運命なき浮世に候へば、日ノ本一の兵に   作:後藤陸将

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気づけばお気に入り七〇〇〇突破……皆さま、ありがとうございます。

本編のストックは現在一話だけなので、もう少し溜まってから投稿しようと思ってます。
具体的には、七月末ぐらいを予定しておりますが、FGOのイベントスケジュール次第では一月ほどずれ込むかもしれません。


閑話 家康の首を目前に、真田幸昌が死んだ

慶長二〇年(一六一五年) 五月七日(旧暦)未明 摂津の国 茶臼山

 

 

 

 真田幸昌は陣の中に設けられた寝床から上半身を起こし、空を眺めていた。星空はいつもと同じように瞬いており、僅かに棚引く雲が時折星を遮るだけだ。

 夜襲を警戒して最低限の歩哨が出歩いているが、陣の中は静かなものである。父曰く、朝日が昇れば戦国の世の行く末を決める大戦が待っているというのに、それを感じさせないほどに夜空は平穏な空気を醸し出しているように思えた。

 

 

 

 真田幸昌には、父の心が分からない。

 

 

 

 真田幸昌は真田左衛門佐幸村の嫡男である。生まれは紀伊国高野山麓の麓、紀ノ川にほど近い小さな村、九度山だ。

 高野山の表玄関にほど近いということもあり、時折高野山で修業をする僧やその関係者が立ち寄ることもあったが、基本的には九度山と外部との交流はほとんどない。大坂や京の都とは然程遠いわけではないのだが、それでもそれらの噂も九度山ではほとんど聞かない。

 それもそのはず。高野山とは日ノ本でも有数の霊場であり、言い換えれば限りなく浄土に近い場所である。出家して俗世とのかかわりを断ったものたちが修行に励む場所に、今更俗世から頻りに交流があるはずもない。

 時には伯父から父に向けた使いが訪れたり、この地域の領主からの使いがくることがあるが、その程度である。祖父が存命であったころには祖父の知人などがそれなりの頻度で訪ね、父や祖父に俗世の情報について色々と伝えていたようだが、まだ幼かった当時の幸昌は政治・社会情勢の話にあまり興味をもたなかった。

 四方を山に囲まれたこの小さな村は、まさに外界から閉ざされた陸の孤島。

 大坂に父親と入城するまではその陸の孤島での暮らしが幸昌少年の全てであった。

 その九度山での日々の暮らしも単調なものだった。

 東の空が白んで来ると父と共に田畑へ向かい汗を流す。時には父と山に入り、罠を張り鹿や猪等の獣を狩ったりその道中で山菜を採集することもあった。昼過ぎあたりからは父を相手に武芸の技を磨く。雨が降り外へ出られない日には父や傅役から学問を学んだ。

 当時の幸昌にしてみれば、今更このようなことを学んでなんの意味があるのか理解できなかった。この九度山の暮らしでは武芸の技など大した利用価値がなく、精々が狩猟の道具でしかない。学問もそうだ。祖父と親交のあった領主の好意で自分たちは年貢が免除されているし、少ないながらもその領主から援助すら受けているのだから年貢の計算すら行う必要がない。

 九度山の外の世界を知らず、父が一から築き上げた家や畑をいずれは嫡男として引き継ぐのだろうというぼんやりとした将来像しか描けなかった当時の幸昌からすれば無理からぬことだったのだろう。

 九度山を出て、大坂に来た今ならわかる。単調で変化のない、刺激もなくただ生きるための糧を得るだけの暮らしのなんと惨めなことか。武将として生きることの喜びを知った今の自分なら、もう二度と九度山の暮らしに耐えられないだろう。

 しかし、九度山の外を知ると同時に幸昌は父親のことが分からなくなった。

 父親もかつてはかの太閤殿下の馬廻としてこの大坂で働いていたと聞く。太閤殿下の死後、徳川に手痛い打撃を与えた結果として徳川家康の不興を買い、祖父は父諸共に九度山に配流された、これが幸昌の生まれる前の出来事である。その後、祖父は亡くなるまでの一〇年余りを、そして父は大坂に向かうまでの一五年余りを九度山で過ごした。

