「よし、そろそろ行くかな」
マンジイからレベルフォーの話を聞かされた翌日、ボクは立ち上がっていた。
昨日と同じように筋力トレーニングと走り込みをこなし、さらには新しく手にレた鉄パイプの素振りも行った。
それはもう昨日さぼってしまった分を取り戻すかの如く、汗びっしょりになってうちこんだ。
これに対し、マンジイは驚いた表情で話しかけてきた。
「こんな雪原でそこまで汗びっしょりになるとはの。一体何があったんじゃ? あんなにレベルフォーに震えておったのに」
「え? マンジイが言ったんじゃないですか。前に進むしかないって」
「それはそうじゃが、一晩でレベルフォーの恐怖を払拭したというのかの?」
「いえ、今でも内心では死ぬほどびびってますよ。でも、いくらびびったって何の進展にもならないって分かりましたから」
「そ......うか」
「マンジイ?」
「いや、いいんじゃ。続けながら聞いてくれ」
マンジイはその場に座り込み、ボクが九割の確率で逃げ出すと思っていたと語った。
それは何もボクを軽視していたからではない。
今まで弟子にした者たちがみんな逃げ出す道を選んだからだという。
「ある者は訓練の厳しさに耐え切れず、ある者はレベルフォーの話に怖気づき、一カ月もせずに行方をくらましおったよ」
「逃げたとして、その後はどうするっていうんです?」
「お前さんも見たかもしれんが、どこぞの店に奉公するという手がある。まぁ、奴隷のようなひどい扱いを受ける事にはなるじゃろうが、一定の安全と生活は保障される」
「いくら保障されたって、日本に帰る事には何も直結しないじゃないですか。それじゃあ、意味がないんです」
「フム。お前さん、どうしてそこまで日本にこだわるんじゃ? レベルフォーの恐怖を押しのけてまで帰ろうとする理由は何なんじゃ?」
「捜している男がいるんです。そいつはボクの人生を滅茶苦茶にして今も逃げ回っているんです」
「よかったら、くわしく聞かせてくれんかの」
「そうですね。話せば少しは気が楽になるかもしれませんしね」
ボクは鉄パイプを置いて座り込み、封印していた忌まわしき記憶を話し始めた。
はじまりは四十二年前の十二月二十六日。
この日、ボクはサイタマにあるニシ家の長男として生を受けた。
父親はエリートサラリーマンで、十分な経済基盤を持っている。
本来なら親子三人での、何不自由ない楽しい毎日がはじまるはずだった。
しかし、翌年の秋、母はまだ一歳にもならないボクを置いて家を出ていった。
父はそれがボクのせいだと言わんばかりに冷たく当たるようになり、家庭環境はみるみる悪化。
暴力や罵倒は日常茶飯事で、情愛の絆なんて欠片もない。
それはボクが成長していろいろ理解できるようになってからも同じで「ブタが。お前は本当に太る才能を持っているな。それなら、何も持たない人間の方がまだマシだ」や「気持ち悪い顔しやがって。面をかぶるくらいの気づかいをしろ」など聞くに堪えない暴言が家の中を飛び交い続けた。
父はあくまで厳格で少し口が悪いだけの人間。
そう自分に言い聞かせながら、ボクは耐え続けた。
しかし、高校二年の夏、久しぶりに会った伯父から非情な事実を聞かされた。
実は、ボクの父は息子よりも娘が生まれる事を切に願っていたというのだ。
理由は、仲のいい会社の重役との間に「娘が生まれたら息子さんに嫁がせる」という約束があったから。
早い話が重役と親戚関係になるための政略結婚を企んでいたのだ。
しかし、生まれてきたのは男であるボクだった。
その時の父の落胆ぶりはそうとうなものだったという。
さらに追い打ちをかけるように、少し後に生まれた同期の娘に座をとられてしまい、目論見は完全に破綻。
そのせいで、母は父の八つ当たりに近い暴力を受ける羽目になったという。
妊娠中には「必ず女の子を産め」と過度なプレッシャーをかけられ続けたせいで、精神面もすでに限界に近い状態。
そして、とうとうボクを置いて逃げる道を選択してしまったのだ。
これを聞いたとき、ボクは頭の中がカアッとなり、父と大喧嘩した末に家を飛び出していた。
自分は愛されてなどいなかった。
ただくやしくてくやしくて涙が止まらなかった。
