腕の怪我も治ったので、ボチボチ書き始めるか……と思ってたら、いつの間にか2020年が終わりそうだったので、急いで一話書き上げました。
本編じゃなくてごめんなさい。
遠坂家の書斎で、幸村は顔を引き攣らせていた。
幸村は後世での自分の評価や、教科書には載っていない細かな歴史の変化が気になり、璃正の手を借りて戦国関連の書籍を宅配便で遠坂邸に届けさせていた。勿論、代金は時臣持ちである。
タイガードラマの空前絶後の大ヒットもあってか近年では大坂の陣の研究もかなり進んでいるらしく、様々な研究者が大坂城や真田一族関連の本を出していた。中には自身の持論ありきで一次資料を参考としない歴史書擬きや妄想本も少なからずあったが、まぁいつの時代も内容の真贋はともかく、大衆受けする考え方や書き方が反映された面白い本が売れるのであろう。
幸村も、別にどこぞのとんでも本や、歴史小説、タイガードラマでの真田幸村という人物の扱いについてそこまで気に留めていない。歴史上の人物の扱いというものなぞ、そのようなものだとある意味で達観して苦笑する程度だった。型月での偉人たちの扱いに比べればなんということもない。
しかし、一冊の本を捲り始めた時、初めてその苦笑いが凍った。
手元には、『現代語訳:戦国軍記』と題された一冊の本が広げられていた。
慶長二〇年(一六一五年) 一〇月一一日(旧暦)未明 摂津の国 茨木城
「な、何故!?何故この儂がこのような目に!?」
茨木城の本丸の一角で、一人の男が坊主頭の大男に組み伏せられていた。
周囲には斬り殺された無数の兵の亡骸が転がっており、地面も壁も血に染まっている。まさに、死屍累々というべき状況の中、鎧すら着込んでいないその男は、恐怖で顔を震わせ、冷や汗で着物を湿らせていた。
男の名は、片桐且元。この茨木城の城主である。そして、かつて太閤秀吉にその手腕を買われて取り立てられ、さらにはその嫡子秀頼の傅役に抜擢され、太閤秀吉亡き後は豊臣家の家老まで任せられていた男である。
しかし、且元は家老という地位にありながらも徳川家と通じており、豊臣家が徳川家に屈するように手を回していた。そしていざ徳川と豊臣の決戦が秒読みと見るや、身勝手にも豊臣家を見放して大坂城から逃げ出した。さらには、豊臣家に裏切りが露見したことで命を狙われていると主張し、誼を通じていた徳川家康に救援を乞うという恥知らずな行いをしている。
大坂城から逃げ出した且元はその後茨木城に立て籠もり、徳川家の軍勢が駆けつけることを信じて城内で震える日々を送っていた。しかし、草木も眠る丑三つ時、寝所で横になっていた且元は、突如敵襲の知らせを受けたかと思えば、鎧を身に着ける暇もなく本丸に侵入していた敵兵にその身を拘束され、今に至る。
且元の前に、赤備えの甲冑に身を包んだ男が歩み寄る。且元を押さえつける男が、近づいてきた男に対して腰を曲げて頭を下げたため、図らずも且元はさらに強く大地に押さえつけられる。
思わず退こうとするものの、且元は自身の身体を大地に縫い付ける剛力の前に、羽根をもがれた蝶のように惨めに身をよじることしかできない。
「
自身にかけられたその声に聞き覚えがあった。かつての主君、太閤秀吉がまだ存命だったころに、大坂城で何度も聞いた声だ。
首だけをどうにか動かして、その声の主を且元は仰ぎ見た。
「ま、まさか左衛門佐か!?」
「今は、真田左衛門佐幸村と名を変えております。お久しぶりですな、このような形で会うとは思ってはおりませんでしたが」
真田左衛門佐が数日前に大坂城に入城したことは、且元の耳にも入っていた。
且元が幸村と大坂で頻繁に顔を合わせていたのは、もう二〇年は前の話。関ケ原の合戦以後の幸村は父親と共に九度山に押し込められていたこともあり、一度も顔を合わせていない。しかし、久しぶりにみる幸村の顔は、既に齢五〇近いはずであるのに、大坂城に詰めていたころと何ら変わっていない。
