馴染み深い香気が、鼻腔を擦った。
「・・・う・・・わ、たしは・・・」
掠れ声を漏らし、男──アルバフィカは感覚の遠い身体に力を入れた。
朧気な意識の中に残るのは、神に操られ同胞を傷つけた、忌々しい記憶。
易々と身体を支配された己の不甲斐なさに、表情を歪めて、アルバフィカは重い瞼を開く。
「・・・!」
その刹那。
視界に飛び込んできたのは──“
「っこれは・・・・魔宮薔薇が全て、黄金に染まって・・・」
自らが作り出した深紅の薔薇園、他者との共存を拒絶する毒の海。
その全てが、神々しい輝きを纏い、気高く咲き誇っているではないか。
力強くも優しい光たちに、鼻を擽る甘い薔薇の香気。
「・・・懐かしい光景だ」
ふと、五感の捉えた情報が、幼い頃の記憶を呼び覚ました。
厳しくも、アルバフィカを自分の子のように接し導いてくれた、大好きなルゴニス先生との修行の日々。
──疲れ果て、毒薔薇の園に倒れ伏した時に見上げた、満開の星の海。
虚空に溶け消えていく、儚くも尊い黄金の花弁達に、アルバフィカは二度と戻らない過去の情景を重ね、小さく呟いた。
「・・・まるで、星空のようだ」
「──貴公も、そう思うのだな」
「! その声は・・・アフロディーテか」
視線を上げると、自らの傍らで膝をつく、小さな聖闘士に気がつく。
先刻まで浮かべていた険しい眼差しは消え、少年は、穏やかに薔薇園を眺め佇んでいた。
星空を彷彿とさせる輝きの中で、二人の魚座は視線を交え、先に口を開いたのは、地に身を預けるアルバフィカだった。
「・・・迷惑を、かけたな・・・お前達のおかげで、私は、多くの命を奪わずに済んだ。・・・共に戦うと誓っておきながら、異界神に操られるという体たらく・・・本当に、すまなかった」
「謝罪は不要だ・・・そもそも、貴公に非はないだろう。・・・寧ろ、
凜々しく、アフロディーテは言葉を紡ぐ。
「神に操られながらも、
「・・・私一人では、到底なし得なかったことだ。全ては、お前達の決死の奮闘あってのもの。感謝する、アフロディーテ、ヘリオ・・・ん?」
懐疑的な声を漏らし、アルバフィカは辺りを見回す。
しかし、視界に収まる範囲にいるのは己と、目の前の少年のみ。
「アフロディーテよ・・・ヘリオスは、どこへ消えた?」
「・・・・・・」
「・・・?」
「・・・ヘリオスは、だな・・・」
少年は口ごもり、悩ましげに視線を彷徨わせる。
相手が神であろうともお構いなしに言葉を放ち続けた少年にしては、違和感を覚える所作だった。
余程話すことが憚られる理由があるのだろうか? と思考したところで──嫌な汗が背筋を伝った。
「まさか・・・ヘリオスは、
「いや、あの大馬鹿者はきちんと生きているぞ」
「むっ・・・では、ヘリオスは何処へ行ったんだ?」
「・・・それは」
少年は歯切れ悪く言い淀む。
無事であるのなら言葉を躊躇う理由はないはず。
訝しげな視線をやると、アフロディーテは小さく息をつき、言葉を放った。
「ヘリオスは──あの異界神を、
「・・・・・・は?」
「・・・『急がないと神の道が閉じる・・・悪いアフロディーテ!! 俺はアベルを元の世界へ連れて行く! ・・・俺の代わりに、アルバフィカによろしく言っておいてくれ』・・・と捲し立て、あの馬鹿者はペガサスごと異空間へと飛び込んでいった」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・止めなかったのか?」
「・・・その隙も無かった」
「・・・・・・そうか」
二人は肩を落とし、大きく息を吐き出した。
アフロディーテは胃の辺りを擦りながら、現実から逃避するように虚空を眺める。
「・・・まぁ、なんだ・・・ヘリオスは愚かだが、信用はできる。此度の戦いも、彼奴の力が無ければ、勝利は無かった。・・・異界神アベルは、この島の主・・・太陽神ヘリオスに任せても問題ないだろう」
