃない場所でさ、バイクで運べるだけの荷物だけで、キャンプするの』
「飯は現地調達だな、そうなると」
『川釣りとか楽しそうじゃない?』
「川釣りは難しいぞ、結構」
『そういうのもひっくるめて、よ。もちろん大変なのは知ってるわ』
「ならいいんだが」
いつ行けるか分からないキャンプの話を楽しそうにする彼女に、若干の羨ましさを感じてしまう。家でもこうやって仕事をしないと間に合わないような生活をしている俺には、先のことを楽しみにしている余裕があまりない。
『君は何したい?』
「え?」
『次のお休み、何したい?』
そんなことを考えていた矢先に、彼女の興味が俺の方へ向いた。
「そうだな……家でゆっくりしたい」
『家?』
「あ、いや、もちろん二人でな。映画見たりご飯作ったり」
危うくただ休日がほしいという願望を垂れ流しそうになり、慌てて取り繕う。
『……君って、意外にむっつり?』
「何故そうなる」
『付き合ってる男女が家ですることなんて……ねぇ?』
「お前なぁ」
『……ちなみに』
「?」
『君は、そういうの、したいの?』
自分で蒔いた種だとは分かっている……だが、あまりにも予想外の方向に来てしまい、焦りが隠せない。答えが出てこない。
「……まぁ」
『……へぇ』
「おい気まずくなったじゃねえか、どうするんだこれ」
再三述べておくが、種をまいたのは間違いなく俺だ。強いて言うなら俺がどうかしなければならない。
『ま、まぁ? 君が望むなら別にいいわよ? うん』
「いや、待て。別にそういう意味で言ったわけでは――」
『じゃあどういう意味よ』
「そ、それはだな……ほら、外じゃ何するにも気を遣うじゃねえか。ほら、手をつないだりとか」
『それだけ?』
「それだけ」
『ふーん。なんだ、つまんないのー』
九死に一生を得たような気分で、気のゆるみからか肺の空気が一気に押し出されて安堵の息が漏れた。もちろん、それが来ると分かっていたのでその時だけミュートにした。
「まぁ、次の休日、合えばいいな」
『……そうね。君、忙しいし』
「すまん」
『あ、いや、その、ううん、大丈夫』
「何が大丈夫なんだよ。ちゃんと取れるように頑張るから」
『……うん、楽しみにしてる』
「次に二人で会える休み、キャンプにするか? それなら連休とっとくけど」
『連休だと難しいだろうし、別に大丈夫』
「分かった。じゃあそのつもりで頑張るよ」
『期待してる』
電話が切れると、しんとした部屋に引き戻される。手元には途中から放棄されていた残業の跡。仕事のメール二十二件。やるしかない。同じ部屋の中で、天国と地獄を両方味わえるこんな空間はそうない。ため息を一つ吐いてキーボードに向き直った。
*
甘い話なんてものはなかった。何が甘くないのかというと、仕事と精神状態と、それから左手にあるカフェインドリンクだ。どれも不味い。家に帰れない日はないものの、疲れてそのまま寝てしまうことが多い。莉緒から毎日電話がかかってきて、その声だけが一日の娯楽だった。だが、それよりも一番問題なのは――
『休み、取れないの?』
「しばらくな。月末までは厳しい」
前のミスと今月に消化しておくべき有給を使い果たしたのもあって、休みがなかなかない。こうなるとは、去年の自分では想像もつかなかっただろう。大学時代はもっと緩く生きていたことをふと思い出す。
『そっか……』
「すまん」
『別に……よくはないわね。大丈夫なの?』
「ああ、仕事は順調だし、体調も問題ない」
『ほんとに? ご飯ちゃんと食べてる?』
「食べてるよ。……莉緒こそ、順調か?」
『私? ええ、順調よ。雑誌の仕事やテレビの仕事が増えてきたし、最近はバラエティにも出てるの。この前のゴールデン、見てくれた?』
「いや、まだ」
『……そっか。是非見てね。なかなか面白かったから』
「分かった。必ず」
『あ、もうこんな時間! ほら、もう寝る時間よ』
「お前は母親かよ……」
『そんなんじゃないわよ! まったく、まだ母親っていう年じゃないわよ』
「そこかよ」
『まぁいいわ。また明日も朝早いんでしょ?』
「……まぁな」
『ん、今日も話してくれてありがとね』
「こちらこそ」
『じゃ、おやすみ』
「ああ、おやすみ」
何気ない会話一つ一つが、荒んだ身体を包んでくれる。明日有給を申請してみようか。今日はもう寝てしまおうか。……そんな願い、叶うわけはないのだけれど。
*
「君に客が来ているが、約束か?」
そんなある日のことだった。デスクで仕事をしていると、上司の一人が肩を叩いた。その驚きと、予想もしていない客の存在が分からなさ過ぎて困惑してしまう。
「まぁいい。なんでも、大事な客だそうだから、キリのいい所で早く行ってあげなさい」
「分かりました」
約束なんてした覚えはないし、客として来るなんて……莉緒ぐらいしかあり得ない。だがその莉緒は昨日の電話でドラマの撮影で一日つぶれるって言ってたし、こんな真昼間に来るわけがない。
デスクから正面玄関までの間、悶々と考えを巡らせても答えが出る気配はなかった。しかしよく考えてみれば分かる話だった。エレベーターを降りると、受付の前に見覚えのある立ち姿があった。
わざわざ会社を訪ねてくる客の存在は、
「……プロデューサー君か」
「どうも」
この前初めて会った時と同じ、黒のスーツに青と白のストライプのネクタイをした彼、莉緒のプロデューサー君。確かに彼だった。
「ここじゃ何ですし、外へ出ませんか」
彼は俺から視線を外してそう言った。彼の目には、初めて会ったあの日の穏やかな雰囲気はない。
*
近くのファミレスに入った。午後三時、人は少なくすんなり入れた。ここに来るまでおよそ五分、彼とは一言も会話を交わしていない。異様な雰囲気のスーツ姿の男二人が、黙々と歩いていた様はきっとホラーだっただろう。
「どうぞ」
「失礼」
客をもてなす要領で先に座ってもらい、あとから席に着く。
「すいません、コーヒー二つお願いできますか」
