久しぶりの更新ですが、閑話ですみません。
なお、次話の更新は二週間後を予定しています。
真田家の嫡男である真田信幸はその夜、武田家第二〇代当主である勝頼からの呼び出しを受けて新府城本丸御殿に足を運んでいた。
城内は深夜にもかかわらず、合戦を控えているかのような慌ただしさだった。
そんな喧騒の中を、信幸は強張った表情を浮かべながら進む。
呼び出しを受けて勝頼の前に参じたことは、信幸とて初めてではない。しかし、それは常に父である昌幸に付き添ってのものだった。
信幸は勝頼の嫡子信勝の側近候補として目をかけられており、同時に父昌幸からも次期真田家当主としての経験を積むために昌幸に付き添って行動する機会や、名代として働く機会を多く与えられていた。
本来ならいくら元服を済ませた嫡男であるとはいえ、当代の真田家当主である父昌幸を差し置いて彼だけが呼ばれる理由などない。しかし、今だけは事情が異なることを信幸も理解していた。
「
一言断ってから部屋に入った信幸を出迎えたのは、床の間を背にした上座に座る勝頼だった。
「すまぬな、出立の用意で忙しかろう」
「いえ、元々然程の物も持ちこんでおりませぬゆえ、支度などすぐに済みまする」
「ふ……そもそも、この城に三月も住んでおらぬからな。物が増える暇もなかったか」
そう口にした勝頼は、苦笑を浮かべる。
元々、新府城は織田・徳川連合軍からの侵攻に備えて本拠地である甲斐に強固な防衛体制を構築する必要性を感じていた勝頼が、躑躅ヶ崎館と要害山城に代わる新たな本拠地兼防衛拠点とすべく韮崎の地に築城した城だった。
武田を包囲する勢力の中で最も強大な敵である織田との戦いを想定し、織田と対峙する諏訪、高遠方面との連絡の強化だけではなく、西を流れる釜無川を天然の堀とし、かつ川を使った交通により駿河方面との連携の強化を図った。
また、南は駿河まで通じる釜無川と諏訪や佐久に通じる主要街道が交わる韮崎に武田の本拠地を移すことができれば、商業の活性化による収益の増加も期待できた。
しかし、祖父信虎が築き、父信玄がその全盛期を作り上げた躑躅ヶ崎館と
加えて、長篠の戦い以後の軍の再建、長期にわたる三方面での戦線の維持には莫大な費用がかかっており、武田家の財政は逼迫していた。そこに圧し掛かった本拠地移転の負担は大きく、普請に係る木材や石材の調達も滞った。
それでもどうにか築城を強行するために、増税と賦役を領民に重課したが、それは家臣や領民の勝頼に対する反発を強めるだけだった。
しかも、勝頼がこれほど苦心して築城を行ってきたにもかかわらず、未だに新府城は未完成。本丸こそ最低限の御殿、勝頼の居住用・執務用の建物が完成していたが、二の丸、三の丸は削平が終わった程度で建物は手つかずであり、櫓どころか、塀、兵舎、門すら建てられていなかった。
追手門こそ土塁や丸馬出、三日月堀が作られていたものの、堀は浅く、城の全体として切岸も甘めであり、防御機能という面ではあまりにもお粗末な状態だった。
最低限の居住機能が整い、勝頼が
「
勝頼の言葉に、信幸は黙って頷いた。
かつては甲斐、信濃、駿河、遠江、越後、上野にまで領地を広げ、日ノ本最強と恐れられた武田家も、もはや見る影もないほどに衰退している。
長篠の合戦で信玄以来の優秀な古参の家臣を失っただけでなく、度重なる天災や飢饉、軍備増強に伴う増税と労役の強化によって家臣や領民の心は武田から離れつつあった。また、残った有力な家臣や国衆も次々と織田や徳川に下った。
決定的であったのは、一門衆筆頭で駿河を北条と徳川から守り抜いてきた穴山梅雪の裏切りと、勝頼の義理の弟であり、甲斐の西の守りの要であった木曽義昌の寝返りだった。
甲斐の南と西が丸裸となり、織田・徳川連合軍はこの機を逃すことなく攻勢を仕掛けてきた。
既に新府を守る最後の要害であった高遠城も落ち、駿河からは梅雪の先導を受けた徳川勢が甲斐に迫っている。
ここに及び、防御施設のほとんどが未完成の新府に籠ったところで、織田・徳川連合軍には到底抵抗しえないと判断した勝頼は、敵勢に再利用されることのないよう新府の城に火を放ち、一時撤退することを決めたのだった。
そして、勝頼は先日の軍議の場で、信幸の父、真田安房守昌幸の進言を受け、新府城を焼いた後に上野にある堅城、岩櫃城に撤退することを決定したのである。岩櫃は武田の同盟相手である上杉領に隣接しており、そこで織田の攻勢に耐え忍び、上杉の援軍をもって武田の勢力挽回を図る。それが昌幸が勝頼に進言した策だった。
