両手を胸の前に翳し、小宇宙を集めていく。
「──過ぎ去りし時を呼び戻し、今帰らん、正しき流れ、あるべき姿へ──ゲフゥッ!」
駄目か。
「──天空の戒め解き放たれし、凍れる黒き虚ろの流れよ──ゴハッッ!!」
駄目かあ。
「ううん・・・全く駄目だ。・・・しかもこの感覚、小宇宙がなくなったのではなく、まるで封じられているような・・・」
「・・・おい」
「・・・だけど、一体誰が? 父上やアポロンならともかく、俺のような力の持たない神の力を封じたって、何の得にも・・・」
「・・・おい」
「はぁ、仕方ない・・・地道に情報を集めていくしか──」
「──ヘリオスッ!!」
「うわっ、吃驚した。どうしたんだよアフロディーテ」
「どうしたもこうしたもあるか! 小屋中を君の血で染めるつもりか!」
「神の
「──こ、の・・・ッッ!!」
バキンッ!!
鉄拳制裁、正義の拳が神を襲う。
激痛に原型を留めているか怪しい頭部を抑え、俺は噛み付くようにして口を開いた。
「お、お前っ・・・! なにすんだよ! ゼウスみたいに頭が割れるかと思ったぞ!!俺の頭からアテナが生まれたらどうするんだ!!」
「生まれてたまるかッ!! ・・・イーコールだか何だか知らんが、汚した場所はきちんと拭いておくのだぞ。・・・全く、君がいると読書も真面にできん」
椅子に座り直したアフロディーテは、顰め面で本のページを捲っていく。
何の本を読んでいるのだろうか。
ものの数分で血痕を拭き取り終えた俺は、少年の背後に回り込んだ。
「『第五章 ヘルメス主義:宇宙と人間の調和』・・・なになに、
「血塗れの身体で私に近づくな・・・いや、それ以前に他人の読んでいる本を覗くのはよさないか」
「まぁまぁ、そう固いことを言うなよ。・・・秩序や調和、均衡を為すもの全てを『コスモス』と呼ぶ。したがってコスモスは宇宙といっても秩序をもった美しいシステムとしての宇宙を指し・・・なんか、お前向けの本だな、それ」
美しいとか綺麗だとか、アフロディーテが普段自分に言っていることじゃないか。
まさか自分の容姿を讃えるネタでも探しているのか、この少年は。
「・・・勘違いしているようだが、私は勉学のためにこの本を手に取ったのであって、今更自分の美貌を確かめる意図はだな・・・」
「いやまあそれは心底どうでもいいんだが・・・ふむ、"調和が取れているからこそ、美しい"、か・・・面白い考え方だ。まるで混沌と対を為す存在で在るかのような・・・しっかし、俺の引きこもっている間に、地上では面白いものが沢山できてたんだなあ」
得に気になった項目を思い浮かべ、口にする。
「人々の生み出した概念や哲学といったもの・・・赤薔薇の十字、グランドクロス、女神信仰を否定する宗教や数々の予言・・・興味深いものばかりだ」
「・・・女神アテナの膝元であるこの
「別に減るもんじゃないし、いいだろう。・・・それにな、割とお前の役に立つものだってあるんだぞ」
「・・・なに?」
懐疑的な視線を寄越すアフロディーテに向い、俺は満面の笑みで言葉を放つ。
「一種の裏技みたいなものなんだけどな。──『概念』、即ち、『ある事物の大まかな意味内容』といったものを抽出し、人や物に付与する技法があるんだ。長い時間を経て積み重なった、人間達の想いを利用し、純粋な力として扱うわけだな・・・名付けるなら『概念兵装』といったところか」
「概念を付与し、力として扱う・・・?」
「うーん、説明が難しいな」
そうだな、と壁に立てかけてある掃除用のブラシを手に持つ。
「例えばこのブラシが、聖槍──ロンギヌスの槍だとする」
「また唐突な・・・確か、神の御子の死を確かめるために、その聖なる玉体を貫き、以降、所有者には世界を制する力を与える・・・と語られている槍か」
「そう、死を確かめるために用いられた槍・・・のはずが、神の死に纏わったというだけで、『神殺しの槍』なんていう、ご大層かつ物騒な称号を与えられている槍だ」
「・・・それがどうしたと?」
「さっきの『概念兵装』の話を前提に考えてくれ。『神を殺すという概念を付与されたロンギヌスの槍』で、神を貫いたら、どうなると思う?」
ブラシの先端をアフロディーテに向けて、俺は問うた。
少年は、不機嫌そうな表情になりながらも、小さく答える。
「・・・不死の神を、滅ぼせる・・・か?」
「その通り・・・まぁ、あくまで仮定の話だが」
「荒唐無稽な理論だな・・・だったらなんだ? ギリシャの神々を否定する、異教徒達の象徴・・・例えば十字架をオリンポスの神にたたき込めば、その概念兵装とやらが発動するとでもいうのか」
「その十字架に概念の力を込める必要はあるが・・・そういうことになる。・・・まぁ、お
なんともまぁ、抽象的で、ふわっとした話に聞こえるかもしれない。
だが、けして侮れない力だと断言しよう。
案外、馬鹿にできないものなのだ・・・長い年月を掛けて積層した人間達の想いというものは。
「聖闘士は悪霊や怪物・・・神々とも戦うことがあるんだろう? 扱える技は一つでも多い方が良いと思ってな。覚えておいても損は無いはずだぞ」
「・・・まぁ、頭の隅辺りに置いておくとしよう」
「そうしておいてくれ・・・あっ、だけど間違えても父上達には使うなよ、神様との約束だ」
「はぁ・・・神と戦うためにと、勝手に話し出したのは君だろう・・・」
呆れた様子で肩を落としたアフロディーテは、手元の本へと意識を戻してしまった。
『今度こそ読書に集中するのだから、邪魔をしてくれるなよ』・・・そんなオーラを感じる。
「・・・む、そういえば今日の食料調達係は俺だったか」
小声で呟きながら、俺は布財布を持ち出して
空の光球は傾き、そろそろ月が姿を表す頃合いだ。
ふいに、月を司る、可愛い妹の顔が脳裏を過った。
「・・・・・・セレネ、元気かなあ」
ちょっぴり感傷的になって、涙腺が緩みかける。
しかし、兄としての威厳を保つため、歯を食い縛りながら俺は走り出した。
「・・・騒々しい奴だ」
窓越しに走り出した居候の背中を眺めながら、アフロディーテは言葉を漏らした。
「
不愉快そうに、少年は言い捨てた。