『・・・ウラノスは、己を鎌で傷つけた息子クロノスに、言った。
──お前は、父ウラノスから王位を奪ったが、それと同じように、お前自身もレイアから生まれる子によって、王位を追われる運命に決まっている。
──・・・俺は、そんな目に遭うものか。
父ウラノスと母ガイアからの予言を聞いたクロノスは、決断した。
子供が成長する前に、生まれる子を一人も残さず飲み込んでしまえ、と。
クロノスは、レイアが生んだ三人の女の子と、二人の男の子を飲み込んだ。
レイアは、末子だけはクロノスに飲まれてはなるものかと、ガイアに生まれたばかりの赤子を預け、石を産着に包み、「この子が、生まれた貴方の子です」と言い、渡した。
クロノスは、その石を何も疑うことなく末子だと思い、飲み込んでしまった。
クロノスの手を逃れた赤子、ゼウスはすくすくと育っていった。
やがてゼウスは、父に飲み込まれた兄弟達をクロノスに吐き出させる。
そして、クロノスを王とし、世界を支配していたティターン神族へと宣戦布告をした。
こうして始まったのが『
オリンポス山に布陣したゼウス達、と、オトリュス山に布陣したティターン達。
両陣営の戦いは苛烈を極め、世界を崩壊させるほどの規模であった。
しかし、不死の神々の戦いは互いに決め手を欠き、十年の間決着が着くことは無かった。
ここで現れたのが原初の神の一柱、大地の女神ガイアである。
ガイアから知恵を授かったゼウスは、冥府に閉じ込められた怪物達、ヘカトンケイルと、キュプノプスらを助け、味方にした。
キュプノプス達は助けてくれた礼に、ゼウスには万物を破壊し燃やし尽くす雷霆を、ポセイドンには大海と大陸を支配する三叉の鉾を、ハデスには姿を見えなくすることのできる隠れ帽を与えた。
心強い味方と、究極の武器を手にしたオリンポス勢は、優位に立った。
ティターンはオリンポス勢の想像を絶する猛攻に耐え切れず、遂に、十年も続いた神々の大戦に終止符が打たれた。
こうして、オリンポスの神々は華々しい勝利を飾った。
その後、不死身であったティターン族は冥府の深淵へと封印され、オリンポスの支配が始まった。』
「・・・・・・・・・・・・」
動けなかった。
心というものに形があるのなら、きっと、自らのそれには亀裂が生じて、壊れる一歩手前にあるのだろう。
そう表現できるまでに、打ち拉がれていた。
部屋の端に
閉めきった小屋の中は、一条の光も存在しない、暗闇に支配されていた。
あの日。
双子座の男に書物を渡されてから、数日が流れた。
受けとった本にはアフロディーテの言った戦の詳細が記されており、俺は、再び絶望の底に叩き落とされることとなった。
聖域にいる様々な人間にも聞いて回ったが、彼等はティターン神族が冥府へと封じられた話を、誇らしげに口にするだけ。
片端から書庫の本を読み、何度も天界に戻るべく小宇宙を練ったが、全てが無駄だった。
・・・人間達の書物に記された神話だ。
もしかしたら、誤った形で伝承されている可能性だって十分ある。
だけど、戦いが始まる以前の記述は、俺の知っている事実となんら変わりのないもので、
何が正しくて、何が、間違っているのか。
その答えを出せるほどの情報は、自らの内にあらず。
無力感に襲われた俺は、縋るようにして両腕で自らの膝を抱きしめた。
現実から逃げるようにして、遠い過去へと意識を沈めていく。
「・・・ゼウスが生まれ、育ち・・・女神レトとの間に双子が生まれて・・・」
今でも鮮明に思い出せる、あの瞬間。
「セレネに新しい太陽神と月女神が生まれたと聞かされた俺は、その尊顔を拝んでやろうとペガサスを走らせ──」
金の光を放つ赤子、温かい太陽の男神──アポロン。
銀の光を放つ赤子、清らかな月の女神──アルテミス。
──彼等に、出会った。
一目見た瞬間、俺は、その鮮烈なる神聖に驚愕をし、誉れ在る神の誕生を祝った。
「・・・あの時間は、偽物なんかじゃない」
囁くように呟き、拳を強く握りしめる。
神としての在り方を説きながら、最後は、自分らしく在りなさいと言ってくれた、優しい母様。
