──
ギョッと驚いて、尻餅をつく。
温かいお湯で濡らしたタオルが手を離れて、目の前で横たわる"神"の顔に覆い被さった。
「うぶっ・・・」
「っ──!!」
どうしよう、やってしまった。
故意ではないけれど、神様の顔に、濡れたタオルを投げてしまうなんて。
幼子──貴鬼は、全身の血の気がさっと下がるのを感じながら、悲鳴にも似た声を上げた。
「ごっ、ごめんなさ・・・じゃなくて、申し訳ございません!」
「・・・・・・?」
思い切り頭を下げて、貴鬼は謝罪した。
しかし、館の中に設けられた小部屋には、沈黙が満ちるばかり。
貴鬼はどくどくと心臓が脈打つのを感じながら、床を見つめ続ける。
「・・・すまない、寝起きで頭が回らず言葉がでてこなかった。まずは顔を上げてくれないか」
「ハ、ハイ」
予想よりも随分と穏やかな、それでいて掠れた声に困惑しつつも、貴鬼は視線をゆっくりあげた。
先程まで死んだように眠っていた神──太陽神ヘリオスは、目の下に痛々しい隈をべったりと刻ませながら、唇を動かした。
「ムウの弟子の・・・貴鬼、だったか。この濡れた布は、お前が?」
「っ・・・おいらが、やりました。ずっと魘されていて、ずっと泣いていたから、拭って差し上げたいと思ったんです・・・だけど、手が滑ってしまって・・・」
「そうか」
簡潔に呟くと、ヘリオスはのんびりと瞬きを二つ終えてから、貴鬼に手招きをした。
──どうしよう、怒らせてしまったのかもしれない。
貴鬼は、氷のように冷たくなる両手を握りしめながら、ヘリオスの傍らまで歩みを進めた。
緋色の前髪から覗く、金色の瞳が、貴鬼を見据える。
「お前は、優しい心をもっているんだな」
「・・・エッ?」
「名乗りが遅れた。既に聞いているだろうが、俺はヘリオス。看病してくれてありがとうな、貴鬼」
ヘリオスは、柔らかく微笑むと、両手で丁寧に布をたたんで、枕元にあった桶にかけた。
そして放心しつつあった貴鬼の頭に手を乗せて、ぽんぽんと労うように触れた。
「見たところ、アイオリアと同じくらいの歳か・・・・・・ああいや、もう十三年経ったから、あの子獅子は立派な成人なのか・・・」
「あの」
「ああ、そうだ。ここはムウの館で間違いないだろうか」
「そうです・・・あの、傷は痛みますか?」
「違和感はあるかな。だが動かなければ平気っぽいから、問題なしだ」
ヘリオスは快活に言って返す。
しかし、その表情はどこかぎこちなく、痛々しかった。
貴鬼は言葉に迷い、視線を彷徨わした。
「ど、どうした。もしかして体調でも悪いのか? それとも俺の寝相が悪くて迷惑でもかけてしまったのか・・・!?」
貴鬼が唇を噛みながら、自らの衣服を小さな拳で握りしめると、ヘリオスはおろおろと焦った反応を示す。
まるで、年の離れた
気絶をする直前も、英雄アイオロスの件で酷く取り乱していたらしいが・・・この神は、予想していたよりも遙かに、人間に近い感性をもってるようだった。
「・・・あの!」
貴鬼は、思い切って言ってみることにした。
「おいらは、もうこれ以上耐えられないって思ったら、涙が溢れるんです」
「? ・・・うん」
ヘリオスは不思議そうな顔をしながらも、先を促すように頷いた。
「だから、だから・・・神様でも、同じなんじゃないかって・・・ヘリオス様は、心が限界だから、泣いてしまわれたのかなって・・・」
「・・・・・・」
「もしもそうだったら、おいら、お力になりたいんです」
「・・・どうして、そう思うんだ?」
「・・・・・・」
ヘリオスの問いに、貴鬼は口を噤んだ。
何か、話すに話せぬ理由があるのかとヘリオスが思考した段階で、貴鬼が言葉を零した。
「今まで、一度も見たこともないようなお顔で・・・ムウ様が、涙をこぼしてたんです」
「あの、
ヘリオスが驚いた様子で聞き返すと、貴鬼はこくりと頷いた。
「今から一月ほど前、シオン様が牡羊座の聖衣のところに現れたとき・・・すぐに顔は背けてしまわれたけど、ムウ様が涙を零していて。でも、同時にとっても嬉しそうだったから、おいら、自分に当てはめて考えてみたんです。もしもムウ様が、もう二度と会う事のできないくらい、どこか遠くに行ってしまって、おいらが大きくなったときに、帰ってきたらって」
「・・・・・・」