「お前がそう判断するのなら、私は何も言うまい・・・しかし、まさか本当に、ヘリオスが神だったとはな・・・見た目で判断してはならないとはこのことか」
「あぁ、未だに解せん・・・私は教皇様に何と言って報告すればいいのやら・・・」
年不相応に、アフロディーテは眉間に谷を刻み込む。
すると、アルバフィカは、そんな少年の姿に僅かに笑んで、言葉を放った。
「・・・アフロディーテよ、私は一つ、お前に謝らなければならないことがある」
密やかに、然して確固たる決意の感じられる声音で、男は少年へと姿勢を傾ける。
「? 何だ、謝罪は不要だと言っただろう」
「いいや、あの戦いとは別件だ・・・私は一人の魚座の聖闘士として、お前に告白しなければならぬことがある」
「魚座として?」
思い当たる節が無いといった様子で、空色の瞳を丸々とさせる聖闘士に、アルバフィカはゆっくりと頷き、答えた。
「私は、お前が"赤い絆"を持たぬ者だと知ったとき、酷く、悲しく思った・・・いいや、思ってしまったんだ」
「・・・赤い絆とは?」
「・・・私の世界の魚座にはな、"血の儀式"という、師と弟子で、数年に渡り互いの毒の血を交換する儀式があるんだ」
透き通った声で、男は綴る。
「より強い毒が生まれるまで・・・つまりこの儀式は、師と弟子、そのどちらかが死ぬまで続く。・・・しかし、私はそんな事実は微塵も知らず──否、知ろうともせず・・・ただ、毒の血を持つが故に孤独に生きるルゴニス先生と、同じ存在として共に生きたいと願い、儀式を履行したんだ」
「・・・・・・まさか、先刻言っていた、師の命を奪ったという話がそれなのか」
「そうだ。私は先生を超える毒の血を得て、先生は、私の血によって亡くなった・・・考えてれば分かる結末だったというのに・・・私は、先生と同じ存在になれることに舞い上がり、何も、見えてはいなかった」
「・・・・・・」
「毒の薔薇も、毒の血も、この身に宿る技も教えも、全てが魚座としての私の誇りだった。故にこそ、次代に"赤い絆"を継承せずに死した己に、私は少なからず悔いを感じていた」
悩ましげに言ったアルバフィカは、「だがな」と言葉を置き、アフロディーテを真っ直ぐ見据えると、再び口を開いた。
「・・・それは、私の誤りであったようだ」
美麗な戦士は、憑き物が落ちたように微笑んだ。
「アフロディーテよ、お前は、"赤い絆"を持たぬ魚座だった。・・・だが、お前には、気高い意思と、誇示がある・・・そして、何よりも──太陽のように眩い絆があった。どこに憂いを見いだせようか」
「・・・アルバフィカ」
「フッ・・・励めよ、アフロディーテ。お前は賢く、実力もある。だが、黄金聖闘士としてはまだまだ未熟だ。・・・その誇りを貫き通せる、強い男になれ」
「っ・・・!」
──途端、男の身体が、淡い光と溶けていく。
空へと消えていく、金色の薔薇たちに混ざり合うように。
夜空を照らす、灯のように。
「どうやら、私も在るべき場所へと還るときが来たようだ。・・・アフロディーテよ、見事な戦いぶりだった・・・ヘリオスにも、世話になったと言伝を頼む」
「・・・あぁ、確かに」
「また再び、相見えることがあるのなら・・・今度こそは、共に戦いたいところだな」
「・・・私もだ・・・きっとまた、いつか、必ず・・・」
「・・・・・・」
風が凪ぎ、優しい香りが黄金の園を駆け抜けて、二人の空の長髪を揺らした。
風が止み、草花の掠れ合う音が消え、世界は、静寂に包まれる。
やがて。
異世界の魚座は、穏やかに頬を緩ませて、
「さらばだ、幼くも雄々しい同胞、アフロディーテよ・・・──お前ならば必ず、混沌に染まる光を見つけ出し・・・奇跡を、手繰り寄せられるだろう」
アルバフィカは、自らの仲間達が眠る場所へと、還っていった。
