波の音が、聞こえる。
「ぅ・・・ゲホッ・・・」
節々が重く、怠い。
身体が、悲鳴を上げている。
朦朧とする頭を揺らし、俺は、ゆっくりと瞼を開けた。
「────・・・?」
瞼を、開けたのだが。
視界に現れたのは、ただの、暗闇だった。
何故。
「・・・ま、さか」
次第に血の気の引いていく手を握りしめると、俺は、勢いよく上体を起こして空を仰いだ。
──
足下から、逃げ場を奪うようにして絶望が這い上がった。
「・・・俺はずっと、意識を失っていたのか・・・? っ・・・嘘だ、嘘だ!」
目の前の現実を否定するべく、辺りを見渡す。
しかし、判明するのは覆しようのない現実だけ。
昼は夜に。
荒々しい海流は、傍らに居たカノンを連れて、既に消えて失せていた。
「・・・・・・嘘だと、言ってくれよ」
魂が崩れていくような虚脱感とともに、身体の力が抜けていく。
──届かなかった。
俺の手は届かなかった。
届く寸前に、明確なカノンの意思で拒絶されたのだ。
俺を、海流から救い、生かすためにと。
「・・・馬鹿だ」
ぼろぼろと溢れ出る涙を、手の甲で拭うと、俺は闇に染まる海面に向って、叫んだ。
「・・・お前は馬鹿だ、大馬鹿野郎だ!! なにがっ・・・なにが『俺は十分、
小さな拳を岩場へと叩きつけて、嗚咽を漏らして泣き叫ぶ。
悔しい。
悔しい。
あの人間に、"報われた"などと言わせてしまった、己の無力さが、何よりも悔しかった。
「・・・こんな終わり、俺は、絶対に認めないぞ」
震える足を奮い立たせて、俺は立ち上がった。
過ぎ去った時は、戻せない。
俺は愚かで浅はかで、何度も、選択を誤ってきた。
だけど。
だとしても、こんなところで諦める気は更々ない。
何故ならば、
──カノンは、必ず、生きている。
人間は脆く、儚い存在だ。
だが、あの人間は、黄金聖闘士の中でも屈指の実力を誇るサガと、競い合うほどの逸材なのだ。
だとすれば、海底に引きずられた程度では傷を負うことはあっても、命に別状は・・・ないはずなんだ。
自らに言い聞かせるようにして気持の整理をつけると、俺は、新たに生まれた驚異──岩牢の奥から出現した、
「・・・カノンを連れ去った荒波は、あの
許容を超える現実に、苛立ちを込めて吐き捨てる。
冥界神ケールに、海皇ポセイドン・・・今までは片鱗も見せなかった神が、次から次へと。
間が悪いにも程があると毒づきたいが、全く以て忌々しいことに、今の俺一柱では、到底対処はできないのが現実だ。
ここは素直に・・・いいや、意地でも、教皇さんに協力して貰わなければなるまい。
細かい事情は知らないが、教皇さんは、地上の平和や聖戦の為にと、双子の片割れを秘し、間接的といえども、岩牢に投獄されるまで追い込んだ当事者でもあるのだ。
陰で生きてきたカノンを救うべく動くのは、当然の責務と言えるだろう。
「・・・待ってろよ、カノン」
決意を込めて呟くと、俺は拳を強く握りしめた。
気がつけば、言葉を交わし合う隣人となっていた、双子の片割れ。
双子座のカノン。
多大な努力は人知れず、不条理な運命に翻弄され、孤独に生き・・・そして、俺を何度も助けてくれた、優しい人の子。
俺は、お前の優しさに報いたい。
本当の意味で、お前に幸せになってほしいと切に願うんだ。
「足は、きちんと動くな・・・よし!」
自らを鼓舞するようにして、虚脱する身体に力を入れる。
そして、今直ぐにでも飛び込んでしまいたい衝動を抑え、惣闇の海面を一瞥すると、俺は踵を返して地面を強く蹴った。
さあ──教皇さんの元へ、急ぐぞ・・・!