「ミルクとシュガーはいくつずつお持ちしましょうか」
「二つずつお願いします」
「かしこまりました」
彼は歩いていた店員に声をかけると、俺に何も聞かずに注文を済ませた。その余りにも刺々しい雰囲気に、心なしか少し怯んでしまう。
「……こんな時間にやってきて、何かあったんですか?」
「いえ……いや、ここからは仕事モードじゃなくて普通でいいですか?」
「まぁ、その方が話しやすいなら」
「じゃあ、そうします」
彼はやってきたコーヒーにミルクとシュガーを一つずつ入れて、一口飲んで一息ついた。ネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンを空ける。瞬間、彼から目に見えない何か――オーラ的な何か――が現れて、思わず身震いした。
「あんた、莉緒に何をしたんだ」
「……は?」
「莉緒に何をしたんだと聞いているんだ」
「ちょっと待ってくれ。何の話をしているのか全く分からない」
プロデューサー君は目線を上げることなく、真っ黒な液体の中へ落したまま、言葉を紡ぐ。
「最近、莉緒の調子がすこぶる悪い」
「は……? 」
「とぼけるのもいい加減にしてくれ。何をしたんだ」
「待て、何故俺が何かした前提なんだ」
彼の雰囲気は尋常ではない。まるで復讐とも取れる、憎悪の何かが瞳の奥に潜んでいるように思えた。
「……この前、莉緒から引っ越したいと連絡があった」
「引っ越し?」
「どこに引っ越したいか聞くと、引っ越し先は、あんたの住んでるアパートだった」
「は?」
「俺はそれしか原因が思い付かない。あんた……莉緒に何をしたんだ。何を吹きこんだ!」
引っ越し? 俺の住むアパートに? 話が急すぎて頭が追い付かない。彼の声からは想像もできない強い声が、耳を劈く。
「い、いや、別に俺は何も――」
「何故莉緒は急に休みを増やし始めたか、あんたに分かるか」
「……は? 休みを増やした?」
「ああ、雑誌の仕事や一人の仕事を別日に変更できないか、って何度も相談してきて、その度にスケジュールを細かく変えてる。それはいい。だが、それで休日にした分は仕事の日に全部回してて結局仕事の日は前の二倍近い時間仕事してる」
知っている情報と食い違いが激しくて、何もかもが分からなくなる。休みを移動させていたのは知っていたが、休みを増やす? 仕事の時間が二倍?
「莉緒に聞いても何も教えてくれない。大丈夫、の一点張り。あんた、何をしたんだ」
安心させてくれていたはずの莉緒の声で、大丈夫と言い張る様子がすぐに浮かんだ。何を聞かれても、大丈夫だから、と答え、無理にでも安心させようとする……いや、これ以上踏み込ませないようにする、彼女の声が。
「莉緒は、きっとあんたのことで苦しんでる」
「……それは」
「あんたは、何も気づかなかったって言うのか」
「……」
何も言い返す言葉がない。彼は確かに仕事のために莉緒を気遣っていたんだろうが、それでも彼はちゃんと莉緒の姿をとらえていた。彼自身の仕事のことも、他のアイドルたちのこともあるのに、彼は見落とすことなく、見逃すことなく、彼女を見つめていた。対して、俺はどうだ。自分の仕事で手いっぱいで、心配かけないようにするのに必死で。結局見ていたのは自分の足元だけだった。
「なぁ、あんた」
「別れてくれないか、莉緒と」
彼は初めて顔を上げた。その目には涙さえ浮かんでいる。
「莉緒に一番近い人間のくせに、あんたは何も見えてなかった。あんたがどうなっていたかなんて、そこまでは知らない。だが、それでも、彼女が満足にアイドルできないような状態になっているというのに、何も気づかない程鈍感で、駄目な男なんだったら、仕事の都合上、あんたには離れてもらうしかない」
「それは、できない」
「できない? 意地張ってんじゃねえ。今別れると確かに彼女に大きなダメージを与えることになる。だからもしあんたが莉緒のことをまだ想っているなら、傷つけずに別れる方法を考えてくれ」
「……」
「沈黙は肯定と見た。じゃあ、失礼する」
*
『もしもし? 莉緒だけど』
「……もしもし」
『あら、元気ないわね。どうかした?』
仕事から帰り、家に入って数十秒で電話が鳴った。こんな日の晩も例に漏れることなく、ちゃんとかかってきた。莉緒はもう帰っている時間だろうし、出ないわけにもいかず、緑の受話器のボタンを押す。
「いや、別に何もない」
『そう? ならいいんだけどさ』
彼女の声はいつも通りで、弾むようで、この時間を楽しみにしていたようで、携帯電話の向こうで笑っている顔が浮かんだ。
『あ、そうそう、今日ね、前に言ってた夜想令嬢のドラマがね――』
彼女の声はここ最近のものと同じ、優しくて、柔らかくて、傷を癒すような声。世間話を楽しそうに繰り広げ、今日の彼の話を聞いた今では、これが口数が減った俺を励まそうと必死になっているようにも思えて、心が締め付けられる。
『そしたら千鶴ちゃんが――』
「なぁ」
だからこそ、確かめなければいけない。
『……ん? なぁに?』
「お前、引っ越したのか」
『えっ』
突然の話に驚くのも無理はない。だって、俺だって驚いたから。
「どうなんだ」
『えっと、その、うん』
「どこに引っ越した」
『それは……』
「もしかして、俺の部屋の、隣か」
『……その……うん』
予想通りの結果だった。思い返せば、確かに部屋に帰ったタイミングでメールや電話がかかってきたり、あまりにも都合がいい時があったのは、帰ってきたタイミングが分かったからだろう。……となると――
「俺があんまり家に帰ってない時期があったのも、知ってたんだな」
『……ええ、そうね。分かってた』
会社から電話した時も、本当は家にいないことを知っていただろうし、帰る時間があまりにも遅くなる日があることだって知っている。……隠すまでもなく、全てお見通しだった訳だ。
「どうして言ってくれなかったんだ」
『そ、それは……その、あんまり心配してるのが分かると、君は強がると思って』