九度山で生まれた幸村の子だと言われた方がまだ納得できたかもしれないほどに、幸村の顔は老いを感じさせなかった。
さらに、且元の上に新しい影がさす。
「左衛門佐、初戦に勝利できたのはいいが、流石に手ごたえがなさすぎるぞ」
「又兵衛殿、戦は最初に勝つことこそが肝要。最初から勝てるか分からぬ博打を打つわけにもいきますまい。まずは確実に勝てる戦を選ばねば」
「しかし、一〇〇の手勢で城を落とすから、ついてきてくれないかと言われたのだぞ、我らは。激しい戦いになると考えるのが当たり前であろうが」
且元は聞こえてきた会話に驚きの声をあげた。
「又兵衛?……
「儂と、左衛門佐、そして
鎧を返り血で染めた豪傑、後藤又兵衛がつまらなそうに吐き捨てる。
その様子を見た且元は信じられないとばかりに頭を振った。
「ばかな、この茨木城は二重の堀に囲まれておるのだぞ。二〇〇〇の兵が守りを固めたこの城をどうやって……」
「真田の忍が堀を泳いで先行し、見張りを皆殺しにした。そして、門を内側から開けて我らを迎え入れたのだ。後は簡単だったぞ。まともな抵抗はほとんどなかった」
「大坂城の軍勢がここを攻めるはずがないと高を括っていましたな、
自身の城と配下の兵が全く張り合いのない相手だったと淡々と語る幸村の姿を見た且元の口元が恐怖で引き攣る。
且元とて、豊臣家がこの城に対して討伐の軍を送ってくる可能性を考えていなかったわけではない。大坂城を抜け出した時点で、裏切り者の首を獲るというお題目を掲げて血の気の多い秀頼の側近たちが動くことも予想していた。
しかし、この城を攻めるのであれば最低でもこちらの軍勢の二倍の四〇〇〇は集めてくるだろうという先入観が且元にはあった。その規模の軍勢が動けば且元は確実にそれを察知して事前に城内に厳戒態勢を取らせていただろう。
僅か一〇〇の軍勢が、二〇〇〇の兵が籠る城を夜襲で落とそうとするなどというのは、想定外であった。
そして、恐怖に慄く且元の前で幸村が腰を落とした。
「
「わ、儂は豊臣家のためを思えばこそ、
「ご自身が言い出された三か条を棚に上げてよくもそのようなことが言えますな!!」
幸村の剣幕に、且元は息を呑む。
「『右大臣秀頼公の江戸への参勤』、『御母堂の淀の方の
「しかし、と、豊臣家にはもはや徳川家と干戈を交えるほどの力はない!!私はただ、秀頼公の御身を案じて、お命だけはお守りしなければならないと思っただけなのだ」
「命を守るだけか」
幸村の眼差しが一層鋭利なものへと変わる。
「太閤殿下が
「左衛門佐、お主にもわかるであろう。仕方ないのだ。太閤殿下亡き後の豊臣家では徳川家の力がなければ天下の政を執ることはできぬ」
「豊臣から力が失われたのは、家老であった
この時、且元の喉元まで、幸村を罵倒する声がこみあげていた。
幸村の父親真田安房守昌幸は、生前に太閤秀吉が表裏比興の者とまで評したほどの謀将だ。上杉、北条、徳川という三つの大名家を裏切った前科のある父親を持つ幸村に、今更忠義などというものを語られることが、腹立たしかった。自分の父親の所業を顧みろと言い返してやりたかった。
しかし、且元はその言葉を飲み込んだ。今の自分は生殺与奪の権利を握られている状態だ。
豊臣家の滅亡に巻き込まれて片桐の家を潰すわけにはいかないと考えて戦が始まる前に逃げ出したというのに、この場で死ぬわけにはいかない。左衛門佐はかつての同僚であり、親交も少なからずあった。
上手く言い逃れをすれば命だけは助かるかもしれないという打算が且元にはある。
「左衛門佐、悪いのは大野
且元は額を地面に着け、幸村に懇願する。
「大御所様に下り、秀頼公の助命をお願いすること。それこそが秀頼公のお命をお守りする唯一の方法。大御所に領地をもらっている
その様子を見た幸村は深く息を吐いた。そして、しばしの沈黙の後に口を開いた。
「この城と城内の物資を全て明け渡すのであれば、命までは取りませぬ」
「よいのか、左衛門佐。
