潮風に紛れる、仄かな甘い香り。
馴染みの深い、花の幽香。
船上からでも感知できる毒の蔓延具合に、自然と表情が険しくなる。
「・・・毒薔薇の香気が風に乗って流れてきているのか・・・アフロディーテ、無事か?」
「無論だ。・・・だがこの島に住む者達は長くは持たん・・・速攻で片をつけねばなるまい」
「あぁ、いくら家に籠もっていても限度があるしな・・・」
常人であれば、触れるだけで昏倒してしまう毒の香り。
それが、既に島全体を包み込んでしまっている。
残された時間は、余り多くはなさそうだ。
港に到着し船から下りたアフロディーテは、紅く染まった遠くの空を睨めつけた。
「薔薇の花弁が舞い、空を染めるか・・・何とも分かりやすい道標だ、美しさの欠片も無い」
「あそこが教皇さんの言っていた"毒薔薇の園"ってことだな・・・よし、急ぐぞ人間!」
「・・・待て」
「ぐぇっ」
気合いと共に走り出そうとすると、唐突に襟元を掴まれ、呼吸が止まる。
なんで止めるんだよ。
涙目になりつつも抗議の視線を送ると、少年は紅い空を見据えながら、声を放つ。
「・・・どうやら、家内への避難が遅れた者達がいるようだ。君は、その者達の毒を浄化し、船で確認した避難所へ連れて行け」
「むっ・・・確かに、複数人の気配を感じるが・・・お前、一人であの茨の中に突っ込むつもりなのかよ」
「問題あるまい・・・それに、教皇様の命を忘れたとは言わせんぞ。君の担当は人命救助だったはずだ。要らぬ心配を抱くな、ヘリオス」
「・・・相変わらず刺々しい・・・分かった、人間達を避難させてからお前の後を追う。・・・無茶はするなよ、アフロディーテ」
「あぁ」
頷き、金色の鎧を纏った少年は、毒薔薇の園へと向かい駆けていった。
少し前まで聖闘士候補生だった少年が、今ではもうすっかり聖闘士達の先頭に立つ黄金の戦士となってしまった。
つい先日、十歳になったばかりだというのに・・・うん、人間の成長速度は恐ろしいな。
あのまま育てば、サガのような、立派な女神の聖闘士になるのだろう。
多少、性格の補正は必要かもしれないが。
「おっと・・・感慨にふけっている場合ではないな」
俺も、為すべき事をしなければ。
浄化の小宇宙を燃やし、身を包もうとする甘ったるい香りを吹き飛ばす。
巨蟹宮でやったような広範囲浄化術は身の負担が大きい。
幸い、毒の香気は人の命を奪うほどのものではない・・・少々時間はかかるが、地道に救助活動を行うことにしよう。
課題を設定し、俺は地に伏す者達を探して人里を走り回った。
──────
──余りにも、無機質だ。
初めに浮かんだ言葉が、それだった。
居住区の人間の避難を終えた俺は、毒薔薇の園へと足を踏み入れていた。
「・・・・・・」
意識を外へと傾けて、目を瞑る。
肌を撫でる微風に、無数に重なった葉擦れの音。
遠くから届く、小川のせせらぎ。
──何かが、足りていない。
緑の園、原初の森、神に近しい自然の集合体・・・ここは、本来ならば心地よさを覚える空間であったはずだ。
だからこんな・・・胸を刺すような虚しい感覚は、この場にはそぐわないし、在ってはならないものなんだ。
世界に蔓延る違和感を炙り出すために、更に感覚を鋭く研ぎ澄ませていく。
やがて、なんとも単純で残酷な答えへと辿り着く。
「・・・・・・あぁ、そうか・・・この森には、生がないのか」
言葉が、口から流れ出た。
虫達の羽音や、小動物らの鳴き声といった生き物の気配が、この森には無いんだ。
淡い緑の草むらも、天を穿つ巨木の群れも、毒に浸食され、朽ちる時を待っている。
──許せない、反射的にそう感じた。
この島が俺の管轄地であるから、というのもある。
だがそれ以上に、生を蝕み、殺すために毒の薔薇を使う何者かに、酷く腹が立った。
・・・きっと、他者を守るために毒薔薇を操る少年を知っているからこそ、余計に、その対極の存在に嫌悪を抱いているのだろう。
「・・・そうだ、アフロディーテはどこに居るんだ」
後を追うとは言ったものの、とくに集合場所などは決めてはいなかった。
余程不味い状況になった際は、避難所か船で合流することになるのだろうが、現状、少年がどういった状況なのか分からない。
簡単に周囲の気配を伺うが、毒薔薇の香気が邪魔をして、上手く探知ができない。
仕方なしと溜息をついて、俺は両手を目の前に翳した。
「──陽光よ、我が手に集いて道を示せ」
茜色の炎が灯り、周囲を照らす。
探知の術だ、これで行くべき方角が分かるだろう。
力のある神ならば、こんな詠唱など唱えずとも奇跡の力を操れるのだが・・・今の俺は三流にも劣る状態だ、使えるものは迷わず使わなければな。
炎の先端は俺の斜め左前を示した、導きに従うことにしよう。
ざくざくと地面を踏みしめて奥を目指す。
木漏れ日が辺りを照らす獣道を、淡々と真っ直ぐに突き進む。
そういえば、昔この島に訪れた際は、このように歩くことは無かったな。
