ヘリオスは、力のない神だった。
一級神には遠く及ばず、二級神には鼻で笑われる、
ティターン十二神の子であり、太陽神であるということだけが、ヘリオスを
悔しかった。
自分が悪く言われることが、ではない。
それくらいならば、許容することもできたのだ。
自らが力のない三流神であることは事実なのだから、好きに言わせておけ、と無視をすることができた。
だが。
自らを貶す者達が、大切な家族の名を挙げ連ねて、哄笑の対象とし、侮辱することだけは、許せなかった。
だから、ヘリオスは、必死になって努力をした。
小さな掌が血塗れになっても手綱を握り続け、ペガサスを御すべく鍛錬を重ねた。
"光に照らされた万物が、良き方へと導かれますように"
そんな願いを小宇宙に込めて、小さな神は世界を駆けた。
やがて、暫くの時が経ち。
願いは、"浄化"という性質へと昇華した。
細腕にはしなやかな筋肉がつき、ペガサス達とも仲が良くなって、
気が付けば、ヘリオスは太陽神の呼称に恥じない、立派な神へと成長していた。
純粋な
安心した。
これでもう、父上や母様、可愛い妹達が誹られることはないだろう。
時は巡り、太陽を司る友ができ、安寧と停滞に満ちた、幸福な日々が訪れる。
──しかし、
地に落ちて、力を失って。
目の前で戦う、小さな恩人の背中を見るだけしかできない、今の自分を顧みて、痛感する。
「・・・・・・俺は、あの頃と、何も変わってはいなかったのか」
大地を覆う真紅の薔薇──
魚座の操る、触れた者を死へと誘う、恐ろしくも美しい毒の薔薇。
そして、
その毒の海を物ともせずに光速で駆ける、二つの陰。
「初手より奥義にて仕る──!」
アルバフィカから距離を取った場所で、アフロディーテは声高らかに叫んだ。
「──ピラニアン・ローズッ!!」
「・・・ピラニアン・ローズ!」
刹那の時を刻んで、アルバフィカも鋭い声で技名を口にした。
途端、漆黒の薔薇が、空間を埋め尽くすようにして発生する。
黒水晶のような、美しい輝きを纏う少年の薔薇と、全てを拒絶するが如き、闇の瘴気を撒き散らす青年の薔薇。
両者の黒薔薇は、それぞれの標的へと向かい、空間を引き裂き疾駆する。
"ピラニアン・ローズ"
触れたものを粉砕する程の、恐ろしい威力をもつ、魚座の必殺技の一つ。
本来ならば花びらは拡散しつつ敵に襲いかかり、まるでピラニアが獲物を食い散らす如く、対象をズタズタにするのだが・・・。
ドドドドドッッ!!!
と、莫大な振動が空間を支配した。
アルバフィカとアフロディーテ、両者の放った数百・・・いや、千を優に超えるであろう黒薔薇の群れが衝突する。
花びらが拡散する間もなく、さながら戦場で射られる矢の如く。
漆黒の嵐は、互いを食い潰し合うようにして、主の敵を穿たんと襲いかかった。
「・・・当たれば、串刺しじゃ済まないな」
拮抗する膨大な小宇宙の衝突に、乾いた声が喉から漏れ出た。
前方、離れたところでピラニアン・ローズを繰り出すアフロディーテ。
そして・・・少年の黒薔薇を防ぎきれず、白い衣を己の血液で汚していく、アルバフィカ。
戦況は、僅かにアフロディーテに傾いているようだった。
・・・だが、
「・・・どうして、アベルは動かないんだ」
身動ぎもせず戦いを眺める異界の神が、今は何よりも不気味だった。
聖闘士の掟である、一対一の戦いを遵守しているから?