「かつては賤ケ岳の七本槍と称えられたほどの将が、このような無様な負け戦の果てに命乞いをして討ち取られる。それは憐れよ」
「むしろ、本人が望まずとも見苦しいさまを晒さぬように介錯してやるのが武士の情けというものではないかと思うがな……」
それ以上続けることなく又兵衛は口を噤んだ。
そして、翌日の朝には着の身着のままで片桐且元は解放される。
この五人の将と一〇〇の手勢で城一つを鮮やかに陥落させた偉業は、「五人衆の城落とし」と謳われ大坂の街の語り草となった。大坂城の中で牢人たちの力を疎んじていた譜代の家臣たちも、この大戦果を軽んじることはできず、大坂城内でこの五人の発言力は大きく高まったという。
一方、全てを失った且元は、這う這うの体で徳川家の直轄の高槻城へと逃げ込み、保護を求めた。その後且元は徳川家に正式に仕えることとなり、大坂城を巡る戦いでは大坂城内部の情報を惜しみなく提供し、幕府軍の砲撃部隊に大いに貢献したという。
幸村は、そっと『現代語訳:戦国軍記』の表紙を閉じた。
そして、目を瞑り天井を仰いだ。
確かに、大坂の冬の陣で、大坂城に入城したばかりの幸村が俗に大坂五人衆と謳われた同僚たちと共に、片桐且元の居城である茨木城を襲撃し、武器弾薬を接収したのは事実である。
夜襲だったということも事実だし、片桐且元を捕縛した後に解放したということも事実である。城に籠る軍勢よりも少数の兵を率いてこれを成功させたことも、間違いではない。
この事実だけを整理すれば、確かにこの戦国軍記とやらにあるような描写にたどり着くのも、まぁ分からないことではない。とんでも妄想垂れ流しの陰謀論者が作家気取りで書いた作品のような酷いものと違い、一応はそれなりの情報を下地に執筆されたものなのだろう。
片桐且元を醜い裏切り者として描いている点は、まぁ上記の事実を鑑みれば多少筆者のバイアスがかかったとしても仕方のないところである。
実際のところ、片桐且元という男はこの本で描かれているような恥ずべき裏切り者という人物ではない。温和で大人しい中間管理職のような下からは慕われるようなおじさんというのが幸村の片桐且元に対する印象だ。反面、上司や取引先には強く出られずに苦労を抱え込むようなところもあったが。
この茨木城襲撃についても、この本で描かれているような鮮やかな夜襲ではなくただの八百長だ。
対徳川強硬派に命を狙われて大坂城を脱出した且元は、もはや豊臣家に対して大っぴらに協力はできないとはいえ、豊臣家に対する忠義は全く揺らいではいなかった。むしろ、大坂城を脱出した後に負い目を感じ、何とか徳川に目を付けられることなく豊臣家に対して奉公できないかと考えていた。
幸村は関ケ原の戦いの後にも大坂に潜伏させ続けていた子飼いの忍びを通じて大坂城を脱出した直後の且元と接触し、且元を説得した。且元が戦支度と称して集めた軍需物資を、そっくりそのまま豊臣家に流すことが、今且元にできる豊臣家に対する最大の援助であると。
そして、現在の大坂城内で大きな顔をしている譜代の戦知らずどもが戦の主導権を握れば、最悪大坂城すら落城しかねない。それを防ぐには、大坂城に集まった牢人が発言力を強める必要があった。
牢人集が僅かな手勢をもって城一つ落としたとなれば、その発言力は決して軽視されることはない。牢人衆を最大限生かし、徳川に対する勝機をつかむには、且元との八百長が最善の策であると幸村は論じたのである。
且元が自身の無力さに打ちひしがれていたことを知っていた幸村は、その心の隙を巧みについたのだ。
その結果として、且元が稀代の裏切り者となった。八百長について後悔こそしていないが、豊臣家の行く末を案じ続けていた老人に対して悪いことをしてしまったとは思っている。
しかし、且元への申し訳なさだけなら、幸村の顔も引き攣ることはなかった。幸村の顔が引き攣った原因は、この本の著者にあった。
――甫庵先生。あんた一体どうしたんですか。
一応これ、前後編予定です。
後編は来年早々にでもできたらなぁって思っています。