────────
ゆらゆらと、揺れている。
右へ、左へ。
時には下に、時には上に。
「・・・・・・」
・・・いいや。
前後左右という概念は、この空間においてはあまり、意味のないものだったか。
男は、重い瞼を薄らと持ち上げ、独りごちた。
眼前に拡がるは、銀河にも似た、果ての無い空間──"神の道"。
神の加護なき者が足を踏み入れれば、たちまち塵と化す、神々のみに許された異空間。
そう、太陽神である己──
「目が覚めたか」
「ッ──お前は、太陽神ヘリオス・・・!」
「暴れるなよ、アネモスから落ちる」
『クォン』
「っ・・・ペガサスか」
どうやら、意識を失っている間に天馬に乗せられ、運ばれていたようだ。
自らの状況を理解したアベルは、天馬に跨がるもう一柱の神へと言葉を投げかけた。
「・・・何故、私を助けた」
「・・・・・・」
「答えろ、太陽神ヘリオス! 不死であれど、封印するなり、この身を千に裂くなり・・・打てる手は幾らでもあったはず・・・一体、何を企んでいる」
「・・・はあ」
自らの背へと怒声を浴びせるアベルに、ヘリオスは小さく息をつく。
やがて、数秒の沈黙の後に、天馬の御者は振り向き、答えた。
「──お前は、
「っ・・・」
「俺はてっきり、あの惣闇の瘴気はお前から溢れてるものだと踏んでいたんだが・・・
不機嫌そうに眉根を寄せて、ヘリオスは淡々と言葉を放った。
すると、口を閉じていたアベルが噛み付くようにして言う。
「愚かな・・・確かに私は、あの瘴気により意識をかき乱されてはいたが、地上の粛正も、世界の支配も、他ならぬ私の願い、積年の本懐だ! ・・・選択を見誤ったな、私にとどめを刺さなかったこと、後悔することになるぞ・・・!」
「・・・・・・」
沈黙するヘリオスに、アベルは鋭い視線を送り続ける。
しかし、また一つ溜息を吐き出して、ヘリオスは大きくかぶりを振った。
「・・・いいや、後悔はない・・・そもそも、今のお前からは、地上や天界を支配しようなんて気概は感じられない。戦う気のない相手を滅ぼす趣味は無いし、結果論だが、俺はお前との戦いのお陰で、僅かではあるが神の力を取り戻すことができた。・・・だとすれば、同じ太陽神のよしみとして、迷子の神を元の世界へ送るぐらいはするさ」
「・・・なんだと?」
「
「・・・・・・」
「アベル、あの瘴気は何だ、どこで拾ってきた? ・・・運良く俺達の力で祓うことができたが、あんなどす黒い淀んだ闇、俺は今まで一度も見たことがないぞ」
「・・・・・・・・・」
「・・・アベル?」
口を閉ざし、男神は見澄ますような視線を、眼前のヘリオスへと注ぐ。
やがて、怪訝そうな表情で返答を待つ小さな神に、アベルは問うた。
「・・・何も、覚えがないと言うのか?」
「は?」
「ヘリオス、あの瘴気は、お前の管轄地──
「なっ・・・はあ!?」
「・・・初めから、話すべきなのだろうな」
驚愕するヘリオスに、アベルは事の経緯を語り始める。
「・・・私の居た世界での、ペガサスの聖闘士との戦いに敗れた私は、不死故に完全なる消滅はないが・・・復活まで数千年はかかるであろうという状態で、虚空に漂う儚き存在と化していた。・・・しかし、どこか遠くから、私を呼ぶ気配が在った」
「気配・・・まさかそれが、あの瘴気だっていうのか」
「そうだ。・・・導かれるように手を伸ばし・・・気づいたときには、世界を超え、私の身体と魂はあの瘴気に包まれて・・・不完全ではあるが、復活を遂げていたのだ」
「・・・・・・」
それは、
余りにも荒唐無稽で、信じがたい話だった。
ヘリオスは考え込むように俯き、やがてぽつりと言葉を零した。
「・・・混沌から負の側面だけを掬ったかのような、趣味の悪い闇・・・あんなものは、俺が昔ロドス島に訪れた際にはなかったものだ・・・だが、お前のいう通りに、あの瘴気が島から噴出するものだとすれば・・・──