──と、そのとき。
『クオォォォォォン!!』
月を背に。
鮮やかな弧を描いた一対の白翼が、一陣の風となり飛翔する。
風を司る盟友、天馬のアネモスだ。
「っ・・・アネモス! 良いところに来てく──うわあっ!?」
ざぁっ!! と、荒々しい突風となった天馬は、下降の勢いを上乗せして迫ると──あろうことか、俺を掻っ攫い、己が背へと乗せてしまった。
突然のことに訳も分からず、抗議の声を上げようと口を開くが、白翼は有無を言わさず上空へと急上昇。
俺はただ、振り落とされぬようにと、アネモスにしがみつく他なかった。
「あああ、アネモス!? どこに向う気なんだッ!? カノンが海に連れ去られてっ・・・俺は、今から教皇さんの元へ行かなければならないんだッ!!」
『ヒヒーンッ!!』
「っ──!?」
雄々しい嘶きと同時に、天馬の周囲を突風が舞った。
俺ごと包み込むように、幾重にも幾重にも合わさった空気の層は、やがて光の屈折率を変え、内部を透明化する不可視の防御壁を形成する。
物理的な防御と、視覚的な気配遮断を同時に為してみせる、滅多にお目にかかれない技だ。
繊細な小宇宙制御能力と、極度の集中力が必要なため、余程の事情がなければ扱うことはないはずなのだが・・・。
「アネモス、何があったんだ。教えてくれ、お前はどこに向っている・・・!?」
『・・・・・・』
鬼気迫る勢いで疾駆する友に問いかけるが、返答はなく、
「アネモ──ッ!?」
──答えは、別の形となって現れた。
突如として、月と、星明かりが支配する夜闇の世界に、
(──こんな足場もない空に、なぜ、影が・・・?)
一瞬の動揺と、薄く引き伸ばされたかのように、停滞する思考。
そして、
ドスンッッ!! と、目の前に、刹那の衝撃が発生した。
「ぁ・・・っぐ・・・」
「なっ──きょ、
影と、衝撃の正体は、空から降ってきた──否、落ちてきた人間だった。
どうして空から人間が、と、俺は振り向き、遠ざかっていく景色を確認した。
そこに在ったのは、夜闇に座する、物々しい渓谷の群れ。
天を穿つように屹立する
「確か、聖域の教皇が星見をする高台だったか・・・? まさか、足でも滑らし・・・ッ!?」
視線を人間へと戻した瞬間、俺は思わず目を瞠った。
呻き声を上げる人間の左胸──
致命傷だ。
黒の法衣を纏っていてもなお、その赤は余りにも鮮烈で、瞬く間にアネモスの純白の背を汚していく。
直ぐさま傷口を治療しなければ、この人間は──死ぬ。
「不味い、このままではっ・・・アネモス、教皇さんを治療する! 俺に小宇宙を分けてくれ!!」
『クォォォーン!!』
「感謝するッ!」
意識のない人間の傷口に手を押し当てると、俺は腹の底からあらん限りの力を込めて、咆吼した。
「──聖なる癒しのその御手よ、輝き燃える猛き炎よ、彼の者に、壮麗たる抱擁の力を──ッ!」
ドッッ!! と、白銀に輝く炎が、結界内に迸った。
鮮烈なる光は、冷たくなっていく人間の身体を包み込むと、やがて赤黒い傷口へと渦巻くように寄り添い、凝縮していった。
治癒の術──知の女神である母様から教わった、呪文の一つだ。
その効果は絶大で、致命傷であれど、傷跡を跡形なく抹消してみせる恐ろしい術なのだが──、
「ぅ・・・ゲホッ!! 小宇宙がっ・・・」
『クォーン・・・』
「ちくしょう、やっぱり足りないかッ!!」
血を吐きながら、俺は唸り声を上げた。
そう、術を成功させるためには、膨大の小宇宙を消費する必要があるのだ。
神であれば、そう問題のある量ではないのだが・・・今の俺達の小宇宙では、完全に教皇さんを救うには至らなかった。
「・・・・・・そ、の、声は・・・ヘリオスか・・・?」
生気の感じられぬ瞳が、俺の黄金の眼へと向けられた。
「っ目が覚めたのか!! そうだ、俺だ! ヘリオスだ!!」
「そう、か・・・ああ、最期の瞬間を、太陽神に看取られることになろうとはな・・・」
「っ──何を弱気な・・・! お前には、カノンを助けてもらわなくちゃいけないんだ! それに、俺はまだお前の恩に報いていない!! 死ぬなよ! 俺がなんとかしてみせる・・・だから、生きることを諦めるなッ!!」
「っ・・・カノン、だと? お前、いつの間にカノンと知り合って・・・」
「事情は後で話すし、後で聞く!! ・・・──アネモス!! 一旦地へと降りるぞ!!」
『ヒヒィィィーンッ!』
力強く啼くと、アネモスは
俺は直ぐさま、浅い呼吸を繰り返す人間を仰向けに寝かせると、再び小宇宙を燃やし、白銀に輝く手を傷口へと翳した。
「頼む、治れ、治ってくれ・・・!」
魂の力を絞り尽くすかのように念じ、術を維持し続けた。