「いつもはお叱りをうけてばかりだけど、おいらはムウ様のことが大好きだし、ムウ様がいなくなったら悲しくて、心にぽっかり穴が空いちゃうと思ったんです。・・・そう考えたら怖くて・・・だから、シオン様が帰ってきて、ムウ様の心の穴を埋めてくれた神様が涙を流していたから、おいらは、ヘリオス様が泣かなくてもいいように、お手伝いしたいと思ったんです」
「・・・・・・そういう事情、だったのか」
必死に語る貴鬼の言葉に、ヘリオスは目を伏せて呟いた。
──瞼の裏には、過ぎし日の情景が映り込んでいた。
きらきらと輝いた目でアイオロスの名を呼んでいた、幼き日の、牡羊座のムウ。
確か、アイオリアと同い年だから、あの頃のムウは七歳という年若いときに、己の恩師であるシオンを失ったことになる。
・・・父親も、母親も、聖闘士たちの家族の事情を、ヘリオスは知らない。
しかし、アフロディーテや他の聖闘士たちと共に過ごしていたから、踏み込んではいけない部分や、避けた方が良い話題はなんとなく察していた。
極めつけに、家族の話題を、自ら好んで口にする者は少なかった。
つまりはそういうことだ。
「・・・ムウにとってのシオンは、俺にとっての父上や母様のような存在なのかもしれないな」
ヘリオスは閉じた瞼を上げると、汗を浮かばせる貴鬼に向き直り、その眼をじっと見つめた。
貴鬼は物怖じしそうになりながらも、ヘリオスの黄金の瞳に視線を注ぎ続けた。
「・・・・・・へっ、やるな貴鬼。まさかこんなに小さな人の子に、心の内を当てられるとはなあ。・・・貴鬼の言うとおりだ。ハッキリ言って、かなり、落ち込んでいた」
「!」
突然のことだった。
ヘリオスの両眼から、熱い雫が頬を伝って落ちたのだ。
「──悪夢を見た。大切な者同士が命を奪い合っているのに、俺はそれを、止められない。そんな悪夢だった」
自らの無力さを嘆く、苦悩に満ちた声だった。
しかし、貴鬼が何かを言おうとする間もなく、ヘリオスは桶にかけられた布を掴むと、乱暴に顔を拭った。
そして、自らの両頬をバシンッ!! と勢いよく叩くと、「~──いってえ・・・!」と全身を震わせて、
「──だけど、もう大丈夫だ・・・!」
今度は曇りのない、晴れやかな笑顔を咲かせるのだった。
「ありがとうな、貴鬼」
「え、えっ? おいらは、何もしてません──」
「話。俺に、話をしてくれた。それと、力になるって言ってくれた」
「それだけで・・・?」
首を傾ける貴鬼の姿に、ヘリオスはまだ古くない過去の情景を思い出していた。
『──もしもこの先、君に戦力が必要になった時は、私も任務に支障がない範囲で手を貸そう』
それは、とある少年が修行の地へ出立する前に結んでくれた・・・もう二度と果たされることのない、約束の言葉だった。
「・・・ああ。誰かが力になるって言ってくれるだけで、心ってのは、十分過ぎるくらいに満たされるものなのさ。・・・それに、」
「それに?」
「貴鬼の話を聞いて、俺はもっとこの命を大切にしなくてはならないのだと、今一度、心が引きしまった」
ヘリオスは己の胸に手を翳し、強く握りしめた。
そこにあったのは、共に背負った命の重さだった。
シオンと、アイオロスの命──ヘリオスが死ねば、消えてしまう、儚くも尊い二つの命。
だけど、貴鬼の話を聞いて、また異次元で弟の名を口にした瞬間のアイオロスの姿を思い出して、ヘリオスは考えを改めた。
背負っていたのは、ヘリオスの恩人たる二人の命だけではなく、ムウや、アイオリア、その他にも、シオンとアイオロスを大切に想う、大勢の者の願いがあったのだということを。
「・・・良い重みを背負えたな」
地上に落ちて直ぐのころの己では、決して背負うことが出来ず押し潰されていたであろう、多くの因果。
けれども今は、そんな重さが足下のおぼつかない自分を支えてくれる・・・荒波を耐える、船の錨と同じ重みなのだと、ヘリオスは自信をもって言えるのだった。
「よし」
一言零し、立ち上がった。
「ヘリオスさま? 駄目ですよ、まだ寝てないと・・・衰弱がひどくて、丸三日も意識がなかったんですよ!」
「療養はきちんとする。無理はしないと誓う。だけど、その前に、話しとかなきゃならないことがある」
「話さないといけないこと?」
「ああ。貴鬼、皆を集めてくれないか。俺はそのあいだに、我が友・・・アネモスに、確認しなくてはならないことができた」