──否。
聖闘士の掟を守っても、アベルにとって益になることはない。
では、わざわざ自分が手を下すまでもないと考え、アルバフィカに一任しているのか。
・・・いいや、戦況はアフロディーテに傾いている。
そんな余裕はないはずだ。
だとすれば。
アルバフィカがアベルの支配に抗い、その抵抗を抑え込むのに手一杯なのか、
「・・・それとも、
囁くように呟いて、俺は眉根に力を入れた。
静かに佇むアベルを凝視し、その真意を探ろうとする。
「目を覚ませ、魚座のアルバフィカよッ!! そのような暗闇に飲み込まれる貴公ではないはずだ!!」
「・・・・・・」
荒い声で呼びかける少年と、鮮血を撒き散らしても攻撃の手を休めない、異界の聖闘士。
目の前で繰り広げられる、仲間同士の戦い。
「・・・・・・見ているだけしか、できないのか」
虚しさが胸中に蟠り、思わず唇をぎゅっと噛み締めた。
何故、必要なときに限って、俺は何もすることができないのか。
・・・もしも、もしもあの抗戦地点に踏み込めば、ボロ雑巾のように惨めに、塵よりも虚しく身体を散らすことになるだろう。
不死身の身体だ。
再生には時間がかかるだろうが、一度くらいなら、少年を庇うことができるかもしれない。
しかし、タイミングを誤れば無駄に身体を散らすことになる。
アフロディーテに隙を作ってしまうかもしれない。
「・・・ちくしょう」
力のない自分が、惨めで、悔しかった。
だが、少年の足を引っ張ることだけは、してはならない。
結果・・・今の俺には、視て、考える。
ただ、それだけのことしか、許されてはいなかった。
「はあああぁぁぁッ!!」
アフロディーテが咆吼する。
相殺を免れた黒薔薇を叩き落とした少年は、気合いと共に高く、跳躍した。
激しい黒薔薇の衝突が、轟音を炸裂させる空間を超え、
少年は、天に輝く光球を背に、アルバフィカを鋭く捉えた。
「その身に受けるがいい──ブラッディ・ローズッ!!」
ゴオッ!! と、風が唸り声をあげると同時に、少年の掌から、眩い光芒が迸った。
魚座の黄金聖闘士、最大にして、究極の必殺技、"ブラッディ・ローズ"。
小宇宙を込めた白薔薇を相手の心臓目掛けて投げつけ、刺さった白薔薇が対象の血液全て吸い上げるという、恐ろしい技だ。
一輪の白薔薇は宙を駆け──
「・・・!」
──アルバフィカではなく、戦いを眺望していた異界の神へと突き進んだ。
猛烈に邁進する白薔薇は、少年の想いに呼応するが如く、温かくも力強い光を放つ。
さながら、その光は、万物を照らし出す陽光のようだった。
・・・"願い"だ。
アベルに対する怒りではなく、白薔薇に込められたのは、切実な願いだった。
地上よ、人の世よ、平和であれと。
同胞よ、異界の魚座よ、安らかに眠れ──私が、全てを終らせてみせる。
そんな、アフロディーテの全身全霊の想いをのせた、究極の一撃だった。
「・・・ふん・・・
「っ──!!」
──ドシュリ。
鈍く、耳障りな音が鼓膜へと届いた。
瞬間、戦慄くアフロディーテの視線の先で、血しぶきが、艶やかな空の髪を汚す。
「あ、あ・・・」
理解が追いつかず、強張る唇を震わせて、俺は呻いた。
「
視線の先。
そこにはアベルを庇い、心臓にブラッディ・ローズを受ける、異界の同士がいた。
どぷり、とアルバフィカの口から鮮血が伝い、純白の衣を汚していく。
灼熱の痛みが、身を引き裂かんばかりの衝撃が、その身を支配しているはずなのに・・・
アルバフィカは眉一つ動かさず、凍てつくような瞳で、アフロディーテを見据えていた。
「相見える敵を無視し、不意を突いて私を攻撃するなど・・・この世界の
「っ──お前ッ!! 巫山戯るなよ! アルバフィカを盾にしておいて、アフロディーテを卑怯と誹るだとッ!? それでもお前は太陽神か、それでも誇りのある神なのかッ!?」
燃え上がるような怒りが沸き起こり、俺は鋭く叫んだ。
しかし、アベルは自らを糾弾する言葉を涼しい顔で受け止めて、静かに口を開いた。
「何を喚く・・・戦士が、その身を挺して主を守るのは、おかしなことではないだろう」