「・・・──いいや、
「なんだって?」
低く問うヘリオスに、眉根を寄せ、重く響く声でアベルは言った。
「
「・・・・・・・・・・・・」
ヘリオスは、否定しがたい現実に、心の中で深く頷いた。
──確かにある、と。
何度天へと叫んでも、返答の無い空の光球。
自らの身に施された、神の力を抑える封印。
そして、つい先刻、頭の中に響いた、
地上に落ちてからの出来事全てが、友によって起こされたものだと考えれば・・・話の筋が通ってしまうのだ。
・・・到底、納得はできないのだが。
「太陽神ヘリオス、お前の、その身に施されている複雑奇怪な封印も、アポロンによって為されたものなのだろう? 神が、人間かと見間違うほどに力を奪われるなど、到底許すことのできぬ所行だ」
「・・・・・・」
「私もかつて、アポロンによって討ち滅ぼされたことがあるが・・・フッ、世界が違えども、あの男の在り方は変わらずか」
「・・・・・・お前の世界のアポロンがどんな奴かは知らないが、俺の友は、意味もなく俺を虐げるような神ではないぞ」
「なに?」
真剣な瞳で、ヘリオスは言葉を放つ。
「確かにアポロンは、今回の騒動に関わっているんだろうさ・・・だけどきっと、理由がある。・・・アベル、確かお前はアポロンの結界によって、あの場に封じられていたんだったな」
「・・・それがどうしたと言うのだ」
「あれはお前ではなく、
「・・・・・・お前はあくまでも、アポロンを信じると言うのか」
「信じるとも。アポロンからすれば、俺は数いる友の内の一人に過ぎないのかもしれないが・・・それでも俺は、友と重ねた時間と繋がりを疑いはしない」
「・・・・・・ふん、その瞳が、盲目で無いことを祈っておこう」
皮肉げに鼻を鳴らし、アベルはヘリオスから視線を逸らす。
異界の太陽神は、銀河の如き空間の果てを眺め、口を閉ざしてしまった。
身を翻す必要もなくなったかと判断し、ヘリオスも身体を前へと戻す。
しかし、数秒経って浮かんだ疑問に、流れるようにして言葉を漏らした。
「なあアベル、どうしてお前は、アルバフィカを選んだんだ? 俺やお前の世界の人間でもなければ、あの人間は接点も繋がりも存在しない、異界の死者のはずだろう」
「・・・それを聞いてどうする」
「どうもしない・・・いや、アフロディーテには伝えるか。あの少年にとって、何かしら意味のある戦いにはなっただろうしな」
「・・・・・・」
付け足すように「ただ疑問を口にしただけだ」と言い、ヘリオスは口を閉ざした。
答えたくなければそれでも良い。
そんな意図で投げかけられた問い掛けに、アベルは逡巡をし、やがて静かに言葉を綴る。
「・・・私には、可愛い妹がいる」
どこか遠くを見つめるような眼で、静かに言う。
「──名を、戦女神アテナ・・・妹と私は、神話の時代から心を通わせる仲にあった。・・・だが、私は地上と天界を支配しようとしたため、アポロンの怒りを買い、神々の手によって、歴史の闇へと屠られることになった」
「・・・・・・」
「酷く、長い時を経て、私は復活することに成功した。・・・手始めに地上を滅ぼそうとした私は、妹であるアテナを我が神殿へと導き、再び、同じ時を生きようと約束を交わしたのだ。・・・だが、アテナは私ではなく、地上の人間共を守る道を選び・・・私へ、ニケの杖を向けた」
ニケの杖──勝利の女神ニケの化身。
アテナに仕える、勝利をもたらすと言われる神の名だ。
「よもや、あのアテナが・・・と、私はこの世の全てを呪い、また嘆いた。・・・妹だけは私を裏切らないだろうと思っていた。妹だけは、私の気持を理解してくれると、そう、信じていたのだ・・・だが、私と妹の間に出来た亀裂が消えることはなく、私はアテナの聖闘士の一撃を受け、再び、滅びの淵へと落ちる事になった」