彼女らしい理由だった。ちゃんと話すんじゃなくて、事前に回避しようとする、ちょっとずるい大人な対応。
「……今日さ、プロデューサー君に会ったよ」
『プロデューサー君?』
核心に迫る。今日のうちにって、決めていたんだ。
「休み、増やしたんだって?」
『えっ?』
「調子悪いって聞いたが、前に上手くいってるって言ってたのは嘘だったのか」
『いや、それは、その』
「彼には大丈夫としか言ってないらしいじゃないか」
『それは……その』
「どうなんだ」
悪いのは全部俺なのに、こうして沸々と湧き上がる何かを、彼女にぶつけてしまう。これでいい。これでいいんだ。
『……確かに、休みは増やしたわ。会える日、少しでも多く作りたかったし、君が帰ってくるタイミングだって分かっておきたかったから。……また帰らなくなったら、って思うと居てもたっても居られなくて』
彼女はついに真実を話し始める。これは、デッドラインへのカウントダウン。
『でも、君、録画してる番組すら見てないし、私と話してる時も上の空の時があって、きっと持ち帰って仕事してるんだろうな、って分かってるのに、君、何も言ってくれなくて』
ああ。何も言わなかった。心配かけたくなかった。彼女には、輝いていてほしかった。俺が好きになった初めてのアイドルだから。
『それで……何も分からなくなるのが、怖くて』
「それで?」
『えっ?』
「それで、調子崩して彼が心配して、仕事に影響が出たっていうのか」
『えっと……』
「彼からは、前ほどの勢いがなくなったお前の活躍、それから最近はスケジュールの移動が目立つからって減ってる仕事がある聞いたが」
徐々に彼女を追い詰めていく。彼女が一番痛がるところを知って、逃げ場を潰して、部屋の隅まで追い詰める。俺が一番好きなアイドルだから、一番目のファンだから、こうしなくちゃいけない。携帯を握りしめる。
「アイドル、頑張るんじゃなかったのかよ」
『もちろん頑張ってるわよ! レッスンだってちゃんとしてるし、何も仕事してない訳じゃないわ!』
「じゃあ何故彼がこんなこと俺に言うと思う?」
『そ、そんなの、分かんないわよ』
「……簡単な話で、俺がお前の負担になってるんじゃないのか」
『ふ、負担だなんて、そんなこと――』
「あるんだろ」
『……』
彼女の涙ぐむ声が聞こえる。鼓動が早まる。自分の目から同じものが流れないように、必死にこらえる。声にだけは漏れないように。
漏れないうちに、もう、言い切っておかなければならない。
「俺たち、距離置かないか」
彼女はしばらく無言だった。携帯の奥からは荒くなった息の音が聞こえ、その間を沈黙のノイズが埋め合わせるようにマイクに流れ込んできて、二人の間を分かつ。何も言葉を出せなかった。沈黙の圧が強すぎて、俺の中の全ての感情が閉ざされてしまう。
『……それ、プロデューサー君に言われたの?』
しばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「は?」
『プロデューサー君に、そう言えって、言われた?』
「な、何言って――」
慌てて取り乱した瞬間、玄関の扉が勢いよく開く音が響いた。
「はぁ……はぁっ」
「お前……」
部屋着のまま、素足のまま玄関の外に立ち尽くす彼女は、ひどく腫れた目に涙を浮かべて、何かを噛み潰すように歯を食いしばっていた。そのまま、こちらへ歩いてくる。
「本気なの?」
「何がだ」
彼女の瞳を見ることができない。その瞳は、きっと傷ついていて、見るに堪えないだろうから。
「距離、置くって」
声が強まる。
「……ああ」
「っ、ふざけないで!」
瞬間、左の頬に衝撃が走る。俺の視線は下から右へ強制的に引っ張られる。しばらくして追い打ちをかけるように、頬がひりひりと痛み始める。
「ねぇ……君の考えは、どこにあるの?」
「……何を言ってるんだ」
質問の意味を捉えかねる。彼女は俯いたまま、肩を震わせている。
「結局この話だってプロデューサー君が君にそうしろって言ったからしてるんでしょ!?」
「お、落ち着けって」
「君はどうしたかったの? ねぇ!」
「なぁ、この話は一旦――」
「分かんない……分かんないわよ! 君のこと、何にも分かんない! 君のこと、何にも知らない! 君がしたかったことも、君の昔の話も、君は何にも教えてくれなかったじゃない!」
彼女は叫ぶ。周囲に何があろうと、何が遮ろうと、それをもろともせず吹き飛ばす彼女の声。それはダイレクトに俺の胸へ突き刺さる。落ち着いていた、優しかったその声が、ついに押し殺された感情に突き破られて、こうして破片を飛び散らすように突き刺してくる。
「……すまん」
無力だった。こんなにも彼女を追い詰めていた自分が、愚かで、未熟で、それから逃げたくてたまらなくなった。何もできなくて、彼女がこうなるまで放っておいたのは、間違いなく自分なのに、あまりにも無力すぎて、与えられた逃げるという選択肢を選ぶしかできなかった自分を、恨んだ。もう何をすべきか、何を口にするべきか、それすらも分からなくなる。俺という存在は、結局どこにあるのか。俺は何を大事にしたかったのか。それすらも、分からない。
「……ごめん、熱くなっちゃったわね」
言葉が消え去った二人の間は大きな溝となって現れていて、彼女は一歩後ずさって目をこすって言った。思わず手が伸びそうになるが、反射的にそれが押さえつけられる。
「私ったら……いやね、その、ごめん……今日は、帰るわね」
「ま、待て、莉――」
彼女は部屋を飛び出した。玄関扉は開け放たれて、伸ばした手は宙を舞っていて、その時全てがもう手遅れだったと悟った。
「――緒……」
膝の力が抜ける。敷布団に倒れこむ。一滴、何かが零れた。その後のことは、あまり覚えていない。
*
残酷にも、時間は過ぎる。時計の針は止まることを知らず、誰もがそれに従って動かされていて、もはや生きるということは能動的動作ではないような、そんな気さえする。