「お前が無理やりそうさせたんだろう・・・!? これ以上そこの人間の・・・アルバフィカの命を弄ぶなよ!」
「神に命令をするとは・・・身の程を知らぬ愚か者が。・・・貴様は私に意見をする前にまず、臆病な太陽神を、この場に引きずり出すことから始めるがいい」
「臆病・・・だと?」
「それが、相応しい評価だろう。自らが統治する島の守護を女神の聖闘士に任せ、この場に現れない卑怯で臆病な神・・・いいや、若しくはこの島の顛末になど、然程の興味も抱いていないであろう神に比べれば・・・私の行ないの何処に、非を見いだせようか」
「っ・・・」
言葉が、詰まった。
だけど、
『自らの統治する島の守護を女神の聖闘士に任せ──』
『この島の顛末になど、然程の興味も抱いていないであろう神──』
アベルの放った言葉は、残酷なまでに、的を得ていた。
偶然、このロドス島が危機的状況にあると知らされるまで、俺の頭の中は、天界に戻ることで一杯になっていた。
・・・いいや。
それどころか、ゼウスに島を与えられた時ですら、この地に対する興味は微塵もありはしなかった。
俺を信仰してくれた民のことなど、頭の片隅にも置いてはいなかったのだ。
『神が守るべきものは、己を信じる民─そして理想郷を生む為に想いを分かち合う同胞だ』
かつて、遠い昔に、父上が教示してくれた言葉が蘇る。
あの頃は、俺を信じてくれる民も、友も、存在しなかった。
だけど、今は、
「そうだ・・・民も、友も・・・大切なものは全て、手を伸ばせば、届く場所にいたんだ。・・・それなのに、俺は」
──全てを諦めて、自らの殻に閉じこもった。
俯き、項垂れる。
言い返さない俺に対し、表情を変えず、異界の神は言葉を続けた。
「ふん・・・アポロンの友を嘯く、太陽神ヘリオスに連なる人間よ、貴様とて、同じであろう。歳もそう変わらぬであろう、そこの聖闘士の背に隠れ、声を荒らげることしかできない・・・どころか、アルバフィカの黒薔薇から守られていた者が私を糾弾するなど・・・失笑も零れぬわ」
「──は?」
「なんだ、その間抜けな面は? ・・・己こそが、目の前の少年を盾とする卑怯者であったことに、言われてるまで気がつかなかったとでも言うのか? ・・・フッ、なんとも、目出度い頭であるようだ」
漆黒の瘴気を撒き散らして、アベルは酷薄な笑みを浮かべた。
異界の神の言葉が、深く突き刺さる。
ぴしり、と、魂の奥底で、何かに亀裂が走る音が響いた。
傷など一つも負っていないはずなのに、心が、魂が、引き裂かれるような激しい痛みを主張する。
「・・・嘘だ」
俺は、既に、アフロディーテの足を引っ張って──、
「──誰が、卑怯者だと?」
地を這うような声が、空気を揺らした。
霞む視界の中で、肩を震わせる人間が、一人。
「なぜ、戦う力がないというだけで、貴様は、ヘリオスを卑怯と謗れるのだ?」
それは凜々しい、少年の声だった。
「私は先刻言ったはずだぞ、ヘリオスは既に、自らに課せられた役割を遂げたのだと。ロドス島の民を毒から救い、アルバフィカの傷を癒し・・・この場を、私へと繋いでみせた!」
柳眉を吊り上げて、烈火の如き双眸で、アフロディーテは噛み付くようにして言い切った。
ぽかんと間の抜けた顔で硬直していると、小さな戦士は振り向き、
「そこの、三流神ヘリオスッ!!」
「っ!? な、なんだ?」
「君こそ、何を縮こまっているんだ! 教皇様から与えられた任以上のことを、君は成し遂げたのだぞ? 誇りこそすれど、そこのくだらん神の戯言に付き合う必要はないだろう!?」
「だ、だけど・・・俺は、お前を盾にして・・・」
「
アフロディーは憤然とした様子で、いつものように、俺を叱責した。
敵に向けるよりも強い炎を灯した双眼で、俺を一瞥して、少年は身を翻す。
「・・・・・・」
俺は、間抜けに開けていた口を、静かに閉じた。
普段ならばムカッと頭にきて、言い返していたであろう、不敬で不遜な人の言葉。
それが。
その一喝が、今は、
──存外、ガツンと胸に響いた。
「・・・聖闘士め、余計なことを」