「・・・そんなことが」
大切な家族との戦い。
もしも、自らが可愛い妹達、エオスやセレネと戦うことになれば・・・とてもじゃないが、耐えられないだろう。
いいや、父上や母様であったとしても、とても正気ではいられないと断言できる。
ヘリオスはアベルの凄絶な話に己を重ね、苦く表情を歪めた。
「だから、なのだろうな・・・虚空に塵のように漂う最中、たまたま観測した異界の記録。"赤い絆"という、見えぬ絆を守り続けるあの人間の・・・アルバフィカの在り方に──私は焦がれ、憧れたのだ」
大切な妹との間に、消えぬ絆が在って欲しいと。
例え、袂を分かった後であったとしても・・・もう一度、妹と笑い合いたいのだと。
そんな想いが、師との絆を守る戦士を、自らの元へと呼ばせる理由になったのだと、異界神は語った。
「・・・だが、最早それは叶わぬ夢なのだろうよ。私と妹の間に生まれた亀裂は、修復が不可能なほどに拡がってしまった」
「アベル・・・」
「フッ・・・神々に追放され、アテナとも殺し合った・・・ヘリオス、お前が向う先の世界に、私の居場所は存在しないのだ・・・故に、」
──いっそのこと、ここで終わりにしてくれ。
と、アベルは力なく笑い、掠れた声で懇願した。
ヘリオスは。
「断る」
「・・・・・・何故だ」
「居場所が無いから死ぬしか無い・・・この大馬鹿者。神が、そんな理由で滅びようとするんじゃない」
振り向き、ヘリオスは暗く沈むアベルの瞳を射貫くようにして言った。
「確かに、お前のやったことを考えれば、天界には、お前の居場所は見つけられないのかもしれない・・・だが、
「・・・地上、だと?」
「そう、人間達の生きる地上なら、お前の居場所もあるんじゃないか? 慣れるまでは時間がかかるかもしれないが、人間達との暮らしは驚きに満ちあふれていて、存外楽しいぞ。それに、人の中で生きるお前を知れば、戦神アテナと歩み寄る未来が生まれるかもしれない」
「アテナと・・・」
「・・・『可能性は潰えたと諦めた瞬間に、大切なものはこの手を零れていってしまう』・・・これは、俺が打ち拉がれていたときに、人間に言われた言葉だが・・・なあアベル、きっとまだ、諦めるには早いと思うぞ」
励ますように微笑んで、小さな太陽神は言葉を紡ぐ。
「時間はかかるだろうし、簡単に解決できる問題ではないのかもしれない。だけど、俺達は不死の神で、何度でもやり直せるし、いつまでも粘ることが出来る存在でもある。お前が諦めない限り、希望は潰えない・・・だから、小さな可能性かもしれないが、縋り付いてみないか?」
「・・・お前は、この私に・・・神に、試練を与えるつもりか」
「試練・・・はっ、面白い表現だ・・・そう、これは俺がお前に課す試練だ。だが、数々の英雄英傑が、神々の下した試練を乗り越えてきたんだ・・・だったら、一級神であるお前に、超えられない道理はない。・・・まぁ、そうだな。駄目だったときは、俺の居る世界に来たらいい。そのときはこの世界にお前の居場所を用意しよう」
「・・・・・・お前が?」
「あぁ、今は僅かな神力しかないが、いずれ全ての力を取り戻す。隠居に近い身の上ではあるが、迷子の神一柱を招待する権能くらいは振るえるはずだ。だから、安心して挑戦してこいよ、太陽神アベル」
「・・・・・・」
答えは、直ぐには返ってこなかった。
常闇に染まる無限の世界を、月光の如き燐光を放つ、一騎の天馬が駆け抜けていく。
やがて。
感情の読み取れない瞳をしていた異界神は、どこか葛藤の滲んだ表情で囁いた。
「・・・アテナ・・・そなたを殺そうとした私でも・・・今一度、そなたと共に、笑い合える日々が訪れるのだろうか」
しばらくの間、虚空を仰ぎ見たアベルは、深く瞑目すると小さく首を振った。