定刻に起き、定刻に家を出て、定刻に電車に乗り、定刻に出社する。目の前の業務を計算で処理して予想所要時間を割り出す。落ち着いてきた仕事を前に、一息つく暇ができてしまったのは、今のタイミングだと不幸と言わざるを得ない。プログラムの動作チェックと別で動き始めたプロジェクトの企画書の作成、昼の会議用のプレゼン資料も作らねばならない。今日の所要時間はおよそ九時間、退社はだいたい夜七時頃。普段より早い。何故こんな日々に限って早くなるのか。嘆く気持ちも事務的に処理して、目の前の業務を遂行する。
あれから、何日が経ったのだろう。それを記憶することを放棄してしまっている。連絡は案の定ないし、こちらからする勇気もない。結局何もできないことに変わりはなく、こうして彼女のいない日常が出来上がった。家のキッチンで歌う鼻歌は沈黙にすり替わり、通勤時に使っていたイヤホンは枕元に放置されたままだ。テレビのリモコンは電池切れで使い物にならず、テレビに至っては電源を入れることすらしていない。俺が過ごしていた日々はこうも簡単に崩れ去ってしまうのだと、改めて感じた。そして、それを守る術も修復する術も知らない俺は、こうして社会の歯車と化すことしかできず、来るはずもない連絡を待ってプライベート用の携帯を右ポケットに入れているだけ。
俺はどこにいたんだろうか。何を考えて生きていたんだろうか。周りで起こる何かに、常に動かされていただけなのだろうか。いや、動かされていたのは事実だろう。彼女に誘われてカレーを食べに行ったり、会社の仕事が忙しくて家に帰れなかったり、周りで起こることをこうして後からこなしていって、結局自分がしたかったことというものが何だったか、それを考えていたのはいつだったのか、そもそも思い出せない。自分の答えというものを持ち合わせていない。忙しさの中に、きっと忘れてきたんだろう。
*
家に帰ってきた。蒲団の上に座り込む。頭はこの数か月のことを思い出していた。早めに帰ってきたのもあり、まだ外は夕焼けの色に染まっていて、その鮮やかさは褪せることなくそこにある。いつの日も変わらず、昔から変わることなく。そう、四月のあの日からも、変わることなく。
四月のある土曜日。彼女に呼び出され、言われた言葉は、「アイドルになる」。その時はそんな馬鹿な話あるわけないと思った。夢なんてどこにあったのかすらもう覚えていない俺にとっては、そんな夢のような職業に就くこと自体、何か裏があったり、何かよくないことでもあったのかと思っていた。でも彼女の瞳を見た時、そんなものではなく、真剣なのだと分かった。この時は、まだ俺は何も知らなかったんだ。
CDのリリースイベントに行ったのも、きっと何かの偶然だったのだろう。興味本位で予約したCDだったのに、サイン会までセットになっていて、慌てて変装して……よく考えれば、あの時は帰って次の日に受け取りに行ってもよかったのに、俺はあの日どうしても受け取りたくなってしまった。……彼女のことを想いだしたのは、きっとこの頃なんだろうな。
彼女の初めてのソロライブの日、確かに俺はそこにいた。あの姿を見て、彼女の声を聴いて、その体に触れたくて、その声を抱きとめたくて、強がる彼女の壊れそうな声を、守ってあげたいと思った。あの会場で、一瞬勘違いにも思える考えがよぎった。「この歌を歌いきったら、きっと何かが変わってしまう」と。その時はプロデューサー君と彼女の関係のことだと思っていた。でも、結局変わったのは俺と彼女で、その勘違いや戸惑いから、彼女との全てが始まったんだ。それはアイドルとしての彼女ではなく、アイドルのファンとしての俺ではなく、ただの同級生としての彼女と、一般人としての俺の、大事な繋がり。
「どうして、君はそこまでしてくれるの……」
何故だろう。その時はまだ分からなかった。
「もう、大丈夫よ。私……一人で、ステージに立てるんだから。君の手を借りなきゃいけない、弱い私はもういない」
違う。まだまだ弱くて、一人で抱え込みがちで、俺はただ、心配かけたくなくて。
「だから、私なんて」
そんなことない、俺は――
大事なことは、そこにあった。アイドルだからではない、彼女だから、守りたかった。彼女だから一緒に居たいと思った。まだ何も知らない俺にいろんなことを教えてくれた彼女と、俺は一緒にいたかったし、か弱く折れてしまいそうな彼女を支えたかった。俺にできることならなんでもしたかった。その「最初の想い」を、何故忘れていたのだろう。
理由なんて明らかだった。自分のプライド。強がりたかっただけ。不器用で、無力な男の独りよがりな願いが、その想いを、彼女を傷つけた。そして何より、満足してしまっていた。彼女の異変に気付くことすらできなかった。
立ち上がるべきなんだ。待っているだけじゃ駄目だ。右ポケットに入れたプライベート用の携帯を握りしめる。ロックを解除しても、そこに着信履歴も受信履歴もない。深呼吸する。やるべきことは、ひとつだけ。
だが、それは既に遅かった。見つめる先に現れたのは、着信の二文字。
「はい、もしもし」
心臓が跳ね上がる。
『もしもし』
だが、聞こえた声は予想外の声だった。
『都立第二病院です。緊急の要件がありますので、今すぐいらしてください』
*
案内されたのは、緊急搬入口だった。着替えることもなくスーツ姿でバイクに乗ってきた。駆け込んで、事態を把握しようとするも、人が見当たらない。本当に緊急なのか疑いたくなるレベルで、静まり返っている。
「失礼、貴方が百瀬莉緒さんの関係者の方ですか?」
「えっ、あ、はい」
待合室の入り口に差し掛かった時、背後から話しかけられる。驚いて声が少し裏返った。
「先ほど電話でご連絡させていただきました、担当医の水谷です」
「担当医……?」
振り返ると、そこには小柄の白衣の老人がいた。彼は確かに担当医と名乗った。背筋に冷たいものが走る。
「はい。百瀬さんは現在、病室で寝ておられます。ご面会なさいますか?」