 祖父はこの地を脱出するために様々な策を練っていた。それに対して父がこの地を出るために前々から着々と準備をしていたような様子は見たことがない。

 父は、大坂や真田の郷での暮らしに未練はなかったのであろうか。

 祖父は、間違いなく九度山に配流される前の暮らしに未練があっただろう。しかし、同時に自身を九度山に配流した徳川家康に対する復讐心をも持ち合わせていた。

 幸昌の記憶の中にある祖父は、一族の故郷である信濃国にある真田の郷や、滅亡して久しい戦国の雄、武田家のことをよく話す老人であった。かの信玄公や沼田、上田の城のことを話す時の祖父の顔はとても生き生きとしており、川中島の合戦や上田城の合戦、三方ヶ原の合戦を語る時なぞ、孫をして恐れを抱かずにはいられない戦国武将の顔がそこにあった。

 祖父曰く、己を高野山に配流した家康の思惑としては祖父を高野山に入れて名実共に出家させたかったのだという。出家し、戦で死んだ多くの将兵の菩提を弔う道を――つまりは、戦の世から完全に離れる道を昌幸が選ぶことを、暗に示したということらしい。

 ところが、昌幸は結局死ぬまで出家することはなかった。今思うに、祖父は最期まで九度山での隠遁に慣れることができなかったのだろう。出家して高野山を臨終の地として過ごすことに納得できず、表裏比興の者と天下に謳われるほどの知略と武勇をもって守り切った真田の郷から追われることに耐えられなかった。

 祖父は最期まで望みを捨てていなかった。伯父を通じて幕府に対して帰郷を許すように働きかけると同時に、豊臣と徳川の大戦に備えて戦略を練る日々。復権を狙う祖父の瞳には常に気迫がみなぎっていた。初陣どころか、幼子だった自分に対しても常々徳川との戦をどうすすめるだの、どこに砦を築くだの、この囮に食いついたところを挟撃するだのという話をしていたほどだ。

 当時は何を言っているのかよく分からないことばかりであったが、実際に徳川との戦に臨んだ今ならばわかる。あれは武経七書に加えるに値する兵法の教えだった。惜しむらくは、幼く戦というものを知らなかったかつての己はその話の半分も理解していなかったことか。

 死の直前、床から起き上がれなくなっても祖父は諦めなかった。老いと病に蝕まれ寝たきりの身体になり、己の手で無念を晴らすことができなくなったと理解してもなお、その執念は薄れることはなかった。

 孫の幸昌が見るに、真田昌幸という人間は結局のところ最期まで故郷を守るために侵略者と戦い抜いた戦国大名だったのだろう。死の直前になり気力が衰えることがあっても、徳川に一矢報いたい、真田の郷に帰りたいという思いだけは衰えなかったことからもそのことがわかる。

 徳川への復讐と郷愁の念のどちらの方が大きかったのかは分からないが、どちらも祖父が祖父であるが故に捨てられなかった思いなのは違いないだろう。

 では、父は祖父に比べてどうだったか。

 郷愁の念や徳川への復讐を口にする祖父に対して、いつか豊臣と徳川の戦いが引き起こされる時までの辛抱であると父は返していた。これから何年待てば好機が来る、きっと豊臣と徳川にこれだけの戦力差がある、戦況はこのようなものになると具体的な想定をもとに、その時に備えるべしと父は祖父を励ます。

 実際に大坂に来た今だからこそ分かる。父がかつて祖父に対して語っていた想定と、目の前の現実がほぼ一致している。つまり、父はあの陸の孤島にあってなお正確にこれから起こる戦いのことを予測していたのだと。

 しかし、祖父の前以外で父が徳川への敵意や豊臣家への忠義、真田の郷への郷愁を口にするところを幸昌は見たことがなかった。祖父が亡くなった後は、まったく見たことがない。