無邪気に駆け回る俺と妹達を、温かい光で照らし、見守ってくれた、偉大なる父上。
妹達と、ペガサスの馬車を引いて、空を駆けた日々。
そして、友の奏でる美しい竪琴の調べに、心を震わし、涙を流して────
──この瞬間が、永遠に続けばいいと願い笑った、幸福な日々。
遙か彼方、遠い遠い昔に在った、理想郷。
幾星霜と時が経ようとも、決して忘れることはないと断言できる、かけがえのない思い出。
──だから、俺は否定する。
「・・・俺は、人の子なんかじゃない・・・俺は、ヒュペリオンとテイアの子、太陽神の、ヘリオスなんだ・・・」
鮮明に蘇る記憶が、偽りで有るわけがない。
だから、アフロディーテの言う、自らが記憶の混濁した人の子だと言う可能性を、切り捨てる。
だって、有り得ないから。
思い出すだけで、魂に刻まれたかのように、涙が出そうになるくらいに、懐かしいと、心が叫ぶから。
「・・・だけど、」
奥歯を強く噛みしめて、声を絞り出す。
「なぜ俺は、地上にいる・・・なぜ、俺の力は封じられている・・・!」
天界にいたはずの俺が、地上にいる理由。
神々ノ戦いなどという、俺の知らない戦が人間達に伝わっているという現実。
なにもかもが荒唐無稽、なにもかもが滑稽で馬鹿馬鹿しくて・・・非道く、理不尽だ。
今すぐにでも。
俺は天界に戻り、そして、真実を確かめなければならない。
・・・しかし、その術が、方法が、思い浮かぶ限りでは殆どない。
何度試しても破ることの出来ない封印を解き、力を取り戻すか、もしくは、地上に降臨した神に助けを求めるか──。
「・・・・・・」
封印は解けない。
神がどこにいるのかも、分からない。
探したとて、知り合いでもない者が協力してくれるかどうか。
「・・・は、ははは・・・」
肩を震わせながらせせら笑い、俺は嗚咽を漏らして泣いた。
止めどなく溢れる熱い雫が、木の床を濡らしていく。
・・・まるで、悪夢だ。
いや、もしかしたら、この現実は全て夢なのかもしれない。
光の存在しない小さな部屋で、俺は、目が覚める瞬間を待ち、惨めに縮こまった。
・・・ざくり、ざくり。
「・・・?」
ふいに、土を強く踏みしめるような、誰かの気配が小屋の外に生じた。
耳を澄ませれば、金属の擦れ合うような音も響いてくる。
そして、
ベキィッッ!!! ──と。
唐突に、小屋の扉が開け放たれ──否、蹴破られ、暗闇を閉じ込めた小さな世界は、月と星の光によって照らされることとなった。
「っな、なな・・・!? 扉が、木っ端微塵に・・・」
「ヘリオス」
「っ・・・アフロディーテ?」
金色の光を放つ鎧を纏った、小屋の主である少年、アフロディーテが、そこに存在していた。
唖然とする俺を前に、少年は顰面で口を開いた。
「いつまで、そうしているつもりだ」
苛立ちを隠す素振りも見せず、その者は俺を睨み付ける。
「君がそうなったのは、
「・・・・・・」
「・・・いい加減、訳を話せ。・・・同居人が暗い空気を纏っていると、私の心まで凪いでしまう」
「っ・・・そんなもの──」
──話したところで、お前は信じてはくれないだろう。
と、そう言葉を発しようとして、止めた。
なんとなく、ここでアフロディーテに当たるような言葉を口にするのは、間違ったことであるような気がしたから。
言葉を飲み込んだ俺は、話題を変えることにした。
「・・・その鎧・・・確か、魚座の聖衣とかいうものだったか。なるほど、つまり・・・他の候補生に勝って、とうとう夢の聖闘士になれたってわけだ」
慈愛にも似た微笑みを浮かべて、褒め称える。
「おめでとう、アフロディーテ。・・・確か、黄金聖闘士になった者は、守るべき宮に住むことになるんだろう? ・・・良かったじゃないか、もうお前は、俺の世話を焼く必要はなくなり、平和の為に戦う日々を生きることとなる」
「・・・・・・」
「世話になったな、人間。お前は不敬で、平和を愛する癖に俺には優しくは無い者だったが・・お前のお陰で、俺は今日まで地上で生きることが出来た。知らないことを多く学べたし、興味深いものも沢山見させて貰った。・・・なかなか、悪くない時間だった」