病室? 何故? 事態が把握できない。一体何がどうなっているんだ。
「おっと、失礼、ご面会の前に話しておかなければならないことがあります」
白衣の老人は眼鏡をかけ直し、向き直った。
「現在、百瀬莉緒さんは昏睡状態です」
*
医師による説明だと、つまり、撮影現場での事故で大怪我をした彼女は救急車でこの病院に運び込まれ、そのまま手術。怪我の部位はとりあえず治療できたものの、完治までには一か月かかり、それよりも問題なのは、手術後から目を覚まさないことである、とのことだった。
「最善の手は尽くしておりますが、数日で意識が戻らない場合、治療にも影響が出ます。……三日以内に戻らないとなると、脳に意識障害がある可能性も」
「そんな」
立ってはいたが、内心全てが崩れ去りそうになっていた。彼女と話さなかったこの数日の自分を責めても仕方ないのは分かっていたが、こうして何もしてこなかった自分が招いた結果であると思えてしまって、泣き叫びたくなる。
「先生」
「ああ、分かっとる。……もし面会をご希望であれば、右手の通路を進んだ先の受付で、名前をおっしゃってください。それでは、失礼します」
看護師に呼ばれ、医者は一礼して去っていく。奥の部屋に消えていったのを見届けて、俺は待合室の外へ出る。言われた通り、右の通路を進んでいく。まるで三途の川を渡るような気分だった。真っ暗で非常口を示すランプの光だけが通路を照らしていて、その光景はホラーゲームにあるものと遜色ない恐怖感を演出している。……演出ではなく、自分の気持ちから生まれているもののような気もする。足取りが重くなる。スーツが甲冑のように感じられる。
受付で名前を言うと、セキュリティが外れた音がして、奥の扉へ案内された。入った先は通路で、地下のような場所からだんだん照明の光が入ってきて、ついに入院病棟へ出る。
「この奥の203号室の個室にいらっしゃいます」
夜の病棟を進んでいく。廊下に灯されたライトが道を示す。カツカツと革靴の音が響き、時限爆弾のカウントダウンのようにも聞こえてくる。気がおかしくなっているのは分かっていた。ドアの前に辿り着く。静まり返った空間に、ノックが二回響いた。誰か答える人がいるわけもないので、無言で扉を開く。
そこには、真っ白な蒲団の中で眠る、痛々しい彼女の姿があった。足にはぐるぐる巻きにされた包帯、腕には様々な色のチューブが接続されている、現実味のない光景。そして、その脇にいたのは――
「貴方、どちら様?」
小学生らしい小柄な女の子が一人。ベッド脇の椅子に腰かけていた。
「えっと、その、もしかして、娘?」
「は?」
「いや、その、彼女に娘がいたなんて聞いてなくて」
「貴方……盛大な勘違いよ」
「え?」
「私は! 二十四歳の! アダルティな! アイドル馬場このみよ!」
少女は確かに大人らしい振る舞いで立ち上がり、宣言した。……よく見れば、どこかで見たような顔である。きっとテレビだろう。
「ああ……765プロの」
「そう。それで、貴方は?」
「えっと、その、彼女の元カレ? って言ったらいいんですかね」
「何よその反応。大丈夫よ、聞いてるから」
彼女はそのままこちらへ歩いてきて、呆然としている俺の右手を取った。引っ張られてよろめくも、ベッドで眠る莉緒の顔が見えて、一気に理性が引き戻される。その顔は強がっているような、頬は引きつっていて、八の字の眉に力んだ瞼、決して安心させてくれるような顔ではない。
「この子ね、三日前ぐらいだったかしら。私の家に突然やってきたのよ」
「莉緒が……?」
彼女は零すように話し始める。その目に幼さは微塵も感じず、むしろ姉のような眼差しを、莉緒に向けていた。
「泣きながらインターホンを鳴らしたもんだから、てっきり何か事件に巻き込まれたのかと思ったけど、ドアを開けたら一番に、フラれた、って」
「……それは――」
「その日は目いっぱいお酒を飲んで、この子は彼の愚痴を言ったの。本当に彼が私のことを嫌いになったのか。プロデューサー君に彼のことを教えなければよかったのか。先にプロデューサー君を止めておくべきだったのか。彼のことが知りたくてしたことが原因なら、どうすればよかったのか。彼が辛そうなのを黙ってみていればよかったのか。……そんなことばかり口にする莉緒ちゃんは、正直見てて辛かった」
「……」
「でも、同時に彼のこと、本当に好きなのがよく分かったの。莉緒ちゃんは莉緒ちゃんなりに気持ちを伝えたくて、でも、不器用でどうしたらいいか分からなくて。それで、自分で解決しようとしちゃっただけ。いつもの莉緒ちゃんらしいわよね」
彼女の言葉に対して、何も言えなくなってしまう。まともに莉緒の顔すら見ることができない。何故なら――
「その次の日、ありがとうって言って私より先に事務所に行ったわ。仕事には影響出さないようにって、張り切ってた。でも、それがきっと裏目に出たのね。ドラマの現場で倒れてきた機材に気づかず、そのまま下敷きになっちゃったらしいの」
両目の瞼の間から、言葉ではない重いものが零れ落ちる。一滴、また一滴。
「昨日から一日かかった手術は無事成功。一命は取り留めたわ。でも、一日経っても意識が戻らない。まだ目覚めてない、一度も」
「莉緒……」
「あと必要なものは、何だと思う?」
彼女は莉緒へ向けていた視線をこちらに向けた。その瞳は、俺の目をしっかりと捉えている。
「それはね、王子様のキスよ」
「は……?」
「もちろん例えよ? でも、貴方の想いはきっと届くわ。だって、相手はこの莉緒ちゃん、とびっきりの少女ですもの」
彼女はくすくすと笑う。まるで本当に王子のキスで目覚めると信じているかのように。
「あの――」
「さて、私がやるべきことはしたわ。もう少し話していたいけれど、時間は限られているから」
彼女は俺の脇を通り、病室の出口に向かってツカツカと歩いていく。そこに迷いはない。
「……ありがとうございます」