 祖父の死後の父と言えば、竹を地中に埋めることで効率的な自然薯の栽培を始めたり、田のため池を拡張したり、湧き水を自宅前まで引っ張る上水道を整備したりと幸昌の想像する武士の暮らしとはかけ離れた方向へと精力的に動くばかりであった。時には周囲の寺院と交渉して自然薯と交換で様々な作物を手に入れるようになったこともあり、暮らしはよくなっていった実感はあったのだが。

 武士らしいことと言えば、武具の手入れと日々の稽古、読書ぐらいであっただろう。

 父に対して、問いかけたことがある。

「豊臣と徳川の大戦に向けて、準備をしなくてよろしいのですか」

 豊臣家からの使者が来る二年ほど前のことだっただろう。その時、父は幸昌に対してこう答えた。

「いつかは時が来る。それまでは待つのみよ」

 徳川に対して屈辱を晴らす機会があることを期待しているのでもなく、豊臣家への忠義に燃えるのでもない。それは、まるで農作物の収穫の時がいつになるのかを答えるかのように自然で熱のない言葉だった。

 父は、大坂や真田の郷を知りながらも、九度山の陸の孤島の暮らしに満足していたのだろうか。はたまた、一五年もの時の流れにより豊臣家への忠義も薄れ、徳川への執念も萎えてしまったのか。

 このころの父のことを説明するのであれば、惰性で武士としての鍛錬をしているだけの百姓というところか。

 そんな父が一変したのは、豊臣家から徳川への戦に加勢してほしいという使者が来てからだった。

 使者が要件を切り出す前に豊臣家に加勢することを宣言した父は領主の手配した見張りのものを速やかに排除し、いつのまにか旅支度を整えていた。母や自分に対してこれから大坂に入る理由を簡潔に説明した後に、闇夜に乗じて九度山を後にした。

 大坂についてからの父は、まさしく百戦錬磨の智勇兼備の将であった。

 血気に逸る牢人たちを時にその腕や威で黙らせて従え、気づけば心酔させていた。生まれも育ちもバラバラ、その志も一致しない配下の牢人たちは、やがては勇猛果敢な精鋭部隊へと昇華していた。

 守れば万の軍勢を砦一つで抑え込み、機と見ると砦を飛び出し攻勢を加える。徳川方の戦略を看破し、他の将たちに敵の戦略をそれとなく漏らすことで手柄を立てさせる等、周囲への配慮も怠らない。

 前右府(秀頼)様に対する忠義も厚く、徳川から来た使者は要件を聞くことなく捕縛し、城へと差し出した。

 大坂城に入城してからの父は、まさしく、天下の名将と言っても過言ではなかった。

 だからこそ、分からないのだ。

 そんな父が、何故一五年もあの九度山で籠り続けたのか。何故、九度山を出ることを考える素振りすら見せずに日々の暮らしの向上に努め続けたのか。その心に、何を抱いていたのか。

 

 

 