憂いの滲んだ声で言うと、ヘリオスは確かな足取りで、部屋の扉を潜っていった。
「驚いたぞ。まさかお前が、人の子と言葉を交わす術を得ていたなんて」
「・・・・・・」
「かつては言葉にせずとも、互いが何を考えているのか分かったんだけどな・・・神の権能が封じられれば、察することしかできなくなった」
「・・・・・・」
「なあ、アネモス」
館の外。
美しい月が空の頂点に上がり、星々が輝きを纏って、暗き夜空を照らし出す時間。
ヘリオスは、何も語らぬアネモスに、言った。
「──あの夢は、お前が俺に、見せたものなんだろう?」
返答はなかった。
隣り合わせで座る友は、瞼を閉じ、俯いたままだった。
「カノンのこと、シオン達は知っているのか」
アネモスは、首を横に振った。
「じゃあ皆に、あの夢の内容を話してもいいか」
「・・・クォーン」
「そうか」
今度は、肯定の言葉があった。
ヘリオスは安堵の息を漏らした。
──カノンの生存を知らしめる夢は、今より三年ほど前の出来事であるようだった。
酷い悪夢だった。
海皇ポセイドンやら、冥界神やら、気になる言葉は多かったが、何よりもヘリオスにとって衝撃だったのは、カノンが海皇ポセイドンの戦士となってしまったことだった。
咄嗟には、意味を理解することすらままならなかった。
しかし、カノンが自らの仇を討つために、サガの殺害を計画しているのだと知った瞬間、ヘリオスは最悪の事態が起きていることを察し、また絶望した。
「・・・色々と、聞きたいことはある」
「・・・・・・」
「だけど、まずはきちんと、お礼を言わないといけないよな。・・・ありがとうな、アネモス。俺がいない間、俺の代わりに、カノンのことを捜してくれて」
ヘリオスはアネモスに向き直ると、深く頭を下げた。
月光に照らされた緋色の長髪が、肩から滑り落ち、冷たい地面に触れる。
アネモスは、長らく閉じていた瞼を上げると、隣で頭を下げ続けるヘリオスの首元に、自らの頭を埋めた。
雄々しい天馬のたてがみが触れ、擽ったそうに身を捩らせると、ヘリオスは静かに告げた。
「カノンと言葉を交わしたときのように、俺と話すことは、できないんだろう」
ヘリオスは確信を込めていった。
案の定、アネモスからの反応ない。
「・・・ここから先は、ただの推測。俺の独り言だ」
ヘリオスは、眉間に薄い皺をつくりながら、言葉を紡ぐ。
「今、天界で、異変が起きている・・・──そして、お前は天界で起きている異変の正体を、知っている」
「──・・・」
「どれほどの規模かは分からない。だが十中八九アポロンは異変に関わっており・・・また俺も、その渦中にいるのだろう。しかし、アポロンは俺を巻き込みたくはないようだ。なにせ俺の神力だけではなく、
憂いと焦燥、重苦しい色を滲ませて、ヘリオスは低く言った。
「──っな・・・ヘリオス、それは一体、どういうことなのだ・・・!?」
「・・・良いタイミングで来たな、シオン。他の皆も揃っているようだ」
館の入り口に目を向けると、そこにはシオンとムウ、オルフェとユリティースの四人の人間が立っていた。
ムウが待機するよう命じたのだろうか、貴鬼の姿はそこにはなかった。
「貴鬼には、エスメラルダの看病を任せました」
視線を彷徨わせたヘリオスの思考を読み取ったのか、ムウが説明した。
話の内容次第では、席を外させた方が懸命だと判断したのだろう。
ヘリオスは小さく頷くと、一度大きく深呼吸をしてから、立ち上がった。
すると、そんなヘリオスの行動に、ムウが小さく目を瞠る。
「てっきり、どなたかの協力で館を出たのかと思いきや・・・驚きました。治療は施しましたが、人であれば未だ自由に動けぬほどの重傷だったはずです。それが、神の
「ああ。だけど、本当だったらもう完治してるくらいなんだよな。今は不死でもないし、治癒力も下がっているから、人より少し頑丈なぐらいだと思ってほしい」
苦笑すると、ヘリオスは先程のシオンの問い掛けに答えるため、口を開いた。
「シオン。サガが俺に放った
「うむ・・・確か、過去にはカノンの
シオンは考え込むように眉を顰めた。
「
「その通り。俺には、抗う術はなかった。・・・だが、
「・・・!」
一同は、またもや口にされた神の名に、鋭く息を呑み込んだ。
太陽界アポロン。
大神ゼウスの子であり、月女神アルテミスの双子の兄である、オリンポス十二神のうちの一柱を担う存在。