気づけば、目の前まで歩みを進めていた少年へ、俺は言葉を紡ぎ続けた。
黄金の鎧は、月光りを反射して、眩い輝きを放っている。
夜の闇に浮かぶその姿は、まるで、空に瞬く星のようだった。
一頻り話し終え口を閉じると、アフロディーテが、静かに口を開いた。
「・・・相変わらず、君の発言は癇に障るな」
いつもの調子で、少年は毒を吐く。
「なぁ、ヘリオス。君はこの世の常識を全く知らぬうえに、その言動の九割は私の気分を逆撫でるという、素晴らしい才能を持っている。・・・まるで、自由気ままに我が道を歩む、端から見れば困った子供そのものだ」
「おい・・・褒めてないだろ、それ」
「・・・だが、傲岸不遜に振る舞っているように見えて、実際のところ、君は相当私に気を遣っているな?」
「・・・・・・気のせいだ」
「嫌だ嫌だと文句を口にしても、結局は私の鍛錬に付き合うし、慣れない家事も必死に覚えようと努力している。・・・数日前、書庫の近くで傷だらけの君に会ったと、双子座のサガから聞いた」
「・・・」
「傷の理由を、君は心配は不要だと流したらしいな? ・・・なぜ、私やアイオロスの名を上げなかったのだ。私が君の立場なら、迷わず下手人の名を出すぞ」
問い詰めるように、少年は捲し立てた。
瞼を閉じ、再び持ち上げて、躊躇するように口を噤む。
長い間黙り込んでから、俺は声を漏らした。
「・・・・・・言えるわけが、ないだろう。力を封じられていても、俺は太陽神なんだ。・・・不敬を極めた人の子だとしても、自らの夢を追う為に忙しい日々を生きる・・・命令だとしても、自らの世話を焼いてくれる者の名を、悪く言い広められるわけがない」
「・・・君が、私に気を遣うのも・・・誰にも助けを求めないのも、神であるからという理由で片付けるつもりか」
「そうだ・・・それ以外に、何があると言うんだ」
「・・・愚かな」
すぅ、と目を細めて、少年は小さく唇を動かした。
「例え、君が神であろうとも、唯の人であろうとも・・・青銅並みの実力を持つだけの、十にも満たない幼子ではないか。子供が、他人に気を遣うんじゃない」
「・・・お前だって、見たまんまの年齢は同じくらいだろう」
「それがどうしたというのだ。相手が子供ならば助けを求めてはいけないのか? 相手が人間であるのなら、神という者は要らぬ誇りを保たねばならないのか? ・・・違うだろう。・・・いいか、ヘリオス、この私が、特別に一つだけ助言してやる。──譲れぬ望みがあるのなら、小さな可能性にでも縋りつけ」
強い意志の籠もった瞳で、少年は俺に言う。
「君が何を抱え、懊悩しているのかは知らないがな・・・誰にも助けを求めようとしないくせに、諦めたかのような目をして自らの殻に閉じこもるのは、愚か者がすることだろう」
「・・・なんだと?」
「愚かでなくて、なんと評する。・・・真実なのか、妄想なのかは分からずとも・・・焦燥してしまうほどには、安否を確認したい者達がいるのだろう? ・・・だというのに、何故君は他人に助けを求めるという、小さなプライドさえもを捨て去ることができないのだ」
「っ・・・」
「可能性は潰えたと諦めた瞬間に、大切なものはこの手を零れていってしまう・・・故に、譲れぬものがあるのなら、自らの心に従い、守るのだ。・・・道を見失うな、自称太陽神ヘリオス」
「・・・・・・」
少年の言葉に、胸を締め付けるような感覚が、俺を襲った。
俺の、為すべきこと。
譲れないもののために、取らなければならない手段とは。
ふいに、数日前の双子座の男の声が、脳裏を過ぎる。
──助け、助けられ、繫がっていく。人間とはそういうものだ。
・・・俺は神で・・・俺は、人間ではないけれど。
それでも、神が、人のようにして、助けを請い求めることが、許されるというのなら。
「・・・・・・けて、くれ」
溜め込んだものを、吐き出すように、俺は、震える唇を動かした。