だが、人間の命そのものである赤い液体は、いっこうに止まろうとしない。
小宇宙が、絶望的に足りていないのだ。
「足りないのなら、俺の命を燃やして補えば──!」
「・・・・・・太陽神、ヘリオス・・・」
「喋るな、今は生きることだけを考えるんだ!」
自分の力が儚いことを理由に、目の前の命から目を逸らしたくない。
もうこれ以上、取り零したくない、失いたくない。
後悔は、したくないんだ。
「ぅ──ゴホッ・・・ゲホッ・・・!」
「っ・・・ヘリオスよ、お前も十分ぼろぼろではないか。また血を吐いて・・・
「・・・・・・教皇さん」
「・・・なんだ?」
「俺は、『
口元から溢れ、地へと滴る
この聖域に生きる者達は、皆一様にそうなのだろうか。
自分が、一番傷だらけで、誰かに助けを求めるべき局面のはずだというのに。
カノンも、教皇さんも、俺を気遣って『もう良い』と口にする。
分かっている。
それが優しさから生まれる言葉だという事実は、嫌と言うほどに理解している。
──だけど、
「結構、悔しいんだよ、頼りにされないのって。・・・確かに俺は、頼りない神かもしれないが・・・だけど、それでも、死にそうなときぐらいは、目の前の俺をあてにしたって、罰は当たらないだろうよ」
「・・・だがこれ以上は、お前が・・・」
「・・・・・・」
教皇さんの言うとおり、このままでは、小宇宙も体力も尽き果てて、衰弱の一途を辿ることになる。
だが、ここで術を止め人間の死を見届けるなど、到底許容できない。
考えろ、考えるんだ。
きっとなにか、この窮地を脱する方法が──、
「っ・・・そうだ、いや、だが・・・」
「ヘリオス?」
「・・・・・・なあ、人間。今此処に、一つだけ──
「──な、に」
息を呑み、双眼を見開く人間を前に、俺は僅かに逡巡してから、ゆっくりと唇を動かした。
「俺は、『太陽神』であると同時に、『誓約の守護者』でもある。故に、力を失った今の状態であっても、浄化の小宇宙を操れるように──誓約の守護者としての、権能を振るうことが出来る」
徐々に力を失っていく教皇さんの眼を覗きながら、俺は言葉を放った。
「名を──
「・・・そ、れは・・・」
「分かっている。戦神アテナに仕える人間・・・それも、聖域の教皇に対してする提案ではないことは、十全に理解している。だから決して、強制はしない。それに、現状、この契約には致命的な問題があるんだ」
「問題とは・・・?」
「・・・これは、俺がアポロンに力を封じられている影響で生じた欠陥なんだがな。──現状、この契約は、俺が完全に力を取り戻すまでは、破棄することが出来ない状態にある。つまり、ここで契約をし、教皇さんが十分に快復したとしても・・・直ぐに元の人間に戻ることはできないという訳なんだ」
「・・・ふむ」
「さあ、選んでくれ。女神を奉ずる聖域の教皇よ。冥界へと旅立つか、俺の手を取り、生きて戦い続ける未来を進むか──二つに、一つだ」
「・・・・・・」
真剣な声音で告げると、俺は、右手を前へと突き出した。
片手は教皇さんの傷口へと翳した状態を続けているが、正直そろそろ体力も限界に近づいてきた。
残された時間は、あと僅かもない。
だが、少しでも、目の前の人間に、己の未来を考える時間を作って──、
「では、結ぼうか」
「・・・へ?」
血塗れの小さな右手を、氷のように冷たく、同時に陽だまりのように温かい人の手が、優しく握り返した。
躊躇いなく発せられた一言に困惑し、顔を上げると、教皇さんが唇を動かした。
「我が名は
「っ──」
瀕死の賢者は、青白く血の気の失せた顔で、穏やかな笑みを浮かべて言い切った。
どこまでも澄んだ紫の瞳が、きらきらと光を湛えて、俺を見つめている。
それが、教皇さん──
「・・・お前の覚悟、
歴史を紡ぐ人の子よ。
過去の想いを継ぎし戦士、教皇シオンよ。
深く瞑目すると、俺は両手でシオンの手を包み込み、
──高らかに、
「天を駆ける、闇夜の星々よ。混沌を束ねる、古の契約よ。太陽神ヘリオスの名の下に、我此処に汝らに誓う。
・・・
瞬間、光が生まれた。
凄烈なる陽光は、粒子となって舞い上がり、やがて一点に集うと、
「ッ──!」
彗星の如き軌跡を描きながら──シオンの心臓を貫いた。
閲覧並びに、お気に入り登録や評価、はちゃめちゃに温かい感想など、本当に有難うございます。
ランキング載っててびびりましたが、励みに頑張りたいと思います。
二つに分岐するルートのうち、どちらを選ぶかで大変時間を要しました。
今後ものんびり投稿になると思いますが、読んでいただけると嬉しいです。