「眠れませんか、若」

「内記か」

 身体を起していることに気が付いたのだろう。内記が周囲のものを起こさない程度の小さな声で問いかけてきた。

 幸昌は内記を見る。そして、思った。

 内記は、父の傅役だ。自分よりもはるかに父のことを理解しているであろう。

「内記、聞きたいことがある」

「何なりと、聞いてくだされ」

 幸昌は問うた。

「父は、何を考えているだろうか」

「お父上の智謀は、お爺様ゆずりのものにございます。その才を継いでおられるであろう若に分からぬのであれば、槍働きしか取り柄のない某に分かるはずがありませぬよ」

 小さく首を横に振る幸昌。

「父上がどのようにしてこのような策を立てたのかではない。まぁ、それも分からぬことであるが。聞きたいのは、父上の心が奈辺にあるのか分からぬということだ」

「…………」

「儂は、九度山での父と、大坂城に入城してからの父しか知らぬ。だから、分からぬ。父上はあの九度山での暮らしに何を思っていたのか。そして、今何を考えておられるのか」

「九度山でのお父上と今のお父上が、まるで別人のように思えるということでしょうか?」

 幸昌は小さく頷いた。

「内記は父上の傅役であろう。幼いころより父上を見てきたお主であれば、その心中が分かるであろう」

「なるほど。若の疑問も尤もなことでしょう。……しかし、期待に応えられなくて申し訳ありませぬ」

 周囲が暗いためにはっきりとは見えないが、内記が困ったような笑みを浮かべていることは何となくわかった。

「正直なところ、某にもまるであのお方のことは分からないのです。あのお方は昔から何を考えておられるのかまるで分かりませぬ。真田の郷にいたころも、職人のところに通い詰めたと思ったら養蜂を始めておりましたし、ふらっと散歩に出かけたかと思えば身の丈を超える猪を担いで帰ってこられる」

「冬の寒い日に『海に行く』と書置きを残されたと思えば、雪の降る中を新鮮な魚を担いで帰ってこられることがありました」

「上田城で徳川の軍勢を蹴散らしたあの勇ましい姿。九度山に移られてからはそれを忘れてしまったかのようなご様子でしたが。某も、殿が燃え尽きてしまったのではないかと思いました。徳川に歯向かうことをあきらめたのではないかと。しかし、それはきっと違うのです」

 内記は夜空を見上げた。

「恥ずかしながら、某にもやはり殿の心が奈辺にあるのかは分かりませぬ。例えるのであれば、この星空の如きものでしょうか。星の瞬きや動き、月の満ち欠けは某にも見ることができますが、ただそれだけであり、何も分かりませぬ。雄大で、果てしない空や星々のことを誰が見通すことができましょうや」

「父上は空であり、星であり、月か」

 仰ぎ見る夜空は、あの九度山で見ていた空よりも何故か広く見えた。

「大きいな……父上は」

「若、いつかはたどり着かねばならない背中にございますぞ」

 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

 今の己にはたどり着けない境地に父はいるのだろう。ひょっとすると、父は祖父をも超えていたのか。

 幸昌は己の心が少しだけ晴れたかのように感じた。

 未熟な己では父の心が分からない。しかし、研鑽を積めばいつの日か、父の心が分かる日が来るかもしれない。

 今は、それでいいと思った。

 父を知り、何れはその真意を知る。そのために明日も勝ち、その上で生き残る。

 幸昌にとって、死ねない理由が一つ増えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真田幸昌は、天王寺の戦いにおいて父親に続き獅子奮迅の働きをする。

 しかし、幸昌は徳川家康の本陣を突破することは叶わず、乱戦の末に討ち取られた。

 記録によると、ほとんどの兵が徳川の本陣の厚さに阻まれ落伍し、幸村に最後まで付き従ったものは五名だけだったという。

 その五人の武者の一人が、この幸昌であった。




幸昌君はナレ死。
サブタイトルの元ネタはナレ死第一号です。
拙作では史実よりも華々しい死にざまを用意された人が多いですが、かといって誰もが勝永や重成のようなドラマティックな死にざまを晒せるわけではないのです。
みんながみんなそんな死に方してると流石に……ねぇ。
差別化した方が際立つというのもあるのですが。

また、この話は幸昌君の話というよりは九度山での幸村の話がメインなので。
拙作の幸村はYARIOの三瓶さんポジ狙い



なお、ストックも書いていますが大坂の陣の話ももう少し書きたいなぁというところが正直あります。
なので、本編を書きつつちょくちょくと閑話という形で本編ではさらりと死にざまを流した方々のエピソードを執筆する予定です。
どれから書いていくかはアンケートで決めていこうと思います。
アンケートで選ばれた人に関してはナレ死は炸裂しない予定。

今後、閑話として取り上げるエピソードについて、何れか一人の死にざまを選ぶがよい。…………このように大事なことを、本当にアンケートで決めてよいのか(ボソ)

  • 又兵衛の立往生
  • 帰ってきた全登
  • 長曽我部の野望
  • さらば右大臣秀頼
  • 嫌われ且元の一生

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