「・・・っ助けて、くれ・・・アフロディーテ。・・・どうか、力を貸して欲しい・・・俺は、俺は・・・真実を、知りたいんだ・・・!」
祈るように、縋りつくように、俺は救いを求めた。
絞り出された慟哭を、黄金の聖闘士は、ただ、静かに聞いていた。
やがて。
やがて。
しばらくの時が流れて。
魚座の黄金聖闘士となった少年は、小さな笑みを唇にのせて。
「──君に、良い話がある」
と、澄んだ声で、空気を揺らした。
──元来、宮を守護する黄金聖闘士にはな、宮の管理や任務の手伝いをさせる、いわゆる従者を持つ権利がある。
──しかし私の守護することとなる双魚宮には、少々、困った問題があってな。
──宮内には、侵入者の命を絶つ毒の薔薇──魔宮薔薇が、咲き乱れているのだ。・・・耐毒体質の持たぬ者や、小宇宙で毒を解毒できぬ者は、薔薇の香気に触れただけで、死に至る。
「・・・だから、薔薇の毒が全く効かない君に、宮の管理を頼みたい・・・・・・か」
噎せ返るほどの薔薇の香気に目をぐるぐると回しながら、俺はげっそりと呟いた。
目の前には、積み上がった紙の束が山の如く。
死んだ魚のような目で、書類を捌きながら、あの日の会話を思い出す。
『確か君は、女神アテナに謁見をしたいとか何とかと宣っていたな・・・いつ降臨為されるかは未だ分からぬが・・・少なくとも、ただの少年である君が、女神のお目にかかることはできないだろう』
驚愕の事実を口にした少年は、だが、と言葉を続けた。
『黄金聖闘士の従者・・・それも、十二宮で最も女神の居所に近い場所にある双魚宮にいれば、運良く拝謁が叶う・・・・・・かもしれない。どうだ、私は宮の管理者を得られて、君も、女神のお目通りが出来るかもしれない・・・お互いに益のある話だとは思わないか?』
なるほどたしかに、人の言うウィンウィンというやつだ。
そう思った俺はアフロディーテの提案を快諾し、小屋からこの双魚宮へとやって来たのだった。
・・・だが。
「・・・この、報告書の山・・・これが本当に、管理の仕事の内に入るものなのか・・・?」
・・・控えめに言っても、量がおかしい。
断じて一人で行う作業量ではない。
「あの悪魔・・・まさか、俺を騙したんじゃないだろうな・・・!」
「悪魔とは、よもや、私のことを言っているのではないだろうな、ヘリオスよ」
「げっ・・・あ、アフロディーテ」
ギギギ、と首を後ろに回すと、優雅に椅子に腰掛けて、紅茶を啜る邪神が降臨していた。
「・・・ふむ、何か、文句を言いたそうな顔をしているな? ・・・まぁ、それも仕方の無いことだ」
「・・・なに?」
「知っての通り、今、聖域には黄金聖闘士は魚座である私と、双子座、射手座、山羊座、蟹座の五人しか存在していない。故に、穴の開いた分の黄金に割り振られる仕事が、自然と流れてくることとなるのだ」
「は・・・? ・・・十二カ所で分けるべきものを、五カ所で・・・?」
「つまり、従者の仕事も単純に倍となり・・・更に、他の宮は複数人の従者がいるらしいが、君の場合は一人。故に、その書類の山は致し方のないものというわけだな。諦めて受け入れたまえ」
「・・・俺に諦めるなとかなんとか言ってた人間が・・・諦めろ、とはな・・・!」
血涙を流しながらペンを走らせる。
一歩前に進んだかと思えば、とんでもない泥沼の地獄がそこには待っていた。
そんな、悲しい心境である。
泣きながら仕事をするヘリオスの背を眺めながら、アフロディーテは満足そうに独り言を漏らした。
「本来ならば、私がやる仕事なのだがな・・・そのことには気づいてないらしい」
そもそも、従者とはあくまで黄金聖闘士のサポートをする存在。
しかも別に、宫に在住しなければならないという規律もなかったりする。
重要でない書類は持ち帰ることができる訳で、ヘリオスが一人で、書類と戦う必要はないのだが。
「まぁ、他の者を探すのも面倒だ」
全て、ヘリオスにやらせてしまおう。
そう結論を出して、アフロディーテは空になったカップに、紅茶を注いだのであった。
聖闘士星矢エピソードゼロとオリジンって単行本になりますかね・・・なるといいなあ。