しかし、悲しんでなどいられない。
家を出た以上は自分の力で生きていかなければならないのだから。
仕事を求めて歩くも、何の資格も長所もないボクを雇ってくれるところなどなかった。
所持金はあっという間に底をつき、炊き出しやデパートの試食コーナーで何とか食いつなぐ生活が一年近く続いた。
その末にようやく熱意が認められて就職できたのが、町の小さな金属加工場だった。
最初は慣れない作業に戸惑って失敗する毎日だったが、少しずつ経験を重ねて成長していった。
勤続二年を迎えるころには上司からも信頼され始め、やがて正社員になり、暗かった人生にようやく光が差し始めた。
その後は忙しくも充実した毎日を送れるようになった。
勉強して資格をとろうという余裕も生まれ、一緒に切磋琢磨する親友もできた。
ボクより三つ年下の小柄な男で、名はカツキ。
最初は仕事の休憩時間に話すだけの仲だったが、やがて休みの日にも一緒に遊ぶほどの仲になった。
そのおかげで人脈も広がっていき、合コンなどにも参加できるようになった。
数合わせのため程度にしか思っていなかったが、何と三回目でめちゃかわいい女子大生の彼女をゲットすることに成功した。
ブサイクな容姿のせいで一生独り身だと思っていただけに、喜びは計り知れなかった。
交際して半年ほどたったころには夢のような同棲生活もはじまり、ボクは三十五歳にしてはじめて家族の温かさに近いものを手に入れたのだ。
このままいけば、三十台で結婚して親になる事も夢ではないかもしれない。
そう思った矢先、事件は起きてしまった。
カツキが不良中学生たちにからまれ、瀕死の重傷を負わされてしまったのだ。
命は助かったものの、完治するまでに時間を要し、もちろん仕事に出る事はできない。
そして、とうとう会社から解雇を言い渡されてしまったのだった。
かわいそうだが、会社の経営状態は苦しく、すでに後釜となる新人が入ってしまったため、どうにもならないのだった。
ボクはカツキを不憫に思い、何とか力になろうと決心した。
まずは貯金をくずして生活費として渡し、再起するまでのサポートをすることにした。
しかし、それがいけなかったようだ。
カツキは新しい仕事を探そうとする様子もなく、すっかり怠け癖がついてしまった。
しかも、何かと理由をつけてボクにお金を借りに来るようになり、まじめだったころの面影はなくなっていった。
このままではカツキはダメになってしまう。
ボクは少し戸惑いながらも注意をし、これ以上はお金を貸せないと伝えた。
だが、決して突き放したわけではない。
求人情報を持って行ったり、相談に乗るなどして別の形でサポートを続けるつもりだったのだ。
しかし、カツキはボクを冷たい人間だと誤認したようで、仏頂面をして帰ってしまった。
そして、とうとう運命を分けるときは来てしまう。
十二月の寒い夜、ボクは一人で仕事場に残り、やりこのしていた仕事を片付けていた。
その途中、ふと時計を見たときに窓の向こうが少し明るくなっているのに気づいた。
すぐに外に出て確かめてみると、向かいの事務所の電気がついており、かすかに何かが動くような音も聞こえた。
その時点で泥棒が忍び込んでいるという確信はあったが、下手に突っ込んだりすれば命が危ない。
そこで警察に通報した後、仕事場に戻って武器になりそうな物を探そうとしていると、犯人が窓を開けて飛び出してきた。
ボクは勇気を振り絞り飛びかかるも、難なく避けられ、突き飛ばされてしまった。
それでも何とか奮闘して捕まえようともみ合いになるが、途中からショックで体が固まってしまった。
何と、犯人はカツキだったのだ。
信じたくはなかったが、二十年も付き合いのある親友の顔を見間違えるわけがない。
残酷だが、受け入れるしかなかった。
その後は力なく来た道を戻り、事務所内が滅茶苦茶に荒らされているのを目の当たりにした。
金庫は無理やり開けられており、中に入っていた金品はすべてなくなっていた。
そして、本当に苦しいのはここからだった。
ボクは駆け付けた警察に任意同行されて犯人の話をすることになったのだが、あろうことか容疑者として扱われた。