軍議が終わるや否や昌幸は勝頼を迎え入れる準備をするために新府を発っており、勝頼は人質としていた真田一族を伴って日の出と共に岩櫃城に向かう手筈となっていた。
「すまぬが、儂は岩櫃にはいけぬ。明朝、
突然の勝頼の発言に、信幸は思わず目を見張る。だが、すぐに信幸はある可能性に気付いた。
「父が、御屋形様を裏切ったと?」
信幸の口調は鋭いものへと変わっていた。しかし、対する勝頼は静かに首を横に振った。
「いや、儂は
その言葉に、信幸は少し照れたように視線を逸らす。そんな信幸の初々しい反応を見て、勝頼は小さく笑った。
「岩櫃も岩殿も、どちらも織田の攻勢に耐えうる堅城であろう。だが、岩櫃までの道のりは軽く見て
勝頼の言葉は理に適っていた。女子供は足腰も弱く、体力も少ない。確かに道程を考えれば彼女らを連れて山道を越えるのは難しいだろう。
「加えて、岩櫃は浅間山にほど近い。またいつ噴火が起きるやも分からぬし、地崩れも起きているやもしれぬ。未だ領内は噴火の影響で安定しておらぬだろう」
信幸は再び黙って頷く。昌幸には領国に残していた矢沢頼綱から浅間山の噴火に伴う被害報告の第一報が届いており、いくつかの道や村で被害が発生している旨が記されていた信幸も聞かされている。
「……尤もらしいことを言ったが、実のところこれは全て建前じゃ」
不意に投げかけられた言葉に、信幸は目を大きく見開いた。一方、勝頼はどこか寂しそうな笑みを浮かべていた。
「儂は、甲斐を離れられぬ。結局は、それだけなのだ」
勝頼は、ポツリポツリと話し始める。
「儂の母は武田に滅ぼされた、諏訪家の姫であった。そして、儂は父上の四男。儂は、諏訪勝頼として、諏訪家の棟梁として育てられてきた」
信幸も、父昌幸から聞いたことがあった。勝頼の母、諏訪御寮人はかつて、武田に敵対していた諏訪頼重の娘であり、信玄が諏訪の地を支配するために側室にし、武田の血を引く諏訪の棟梁を――勝頼を産ませたのだと。
「だが、兄上が謀反を企み、父上に廃嫡されたことで全てが変わった。儂はその日から、諏訪家の棟梁ではなく、武田家の跡継ぎとして生きてきた。だが、一門衆も、譜代の重臣も儂を武田の人間とは認めず、内心では諏訪の人間だと蔑んでおるのだ。そして、諏訪の領民もまた、儂を諏訪の棟梁として認めておらぬ……。儂が上野に逃れれば、甲斐の領民も儂が諏訪の人間だから甲斐を捨てて逃げ出したのだと、武田の人間ではないから逃げ出したのだと蔑むのであろうな」
自嘲気味に笑う勝頼の表情は、信幸には痛々しく見えた。
「もはや、儂には逃げる場所がない。甲斐を捨てれば、儂は武田の人間であるということを捨てねばならぬ。それを捨てれば、武田の人間ではない男を武田の後継に配した父上の判断を愚策と謗る者も出るかもしれぬ。そうなれば、儂は父に顔向けすることができぬ……」
「御屋形様……」
信幸にはなんと声をかけるべきか分からず、ただ茫然と勝頼を見つめることしかできなかった。
父のように、勝頼の臣下として、武田家の柱として働いてきた武将であれば、勝頼は武田家の立派な棟梁であると、たとえ誰が何と言おうと自分は認めると言い切れたかもしれない。
しかし、今の信幸はただの人質に過ぎない。そのような言葉を投げかけられる資格はないことを自覚していたし、勝頼を慰めるような言葉は思い浮かばなかった。
「其方は、真田
「はっ」
真田信綱は信幸の父、昌幸の兄で、長篠の合戦で戦死するまでは真田家の棟梁を務めていた男だ。信幸にとって、幼い頃からよく知る伯父でもあった。
「
そう言って小さく笑みを浮かべると、勝頼は言葉を続けた。
「真田の家中にも、其方を跡継ぎとすることに抵抗を覚えるものもおるであろう。だが、そのような者たちも其方が華々しい武功をあげれば表立って非難を口にはできぬ。其方を真田の跡継ぎと認めないものがいれば、武功をもって黙らすのが手っ取り早いぞ」
「ご教授、ありがとうございます」
信幸は仰々しく頭を下げる。すると、頭上から苦笑交じりの声が降ってきた。
「待て待て、話はまだ終わっておらぬ」