ただペガサスに乗って島の生物を眺めて、自らの神域へと帰る。
何しに降臨したんだよって自分でも突っ込みたくなるほど、あの頃の俺は、この島の民にも自然にも、興味を持つことができなかった。
ゼウスに管轄地を与えられた証明として、義務的に足を運ぶだけの日々。
・・・うん、俺を崇め讃えてくれた民達には、悪いことをしたな。
「・・・ん? この匂いは・・・」
鼻腔をかすった違和感に、思考に沈んだ意識が急浮上する。
甘い薔薇の香気に隠れる、鉄の香り。
導かれるようにして香りを辿ると、開けた場所に出た。
「ここは・・・っ!! お、おい、しっかりしろ!」
地面から伸びる茨の蔓と、そこから群生する赤の薔薇。
そして──その中で俯せに倒れる、血だらけの人間。
すぐさま駆け寄り、浄化の小宇宙を燃やしながら、その者を仰向けにする。
──瞬間、呼吸が止まった。
身に纏うのは質素な貫頭衣。
だが、その衣ですら一つの美しさに変えてしまうほど、端麗な容姿をした・・・人間の、男。
一部の女神が嫉妬しかねない顔面だ、だが、問題はそこではない。
・・・余りにも似すぎているのだ、この青年は。
土に塗れる空色の長髪も、あの少年との共通点を埋めていく。
「っ・・・なんだ、この血は!? 薔薇の毒かと思えば、それ以上に濃い猛毒じゃないか!!」
二度目の衝撃に、思わず声を荒げてしまう。
人間の身体を流れる毒の血、それもアフロディーテが作り出す毒をも超える、猛毒。
「・・・後天的に授かったものなのか? だとすれば、人の世で生きるのは相当・・・」
唖然としつつも、男の傷口に手を当てて治療を続けていく。
対毒体質を備えて生まれる人間ならば、そう珍しい話でもない、歴史を紐解けば割かしといる。
・・・だが、
「・・・う、ぐ・・・」
「! 意識が戻ったか! その調子だ、心を強く保て、今すぐその傷を治してやるからな!」
「・・・? あの神の、瘴気が、消えていく・・・この小宇宙は・・・?」
「浄化の光だ・・・もう大丈夫だからな。何があったのかは知らないが、今は安心して──」
「──ッ!? わ、私に触れるなッ!!」
唐突に、その者は叫び、俺から離れるように後ずさった。
近づこうとするが、男は酷く焦燥した様子で、傷だらけの身体を必死に動かし更に後退していく。
「・・・・・・」
・・・ちょっと傷ついたが、恐らく状況が把握できずに混乱しているのだろう、多分。
俺は寛容で慈悲深い神だからな、助けようとした人の子が不敬な態度をとったとしても、全然気にはしないし辛くなんてない。
「っ!? その手についた血は私のものか!?」
「そうだが」
「!! ・・・私は、私はなんということを・・・守るべき人の子を毒の血で殺めてしまうなど・・・!」
「おい、勝手に殺すな」
「・・・ルゴニス先生、私は、貴方から受け取った誇りを汚してしまいました・・・一度死に絶えた身であれど、到底許されざる愚行です・・・!!」
「・・・おい、まだ死んでないだろ、もっと生に執着をもて、人間」
「何を言う! だいたい今の私、は・・・・・・待て、お前、何故平然と立っていられるんだ?」
「そりゃ・・・平然とする他ないから平然としてるんだよ、今は呆然に変わりそうだが」
「・・・・・・は?」
首を傾けて、男はじぃ、と俺を観察し始めた。
無言で視線を動かし、血に濡れた俺の手を見て、目をとめる。
やがて悩ましげな面持ちを浮かべて、その者は口を開いた。
「・・・本当に、その鮮血は私のものなのか・・・?」
「自分の小宇宙が宿ってるんだから識別できてるだろ、お前の血だよ」
「・・・・・・」
「・・・俺はこの島の異変の元凶を探し、解決するために来たんだ。人命救助をするようにも言われている、だから、その傷の治療をさせてくれ」
両手に小宇宙を灯し、男の傍らへと歩みを進める。
男は一瞬身体を強ばらせ、一歩下がろうとしたが、俺はすかさず距離を縮めて傷口へと手を伸ばした。
「っ・・・毒がまるで効いていない・・まさかお前は、私と同じく、耐毒体質を持って生まれた者なのか」
「いいや、浄化しているだけだ。小宇宙で毒を防ぐのとそう変わらないものだと思ってくれ」
「小宇宙・・・そうだ、お前は聖闘士なのか? 先から行っている治療も、ただの子供に扱える技術では無いはずだ」
「俺は聖闘士ではない、その連れだ・・・というかそういうお前は何者なんだ、小宇宙を扱える一般人は少ないと学んだぞ」
詰問、という程きつい言い方ではないが、険しい声で俺は問いかけた。
恐らく、この人間は、この島で起きている異変と関わりを持つものだ。
何かしらの情報を引き出さねばならない。
「・・・・・・そうだな」
空色の長髪を風に靡かせて、その者は自嘲的な笑みを浮かべる。
傷の痛みには目もくれず、それ以外の何かに葛藤するように、唇を噛む。
やがて、どこか苦しそうな空気を醸成しながら、男は僅かな逡巡の後に答えた。
「──私は、