「いーえ。じゃあね、莉緒ちゃんの彼氏さん」
スライドドアを開け、彼女は病室の外へ出た。その扉が閉まるまで、俺は彼女の姿から目を離すことができなかった。
*
病室に残されて、ベッド脇の椅子に座っていた。チューブにつながれた左手を握るしかできなかった。まだ彼女の余韻が残っていて、声が頭の中で反芻する。
『でも、同時に彼のこと、本当に好きなのがよく分かったの。莉緒ちゃんは莉緒ちゃんなりに気持ちを伝えたくて、でも、不器用でどうしたらいいか分からなくて。それで、自分で解決しようとしちゃっただけ』
彼女を追いこんでいたことが、こうしてはっきりと伝えられてしまうと、目の前にいる彼女が目を覚ました時、何を伝えればいいのか、何から伝えればいいのか、分からなくなる。このか弱い右手に、目いっぱいの想いと責任感を抱えていたんだ。心電図を示す機械が電子音を刻む中、時間はゆっくりと過ぎていく。このままいなくなってしまうんじゃないかって思うと、彼女の右手を握る両手が震えた。後悔するんじゃないかという不安が、心の隅からじりじりと迫ってくる。
「どうして気づかなかったんだろうな」
言い訳ならいくらでもできる。彼女をちゃんと見つめられなかった理由。彼女に自分のことを話せなかった理由。満足していたから、忙しさを隠したかったから、きっとそれだけじゃない。もっと大事なこと。
時計を確認すると、もう午後十一時。そろそろ寝ないと明日の仕事に支障が出る。
その時。
『もしもし』
「もしもし……部長?」
『ああ、よかった。初めてかけたから番号を間違えてないか、ちょっと心配だったんだ』
滅多に話すことのない部長からの電話。心臓が跳ね上がり、意味もなく椅子から立ち上がる。
『さっき、君の親戚と名乗る人から、身内が倒れたので有給を申請したいと電話があったのだが、本当かね?』
「えっ、有給?」
『なんでも、身内が事故に遭ったとかなんとかで』
「え、ええ……確かに今それで病院に居ます」
『そうか。最近かなり仕事で忙しかっただろう。この機会にゆっくり休みたまえ』
「えっ、でも、管理業務が」
『本来私の部下にそれを分割でさせるつもりだったんだが、それが君に一人になっていたようでね。これは詫びのようなものだよ』
「そ、そうですか……すいません」
『いやいや、身内の一大事ぐらい、ちゃんと見てやりなさい』
「ありがとうございます」
『とりあえず一週間は取っておく。それ以上必要だったら連絡しなさい』
「分かりました。お手数かけます」
『じゃあ、また』
「お疲れ様です。ありがとうございました!」
立ったまま、電話越しで見えるはずのない部長に対して、必死の思いで頭を下げる。さっきの不安はこれで消えた。今までの日常はまたこうして突然に崩れ去り、俺は家に帰る理由も仕事に行く理由も失った。ワイシャツの第一ボタンを開けて、一息つく。することは、ひとつだけ。
どうやら、それは俺にしかできないらしい。
*
大学四回生の夏の日だった。卒業前の最後のキャンプだと言って、当時仲が良かった三人と共に山奥へ出かけた。全員大型バイクで、積めるだけのキャンプ器具を積み込んだ。飯は現地調達で、釣り具やナイフなども忘れなかった。こうして行くのも何度目だ、なんて笑いながら、皆で都内から随分離れた中部地方の山奥へ向かった。
山奥は涼しくて、川べりに建てたテントには、山を下りてくる風が入ってきて心地よかった。ランタンをつけて夜中までトランプで遊んだり、花火で遊んだりした。酒も山ほど飲んで、弱い奴は吐いて、それはもうすごい荒れ様だったが、それでもみんなで笑った。夜中の内に川に仕掛けた罠は、もう何度も経験しているおかげか百発百中で、飯に困ることはなく、料理に失敗することもなかった。最後のキャンプらしい、充実したキャンプだった。
最終日の前の夜。残していた魚を全て食べ切り、持ってきていた食材も食べ切り、あとはもう寝るだけとなった頃、寝袋の中から一人声を上げたやつがいた。
「なぁ」
「ん?」
「結局荒木って百瀬とは付き合わなかったのかよ」
「んー……別に嫌いなタイプってわけじゃないけど、あまりにも何も知らないままで、一回遊びに行っただけだったからなぁ」
唐突に始まる彼女の話題。当時、この荒木にフラれたという理由で彼女とは話すようになっていて、でもまだ好意も何も持っておらず、その時はただなんだか胸がくすぐったい思いだった。
「でもまぁ、スタイルはいいよな」
「間違いない」
「だが、あれは残念美人感がすごいよ」
「残念美人?」
「なんて言うか、自分の魅力に気づいてない」
「あー」
「手慣れた感出してるけど、あれは初心だね、間違いない」
「もしかして未経験?」
「だろうな」
俺を置いて、三人の話題はヒートアップしていく。大学生らしいテンションは、当時からどうも少し苦手だった。
「で?」
「ん?」
「何も話してないお前は、最近どうなのよ」
「百瀬と話してるのよく見るけど」
「おー、これは脈ありか?」
ついに飛び火して、彼らの視線を一気に受ける。だが、別に当時何もやましいことはなかったので、
「そんなんじゃねえよ。ただ、ちょっと授業で話すようになっただけ」
笑ってその場を流した。……つもりだった。
「へぇ」
「次の狙いはお前だったりして」
「んな訳ねえだろ」
「そういやお前、あんまりそういう話聞かねえな」
「確かに。今まで付き合った人数は?」
「……人」
「ん?」
「一人だよ」
「お前……俺たちより早く経験してやがるのか……」
「裏切者……」
「べ、別に中学時代にお遊びみたいなもんだよ」
荒木を除いた二人がすごい視線をこちらへ向けてくる。慌てて変な声で強がった返答をしてしまい、顔が熱を帯びる。
「お前、あんまりそういうの興味なさそうに見えたけどな」
「分かる。普段から趣味全開だし。だから余計に悔しいが」
「こいつにできて何故俺にはできなかったんだ……」