「異界の太陽神よ! 最早、貴様を守るアルバフィカはブラッディ・ローズに心臓を穿たれ、身動きがとれん・・・観念するがいい! 我が同胞の誇りを汚し、無辜の民より平穏を奪おうとした罪・・・女神の名の下に断罪してくれる!!」
憤るアベルに向けて、アフロディーテは力強く宣った。
そして、
──再び、少年の掌に、眩い光芒が宿る。
二輪目の──ブラッディ・ローズだ。
アフロディーテは白薔薇に小宇宙を込めて、大きく腕を振りかぶった。
しかし。
「──だから、甘いと言っているッ!!」
怒りの篭もったアベルの声が、世界に轟くと同時に、
──血塗れの聖闘士・・・アルバフィカの瞳が、妖しく瞬いた。
「──クリムゾン・ソーンッ!!」
迸る、獰猛な雄叫び。
アフロディーテの不意を突く、必殺の一撃。
「──なっ」
アルバフィカの傷口から射出される、深紅の鮮血──猛毒の針の雨に、アフロディーテは小さく喘いだ。
少年の知らない、アルバフィカのみが操れる技による、敵の殲滅。
自らの聖闘士が傷を負い、アフロディーテが油断をした瞬間を・・・アベルは、狙っていたのだろう。
硬直する少年に、幾千を超える毒の針が襲いかかる。
──だが。
「──
その全てが、
「ッ・・・!?」
息を呑んだのは、誰だったのか。
カッ、と閃光が迸り、純白に輝く炎が、猛毒の嵐を退けた。
かつて、巨蟹宮の壁を覆う、人間達の魂を輪廻へと送った浄化の小宇宙──
「ガハッ・・・ゲホッ・・・あ゙ぁ、良かった・・・
「ヘリオス・・・!」
血を吐きつつも、俺はアフロディーテの傍らまで歩みを進めた。
「無茶をする・・・!」
「無茶なものか。それに、
「! ・・・フッ、そうだったな・・・感謝する。流石の私も、今の一撃には耐えられなかった」
アフロディーテは薄く笑い、視線をアベルへと戻した。
倣うようにして、俺も前を向く。
異界の神は、どす黒い瘴気で大気を震わせながら、俺達を睨みつけていた。
「おのれっ・・・アルバフィカの瘴気を祓ったその小宇宙。・・・やはり、先に片付けるべきは貴様だったか! 太陽神ヘリオスに連なる者よッ!!」
「ぐっ──あ゙あああぁぁッッ!!」
アベルが怒声を放つと同時に、アルバフィカの心臓から、漆黒の闇が激しく噴出した。
全身を飲み込む瘴気に、異界の聖闘士は苦悶の叫びをあげる。
そして、最早焦点の定まっていない双眼で、絶叫する。
「クリムゾン・ソーンッ!!」
「っ──
再び襲いかかる猛毒の奔流に、俺は、小宇宙を解放する。
掌から、純白の炎が発生し、クリムゾン・ソーンを相殺していく。
「うっ・・・」
ゴプリ、と血の塊が地面を汚す。
それでも、アルバフィカの攻撃が止むまでは、耐えなければならない。
ガクガクと震える全身を叱咤して、俺は両手を掲げ続けた。
しかし。
「・・・
「・・・あぁ」
傍らで声を漏らす少年に、俺は小さく頷いた。
降り止まぬ、猛毒の嵐──
「もうとっくに、人間の体内に循環する血液は全て放出したはずだッ!! それにも拘わらず・・・なぜ尽きない! なぜ、その命を流し続けることができるんだッ!!」
「・・・フッ、ハハハハハッ!!! 最初から貴様達には、勝利などはなかったということよッ!」
アベルは、狂ったように嗤う。
「
「っ!? 死者を蘇生し続ける、だと・・・!?」
「そうだ。・・・無駄な小宇宙の浪費はしたくはなかったが・・・最早、躊躇うまい!!」
アベルは獰猛な笑みを浮かべて、これ以上言うことはないと、口を閉じた。
「・・・・・・そんな」
身体から、力が抜けていく。
──届かないのか。
俺達では、異界から来た脅威に対抗することは、できなかったのか。
同胞を、アルバフィカを支配の軛から解放することも叶わずに。
ロドス島の民を守ることも出来ずに。
惨めに、負けてしまうというのか。
口内に広がる鉄の味も薄れていき、世界が、遠くなる。
諦めたくない。
抗いたい。
だけど、どうしようもなく──力の差は歴然だった。
「・・・ヘリオス、君に、頼みがある」
「・・・・・・アフロディーテ?」
少年が、静かに言葉を放った。
この状況で、何を頼むというのだろうか。
怪訝に思い、弱々しくその名を呼ぶと、
「君は、
迷いのない瞳で、そう言った。