理由は、事件の前日にボクの住んでいるアパートの近くに強盗を企んでいる者がいるというタレコミがあったから。
もちろん何のことだか分からなかったが、それを証明する方法はない。
結局はほとんど話を聞いてもらえず、刑事さんに大声で威嚇されたり、近くのイスを蹴って脅されたりして長時間にわたって苦痛を味わう羽目になった。
そして、疑いを晴らすこともできずに仕事場に戻ると、今度は社員たちによる疑いの目に苦しむ事になった。
あまり話したことのなかった人たちはおろか、上司や仲のいい後輩にまで「正直に話した方がいい」とか「今だったら社長に一緒に謝ってあげるよ」と言われる始末。
実を言うと、このときすでに仕事場にまでボクが犯人であるかのようなタレコミが流れていたのだ。
おそらくはすべてカツキの仕業だ。
お金を盗むだけでは飽き足らず、罪をボクになすりつけようという魂胆に決まっている。
しかし、カツキ本人は事件後にボクから逃れた後で行方をくらましたため、冤罪だと証明する事はできなかった。
打つ手のないまま時間だけが流れていき、ボクは仕事場で犯罪者のレッテルを貼られいじめを受け始めた。
それでも、いつか冤罪だと証明されると信じてがんばったが、事件から一年を迎えた日に社長から「お前みたいなやつがいたらうちのイメージが悪くなるから」と涙ながらに訴えられ、半強制的に退職させられてしまった。
その頃から彼女との関係もどんどん冷めていき、とうとう一方的に別れを切り出された。
ボクは何とか思いとどまるように言うも、彼女は「本当だったら、あんたみたいなブ男が女の子と付き合えるほど世の中甘くないのよ! 今まで一緒にいてやっただけありがたいと思いなさいよ!」と言って物をいくつも投げつけ、出て行ってしまった。
その後、わらにもすがる思いで訪ねた父親からは「こんな事になるくらいなら生まれたときにお前を殺しておけばよかった」と言われてたたき出された。
さらに、それなりに親交のあった伯父といとこからは「二度と顔を見せるな」と門前払いされた。
もはや、言葉にできなかった。
ボクは四十歳にして、仕事も信頼も恋人もすべて失ったのだ。
絶望のあまり、死んでしまおうとも考えた。
しかし、このまま死んでしまえば完全な犬死だ。
せめて、カツキを探し出して復讐を遂げなければダメだ。
その怒りの気持ちを原動力にして、ボクは残りの人生を生きていくことにした。
職を転々としながらも一日一日を必死に使い、ひたすら前に進んだ。
ここまでの話を終えたとき、ボクは鉄パイプを握りしめて興奮状態になっていた。
マンジイはその様子をしばらくじっと見つめた後、静かに口を開いた。
「辛かったじゃろうの、本当に」
「分かってくれるんですか?」
「うむ。付き合った時間は短いが、ワシは人を見る目はあるつもりじゃ。お前さんは盗みを働けるような人間ではないじゃろ」
「あ、ありがとうございます、マンジイ」
ボクは少しずつ落ち着きを取り戻していった。
事件について、何かが大きく進展したわけではない。
だが、少しだけ救われた気持ちになったのは確かだろう。
「一人でも信じてくれる人に会えるなんて。あの地獄を生き抜いて本当によかっです」
「まったく。冤罪というのは世の中の不条理の象徴と言えるじゃろうの。裁かれるはずの悪人の罪を何の関係もない善人が肩代わりせねばならんのじゃからの」
「ええ。でも、ボクは逮捕されたわけではないし、無実を証明するためのチャンスはまだ残っている。だがら、ここで死ぬわけにはいかないんです」
「うむ。その気持ちがあれば、必ず強くなれるはずじゃ」
「はい。これからもどうかよろしくお願いします」
ボクは鉄パイプを握りしめ、訓練を再開した。
でも、内心はさっき話したように恐怖でいっぱいだった。
何しろ、これからは死に物狂いでデビレンたちと戦っていかなければならないのだから。
それが終わって日本に帰れたとしても、待っているのは所持金も仕事もないゼロからのスタート。
そして、カツキを見つけ出すまでは濡れ衣は着せられたまま。
果てしなく長い道のりだと言えるだろう。
しかし、その先には必ず本当の幸せが待っているはずだ。
その光に満ちた光景を思い浮かべながら、ボクは体を動かし続けるのだった。