三者三様の返答に苦笑いで返す。この時は、まだ彼女に対して何も思ってなかった。それよりも、古傷がえぐられるような気持ちで、それの方が気がかりだった。
キャンプから帰った日の晩、日記を見返した。中学時代からつけていた日記。もちろん、先日の話のことも書かれている。抉られた傷を撫でるために開く昔の記憶。雑な字で、所々滲んでいて、きっと俺以外には読めないものになってしまっているだろう日記。
恋愛なんてものに縁はないまま過ごしてきた。中学二年の春までは、恋愛なんて自分の人生にはないものだと思っていた。だが、それが一変する。当時入ってきた転校生の存在によって。
転校生は名を歌織と言った。クリスチャン学校からの転校生で、普通の公立中学校は彼女にとって、中々馴染みづらいものであった。女の子は当時のクラスは既に派閥みたいなものができていて、その輪に入ることができず、男は男で運動部系のスポーツ少年が多く、彼女との接点はなかった。唯一、あるとすれば、クラスの隣の席。それが俺だった。
たまたま朝早く登校した日があった。その日は特別空が綺麗に晴れていて、何故だか早く学校に行きたいと強く思った日だった。清々しい思いで教室に入ると、ベランダで歌う彼女の姿があった。それは讃美歌のようなものだったとは思うが、今も昔も、それに詳しくない俺には結局分からなかった。しかし、それがすごく丁寧で、まるでハープから出るような透き通った音で、素直に聞き惚れてしまった。馬鹿げた話だと思う。だが、クラスの隣の席の転校生が歌う歌が本当に美しくて、今まで他の誰からも聞いたことのない声を持っていて、一人で歌うその姿にどこか寂しさすら感じてしまって。俺はその日、初めて彼女に話しかけた。彼女は笑ってくれた。歌の話をしてくれた。転校前の話や、教会の話、家族の話。楽しそうに話す彼女の笑顔が眩しくて、俺は彼女の話をいつまでも聞いていた。
ある日、六月のことだったか、その日はすごい大雨だった。彼女は傘を忘れたらしく、持っていた折り畳み傘に二人で入ることになった。思春期の男女二人がそうするとなると、お互いに気恥ずかしさが多少は芽生えるもので、実質俺はそれのせいで話すどころではなかった。だが、隣の彼女はそんなことを微塵も感じていないらしく、雨模様の空を見て言った。
「君の話も聞きたいな、って」
恥ずかしさのあまり、何を話していいか分からなくて、いろんなことを話した。自分の趣味のこと、父親が最近スポーツをさせようとして煩いこと、数学の授業が苦手でテストでいつも点数が低いこと、最近読んだ本のこと、昔一緒に居た幼馴染の話や、まだ誰にも話したことのないような、自分の将来の夢まで。彼女は丁寧に相槌を打ちながら、俺の話に耳を傾けてくれた。時折くすっと笑うその笑顔は可愛かった。この時、初めて恋をしたんだろう。それが初恋だった。
でも、そんな日々も簡単に終わりを告げる。彼女はまた転校することになった。父親の仕事の事情らしい。俺はそれよりも先に何としてでも想いを伝えようと画策して、言い出すタイミングを探していたが、結局伝えることはできぬまま夏休みを迎え、彼女はいなくなった。だから、あのキャンプで言った「一人」という話は正確に言えば嘘だ。彼女に会うことはそれ以上なく、それをずるずると引きずって、いつの間にか大学生になっていた。
誰かに全ての思いを打ち明けることなんて、不可能なんだって思った。酷く傷ついた俺は、誰かに真実を話すのを無意識に躊躇う癖ができていた。それはこうして日記を読み返さないと何故そうなったかを思い出せないほど、心の深いところに眠っていた。
*
朝。握っていた手を確認しても、起きた形跡はなく、同時に俺はこのまま一夜明けてしまったことに少し驚いた。酷く懐かしい夢を見たことにも驚いた。歌織という少女を思い出して、目の前にいる莉緒に申し訳なくなるが、今どうしているのか、なんて安直な疑問が浮かぶ。そして、自分の全てを伝えることに対する恐怖心の出所を、心の痛みと共に思い出す。
目の前の彼女は、昨晩からはだいぶマシになり、安らかな顔で眠っている。痛々しい脚やまだチューブだらけの腕を見る限り、一切安心できる要素はないが、彼女のその表情は今にも笑いかけてくれそうで、握る手の力が少し強くなってしまっているのを感じる。
「こんな時まで強がらなくていいんだぞ」
自然と声が出る。昨日までの喉の詰まりのようなものは消えている。塞いでいたものが消え、思いが飛び出す。
「もっと甘えてくれていいんだ」
その声はいつもみたいに素っ気ない声じゃなく、初恋の頃の自分と同じ、恥ずかしくて、ドキドキして、心臓のように柔らかい夏の声。
「お前のこと、莉緒のこと、俺だって、ちゃんと好きだから」
震えている。馬鹿みたいに早くなる鼓動と、馬鹿みたいに幼い言葉でしか表現できないこの自分の愚かしさと、でもそれでいいと思う何か清々しい気持ちとが擦れて、心も声も体も彼女の右手を握る俺の手も震えている。
「俺、ずっと怖かったんだ。本当の自分を知られると、離れていくんじゃないかって」
自分の声なのに制御できず、ただ零れるように飛び出ていく心。ただの会社員としての、彼女の同級生としての仮面を脱ぎ捨て、一人の男の単純なそれが、無意識から紡がれていく。
「でも、もう大丈夫」
彼女が俺にしてくれたことは嘘でもなんでもなくて、ただ大切な想いを胸に一人で頑張っていたという、彼女なりの表現方法。それに、やっと気づいた。
「もう裏切らない。お前がいなくちゃ駄目なんだ」
彼女がアイドルになったあの日から、彼女のアイドル像を好きになったのかもしれないと思った日もあった。彼女の真剣な眼差しをあの瞬間に初めて見たから。でも、違う。俺が彼女を好きになったのは、もっと違う場所。
「だから、もう安心してくれていいんだ。そして、早く目覚めてくれ。必ず起きるって信じてる人間がいるんだ」
切実な震え声と瞼に滲む熱いものが、理性を蝕んでいく。彼女の前だというのに、もうメンツもプライドも何もない。