「・・・いいや、そうか・・・
迷いを振り切ったような、確固たる決意の感じられる声で、きっぱりと言った。
「道は定まった・・・私は、大切な者の障害を振り払い、影ながら支えられる者となろう。・・・それが、今の私の願いだ」
「・・・そうか・・・うん、お前ならなれる、俺も全力で応援しよう。・・・──さて、そろそろ目的の地へと近づいてきたようだ」
ヘリオスが前方へと姿勢を直すと、目視できる位置に、淡く瞬く光──異界への、入り口があった。
アベルはその光を目に収めると、小さく口端を上げて、艶やかなペガサスの背に触れた。
「・・・
を・・・いや、友を傷つけた私を送り届けてくれた、その寛容な心に感謝する」
『クィン・・・グルル』
アネモスは低く、気遣うように嘶き、嬉しそうに翼をはためかせた。
「・・・ヘリオス、最後に一つ、お前に忠告しておくことがある」
「俺に、忠告・・・?」
首を傾げるヘリオスに、アベルは厳しい顔つきで言い放った。
「今のお前は──
「・・・・・・・・・は?」
「やはり・・・その様子だと、気づいてはいなかったようだ。恐らく、お前に施された封印がそうさせているのだろうよ。・・・お前の身体は神のそれだが、強度は、人間とそう変わらぬ状態だ」
「・・・・・・うそ、だろ・・・?」
「虚言を吐いても私の益になることは何もない。・・・留意せよ、お前は今、神と人の間に立つ不完全な存在だ」
「・・・・・・」
目眩にも似た感覚が、ヘリオスを襲った。
アベルの話が真実であるのなら・・・己は、随分と綱渡りな道を歩んできたことになる。
──いいや、落ち着け・・・こんな恐怖、アフロディーテ達は平然と飲み込んで生きているんだ。
神であるのなら、こんなことで取り乱してどうする。
背筋にひやりとした汗が伝ったが、ヘリオスは大きく深呼吸をして、己を制した。
「・・・・・・分かった。忠告、感謝する」
辛うじてそう返すと、ヘリオスは険しい表情で前を向いた。
光が、眼前まで迫る。
「じゃあな、アベル。達者でやれよ・・・あと、もしも機会があるのなら、お前はきちんとアルバフィカに謝るんだぞ」
「・・・あぁ、必ず。あの戦士にも、相当な迷惑をかけた。許されることはないだろうが、きちんと謝罪しよう」
頷き言うと、アベルは天馬から降り、虚空へと足を着けた。
どうやら、自らの力で歩ける程度には回復を遂げていたようだった。
アベルは己の世界へ続く扉へと歩み始めると、あと一歩という所で足を止め、ゆっくりと振り向いた。
「太陽神ヘリオス・・・此度は、世話になった。お前の慈悲と情けに感謝する・・・私は必ず誓いを果たし、試練を乗り越えてみせる」
意思の籠もった、力強い声で別れを告げる。
「健闘を祈る・・・また会おう、小さくも雄々しき天馬の御者よ。お前は確かに、太陽の名に相応しい神だった」
最後に一つ微笑んで、鮮烈な翠色の小宇宙で、世界を明るく照らし出し。
太陽神アベルは、己に課された、新たな戦いへと身を投じて行った。
あとがき。
太陽の島編が終りました。
正直こんなに時間がかかるとは思いませんでしたが、なんとか一段落つけられたなあとちょっと安心しています(なお原作には突入していない模様)
聖闘士星矢にはアベルと名のつく登場人物が二人(正確には一人と一柱)いますが、作者はアベルと聞くと聖書に出てくる方のアベルが思い当たったので、どうしてギリシャ神話の神様の名前にするんだろう?と不思議に思いながら深紅の少年伝説を視聴してました。(アベルという名前に他の意味があるのかも知れませんが)
感想やお気に入り登録、評価など、有難うございます。
とても参考になるのでありがたいです。
時間はかかりそうですが、ND星矢の再開を祈りつつ、続きを書いていきたいと思います。
夏に出版されると予告されていた究極版の星矢も楽しみですね。