また、女神アテナの兄にも相当する、詩歌・医術・芸術を司る太陽の神。
ヘリオス曰く、かの神は神話の時代からのヘリオスの朋友であり・・・今は、ヘリオスの神力を封じる、得体の知れぬ存在でもあるのだが・・・。
「・・・そういうことか」
何やら事態を察したがシオンが、頬に汗を浮かべながら言うのだった。
「二つの魔拳。その共通点は、相手の精神、即ち──
「っ記憶を封じる、記憶が戻る・・・ま、待ってください。それでは今、ヘリオス様は、記憶喪失ということに・・・」
「・・・ヘリオス神が人間と言われていた頃、皆は口を揃えて記憶の混濁やら、記憶喪失やらと言っていたらしいが・・・ある意味、その言葉は正しかったことになるのだな」
困惑するユリティースに、オルフェが冷静に言葉を続けた。
一同は眉を顰めて、思考に没頭する。
そして、次第に、共通の疑問を持つこととなった。
──何故、太陽神アポロンは、同じ太陽神であるヘリオスの記憶を封じているのか、と。
「・・・俺には、
静寂を割くように、ヘリオスが言葉を放った。
「人間の書物によれば、その戦で、大神クロノス率いるティターンの神は、オリンポスの神々に敗退し、冥界の更に下方にある、
「・・・ヘリオス」
「今まではこの話を信じるつもりはなかった。・・・信じたくは、なかった。だが、今なら分かる。
ヘリオスは、夜空の頂点に瞬く月を仰ぐと、悟ったような表情で言った。
風が凪ぐ。
「・・・アネモス、貴方は、ヘリオス神の
ムウが、僅かに考えを巡らせてから、問うた。
どうやら、ヘリオスが気づくよりも早く、ムウはヘリオスとアネモスの会話を聞いていたようだった。
しかし、ヘリオスが訊ねたとき同様、返答はない。
天馬アネモスは沈黙を貫く・・・・・・──どこか、苦しそうな面持ちで。
表情に変化はないが、まるで質問に答えられぬ罪悪感に苛まれているように、普段は元気な両翼の先端は力なく垂れて、大地を向いていた。
「フッ・・・それほどまでに元気がないのは、十三年前のあのとき以来、初めてですね」
語気を緩め、和らいだ表情でムウは言った。
まるで、心を許した旧友に対する態度のようで、ヘリオスは思わず目を瞬かせた。
そして、ふって湧いた疑問を口にするのだった。
「ムウは、十三年前の時点で既に、アネモスに会っていたのか?」
その疑問に答えたのは、シオンだった。
「会っていたもなにも、川に叩きつけられ、下流へ押し流されていったアネモスを救ったのは、他ならずムウなのだぞ」
「・・・なんだって?」
ヘリオスは全身を硬直させた。
「・・・どういうことだ? ちびっ子黄金集団は、修行で聖域を離れていたはずだ。どうしてムウが、あのタイミングで聖域に・・・」
「我が師シオンの小宇宙が弾けるのを感じた私が、テレパシーを送ったのです。・・・丁度、貴方と師が、サガに一撃を入れた直後に、声は届きました」
「・・・私からは、童虎にもムウにも状況を伝えられなかったからな。ムウがテレパシーを繋いでくれたお陰で、冥界神ケールや、サガのもう一つの人格、聖域の現状を話すことができたのだ」
シオンが、付け加えるように話す。
ヘリオスが相づちを打ちながら聞いていると、今度はムウが、言葉を連ねた。
「師の声が途切れた瞬間、私はてっきり・・・いえ、話を聞いた後、私は聖域へテレポートをしていました。・・・空間を超えた先で、私が目にしたのは、瀕死のまま下流へと流されていく、一頭の天馬でした」
饒舌なムウにしては珍しく、なぜだか歯切れは悪かった。
「放っておけばサガに発見されると考えた私は、天馬を担ぎ、老師の元へ向いました。そして事件の詳細を説明し、直ぐさまアテナを探しに聖域へ戻ったのです」
「そう、だったのか。まさか、俺達が異次元を漂っている裏で、ムウがそんな苦労をしていたとは。何と礼を言うべきか・・・」
「お礼でしたら、私ではなく老師に。アネモスの傷を治癒したのは、老師なのですから」
「そうか、では後から、
「それは・・・我が身に余るお言葉です。お気持ちだけで十分ですよ、太陽神ヘリオス」
ムウは、薄らと微笑んだ。
ご感想やお気に入り登録、評価など、大変励まされております。
たぶん今話のヘリオスは車田泣きを成し遂げたと思います。
夏に再会するネクストディメイションが楽しみすぎて夜しか眠れません。