「頼む……なんて、聞こえないよな。でも、信じてる。また、一緒にどこか行こうな。今度は俺が選ぶから」
言い切ると、朝日が眩しかった。俺の中の夜明けはこの病院の一室で迎えたんだと思うと、ムードも何もないな、なんて思った。彼女の手は俺に強く握られて少し跡が残っている。やりすぎたかな、なんて笑う。個室の病室の広さがなんだかくすぐったくて、静かな個室に今までちっぽけな言葉が響いていたなんて思うと、顔から火が出そうな想いになる。誰も聞いていないだろう言葉だから、素直になれた。俺はまだまだ未熟で、大人と言えどただの馬鹿な男の一人であることは、そこらの高校生とも、あの日の俺とも変わりはなかった。
「馬鹿だな」
独り言ちて笑う、朝八時。日々の出勤のおかげで、目覚ましがなくともこの時間に起きてしまうことを、少しだけ、よかったな、と思えた。真っ白な病室の中で、真っ白に燃え尽きた俺と、真っ白の蒲団に包まれた彼女。こんな朝を迎えるためのあの日々だったなら、それも悪くないと思えてしまう。それほど、この気持ちは形容しがたいほど清々しいものだった。
「飯でも買ってくるか」
今日から一週間ここにいるのだから、飯ぐらいちゃんと摂らないとな。
立ち上がる。
「待っててくれ。すぐ戻るから」
そう言って背を向けた、その時――
「……って」
「!?」
離す直前だった手が握り返されて、俺は驚いて同じ椅子に座りなおす。
「ま、って」
「……目、覚めたのか」
左手で起き上がる彼女。まだ力がちゃんと入ってなくて震えたその腕は、まだ痛々しい傷が残っている。彼女の腰に手をまわしてそれを支える。折れてしまいそうな体は、俺の知らない彼女を物語っていた。驚きと共に、まずは――
「待て、すぐ医者呼んでくる――」
そう言いかけた瞬間、彼女は両手を俺の首に回した。顔は俺の首元に埋められ、倒れそうになる彼女を慌てて支える。支える手を失って上手く座れないままの彼女は、それでも俺から手を離そうとしない。
「ご、めんね……わたしがふがいないばっかりに……」
「そんなこと気にするな! とりあえず、まずは医者を――」
「いいの……今はまだ、だいじょうぶだから」
かすれた声で話す彼女は泣いているようにも見えたが、その顔はまだ見えない。
彼女を抱きしめて、何分経っただろう。それくらい抱きしめていた。彼女のぬくもりをこうして直に感じるのはいつ以来だろうか。彼女の女の子の香りがいつまでも太陽のような温かさを持っていて、そこに言葉はいらなかった。ただずっとこうしていたいという気持ちが芽生える。
「ねぇ」
「……どうした?」
「さっきの……どこまでほんとなの……?」
「さっきの?」
「わたし……きみのこと、いっぱいしろうとして、それで……いっぱいめいわくかけて」
「そうじゃない。俺、ちゃんと本当のこと言えなくて」
抱きとめていた腕に力がこもる。いつまでも、こうして想いを確かめられるように。
「わたし……きみのふたんになってたりしなかった……?」
「なってない、なってない! 俺には、莉緒がいなくちゃ駄目で――」
「よかった」
「……莉緒……?」
「また、なまえ、よんでくれて」
彼女は顔をあげて笑う。涙をいっぱいに含んだ瞳でこちらを見る。愛おしくて、ガラスのようで、それでいて温かい彼女の瞳。守りたかったものなんだ、と素直に思えた。それだけ、俺は――
「……莉緒」
「なぁに?」
「俺、やっぱり莉緒が――」
*
「よかったわね」
「やっぱり、このみさんにはバレてましたか」
「彼が病院に入ってきたのを見て、病室行かなかったんでしょ?」
「まぁ、行っても揉めるでしょうから」
「違うでしょ」
「……そこまでバレてますか」
「まったく、大の大人が何をやってるんだか」
「すいません」
「彼、いい人ね」
「……ええ。莉緒の隣にふさわしい人です」
「ほんとにそう思ってる?」
「はい。本当にそう思ってますよ」
「そういう割には、まだ未練が残ってそうな口ぶりだけどね」
「すぐには消えないと思いますが、それでも、自分の監督ミスで起こったこの大事な時を彼に救ってもらった恩は、無下にできないので」
「ま、彼は医者でもなんでもなかったけど、ちゃんと王子様だったって訳ね」
「彼が一緒の時に目を覚ますんですから、そうでしょうね」
「ちょっと惚れちゃいそうになったわよ、私も」
「そうですか」
「……私の話には、えらく興味がないわね」
「あ、いや、別にそういうわけでは」
「あっそ、まぁいいけど」
「……仕事、行きますか」
「ええ、私たちは休みじゃないからね」
病室の前に居た男女二人は、二人して口元だけで笑い、その場を去った。
*
「なぁ、元気になってからじゃ駄目だったのか?」
「できれば早く来たかったし、こうでもしないと連休取れないでしょ? お互い」
レンタカーでやってきたのは、俺の実家だった。兼ねてから行きたいと言われていたので、この連休中に行きたい、とのことだった。
「こんな田舎だったのね、君の家」
「まぁ、大学行くために東京に出なきゃいけないほどだからな」
山奥に脚の怪我をした人を連れていくには、さすがにバイクでは都合が悪く、この日のためにレンタカーを借りた。久々の車の運転はなんだか少し怖かったが、彼女はそれでも隣で笑ってくれていて、終始安心した。
「ようこそ、我が家へ」
車いすに乗る彼女はまた笑う。これでいい。きっと両親からなされる思い出話が、莉緒にとっては楽しくて仕方なくて、俺にとっては恥ずかしくて仕方ないものになるんだろう。でも、こうして彼女の望みをかなえられるなら、俺の内面を知ってくれるなら、それでも構わない。心を許す彼女に、もっと俺のことを知ってもらいたいから。
「ねぇ」
「なんだ?」
「好きよ」
「俺もだ」
「ちゃんと言ってくれなきゃ嫌」
「……好きだ」
「ん、じゃあ、行きましょ」
恥ずかしげもなく好きと言える彼女には、まだまだ慣れない。俺は顔を真っ赤にして実家の玄関をくぐった。
「ただいま」