顔を上げた信幸に向かって、勝頼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「人というのはな、表立って言えぬとなればその思いを心の奥に溜め込むのだ。言えぬからと言って、考えを転じるほど人は単純ではない。心に溜め込み続けた鬱憤は、いつか一気に噴き出していくものよ。まぁ、湯の沸いた鍋に蓋をすれば吹きこぼれるという道理だな」
そこまで言うと、勝頼は一度言葉を切り、真剣な表情を浮かべた。
「儂の今の状況がまさにそうよ。儂が織田に、徳川に、北条に勝ち続けている時には流石は信玄公の跡継ぎ、天下無双の武田家の棟梁と褒めたたえていた家臣が、一門衆が、儂が負け続け、武田の威光が陰るや否や、挙って寝返りよった。結局、奴らは父のような武田の棟梁であると儂を認めておらず、これまで鬱憤を溜め込んできたのだろう。儂は彼奴らを、心から武田の棟梁と認めさせることはできなんだ。今まで、武功をもって彼奴らに『棟梁とは認めぬ』と言わせなかっただけだったのだ」
「そんなことは……」
信幸は慌てて否定しようとするが、勝頼はそれを手で制した。
「よい。今の儂の無様な姿がそれを証明しておる。だからな、お主は儂のようになるな」
そう言う勝頼の表情には、先ほどまで浮かんでいた自虐の色はなかった。
「儂は、手っ取り早く黙らそうとしたから、勝ち続けるしか、戦い続けるしかなかった。だが、それでは人の心を動かすことはできぬのだ。そして、負ければ誰もついてこなくなる。手っ取り早く黙らそうなどと思わなくてよい。時間をかけてもよいのだ。文を交わし、言葉を尽くし、心を通わせよ。真摯に向き合っていることが伝われば、きっと皆がついてくる。そして、其方を守る、人の和ができるであろう。儂は、それを疎かにしたからこのような無様を晒している。……くどいようだが、決して儂のようになるなよ」
「金言、痛み入ります」
もう一度深く頭を下げた後、信幸は強い決意を込めて顔を上げる。
勝頼はそんな彼の姿に満足げな笑みを浮かべつつ、脇息の隣に置かれていた布包みを手に取った。
「
勝頼は立ち上がり、信幸の眼前まで歩み寄るとその布包みを差し出した。
信幸は恐る恐るといった様子で手を伸ばして受け取る。
「開けるがよい」
言われるままに紐を解き、中に入っていた物を取り出した瞬間、信幸の目が驚きに見開かれた。
そこにあったのは、一通の書状と、何やら軽い棒状のものが入っているらしい麻袋だった。
「それは、
追手門の普請は、父ではなく弟の源二郎が父に強請って三十郎を補佐につけられながら担当したはずだと思いながらも、信幸は黙って頭を下げた。
源二郎が人間離れした剛力を朝から晩まで発揮した結果、作事は予定よりも早く終わり、真田領から動員していた人夫も早く帰すことができたと信幸も聞いている。
「そして、この麻袋だがな、路銀の代わりに少々面白いものを用意した」
「面白いもの?」
訝しげに問い返す信幸に、勝頼はニヤリと笑ってみせた。
「開けてみよ」
信幸が勝頼に促されて麻袋の口を開けると、中にはやや黄ばんだ細長い棒の束が見えた。
「うむ、お主、織田の料理人の話は聞いたことはあるか?」
「はい、なんでも南蛮や明、天竺など、様々な国の料理を作れるとか、室町殿や天子様からもお褒めの言葉をいただいたとか」
織田信長お気に入りの料理番がいるという話は、信幸も聞いた覚えがあった。
実際に会ったことはなかったようだが、どんな食材であっても絶品の味に変えてしまう不思議な調理法を使うとも聞いていた。
「これはその織田の料理人が土産に置いて行ったもので、湯に浸せば南蛮の蒸麦になるそうだ。儂も一度彼奴の作ったものを食べたことがあるが、貝の出汁、蒜の食欲をそそる匂い……認めたくはないが、絶品であったな」
懐かしむような表情を浮かべながら、勝頼は言った。
「この時をもって、其方らを人質から免ずる。もう、儂に義理を尽くす必要はない。岩殿にはついてこなくてもよい。供の者をつけてやりたいが、生憎、明日の朝にどれだけの兵が残っているかも分からぬ有様だからな、申し訳ないが、ここにいる真田のものだけで真田の郷に戻ってもらうことになる。……其方らの旅路も辛かろう。せめて旨いものでも食べて少しでもその旅路の辛さが軽くなればと思うてな」
信幸は勝頼の配慮に感謝しつつ、再度深々と頭を下げた。
そんな彼を、勝頼は優しい眼差しで見つめていた。
本編なんですけど、ちょっと得河アナがスタジオでタイガードラマコラボ企画の収録中なもので、それが終わってからの投稿になりそうです。